『もっとも運のいいウマ娘が勝つ』なんて、最初に言い出したのは誰なのだろう。6月に入ってもまだ梅雨の来ない最後の新緑の時期、私は東京レース場の控室のじわりと湿った空気を感じながら思った。
トレーナーさんはもう客席の方に行ってしまった。私はもういつでも地下バ道を抜けてパドックに行くことができるし、あと5分もすれば出ていかなければいけない時間になる。かつ、かつ、かつ、かつと蹄鉄でコンクリートの壁を蹴り続けていると少し落ち着くけど、いつまでもこうして東京レース場を取り壊す作業に従事しつづけているわけにもいかない。私は落ち着いた、私は落ち着いた。頭の中で繰り返して、咀嚼してみる。……しっくりくる、と思う。
「よし……」
小さく声を出して、地に足を付ける。私は前に進める。ドアノブの冷たさが心地いい。ドアを開けると係員の方と鉢合わせして、パドックに行くよう誘導された。思っていたよりも長くうだうだとしていたことに気がついた。
パドックでの短評を受けても、何か気分が変わるわけでもない。今日の私は3番人気らしい。2番人気がキングちゃんだ。そして、1番人気がスペちゃん。
スペちゃんは少し向こうで観客席に向かって目一杯愛想を振りまいている。スペちゃんの末脚の鋭さには何度も泣かされてきたし、弥生賞でもそれを食らって私は2着に沈められてしまった。そのスペちゃんはダービーウマ娘になりたいと願って上京してきて、それを大言壮語と言わせないような走りをずっと発揮し続けてきた。つまり、今日に完璧に調子を合わせてきているに違いない。私の目には、すっかりスペちゃんが金ぴかに輝いているように見えてしまっていた。
初めてレース本番の場で弱気になっているかもしれない。もし負けるとしてもスペちゃん以外に負けるつもりはさらさらないけど、なんて思ったところでスペちゃんに負けることを考えていることに驚いた。普段だったら、この場にいる私は絶対に勝つとしか思っていないはず。
トレーナーさんとの打ち合わせを思い出す。皐月賞よりも400m延びていて、私の適正距離とは言い難い長さに近づいている。要するに、私の才能の範囲のスタミナじゃ2400mを逃げで押し切るのは難しい。だから、ちょっとした搦め手が必要だった。搦め手といえばペースを壊すものに限るから、やっぱり最初から逃げてハナに立つことでペースをコントロールするのが通用しやすいかな、という話をした。府中の2400mはスタート直後もゴール前も長い直線があって、スペちゃんが位置取りを悪くしてくれることにはほとんど期待できない。万が一出遅れたとしても生半可な逃げじゃ最後の直線でまとめて撫で切られておしまいだろう。ゴール前の上り坂で速度を落として、その隙にスペちゃんの豪脚がいつのまにか先頭にいる、そんな景色の幻影が見えた気がした。頭を左右に振って打ち消した。
改めてスペちゃんの方を見る。ちょうど横顔が見える位置にいて、その顔はなんとも楽しそうで、勝つこと以外なにも考えていません、とでも言いそうな顔をしている。足取りはすごく軽そうで、観客席からもスペちゃんの名前が何度も聞こえてくる。そこにキングちゃんが近づいていって、何やら啖呵を切りはじめた。キングちゃんとスペちゃんがこっちを向いたので、私は大げさに顔を笑顔にしてやる。ちゃんと不敵な笑みを浮かべられているだろうか。スペちゃんばっかり金きらになっているように見えてつい見落としていたけど、キングちゃんも調子が良さそうに見えた。キングちゃんも光っている。スタミナ勝負にさえならなければ、キングちゃんの末脚はスペちゃんに勝るとも劣らない。……そして、私はそのスタミナ勝負を回避しなければスペちゃんには勝てないとわかっていた。
今更やれることは変わらない。相変わらずちょっと嫌な気持ちになるゲートインを済ませ、スタートに備える。飛び出して前を取る、飛び出して前を取る、飛び出して前を取る……実況をよく聞いて……各ウマ娘収まって、出走。
スタートダッシュは大丈夫。外枠だから一番最初の先行争いには乗り遅れる。それでも先手を取りさえすればなんとかなる。大外から前に向かおうとした。
「ハナに立ったのはキングヘイロー!」
実況がレース場内に鳴り響く。この先頭がキングちゃん?キングちゃんはもしかしたら掛かっちゃってたのかもしれない。やけにペースが速くて、第1コーナーまで300mもあるのに、つまり20秒ほどの猶予が私にはあるのにそれがどんどん消費されていって、私の位置はぜんぜん前に行かない。第一コーナーにもう差し掛かってしまう。開けた、見えた。先頭にキングちゃんが見えた。キングちゃんの背中だ。速い。もっと前に、キングちゃんの前に行きたい。でもそんなことをすると私のスタミナは最後の坂を登るための分すら無くなってしまうだろう。そう判断して、作戦をちょっと変更。キングちゃんの後ろにぴったり付いて、早めにかわしてもっと逃げよう。それ以外に勝ち目は無い。もしかするとキングちゃんもスタミナを鍛えてきたからこんな逃げをしているのかもしれないし、そうでなくともキングちゃんをかわしたからといってスペちゃんから逃げ切れる保証は無い。でもやらなくちゃいけない。
向こう正面に入ってバ群が固まる。キングちゃんが逃げて、私がそのぴったり後ろにマークして、スペちゃんは真ん中から少し後ろ、と実況で言っていた。いつもの差し位置だ。
「1000m通過は普通かすこし遅いぐらいでしょうか」
すこし遅いぐらい?……嘘でしょ?キングちゃんがこんなに逃げているのに。地面を踏み荒らす轟音の隙間に、キングちゃんが整然とした呼吸を続けている音が聞こえる。ここからでもキングちゃんをかわして行こうか。もうダメだ。斜行で降着を受ける恐れがあるから、とかバ群が固まってしまっているからスタミナを消耗しすぎているから、とかの理由がパッと浮かんだけれど、とにかくダメだ、という気持ちが先に上がってきた。
第3コーナーに突入しても、キングちゃんはまだ沈み始めない。私の息が先にちょっと荒れはじめて、キングちゃんの息遣いを聞き取ることができなくなってしまった。まだキングちゃんが前にいて、私はそのすぐ後ろ。キングちゃんが沈み始めたら、すぐにでもかわして先頭に行って、スパートをかける。絶対に。
第4コーナーに入る。あと4ハロン。キングちゃんがまだ沈み始めない。まだ伸びる。キングちゃんはいつの間にそんなにスタミナを付けたんだろう。仕方がないからキングちゃんが沈まないのにすこし外に出て脚の回転を一段階速める。キングちゃんの背中がじわじわと近づいてくる。……遅すぎる。もう一段階脚を速める。息が荒れる。酸素が欲しい。こんなに苦しいなら、キングちゃんもスペちゃんもあっという間にはるか後ろにやってしまってもうゴールできちゃっててもいいのに、そうなっていない。第4コーナーの終わりに差しかかってキングちゃんに並んだ。そして追い抜いて行く。キングちゃんの顔をちらっと見ると、目があったような気がした。キングちゃんの顔はとても必死な顔で、真っ赤になっていて、たぶん私もそうなのだろう、目があった瞬間目をきっとした。キングちゃんに負けない。もう限界に近い脚のもっと速く回す。酸素なんかは走りきってからいくらでも吸えばいい!キングちゃんが後ろに流れていって、ついに視界から消えた。ゴールはまだ2ハロン先だ。でも、前には誰もいない。私が逃げて、逃げ切る!
その時だった。右後ろからスペちゃんが突然見えた。とっても楽しそうだった。もちろんスペちゃんにも負けるつもりは無い。だからスペちゃんにも追いつかれないように脚をもっと速く、はやく、はやく……できない。脚は急速な疲労でずきずきと痛む。このペースを維持して走るだけでも一苦労だ。その苦労をするのもひとえに勝ちたいがため。キングちゃんよりも、スペちゃんよりも前を走るため。
坂を上って、私の速度が如実に落ちていくのを感じる。脚だけでなく、肺もひゅっ、ひゅっとなってきた。酸素がうまく吸い込めない。スペちゃんが右前にいる。
……スペちゃんが右前にいる?
脚も肺もぼろぼろなのに、いつのまにかすっとスペちゃんに抜かれている。しかも、わずかな瞬間ごとにスペちゃんの背中はどんどん遠くへ行ってしまっている。坂が終わって平地になっても背中には追いつけない。さっきまで1/2バ身差だったはずのスペちゃんが、もう2バ身先にいる。脚の力がぬけていく。私の速度がどんどん落ちていくのを感じる。スペちゃんが行ってしまう。輝くその身を捉えられなくなってしまう。一歩蹴るごとにスペちゃんは何歩分も離れていってしまう。3バ身差先。私の横から別のウマ娘も出てきた。スペちゃんは4バ身先。なんとかペースを維持して走り続ける。5バ身先。息をどうにかして吸い込む。6バ身先。そして、私の横にはゴール板があった。
4着。それが私の着順だった。つまり、惨敗だった。対して、スペちゃんは2着と5バ身差を付けての圧勝だった。スペちゃんが私を追い抜いていったときのことを思い出すと、まるで光の塊が私を追い抜いていったみたいに思えた。
悔しかった。
「あ~あ、ウイニングライブの練習無駄になっちゃったな」
誰に言うでもなく軽口を言う。ウィナーズサークルにもウイニングライブにも用がないということは、私はこのまま控室に帰るべきということだ。そんなことは今まで無かったから、どうすればいいのかと思ってレースコース上のウマ娘たちを見回した。キングちゃんを見つけて、涙目でひどい表情だと思った。たぶん私もそんな風になってるんだろうな。
控室で一人きりになって、否応なしに今回のレースのことを思い出し続ける。こんなに悔しいとき、もっと号泣して声の限りに悔しさを表現するものだろうと勝手に思っていたけど、私はちょっと涙が出たぐらいで号泣とは程遠かった。
最終コーナーで私を差してそのままはるか遠くに行ってしまったスペちゃんは、私にはまるで走るための才能がウマ娘の形をしていたみたいに思えた。スタミナ、パワー、根性、そしてそのスピード、どれを取っても私と比較できないほどの力があるように思えた。あまりにも差があることを見せつけられて、涙を流して悔しがることができるほど、私がその差をどうにか埋めることができるとは思えなかった。つまり、生まれ持った才能の差が圧倒的なように思えた。
トレーナーさんが控室に戻ってきて、私の顔を見て開口一番に大丈夫か、と声をかけてきた。大丈夫じゃなくても、トレーナーさんには大丈夫。涙で顔がちょっと赤く腫れているのだろう。
「改めてお疲れ様、スカイ。それで……えっと、どうだった?」
「いやースペちゃんは強い!私としたことがばっちり差されちゃいましたよ。やっぱり私みたいな血統も才能もそこそこのウマ娘は天才には勝てないんでしょうね」
「あー……そっか。スカイ自体には才能が……まあ、あるはずなんだけどね」
「……練習不足、ってこと?トレーナーさん」
「そうじゃなくて……ごめんな、僕の才能が無いだけだから。スペシャルウィークのトレーナーの方もその、すごくて……」
私をあのスペちゃんに勝たせることをトレーナーとしての才能と言うのなら、確かにトレーナーさんは才能が無いということになるのだろう。そんなことが可能なのかもわからないけれど。
「はいはい、湿っぽい話はここでおしまい!ダービーが終わったから次のビッグイベントは夏合宿ですよね。どの釣り竿を持っていこうかな~」
「ま、今回は仕方なかったよな、切り替えていくのは大事だと思う。それから夏合宿は一応釣具持ち込み禁止ね」
「え、ぇ~!?そんな、殺生な……」
仕方なかった。トレーナーさんも、そう思ったんだ。私がおちゃらけた雰囲気に変えようとしたからか、仕方なかった、と言っていたときのトレーナーさんが笑顔だった、ような。
「それに、次のビッグイベントって言っても三週間後だからな。今回の疲れを取って合宿に備えるための分の休みは入れるけど、その間にもトレーニングの予定は入れてあるぞ」
「でもトレーナーさん、梅雨シーズンは室内でいろいろするのがいいんですよ?」
「そうだな、室内でもいろいろトレーニングができるから、それをやろう」
そんなあ、と泣き落としてみようかなとも思ったけれど、今は涙をきちんと止められる自信が無かった。