レース場の入り口に立てば、嫌でもこの巨大な垂れ幕が目に入る。
「もっとも速いウマ娘が勝つ 皐月賞」
クラシックロードの初戦。G1の中でも別格のレースの一つとなれば、URAも広告を山のように出して集客をする。その結果として垂れ幕を作りすぎたのか、なぜか一般の入り口だけでなく、レース場付近の人が通るところ全域に垂れ幕が出されている。
「スペシャルウィークか キングヘイローか セイウンスカイか それとも」
なんて煽られてしまってはこそばゆくて仕方がなくて、私は平静を装いこそしたけれどすぐ控室に逃げ込んでしまった。スペちゃんは恥ずかしがりながらもうれしそうだったし、キングちゃんは最初は驚いてたけどすぐに高笑いしだして、これじゃ真っ赤になるのは私だけじゃん、と思ってさらに恥ずかしくなってしまった。
控室でトレーナーさんと最後の作戦タイムをやる。とはいえ私は最初からハナに立って逃げ切るぐらいしか作戦の余地は無いので、レース相手について世間話をするぐらいだ。スペちゃんはこわいけどダービーに焦点を合わせているようだから完全な本調子ではないようだとか、するとキングちゃんがすごくこわいな、とか。結局、うまいこと逃げて良いタイミングで突き放して差させない、といつもの通りのやり方に落ち着く。
「フラワー相手にはとちっちゃったけど、スペちゃんからもキングちゃんからも逃げ切るよ?」
本当にそう上手くいくかはわからないけど、口調もいつもどおりに、あたかもなにも難しいことは無いかのように。
「……スカイ」
「……どうしたの?トレーナーさん」
そういえば、いつの間にかトレーナーさんのわたしの呼び名が短くなっていた。機会を見てなんでか聞いてみようかな。
「……スカイ、今日のレースに負けても、それは……その、スカイだけのせいじゃないからな」
「トレーナーさん、そこは嘘でも俺の担当ウマ娘が勝つ以外のことなんて起こるはず無ぇぜ!みたいに言うところですよ」
何を弱気になってるんだろう、うちのトレーナーさんは。
「……すまん、ちょっとナーバスになってた。ええと……頑張ってくれ、スカイ」
「だめ。トレーナーさん、ひとを応援するときにはもっと声を張って、自信満々な感じに!」
「えっ?……頑張って走ってこい!」
「うーんもう一声!」
「ええ……えへん、頑張れ、スカイ!」
「んぅー……ギリギリ合格とします」
もうパドックまで移動してもいい時間になっているから見送るために話を切り出したのだろうけど、トレーナーさんがこんなに口下手だったとは。私はパイプ椅子から立ち上がって、扉の前まで歩いていって、一つトレーナーさんをからかう手段を思い出したのでその場で振り返った。
「トレーナーさん、何か一つ言うことありません?」
わざとらしくくるっと一回転してみせる。私にとって初めてのG1レースだ。私が袖を通しているこの衣装も私が今日初めて本番に使うもので、一応その衣装が届いたときに一度来てみたけど、本番と練習ではやはり違うものだ。トレーナーさんは固まってしまって、私がほらほらーと煽っても言葉を出す様子はない。女の子の機嫌を取れないとトレーナー業は厳しいぞー?
「ぶぶー、時間切れです。答えは『素敵な衣装だね』とか。トレーナーさんは乙女心がわかんない人ですねえ」
からかうだけからかって、トレーナーさんがおろおろするのを尻目に私はパドックに向かっていった。
ゲート入りする前の時間に、今日は遠目にスペちゃんとキングちゃんを観察してみる。二人共、すごく調子が良さそうに見える。私がちょっとでも全力を出すのをやめればその瞬間にはるか彼方まで抜き去られてしまうような気持ちにすらなる。スペちゃんは確かに本調子じゃないはずなのに1番人気に推されてか恐ろしく見えるし、キングちゃんは私の次の3番人気だけどそんなのとは関係なく高笑いが私をキングちゃんの背側に追いやってしまいそうな気がする。首を大きく左右に振って、その幻影を振り払おうとした。私がずっと前に出て、最後にスペちゃんとキングちゃんの猛追を受けてもなお前を譲らない、そういうイメージを作る。……よし、作れた。それから、それを確かなものにする。吸って、吐いて。私は好スタートを切って、差してくるだろうキングちゃんやスペちゃんよりもはるか前方に立って、それでも大逃げするほどではない範囲で十分に脚を残して、それで逃げ切る。よし。
ゲートが目に入ったとき、私の体は意に反してすこし強張ってしまった。ゲートから出走すると、そこがあの坂になっているかもしれない、という杞憂が頭をかすめる。私の体を痛めつけるために(もちろんそんな理由で負荷をかけていたわけではないのだけれど)ゲートに入って走り出す、ということが瞬発的に思い出されて、つい。いつもよりはゲート入りにも時間がかかったかもしれない。
ゲートの中で、出走を待つ。落ち着け、私。今はありもしない不安に身を任せるよりも、深呼吸して体勢を整えることの方がよほど重要だ。だから、深く吸って……吐き終わるよりも先に、最後のウマ娘のゲートインが完了した音が聞こえた。もう出走だ。
ゲートが開く。私の脚が前に行く。最初に2ハロンも直線があるから、どの枠だろうと大差はない。ただ前に出るだけだ。ただちょっと脚がもたついて、スタートは僅かに遅れてしまった。
「まず先頭に立ったのは2番。キングヘイローが楽にすーっと上がっていく!」
実況の声が鳴り響く。今日のキングちゃんは先行策か、じゃあ負けてられない。足をすこし強く踏み込んで加速する。キングちゃんよりも前に出なくちゃ。位置を上げて、逃げてハナに立つウマ娘のすぐ後ろに付く。内側のいい位置もついでに確保できた。すぐ横にキングちゃんが見えるから、たぶんキングちゃんの位置取りも阻止できたのだろう。
「中団やや後ろ、スペシャルウィークはこの位置です」
スペちゃんは弥生賞と同じように後方から差し切るつもりなのだろうか。中山の直線は1ハロン半の長さしか無いが、第4コーナーの時点で大外から一気にいける実力があれば直線の短さなんて問題にはならない。そして、万全の状態のスペちゃんは間違いなくその実力がある。こればっかりは祈るしか無いかな。そうして、第1コーナーを回って私とスペちゃんは各々の好位に、キングちゃんは私に阻害されて私のさらに後ろにつけて位置が固まった。
第2コーナーを回って、私のさらに前に要る娘が私からの距離を離していった。だいたい2バ身ぐらい離れているだろうか。明らかに掛かっている。これに付いていったら私までスタミナを切らされてしまうだろう。
「向こう正面に入ってセイウンスカイは先頭から1バ身半、そこからさらにキングヘイロー1バ身!後方集団からスペシャルウィークが上がってきて中団に付けています!」
第1コーナーで坂を上って第2コーナーで坂を下り、そこからはずっと平たい中山の芝2000mはこうして後ろから差すには絶好の環境だ。しかもゴール前にも上り坂がある。パワー末脚スタミナの三拍子揃ったスペちゃんが襲いかかってくることは、想像したくなくても想像できてしまう。急く気を抑えて、努めて掛からないようにする。よし、スピードは変わってない。前の娘との差は詰まってきている。
「第3コーナーに入って残り800、セイウンスカイはかわしにかかります」
先頭に立つ。もう仕掛けようか。仕掛けよう。今から突き放して、キングちゃんとスペちゃんを追いつけなくしてやろう。足のギアを入れ替えて芝を強く踏み込む。太ももに伝わる衝撃が一気に増えて、走っていることの楽しさと、息ができなくなる感覚の苦しさが同時に襲いかかってくる。周りが見えなくなって、前だけしか見えなくなる。
「先頭セイウンスカイ、キングヘイローも上がってきます!外からスペシャルウィーク、中からキングヘイロー!」
あと3ハロン。もしここにあの併走のときのフラワーがいたとしても、もう追い抜かされはしないような感覚。空気がぜんぜん取り込めないのに、息を吸って吐いて、吸って吐いて、足を砕こうとしてるのか地面を耕そうとしているのかわからないけど足を地面に叩きつけて、風を私で切り刻んで前に飛んでいく。もっと速くなりたい、もっと速く、脚をもっと早く回そうとしても足はそれに答えてくれず、これよりも速くはできないことをわかる、でも。
「最後の直線に入って先頭セイウンスカイ、2番手キングヘイロー、外から上がってくるのはスペシャルウィーク!やはり最後はこの3人だ!」
あと300m。絶対に逃げ切る。絶対に逃げ切る!
「スペシャルウィーク、もう3番手に上がってきた!スペシャルウィークが前の2人に迫る!」
早すぎる。スペちゃんが追ってくる。負けたくない、嫌だ!
「さあ先頭はセイウンスカイ!キングヘイローとは2バ身のリード、このまま逃げ切れるか!」
キングちゃんもスペちゃんも遠い。速いのに、遠い!一歩踏み込むごとに脚の重さが倍になっていくような感覚の中で、一息吸うごとに空気から酸素が全部失われていってしまうような感覚の中で、それでもこのままゴールまで走り抜ければ勝てる、勝てる!
「キングヘイローが追ってくる!キングヘイローがその差を1バ身まで詰めた!」
実況になんか頼らなくてもキングちゃんがすぐ後ろにいるのがわかる、キングちゃんも私と同じように息を乱して私に勝ちたいと心から思っている!キングちゃんの駆ける音が私のそれに被って聞こえて、その直後にスペちゃんのもちょっと離れて聞こえる。スペちゃんは3番手だ。キングちゃんがどんどん近づいてくる。ゴールも近づいてくる。スペちゃんは、今はキングちゃんよりも遅い。あと50mもない。脚が重くて、熱くてもう回らないように思えるのに実際にはぐるぐると回って、まるで暴走したエンジンみたいに感じる。息が吸い込めていないから私のエンジンは不完全燃焼を起こしてガタガタの走りになっている。キングちゃんが斜め後ろに見える。負けたくないから、ガタガタの走りを無理やり回して前へ飛び出す。キングちゃんの息が聞こえる。私と同じぐらい早く吸って吐かれているし、私と同じぐらい負けたくないと思っているのがわかる。でもキングちゃんにも、誰にも勝ちを譲る気は無いから、もっと前へ、前へ!
「キングヘイロー迫る!キングヘイロー迫る、セイウンスカイ先頭!セイウンスカイ逃げ切ってゴールイン!」
真っ白になった頭が私の名前を連呼する声を捉えた。私は……勝った?
止まらない脚を回し続けながらちょっとずつ緩めていく。緩めながら観客席に一度手を振ると、今までの比ではない歓声が帰ってきて驚いてしまった。掲示板を見ると、確かに1着の欄にある数字は3……私の番号だった。
一通りのファンサービスも終えて(セイちゃんってば美少女だからファンが多くて時間かかっちゃった☆)、控室まで戻るとトレーナーさんが先に戻っていた。
「やっほ、トレーナーさん。G1ウマ娘のお帰りですよ?」
「ああ、うん、お疲れ。皐月賞ウマ娘、おめでとう」
「むー……トレーナーさん、なんかいまいち喜んでなくないですか?」
「あー、なんか……いざ担当ウマ娘がG1ウマ娘になると、なんかどうしていいかわかんなくなっちゃって」
トレーナーさんはこんなにめでたいのに顔をこわばらせてそわそわとしていて、なぜかわからないけど、いたずらをしたのに褒められてしまったいたずら少年みたいになっていた。
「私を褒め倒せばいいんですよ、トレーナーさん。なにせG1ウマ娘ですから!」
「そうか。じゃあ……最も速いウマ娘、魅惑の逃げ、……えっと、美しい芦毛」
「ぜーんぜんだめ。セイちゃんの好感度が1ポイントダウンしちゃいましたよ」
露骨にトレーナーさんがうろたえてるから、それを見るだけで褒めてもらうよりも満足はしてるのだけど。
「すまない、あんまり褒める練習はしてなくてな……」
「……今褒めようっていう相手と話してるときに、練習が足りなかった、なんて言います?」
だいぶうろたえの度合いが深いらしい。ちょっとからかいすぎたかな。
「本当にすまない、失言だった。忘れてくれ」
今のセイちゃんは気分が良いので許しちゃいますけど。それから、私はトレーナーさんに勝利祝いとして何を要求できちゃうかな、と想像を巡らせていたところ、それで少し生じた無言に耐えかねてか、トレーナーさんが話し始めた。
「……本当に、スカイはすごいよ。……弥生賞で2着になって、この間のニシノフラワーとの併走でも大負けして、ああ、僕がトレーナーとしてスカイを強くできないから、スカイの脚も腐らせることになっちゃったんだな、と思ってたんだ。それが蓋を開けてみたら、こんなに気持ちよく勝ってくれた。まぎれもなく、スカイにはG1ウマ娘としての才能があるんだ」
「……」
「すごく嬉しいよ、僕なんかがトレーナーをやってるのが本当にもったいない。改めて、G1初勝利おめでとう、スカイ」
トレーナーさんが率直に気持ちを打ち明けてくれて、それでトレーナーさんがすごく嬉しがっていることがわかって、いざ褒められてみると思ったよりも恥ずかしくなってしまった。つい耳がぴこぴこと荒ぶってしまう。
「それで、トレーナーさんはどういう形で私を祝ってくれるんですか?」
恥ずかし紛れに話題をちょっとそらした。
「スカイさえ良ければなんだけど、美味しい羊肉を出すお店を見つけたんだ。そんなにおしゃれって感じでもないんだけど……」
トレーナーさんのお金で焼き肉を食べられるなら、ということで今回はお寿司の代わりにそっちになった。
「G1ウマ娘にお財布の中身を貢げるなんて、トレーナーさんは幸せ者ですねぇ!」
「あ、もちろん野菜類も食べてもらうからな。そうすれば少しは財布のダメージも少なくなるだろうし」
「ふっふっふ……トレーナーさんの絶望する顔が今から楽しみになってきましたよ?」
そんなことを言い合って、私はずっと上機嫌のまま学園まで戻り、まだ日が落ちてもいないけど特にやることもないので今日は解散、となった。トレーナー室まで帰ってきたときにまだ引き戸の立て付けが悪いようだったので、G1ウマ娘がお願いしてるんですよ?と早速G1権力を濫用してトレーナーさんにロウを塗らせた。よく動くようになったことに満足して、がらーっと開けて寮の自室まで歩き始めた。またがららと扉を閉じる音に紛れて、トレーナーさんのつぶやきが聞こえた。
「……スカイは、どうして僕がトレーナーに付いてるのに勝てるんだ?」