釣り竿を背に、足はアスファルトを踏みしめて風を切る。車の騒音で川のせせらぎなど聞こえはしないけど、ここは堤防の上の道、いつもなら砂利を踏んで行く秘密の練習場までの道。ウマ娘専用レーンがあるような太い道じゃないけど、視界は開けているし多分大丈夫。
レースほどの短距離ではないのでギャロップよりもトロットで、滞空時間を気持ち長めに作るようにすると背負った竿が背中を叩くようで心地よい。日に日に暖かさを増してくる三月下旬の陽気ではこんな軽い走りでも汗ばんできて、その僅かな量の汗が逆に体がもっと強い走りを求めていることを示しているかのように感じられて、とにかく全速力で駆け出したくなる。見慣れた川辺の景色はまだまだ目的地が先だと言ってきて、足のうずきの止むことはない。ちょっとだけ、全速力を出しちゃおっか。やめとこう、硬い地面は故障のもとだ。逆に走る速度を落として、堤防上の道から河川敷に歩いて降りる。これ以上走っていると歯止めが効かなくなりそうだったので、ここからは歩いて向かおう。
木々と川に囲まれて、さっきはもう暑くなってきたと感じていた空気もここでは寒々しい。私が何度も踏みしめた地面は、同じように私が何度も走って耕しに耕すために柔らかい穴ぼこだらけの地面になっている。トレーナーさんとの口約束を守るなら、私はこの練習場を眺めてちょっとした感情に浸って、それから置いておいた靴や蹄鉄を回収して帰るべきなのだろう。トレーナーさんとはそこそこ良い関係になれているはずだし。……よもやトレーナーさんが、私が本当に全部本当のことを言った、と思っているわけは無いだろうし、私がここでトレーニングを続けても黙認してくれるんじゃないかな。うん、きっとそう。
そんなことでこのバ場の整備にはなるはずはないけど、なんとなく練習用に履き替えた靴で足元の土を均して、足元だけはでこぼこを解消した。それから走り出す。足は不規則に波打つ地面を踏みしめて、風はごごうと耳を髪をかき乱していく。早仕掛けを意識して、という言い訳を自分にしてあっという間にトップスピードまで来る。速くて、楽しくて、ちょっとだけ怖くて、少しして足の疲労が来るとこの速さが完全な制御下でなくなることが恐ろしく思えて、つい減速せずにはいられなくなる。それに耐えてもうちょっとだけ足を伸ばして、予め置いておいた標識を過ぎて自然な減速に身を任せる。止まってしまえば、なんでこんな短い直線しか無いんだろう、とこの開けた場所の小ささを恨んだりもする。……もう一走。私の脚はまだ満足していない。……もう一走。
何度目かのスパートを終えて、地面に倒れるように座り込んだ。疲れたけど、すごく楽しい。それに、こんなに無軌道な走り方をしたのも久しぶりだ。なんだか私らしくないな、と思ってそれがちょっと面白く感じて、
「あちゃー……」
もしかして、と思って時間を確認すると、もうトレーナーさんが言っていたトレーニング開始時間を過ぎていた。
トレセン学園まではいつもどおりのスピードで走ればだいたい20分ぐらいかかる。全力で走ればもう少し縮むのだろうけど、もう時計は約束の時間からさらに20分ぐらい回っていて、ここから学園まで10分で行っても30分の遅刻になると思うとそんなに急ぐような気にはなれなかった。もう散々走って走り欲を発散しちゃったからかもしれない。すると、もしやトレーナーさんのトレーニングの方も身が入らないかも。サボっちゃおうかなとも思ったけど、今日は闇雲に走り回っただけで特にトレーニングらしいトレーニングもしてないし、と思い直してトレーナーさんの方へ向かうことにした。
すぐそこにトレーナーさんが見える。まだ私には気づいていない。トレーナーさんから見て斜め後ろにこっそりとやってきたからだ。トレーナーさんはきっと私のことを待っていてくれたのだろうけど、40分もすっぽかしたからか、トレーナーさんは足元に何やら入れたカゴを置いておいて他のウマ娘の走るのを見ているようだった。
「トレーナーさん」
後ろから声をかけると、トレーナーさんは驚いたのかすぐ振り向いてこっちを見て、そのままちょっと足をふらつかせた。
「……大丈夫ですか?これから私とトレーニングをするっていうのに」
「いや、大丈夫。今日はもう来ないものと思ってたから、すっかり気を抜いてた」
トレーナーさんはカゴの中からクリップボードを取り出して、私の方に向き直った。
「それで、何か申し開きとかはある?」
「いやー、今日はつい釣りに熱が入っちゃいまして。結局ボウズだったんですけど、セイちゃんってばつい時間を忘れて釣りに熱中しちゃって、気づいたらこんな時間だったってわけですよ」
そういえば、担いで行ったはずの釣り竿を持って帰り忘れた。作ろうと思えば簡単に作れるけど、それでも愛用の釣り竿だし無くすには惜しい。トレーニングが終わったら取りに行こう。
「……じゃあ、坂路トレーニングをする元気は十分ありそうだな」
「えっ」
この世の終わりみたいな顔をしてみせたけど、トレーナーさんはどこ吹く風といった感じで坂路の方に歩き始めてしまったので、私も慌ててついていった。
学園の一角、小高い山になっているところに坂路は設置されている。どちらかというと、坂路を設置したために小高い山ができた、という順番らしいけど今の私にはどうでもいい。昔は近所の神社なんかでこぞって階段を駆け上っていたけど普通に迷惑になるので、という理由で作られたとかなんとか。それで、その急勾配をスロープで再現する勢いで作られたので……4ハロンもの長さで、勾配10%の急坂が作られている。そして、それが今私の前にある。行って帰って来ることはできないので、タイム計測は体操服に付いているICチップで自動でできるらしい。へー。
釣りに行く時にもジャージを着っぱなしだったのでそのままトレーニングにも入れてしまう。トレーナーさんはもう頂上の方にいて、表情は見えないけど多分ニヤニヤしてる。特に理由は無いけど深呼吸をして、吸って、吐いて、時間稼ぎが終わってしまった。もう駆け上るしか無い。覚悟を決めて発走ゲートに入って、ほとんど壁みたいに見える坂に突撃していった。
……疲れた。すごく疲れた。ふくらはぎが痛い。息も完全に上がっている。トレーナーさんの前ですごく隙を見せていることになっているのは分かるけど、そんなことを気にしていられる状況じゃない。
「お疲れ、まあまあのタイムだったよ」
息が上がって答えられない。いつもなら軽口の一つや二つ絶対に言うのに。
「はい、これ飲み物。本当は息を整えるまで適当に歩くとかしてもらったほうがいいんだけどね」
足が棒になるという言葉がそのまま事実みたいに感じるような状況で、これ以上ちょっとでも足を使えなんて、
「……鬼トレーナー」
と言うしかなかった。トレーナーさんを見ると、ちょっと眉を上げたあと、口角を上げた。やば、藪蛇だったかも。
「坂路、もう一本やろうか」
「鬼!悪魔!トレーナー!」
坂を上るために坂を下りて、また坂を上るためにゲートに入って、駆け上ってきた。二走目となるとタイムはそんなに良く無くなるけど、逃げ出さなかっただけ褒めて欲しい。
「お疲れさま。もう一本……は流石に無理そうかな」
「……はぁ、冗談でも、ぜぇ、はぁ、怒りますよ、ぜぇ……」
今度こそ坂路トレーニングを終えて、軽くクールダウンを流してその日は解散した。
翌々日、トレーナーさんが一昨日は坂路で無理させたから好きなトレーニングを選んでもいいよ、と言ってきた。ご丁寧に「お休み以外で」という条件付きで。一人で好き勝手に走り回るのはもう散々やったし、そうなるとやっぱり誰かと走りたい。併走なら皐月賞に向けての噂を流したりもできるだろうし、情報操作にはもってこいのはず。
「うーん、じゃあ併走で」
とは言っても、相手がいなければ併走にならない。トレーナー室を見回しても相手はいないので、まずは探すためにグラウンドまで出るか、誰か選んで直接連絡してみるか。トレーナーさんも希望相手を聞いてきたけど、特にそういう相手はいなかったのでグラウンドに出てみることにした。
グラウンドに出てみるとグラウンドはそこそこの賑わいを見せていたが、私と実力が同じか格上と言える相手はそんなに多くなく、目についたのはフラワーだけだった。フラワーのトレーナーにトレーナーさんの方から声をかけてもらうと二つ返事で了承してくれたらしく、あっという間に併走準備ができてしまった。
バ場はウッドチップ1600m。たぶん良バ場だろう。私はメイクデビューこそマイルだったけど、どちらかというとマイルはそんなに得意じゃないし、対してフラワーはマイルと短距離のエキスパート。普通にやればきっと負けてしまうだろう。だからこそ勝ちたい。
スタート地点に近づく。平地のただの併走だからゲートは無いけど、一昨日のことを思い出すとちょっと嫌な気持ちになった。坂路は効果が大きいはずなんだろうけど、かなり辛いからやりたくない。そのせいでゲートまで坂路につながっているみたいな印象が付いてしまったのかもしれない。
パン、とトレーナーさんが(もしかしたらフラワーのトレーナーが)手を叩いたのを合図に併走が始まる。併走でもレースはレースだ。私はスムーズに飛び出せて、フラワーの前に抜けた。フラワーは私のすぐ後ろに付けてくる。最後にフラワーが私を撫で切ってくるところを想像して、少し身震いした。フラワーの末脚の恐ろしさは知っている。そして自然と笑みがこぼれた。不利な距離で、しかも不利な走り方。大逃げに賭けた方が明らかに勝ちやすいだろう。でも、私はそうしなかった。フラワーはきっと本気で走ってくれるだろう。だからこそ、それを上回って勝ちたい。今の走りが将来の本番に向けての布石だったとしても、今は、勝ちたいという気持ちに塗りつぶされているみたいに感じる。
第4コーナーに入る。フラワーは長い直線で一気に差すつもりなのだろう、まだ私の後ろにぴったりとくっついたままだ。フラワーがその体勢なら、私には早仕掛けしかない。コーナーを周りきらないうちに足のギアを変えて加速を始める。フラワーはついてこない。あと3ハロン。やっぱりマイル程度の長さではラストにへろへろになるほどではない。対して、フラワーは長くても2000ぐらいが限界だろう。だから、
(ここで加速についてきてくれればスタミナを削れると思ったんだけど……そう甘くはないか)
とフラワーの息遣いの遠ざかるのを感じながら思った。
直線に入り、あと2ハロンと少し。私はトップスピードに乗って、これ以上加速できない。このまま逃げ切るしかない。息が苦しい。でもあと30秒もない。フラワーはまだ来ない。この距離なら、ひょっとして本当に逃げ切れちゃうかも。そう思った矢先、後ろの方からドンッという音が聞こえた。フラワーがスパートをかけた音だ。あと1ハロン半もある。もっと速く動け、私の脚!
背中からフラワーが近づいてくるのがわかる。みるみるうちに近づいてくる。振り向けばきっとすぐそこにいる。ゴールも近づいてくるけど、フラワーの方がもっと早く近づいてくる。負けたくない。気持ちだけでももっと速く足を回す。フラワーに前を譲りたくないから。
一瞬フラワーが後ろに遠ざかったように感じたけれど、その次の瞬間にはもう視界の中にフラワーがいた。あと100mもないのに、私は逃げ切れるはずなのに、フラワーは私を抜き去って行って、フラワーの全身が見えるようになった。もう追いつけない、という理解を拒否してまだ足を動かす。動かしても、まだ、追いつけなかった。
脚を緩めてフラワーの方を見る。フラワーも息が上がっている。私と同じように。走りとも歩きとも言えないようなスピードでゆっくりとトラックを回っていく。フラワーがこっちを向いて、ニコッと笑った。
1と1/2バ身差だった、とトレーナーさんが言っていた。そっか、あの差がこのバ身差。私の前に見えたフラワーの姿が目に焼き付いて離れない。……悔しい。
「お疲れ様。珍しい負け方をしたね、ずいぶんと位置取りが違ったみたいだけど」
「…………これもセイちゃんの、作戦のうちなんですよ?」
息を整えながらトレーナーさんに答える。まだ心臓がバクバクしているのは、多分悔しさもあるからだと思う。
「まあ、ニシノフラワーはマイルだと比肩するものなし、って言われてるしなあ」
「ちょっとなんですかそれ、トレーナーさんはセイちゃんが勝つことを信じてくれてなかったってことですかー?」
「うーん、実際のところ……今のスカイじゃ、厳しいと思う」
「うっ」
トレーナーさんが私のふざけ気味な言い方に対して真面目に否定してきたので、私はたじろいでしまった。
「スカイは僕よりもよっぽど才能がある。あるんだけど……まあ、限界もある」
「ちょっとちょっとー、トレーナーさんが諦めちゃってどうするんですか。確かに私はスペちゃんとかキングちゃんと比べると弱いかもしれませんけど、トレーナーさんがそれを伸ばしてくれるんでしょ?」
トレーナーさんが苦笑いして、私がごまかす時みたいな笑い方をした。
「さ、今回の併走の反省会をやろう。映像は撮ってあるから」
「……反省するとこ、一つしか無いんじゃ……?」
トレーナーさんの顔が私以上に暗く見えて、落ち込むなら私じゃないかなー、と思いながらトレーナー室まで軽口を叩きながら戻った。