カラカラと鳴る引き戸を後ろ手に閉める。もう空間的には断絶されたはずだけど、居心地が悪いので部屋をさっさと離れる。部屋の中ではスカイが寝息を立て始める頃合いだろうか。雑な言い訳だったと自分でも思うけれど、今はトレーニング以外でスカイに近づいておきたくなかった。
外履きに足を入れて正面のドアを抜けると一気にカンカン照りの陽が照りつけてくる。空気も蒸して、この感覚だとたぶん35度ぐらいはあるだろうと思う。これを快適と言うような嘘を付く理由は無いけれど、それだけスカイから十分離れられたような気がして、歩きのスピードを少し緩めた。
駐車場で立ちぼうけているわけにもいかないので、どこか適当なところへ、と思ってとりあえず足を前に出す。本来今私が一番いるべき場所にはスカイがいるから、そこ以外のどこかへ。とはいえ土地勘の無いところだから、選択肢はほとんど無いようなものだった。スカイを捕まえるために調べた、調べた限りでは穴場と呼んでも良いだろう場所ぐらいしか。
堤防に沿って道を少し歩いていくと砂浜はすぐに終わって、岩場になってきた。ということは、このあたりで堤防の階段を降りれば良いはず。階段を見つけて、滑り落ちないようにちょっと慎重になって階段を降りる。降りた先の岩場はまだ海水面からは高く、下を眺めると磯ができている。今は引潮の時間帯らしい。まあ、満潮になるまでには帰れるだろう。
ちょうど座れそうな岩があったので腰掛けた。波はここまではぜんぜん届かない。釣りスポットのはずなのに他に人が見当たらない。時間が悪いのかもしれない。好都合だ。
ここまで逃げてきても、物理的な位置においては離れても、頭の中ではスカイのことをずっと考えさせられていた。それか、考えなければいけないように感じていた。
スカイのことが、怖い。
まぐれでG1を勝てるウマ娘なんていない。G1を勝ってなんとびっくりなんて言われてしまうウマ娘もいるけど、そんなウマ娘だってG1に挑んだときにはもう重賞ウマ娘だった。そもそもG1に出走できる時点で相当な実力を持っている。まずオープン級に上がれなければ重賞出走なんて夢でしかないし、重賞級のウマ娘だってランクが上がるごとに通用しなくなっていく。勝負事の世界は本当に厳しいと、私は前の娘で思い知った。
あの娘はデビューから3連勝して、意気揚々と弥生賞に挑んで、その後の負け方からすれば本当に惜敗と言ってしまっていいような負け方をした。私もあの娘もデビューしてからそんなに時間が経っていたわけでもなく、あのときはそれはそれは落ち込んだものだった。反省もほどほどに練習に打ち込んだけれど、その結果が皐月賞16着だった。
まぐれでG1を勝てるウマ娘がいないのと同じように、重賞級の実力があるのに重賞を勝てないウマ娘もおかしいだろう。弥生賞のときは逃げるウマ娘に逃げ切られてしまっただけで、当時ライバルと目されていたウマ娘とは競り合って勝てていた。あの差し脚は今でも覚えている。それなら、何がおかしくなってしまったのか。トレーナーたる私を除いてほかにおかしくなるようなものなど無かった。
そのときの夏合宿から、もう3年も経つ。クラシック級でもシニア級でもそれから一回も勝てず、最初の3年間が終わった後にもう1年だけ追加で担当して、それでなんとかもう1勝だけしてもらうことができた。重賞級の実力を持つウマ娘が、偶然でしかOPを勝てないようなウマ娘になってしまっていた。
そんなだから次に担当契約を結んでくれるウマ娘なんていないだろうなと思っていたところに、セイウンスカイが転がり込んできた。ははあ、さては落ちこぼれトレーナーに問題児ウマ娘のコンビだな、と思っていたらスカイの実力は本物どころの話ではなくて、G1まで勝ってしまった。
恐ろしかった。怖かった。美しい陶器の器を投げてよこされて、キャッチもできないけど飛んでくる間にその器に見とれているような気持ちでいた。緊張して手から汗がじっとりと滲み出てしまっているから、きっと捕まえようと手を閉じたところに運良く器があっても滑り落としてしまうに違いない。そうやって美しさが粉々になってしまう。だからといってキャッチしないなんて選択はできないし、器の美しさ見たさに投げないでとも言えなかった。だから、今でも恐ろしいし、怖いのに、トレーナーをやめることもできなかった。
スカイは間違いなく強いし、彼女自信の努力によってメイクデビューもオープン級のレースも楽勝できた。すると、いいトレーナーの元に付けば三冠だって狙えたのだろう、と思えるような類まれな才能を持っていたはずだった。それなのに、うっかり私の下に来てしまったせいで、前の娘とちょうど同じように弥生賞で初めて負けた。
問題はここからだ。弥生賞で惜敗して、前の娘と同じようにもうすっかり下り坂を転げ落ちていくだけのウマ娘に、砕けてしまった器になったものと思っていた。私は砕いていない、ただ飛んできた器を捕まえそこねただけなのに、嫌だ、嫌だと思って私ができる範囲のトレーニングに精を出しても、まったくキャッチしようとしない姿勢ではなくなるというだけで何の成果も得られないはずだった。ところが、スカイは皐月賞を勝ってしまった。
もしかすると滞空時間には差があるのかもしれない。スペシャルウィークも確かに強いウマ娘で、ダービーではスカイにも、他のウマ娘たちにも圧勝した。つまり、弥生賞ではたまたま強いウマ娘と激突して破れただけで、幸運なことにスカイは自分自身でトレーニングをずっと行っていたようだったし、弥生賞や皐月賞の時点ではまだ私の無能力性がスカイを毒すには至っていなかったということなのかもしれない。
その幸運もダービーでもはや尽き果てたと確信できた。スペシャルウィークに完敗しただけでなく、4着にまで沈んだ。次は10着とかだろう。そうでなければいけない。私が担当トレーナーになっているのだから。もしそうでないのなら、何かはわからないけど、多分より大きなしっぺ返しが来るような気がしてならない。だから、今すでに粉々に砕けた器を見ているようになっていなければならない。
だからといって、あからさまにスカイを見限るような真似もできない。私がスカイを見限ってトレーニングをしなくなったら、それは担当トレーナーからの支援を受けられなくなった哀れなウマ娘ということで負けても当然と思えてしまう。あくまで、私はトレーナーとして全力を尽くしているのだ。尽くしている上で、私の能力が壊滅的であるためにスカイは滅びに向かってしまう。そういう格好でなければ、私はただ悪意を持ってウマ娘の人生を狂わせる大悪人になってしまう。ウマ娘たちの競争の世界に夢を見て、それが眩しくてトレーナーになった身として、なにより中央のトレーナー試験に受かってしまった身として、自分からウマ娘を放り出すこともできなかった。
私がどうやろうと、私が担当している限り、スカイはその才を潰してしまうという確信だけがこびりついていた。
大波が岩場で砕けて、足元にすこし水しぶきがかかった。夏の入り口の日差しに照らされてすっかり喉も渇ききって、熱されていた足の肌を冷やすにも足りない飛沫を感じると途端に暑さに耐えられないように思えてきて、帰ったらスカイには立ち退いてもらおうと思って岩から立ち上がった。深呼吸でも、と思って吸った息が生温くて、潮の香りに爽やかさがまったくついてこなかったので気持ち悪く思えて、吐いた息は溜息になってしまった。
「……なあ、スカイはどうしてそんなに走れるんだ」
独り言のつもりだった。
「そりゃあトレーナーさん、私がすっごく負けず嫌いなの、とっくに知ってますでしょ?」
「なっ」
スカイの声が聞こえた。
振り向くと、見知った芦毛とにへらとした笑顔が3, 4バ身ぐらい先にあって、座っていた岩に尻もちをついてしまった。足を滑らせかけてから持ち直し、なんとか落ち着いた。ちょっと脇腹をひねった。
「トレーナーさん、私がキングちゃん、スペちゃんと比べて足りないところ、どこだと思います?」
「……そりゃあ、まずキングヘイローほどの家柄じゃないだろ、それからスペシャルウィークのトレーナーはすごい人だ」
質問の意図がぜんぜんわからない。もしかして、ダービーで負けたのをまだ引きずって気持ちが落ち込んでいるのか?
「……そうじゃなくて。トレーナーさん、私のダービーでの着順、覚えてる?」
「…………4着」
「そう、キングちゃんともどもスペちゃんに負けちゃった。もうびっくりしちゃったよ、びゅーんって私の横を楽々と差していくんだから」
「……つまり、まあ、スペシャルウィークほどの上がりは無いな」
ダービーで大敗したこと自体には、やっと私の毒が回ってきたか、という感想しかなかった。けれども、私がその感想を持つことを私が許容できるのも、少なくとも私が全力でトレーナーとしての能力を発揮しているからそれでもこうなってしまうからには仕方がない、と諦められる状況にあることが必要だった。もしスカイが落ち込んでいるのなら、そこに追い打ちをかけるような真似をしてレースに影響を与えるなんてことはなんとしてでも避けなくてはいけなかった。
「それに、公式のレースでキングちゃんと走ったことは無いけど、もしキングちゃんとマイルで戦って、それでダービーみたいにペースを握られたら、私はそのハイペースについていけなくなって潰れちゃうよ」
「……そうだろうな」
安易な否定はできない。スカイの言っていることは概ね事実で、事実をいくら否定しても競争で受ける傷が大きくなるだけだからだ。
「でもさ、スカイ、スカイは皐月賞ウマ娘じゃないか」
「そうなんですよトレーナーさん! いやー、トレーナーさんはやっぱりわかってますねえ」
「……何を?」
事実には事実を対抗させるのが一番手っ取り早いと思って、まだ私によって弱められてはいなかったころ、スカイが彼女自身の能力によってG1を勝てたレースの話に持っていった。そこから彼女自身の、もしかすると私がとうに奪っているか、今この瞬間も奪い続けているかもしれないような才能について思い出させて、それでなんとか、と思っていた。
「そう、私は皐月賞ウマ娘なんですよ。そしてその皐月賞では私はスペちゃんとキングちゃんの猛追から逃げ切ってみせたわけです」
そんなことは知っている。知っているどころか、あのときは恐ろしくうろたえた。なんで私が担当しているのにG1ウマ娘になっているんだ、と。
「つまりですね、セイちゃんはスペちゃんやキングちゃんみたいな末脚がなくても、ここを使ってなんとかできるし、そうすれば逃げ切れてしまう大天才ウマ娘ってわけなんですよ。負けている部分を知略で補う天才ウマ娘ことセイちゃんのこと、もっとすごいと思ってくれてもいいんですよ?」
と、スカイはトントンとこめかみを指さしながら得意げに言っていた。
「なあんだ、言いたかったのはそんなことか」
おそらく最初からスカイは落ち込んでいなかったのだろうし、せいぜい私に確認することで自信を強めたかった、というだけで深刻になにかを思っていたわけではなかったのだろう。そう思って、つい言い回しが雑になってしまっていた。
「そんなことか、じゃーないんですよ。ノリ悪いなあ」
「今の、僕のせいなのか?」
しまった、と思ったけれどスカイはぜんぜん気分を悪くしたようではなかったので安心した。
「そうですよ。あーあ、せっかくトレーナーさんに感謝しようと思ってたのになあ」
安心したかった。
「……感謝されるようなことをした覚えはないんだけどな」
「なにをおっしゃいますかトレーナーさん、私のことをめちゃめちゃ良く見てくれてるの、知ってるんですよ?」
それはそうかもしれない。けれど、違う。トレーナーが私になったことを恨みこそすれ、感謝などしてはいけないはずだ。皐月賞こそスカイの努力で勝てたけど、ダービーではついに大敗した。恨んでくれないとおかしいのに。自分の眉根に皺が寄ってくるのがわかったから、目線をスカイから外して、顔を海側にそむけた。
「……いや、スカイの力だよ」
なんとか絞り出せた言葉はこれしかなかった。
「……トレーナーさんのパソコンの横に置いてあった紙、びっしりと私のトレーニングのことが書き込まれてましたよね。本当にびっくりするぐらいの量」
だから、違う。どうして、スカイの力を失わせている犯人が私だと気づかないんだ。
「……だから……僕じゃ力不足なんだけど……」
「うーん、トレーナーさんも強情ですねえ。ま、とにかく、私はトレーナーさんにはそこそこ感謝してるってことで」
ぱたぱたという足音がだんだんと遠ざかっていった。たぶんスカイはどこかへ行ったのだろう。人の気配がなくなったので、ゆっくりと立ち上がって、自室まで戻ろうと振り向いた。眉間を手で伸ばして、もしかすると怒っていると取られるかもしれないような顔を笑顔に戻していった。汗で手が滑って、前髪をぐしゃぐしゃにしてしまった。
自室まで戻ったときにはスカイはおらず、かわりにとても薄い色の髪の毛が、たぶんスカイが寝ていたところからは離れたところになるはずのところに落ちていた。綺麗だったから、それをつまんでゴミ箱に捨てた。