「ちょっとトレーナーさん、1敗ぐらいで大げさですって」
控室に戻ってから、トレーナーさんが戻ってくるまでにしばらく間があった。もう5分もすればウイニングライブのために移動しなければいけない、というような時間になってやっとトレーナーさんが帰ってきたかと思うと、トレーナーさんは顔面蒼白といった様子で私よりもよっぽどうろたえていたので、私はむしろ負けた悔しさなんかよりトレーナーさんに対する心配の方が勝ってしまった。
「いや、本当にすまない……僕の能力不足だ、本当に」
「だからー、そんなことないって。私ももちろん悔しいけど、負けないウマ娘なんていないんだから」
何を言ってもこの調子で、トレーナーさんは平謝りしかしてくれなかった。重賞初挑戦で惜敗の2着って、本来は十分に強さの証明にはなるはずなのに。トレーナーさんがあまりにもぐだぐだ言うので、私は無理矢理にでも切り上げてしまわなければならなかった。
ウイニングライブを終えて、くたくたになっていた四肢をもっとくったくたにして控室に戻ってくると、その部屋を出たときと全く同じように、まだうなだれたままのトレーナーさんがいた。トレーナーさんはこっちに気づくとぱっと顔を上げて、一瞬顔を綻ばせたけれども、すぐにまた暗い表情に戻った。
「……ライブ、お疲れ様」
「うん、ありがと。その袋は?」
私がそう言うと、トレーナーさんは今にも泣きだしそうだったその表情を、ほんの少しだけ穏やかにした。部屋の机の上には小さな紙袋が置いてあって、トレーナーさんは私を労ってくれはしたけどそれを説明してくれなかったので、興味本位で尋ねてみたのだった。トレーナーさんは、
「本当は勝利祝いのつもりだったんだけどね」
と言って、紙袋から箱を取り出してみせた。箱を開けると中身は水色・ピンク色・薄黄色の3色の薄い円柱状の……
「キャンドル?」
「うん、アロマキャンドル。白井先輩、あっスペシャルウィークさんのトレーナーさんね、からアロマが好きだって聞いて」
「へえ~……」
トレーナーさんがこういうものを選べるなんて意外だったし、私のために選んでくれた、と思うと多少嬉しい気持ちになった。そう思ってによによとしながらトレーナーさんに視線を向けてみると、トレーナーさんの顔をすっかり緩めることに成功していたことに気がついた。
「……ふふっ、なんだその顔。ともかく、喜んでもらえたようで何より」
「……あー、走ってセイちゃん疲れちゃったからなー、一休みしたいなー、アロマなんかあれば丁度いいと思うんだけどなー」
「学園まで10分もないんだし、そっちに戻ってからでもいいか?今は火をつけられるものを持ってなくてな……」
「あ、うん」
走った後だから疲れたのは本当だったし、ちょっと休んでから帰りたかったのも7割本音だったのだけれど、私の要求が満たせないとあってはしょうがない。そのまま流れでトレーナー室に寄っていくことになった。
すっかり日も沈んだ、と言ってもまだ3月上旬では19時にもならない時間帯、寒さも少し肌寒い程度に収まり、トレーナー室の明かりをつけてしまえば暖房器具の前まで逃げ込む必要も無くなる。そんなことより、とトレーナーさんを急かしてトレーナーさんは机の引き出しから半透明色のライターを取り出して、私はもらったキャンドルをトレーナーさんの机の上に置いた。
「トレーナーさん、これって何の香りなんですか?」
火を付ける前に、ふと気になってトレーナーさんに尋ねた。さっき手元で香った感じだと柑橘系だったけれど、正確にはわからなかった。
「えっ?えーっと……レモン、とか?」
薄黄色のキャンドルの見た目から連想しただろう答えだった。まあいいや。
「プレゼントのことをちゃんと把握してないなんて、セイちゃんの好感度ダウンしちゃいますよ?」
「すまん……」
口ではそう言っても、私のために選んでくれたプレゼントなのだからそんなに嫌ということはなかった。シュボッと音を立ててライターの火がつく。キャンドルに火が灯されて、シトラスの香りが……
「…………ンスカイ、セイウンスカイさん?おーい!?」
「はっ!?」
気がつくとシトラスの香りだったものは焦げた匂いに代わっていて、見るとキャンドルからは線香のように煙が立ち上っていた。確かこの煙に火を近づけるだけでキャンドルに点火できるんだっけ、理科の実験でやったのを覚えている。……そうじゃなくて、私はさっきアロマキャンドルに火がつけられたのを見て、香りはシトラスの良い香りだったけど……。
「いやー驚いたよ、立ったまま寝ちゃうんだから」
「いくら3秒あればどこでも寝られる私でも、流石に立ったままじゃあ……えっ、本当に?」
壁にかかった時計を見ると、たぶん時間はそんなに進んでいない。トレーナーさんが大真面目な顔で私が立ったまま寝たなんて言うんだから、トレーナーさんも冗談を言うことがあるんだなと思ったんだけども。
「トレーナーさん、もう一回つけてみてもらえない?」
「……寝たら起こすけど、いい?」
「うん、よろしく」
もしアロマが焚かれただけで眠りに落ちてしまうのなら、その弱点をちゃんと把握しとかなきゃいけない。弱点を晒して反撃を受けちゃうなんてことがあれば私の沽券に関わる!
「じゃ、火つけるよ」
今度は時計をよく見ておく。秒針が真下を回って7に差し掛かる。それと同時に甘い香りを感じて、36秒、37秒、さんじゅう……
「あ痛っ」
額に何かが軽くぶつかって気がついた。ぶつかったものは何だと下を見ると、小さな消しゴムが転がってぱたむと倒れていた。……時計を見る。秒針がちょうど真上を回るところだった。やっぱり……
「やっぱり、アロマを焚いただけで寝ちゃうのか」
トレーナーさんに先を越された。
「もー、ひどいじゃないですか美少女の顔に消しゴムを投げるなんて!」
確かに弱点を見せたのは私の方だけども。それに、トレーナーさんがさっき言ってた『寝たら起こす』は普段の仕返しをするけどいいか、っていう意味だったのかもしれない。そうだったら見抜けなかったことがちょっと悔しい。
ぷんすこぷんすこと怒る私をトレーナーさんはどうどうと抑えて、それがあんまりバ鹿みたいだから私はつい笑いだしてしまった。重賞2着でも十分賞金は出てるんですよ、とか言ってトレーナーさんを言い負かすことに成功した私は今日も店屋物にありつくことに成功して、時間も遅くなったのでその後そのまま寮に戻った。
レースの次の日は完全休養なので、私は昼寝でもしようとトレーナー室にやってきた。
「トレーナーさー……いない」
扉がいつものようにガラガラと開けられたものだから、トレーナーさんも当然部屋の中にいるものと思っていたが部屋の中にはちょっと温まった空気しか無かった。不用心な、と思いながらソファまで行って、一挙動で寝転がった。部屋をうかつに開けっ放しにしておくとこんな風に美少女に部屋を占拠されちゃうぞ。
そこまで考えて、ふとアロマキャンドルのことを思い出した。ちょっと香りを感じてすぐ眠ってしまうとはいえ、眠る効能があるからには使ってみたくなってしまう。しかし私一人ではすぐ眠ってしまうのに火を扱うなんてかなり危ない。少なくとも美少女の安全のためになることではない。諦めてそのまま寝ようかな、どうしようかな……。
考えているうちに眠りに落ちてしまっていたみたいだったけれど、扉のガラガラと動く音で目を覚ました。ハッとして目を開けると、トレーナーさんと目があった。怪訝な顔すらしてもらえないのはちょっといたずら心が不満足。それはそうと。
「トレーナーさん、ちょっとキャンドルつけてもらえません?」
トレーナーさんを顎で使うのはなんとも楽しい。
自然に目が覚めた。なんとなく起き上がる気にはならない。動かずとも見える窓の外はまだ明るくて、トレーナーさんがキーボードを鳴らす音が聞こえてきていた。あのキャンドルは1時間やそこらで燃え尽きてしまうのだろうか。そうだったら少し残念。
寝転がりながらまどろんで、トレーナーさんの仕事する音に耳を傾けていた。今日は紙とペンの音が多い。ばらばらと紙をめくる音が何度か聞こえて、ちょっとボールペンか万年筆かで書かれる擦過音が来る。心地いい音だけど、それ自体が面白いわけでもないのでこのまま二度寝してしまえるかな、と
「……やっぱり、才能が無いんだよな」
トレーナーさんの声にびっくりして、息が止まってしまった。才能がない?誰が?何の?……私の、走りの?
トレーナーさんが動く音が聞こえた。私はますます身を固くして、呼気の1グラムでも漏らしてはいけないかのような感覚に襲われた。嫌だ。来ないで、こんなことなら起きるんじゃなかった、と思っていたらドアの開く音が聞こえて、トレーナーさんの足音は部屋の外に出ていった。もう眠気は逆さに振っても出てこないように思えて、トレーナー室に居座ることもできず、ちょっと待ってからトレーナーさんに気付かれないように出ていこうと思ったけれど、どうしてもすぐ寮の自室に戻りたくて30秒も経たないうちに逃げるようにトレーナー室から出ていった。
寮に戻れば、同室のいない私は部屋で一人になれる。こういうときに私は助かったような、それでいて掴む藁をも見失ったような気持ちになる。不安なのは不安だけれど、私の心の内を全部さらけ出せるような人でなければ当然相談なんてできないし、そんな人はいない。トレーナーさんだってそうだ。掴めるものが藁でしかないなら、最初から何も掴まない方が良い。部屋に鍵をかけてしまえば部屋の中は私の王国になって、なにかを解決してくれる気がしたから、腰掛けていたベッドから立ち上がろうとした矢先、ドアがノックされた。
「スカイさん?いるんでしょう、スカイさん」
キングちゃんの声だ。立ち上がれない。今の顔は見せられないから。ノックが繰り返される。
「……入るわ」
「ま、待って!」
止めてもキングちゃんはそのまま入ってきた。キングちゃんは私の顔を見るなりため息をついて、
「……そんなひどい顔をしてるのを、放っておけるはずがないじゃない」
と言ってきた。
「キングちゃんには見られたくなかったのに……」
キングちゃんだけじゃなく、スペちゃんにもトレーナーさんにも見られたくなかった。普段の私なら嬉々としてミスディレクションの材料に使っただろうに。それに、なんだか今の私はやけに素直だ。
「あら、それならさっき渡り廊下で見たから、この部屋に入るのを止めても遅かったわね」
トレーナーさんの独り言を聞いてから少し経った今でもひどい顔をしているのだから、寮まで逃げ帰る途中ではこの世の終わりのような顔をしていたのだろう。こうしてキングちゃんが心配して来るぐらいには。
「それで、スカイさんは何があったの?話してごらんなさいな」
「……あ~、セイちゃんもう降伏しちゃいます!昨日の弥生賞でセイちゃんはスペちゃんに見事差されちゃって負けて、っていうかキングちゃんも知ってるでしょ、それで落ち込んじゃってるんだって」
「……それで?」
キングちゃんと目が合う。キングちゃんの目線が鋭くて、つい目を背けた。そのままの勢いで大げさにかぶりを振ったけど、わざとらしかったかもしれない。
「いやいや、自信あったのに負けちゃってショックなわけですよ。キングちゃんは悔しくないの?」
「それは悔しいに決まってるわ」
キングちゃんはそれだけ言って、眉をひそめて私のことをますますにらみつけるように見えた。……一流の視線が、痛い。本当に体に穴が空いてしまうんじゃないかと思いながら、体感で5分ぐらい私とキングちゃんの間に無言が続いた。
「……そう。スカイさんが話したくないなら、今はいいわ」
キングちゃんが続ける。
「でも、この一流のウマ娘、キングヘイローのライバルであれることを光栄に思いなさい!スカイさん、あなたは昨日、一流のウマ娘に勝っているわ」
そう言うと、キングちゃんは立ち去っていった。もう私の王国を作る必要は無かった。
私に才能が無かったとしても、トレーナーさんを諦めさせるわけにはいかなくなった。明日はトレーナーさんと対決だな、と思いながら、たまには勉強でもしようかな、と机に向かった。キングちゃんの目はサボり癖にも穴を空けたのかもしれない。