シャーッ、シャッと紙やすりが竹竿をこする音が雨の音に交じって聞こえる。愛用の道具が壊れてしまわないよう、何度もしならせてささくれ立ってしまった竿の表面を何度もこする。竹クズを受け止めるために敷いた新聞紙の横の空間には、私のボストンバッグのジッパーを開いたまま放置していた。夏合宿がもう明日に迫っているからだ。竹竿のメンテナンスをするから、と見ないふりをしていたけれどもうこれ以上磨くべきところもなく、どうしようかな、と思ってバッグに向き直った。
トゥインクルシリーズを走るウマ娘なら誰でも、クラシック級の年とシニア級の年に二ヶ月間の夏合宿に行くことができる。二ヶ月間もあるから夏合宿とはいえ端から端までレースのために使うわけではなく、最初の方は授業もあるし、海沿いというだけで島でもないからたまに気晴らしに街へ出かけたりもする。それでも拠点が二ヶ月の間トレセン学園から離れるから、と必要なものを詰め込んで、最後に竹竿とクーラーボックスはどうしよう、と思って手が止まってしまっていた。
もちろん釣りは好きだから、持っていくこと自体は特に迷う余地のあるものではなかった。トレーナーさんとかに怒られてでも釣りはする、というか怒られてこそサボってやる釣り、というか。と、ちょっと前の私なら間違いなくそう思っていたはずだった。
皐月賞と日本ダービーのことを思い出すと、私をG1ウマ娘にしてくれたのもトレーナーさんだし、私の力が足りなくてスペちゃんに大負けしたからトレーナーさんとのトレーニングも必要だし、と思って思考があんまりまとまらない。だから、今トレーナーさんに「釣りなんかしてないでトレーニングしなさい」とはっきり言われたら素直に従ってしまいそうだった。
らしくない。私はもっとあまのじゃくで、トレーナーさんの手を焼かせるウマ娘だったはずなのに、いつのまにか随分手懐けられてしまったみたいだった。紙やすりをもっと目の細かいものに取り替えて、竹クズを吹き飛ばしてもっとぴかぴかにしてやる。磨くのに集中して、余計な考えをシャットアウトして、それでもいつもの調子に戻らなかったらお昼寝でもしよう。さーっさーっと紙やすりが竹竿を撫でて、だんだんとなめらかに動くようになっていく感触が心地いい。もういいかな、と思って指の腹で表面を撫でてみる。まだもう少し。普通に使う分にはこんなに磨く必要は無いんだけども。
やっぱり、持っていこう。トレーナーさん相手なら隠す必要も無いだろうと思って、ビニール袋で包んだりもしないで、そのまま。バスの中で折れたりしちゃったら悲しいから、竹竿は座席の方に持っていこうかな。
まだ外はちょっとだけ明るさを残していて、眠るにもまだ早い。だからトレーナー室まで行ってこの釣竿のぴかぴか具合を自慢してやろうと思い立って、私は釣竿を担いでトレーナー室の前までやってきたのだけれど、トレーナーさんは部屋を留守にしているようだった。部屋に鍵がかかっていて、念の為ノックもしてみたけど(あとドンドンと叩いてもみたけど)返事は無かった。
それで、私は今水着でぱしゃぱしゃと海水を蹴って遊んでいる。遊んでいるというか、待ちぼうけている。もう30分ぐらい砂浜で待ちぼうけているかもしれない。そろそろ足の裏がふやけてきた。なんでそうなっているのかというと、もうとっくにトレーニングを始めるつもりでいたのに、いつまで経ってもトレーナーさんが来ないからだ。
バスでの移動中にキングちゃんに釣竿を見せびらかしたり、その釣竿を持ってURAが持っているらしい宿の部屋まで行く途中でトレーナーさんを見つけたので釣竿を振ってみたりしたから、もう今日は釣竿に仕事をさせてあげる必要はないかなと思っていたし、まあ、初日くらいは、と私史上まれな素直さでトレーニングにやってきたというのに、当のトレーナーさんがいない。あんまり暇なので軽く砂を掘ったりしてみたけど、ほかのウマ娘たちもトレーニングに使っているこの砂浜を有馬記念みたいなバ場にするのは本意ではないのですぐに埋め戻した。海水で砂の付いた手を洗って、またばっしゃーんと水を蹴り飛ばす。そのままの勢いでくるっと半回転して海に背を向けると、遠くにトレーナーさんがいた。
波打ち際から多少離れて、たぶん体感だけど40分ぐらい待ちぼうけて、やっとトレーナーさんと合流して、開口一番に
「ま、まずは言い訳を、ぜぇ、聞いてくれない、かな」
と。普段なら言い訳するのは私の方なのに、と思いながらそのまま促すと、
「ぜえ、ほら、スカイ、さっき竹竿を持ってただろ、それで……てっきり、今日はどこかに釣りでもしに行ってるものだと」
と。へえ。
「心外ですよ、トレーナーさん。そんなこと言うなら明日からセイちゃん本当にさぼっちゃうよ?」
「それは勘弁してほしい。ほら、このあたりの良い釣りスポットは調べておいたからそれで手打ちってことで」
へえ。
「なんですか、トレーナーさんはセイちゃんを捕まえるために予習までしてきたってことですか?」
「あー、まあ……そういうことになる、かな」
へええ。
「てことは……トレーナーさんはそーんなにセイちゃんとトレーニングしたかったんだあ、そうとは知らなかったなー」
つい口角が上がってしまう。トレーナーさんは両手を所在無げに空中に浮かべて、困り果てている様子なのがよくわかる。すっごく楽しい。
「いやーでも私ってばスペちゃんとかキングちゃんに比べると才能無いじゃないですか。スタミナなんかスペちゃんには逆立ちしても勝てない」
だからトレーナーさんはいてもいなくても、と言外に含ませたつもりだったけど、
「はいはい、じゃあ砂浜でスプリントでもやる?」
といなされてしまった。
「ちょっとちょっと、そこは嘘でも否定するところじゃないんですか!? 輝かしい才能あふれるウマ娘たちに比べちゃうともう努力しても意味ないーとかかわいい担当ウマ娘が言ってるんですよ?」
「だって、スカイがそう言うときはいつもトレーニングしたいって思ってるときでしょ」
「ぐっ……いや、そんな……」
「ライバルたちに勝ちたいからこそ自分の劣っている部分が鼻につく、わかる、わかるよ。それで、どんなトレーニングがやりたい?」
足元のバスケットいっぱいにこんもりと盛られたトレーニング用具を見て、トレーナーさんの顔をまた見れば今度はトレーナーさんの方が笑顔を浮かべていて、面白くはなかった。図星だから、トレーニングをしないという選択肢も無かった。
もっとトレーナーさん相手には隠しおおせていたはずなんだけどな、と思いながらぐるんぐるんと腕を回して筋をほぐす。負けたくないのに、それをあえて口に出して、自分で自分を煽っているみたいなものだ。そんなに動揺無く対処されてしまうと、私としたことが同じ手を使いすぎたかな、と思わざるを得なかった。というよりはむしろ、そう自分を煽る言葉を口に出したことが藪蛇だったかも。
トレーナーさんはどこからか巨大タイヤを調達してきて、それが今私の目の前で圧倒的な存在感を放っている。横倒しになっているのに私の身長の倍ぐらいの高さがある。屈伸して脚の筋肉も動かしてやると、立ち上がってもぜんぜん小さくならない巨大タイヤにすこしばかり慄く。タイヤにこれ見よがしにふっとい縄がくくりつけてあって、腰に巻く用の若干細まった部分もある。これを砂の上で引けば、確かに相当パワーは鍛えられるだろう。
「その……本気?」
最後にもう一度だけトレーナーさんに聞いてみたけれど、トレーナーさんは大真面目な顔のまま頭を縦に振った。
ざりざりなんて生易しい感触ではない。ごろりごろりというような運びやすさもない。ご、ごご、ごと私の引っ張るタイヤが砂浜を整地していく。ウマ娘のパワーでもすごく重いこんなタイヤ、一体どんな車が必要とするのか見当もつかない。そしてそれをトレーナーさんはどこから運んできたのだろう。弥生賞以来、トレーナーさんは私のトレーニングに随分と熱心になっていたけど、このトレーニングに用意するものはそんなレベルじゃない気がする。前のトレーニングがレベル2だとしたら今やっているのはレベル5、みたいな。そんな益体もないことを考えて気を紛らわす。脚にめちゃくちゃな負荷がかかって、大腿四頭筋が燃えるように熱く感じて、意識するとかしないとかではなくなっている用に感じる。トレーナーさんが立っているゴールまであと何メートルも無いからそこまであと一踏ん張り、と思ってもそこまでも辛い。
なんとか命からがらゴールまでたどり着いた。トレーナーさんから冷えたボトルを手渡されて、一気に飲む。水が足りなくてねばついていた口の中に一気に水が入ってきて、たぶんちょっとすれば汗もどっと染み出してくる。ふう、と一息ついてボトルをトレーナーさんに返した。
するとトレーナーさんはさくさくと足音を鳴らして私の横をすり抜けて行ってしまった。つらいトレーニングを終えた担当ウマ娘にいたわりの言葉ひとつ無いんですか、とでも言おうと思ってトレーナーさんの方に振り返ると、
「残り半分、頑張ってね」
とトレーナーさんに先に言われ、トレーナーさんはまた私に背を向けてあっちへ行ってしまった。私はあっけにとられて文句も言い損ねてしまった。のこりはんぶん、という言葉が頭にやっと届いた頃にはトレーナーさんはもともとのスタート地点までもう行ってしまっていて、そこで立っていた。もう私の脚はずたずたなのに、本気……? と思っても普通に話すにはトレーナーさんは遠すぎるし、たぶん本気だろう、と今日のトレーナーさんを見ると思う。だから私にできたことは、
「トレーナーさんの、鬼ーっ!」
と大声を出すことぐらいだった。
次の日はトレーニングがお休みの日になった。そもそも大負荷のトレーニングを連続でやる必要は無いので休みの予定だったとか、トレーナーさんはそんな風に言い訳していた。せっかく海辺に来ているのだから海で遊んでもいいし釣りスポットを見に行ってもいいとトレーナーさんからは言われていたけど、それよりも大事なことがあって、この宿での昼寝スポット探しがそれだった。
宿はトレセン学園かURAかが貸し切っているはずで、要はスタッフルームとかに侵入しない限りどこでも使えるはず、ということだった。
……ない。日陰になるベンチがない。いい感じの空き部屋も見当たらない。娯楽室みたいな部屋はあったけど古いアーケードゲームばっかりでうるさい。外も内も自室を除いてまともにお昼寝できそうな部屋がない。自室は……こう、なんか違うような気がする。最後に来たのが、今私が目の前に立っている部屋、トレーナーさんの部屋だった。そっと開けてみようとしたら、思ったよりもかなり引き戸が軽くて勢いよく開いてしまった。
「……やっほ?」
「……扉はもうちょっと静かに開けてほしいかな。今日はどうした?」
「いやね、私はこのお宿をすみずみまで探検してみたんだけど、いいお昼寝スポットが見つからなくて。だからトレーナーさんの部屋ならどうかなって思って」
一応部屋主に招き入れられたみたいなので敷居をまたいで入っていく。足に触れる感触が廊下の木から部屋の畳に変わってちょっとむずかゆい。
「いや、昼寝するだけなら自分の部屋ですればよくないか……?」
「うんにゃ、だめ。私はお昼寝がしたいのであって寝たいんじゃないからね」
「そういうものなのか……?」
「うん、そう。だから諦めてセイちゃんにお昼寝スペースを提供するのだ!」
トレーナーさんがパソコンを置いている木の机を少しずらせば寝転がるスペースが工面できそうだ。
「よいしょ、っと。ここならクーラーの風も直接当たんないし良さげだね~」
トレーナーさんも座布団に座ったまま体をひねらせて机の正面まで移動してくれた。畳にうつ伏せに寝転がって手足を伸ばして、手は壁にぶつかったけど足は当たらないぐらい。快適、かいてき~。
「……スカイが良いならそれでいいんだけどさ、せっかく海まで来てるのに、やることが昼寝で良いのか?」
「うん。というか二ヶ月もここにいるんでしょ? 最初から海ではしゃいでたら飽きちゃうって」
言ってから別に釣りは飽きるとか飽きないとかではないな、と思った。
「そうか」
トレーナーさんはそう短く答えて、ノートパソコンをぱたんと閉じてから立ち上がった音が聞こえた。
「トレーナーさんはどちらへ~?」
うつ伏せのまま訊く。
「ちょっと散歩にでも。ずっと同じ姿勢だと腰とか痛めちゃうからね」
「そんな、乙女のかわいい寝姿を見てやろうなんて気概は無いんですか!?」
「ずっと見てたら嫌がるだろ」
「それはそうですけど」
学園の方のトレーナー室ではトレーナーさんが机で何かしてれば自然と私の姿が見えるような位置にソファがあったから、もしかするともう見飽きているのかもしれない。軽口の流れでずっと見られるのは嫌とは言ったけど、本当にそうかもわからないかもしれない。
「じゃあ、また後で」
トレーナーさんはそう私に言い残して、本当に部屋から出ていってしまった。なんとなく、トレーナーさんがいたほうが良い昼寝ができただろうに、と思ってしまった。