雲・つかみ放題   作:イカ爆弾

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打ち歩詰め

 夏合宿は紙を焼いたみたいにして終わった。トレーナーさんとのトレーニングはだいたいずっと厳しくて、それで夏の貴重な時間があっという間に終わってしまったように感じた。ただ、こんなに激しくちゃ故障しちゃいますよー、なんて一回言ってみたときにはトレーナーさんが大慌てで違和感が無いかとかを聞いてきて、それで「あ、トレーナーさんは本気だ」と思って、それより後はそんな感じの冗談は言えなかった。まあ、トレーナーさんが調べてくれた釣りスポットは(暑すぎることを別として)まあまあ良かったので良しとしよう。

 それで、今私が立っているのはトレセン学園のグラウンドの上。夏合宿が終わってから一月経ってもまだまだ残暑も厳しいし、菊花賞まではあとさらに一月ある。それでなんで今私が汗水たらしてトレーニングを重ねているのかというと、来週の京都大賞典に出走するためだった。

 京都大賞典は菊花賞と同じ京都レース場で、ダービーと同じ12ハロン、2400mのレース。ダービーから夏いっぱい本番のレースをやっていなかった分の感覚を取り戻して、ついでに京都レース場の下見まで済ませてしまおう、というアイデアだった。どうせ菊花賞の前にどこかでレースを走っておく必要がある、とトレーナーさんとも意見が合ったし、じゃあ、と京都大賞典を選んだのは私だった。そして登録ウマ娘が出揃って、暑さ由来じゃない汗を書くようになったのが、つい2, 3日前のことだった。

 登録ウマ娘はそんなにたくさんいるわけではなかった。当然といえば当然。なぜなら今年の春の天皇賞ウマ娘のメジロブライトさん、さらにその天皇賞で2着、宝塚記念でも2着だったキンイロリョテイさんも登録ウマ娘に名を連ねていたからだった。今のところ私は5番人気の予想だとか。私も回避するかどうかをトレーナーさんに尋ねたら、トレーナーさんはむしろ力試しに丁度いい、と返してきた。そうトレーナーさんに言われると、期待に答えてねじ伏せたくなってきてしまう。

 トレーナーさんはなにか私に伏せているようだったけど、たぶんトレーナーさんもトレーナーとしての立場でやりたいことが何かあるのだろう、と思ってその場ではそのことについて何も言わなかった。

 夏合宿は辛かったけど、夏合宿を通してタイムが明らかに良くなっていた。フラワーとの並走も、前みたいなボロ負けから、これならなんとか惜敗と呼んでも良いでしょ、みたいな負け方になってきた。あんまり実感は無いけれど、私は強くなっているみたいだった。

 今日は最後に一周半を何回か軽く流しておしまい。2400mを100%の力で走るのではなく、85%の力だけど終始ペースが変わらないように走る。最初の6ハロンは余裕で、次の3ハロンはちょっと辛くなってきて、そのつぎの2ハロンは息が苦しくなってきて、最後の1ハロンはもう全力で走りきってしまいたくなる。それをぐっとこらえて、足でリズムを取って、呼吸もがんばって合わせる。どうしても乱れてきて、ゴールして、大きく息を吸って、吐く。

 それからもう一回吸って、吐いて、なんとなく整ったかな、と思ったらもう一回スタートする。今度は前の一周よりもずっと苦しい。苦しいままこらえて走っても勝てはしない。向正面に入って、足を緩めて息を入れる。ちょっと遅くしすぎてしまったかもしれない。それでも第3コーナーに入ったらもとのスピードに戻して、第4コーナーからはまた加速する。ゴール板を超えて、足を緩めながら一周回ってきて、トレーナーさんにタイムを聞く。だいぶ良いタイムをトレーナーさんの口から出されて、よし、と心の中でだけガッツポーズをした。

 今日は、トレーナーさんは私と話すときにはだいたい明るい顔でいたけれど、私がちょっと遠くにいるときなんかに目を凝らしてみるとだいたい渋い顔をしていた。確かに京都大賞典に出走するウマ娘たちは強力なライバルだけど、トレーナーさんとのトレーニングのおかげで私の仕上がりはかなり最高に近づいていると言ってもいいだろう、と自分でもわかっている。トレーナーさんは何をそんなに怖がっているのか、それとも私の何がそんなに気に食わないのか。それがわからなかった。

 まだ、トレーナーさんの前ではふよふよとしたおちゃらけウマ娘のままでいたくて、なんとなく聞くのは憚られてしまった。

 私はすっごく速くなっているのにそんなに暗い顔をするとは、とでも問い詰めてやりたかったけど、私が近づけばすぐに悩みなんてなにもありません、みたいな笑顔をされてしまい、そんな言い方で詰めてやることはできなかった。

 そして、京都大賞典の日がやってきた。

 レースを前にして、私ができることはただ一つだ。レースを勝つ。それしかない。きっと、トレーナーさんも、私が速くなったとはいえ強力なライバル勢ぞろいとなれば不安が勝つのだろう。それなら、私が勝ってやれば顔も晴らせるに違いない。勝って、トレーナーさんには杞憂って言葉の意味を教えてあげよう。

 昨日の枠番確定を見て、勝てる、という確信もあった。7人立てで1枠1番に私が入っていた。7人立てという少人数には驚いたし、それで最内枠の有利がちょっとは減るかもしれないけれど、私の十八番、逃げを打つには絶好の枠番だ。まあ、どうやらそれでも辛いと思われているらしく、控室で人気をトレーナーさんと見たときには私は4番人気でしかなかった。

 控室からパドックに出てきても、私には全然歓声が上がらなかった。ダービー、もっと前の皐月賞、もっともっと前の弥生賞でもスペちゃんとキングちゃんとの対決、とどっと歓声が上がっていたから、こんなに静かに出迎えられたのはOPのとき以来かもしれない。後続のウマ娘たちが出てくるために私は脇に避けて、観客席の方まで歩いていった。

 観客席の方に、私を見ている顔を見つけた。トレーナーさんや、知った顔の人ではない。たぶんメジロブライトさん目当てか、キンイロリョテイさん目当てか。私を見たのは偶然かもしれない。私にとっては何でも構わなかった。私は口角をニィっと上げて、

「お客さん、私を買いかぶってみません? 悪いことは言いませんよ、私に期待してみたら……気持ちよ〜く、裏切ってあげる」

と言って、くるっと半回転して出走ゲートの方へ向かった。

 それから、私がこんなに堂々どやどやとしているのは、無意識にあの2人をすっごく怖く思っているから、ということに気付かされた。ゲートのすぐ近くまで来れば、メジロブライトさんのきれいな鹿毛を目に入れないわけにはいかない。G1じゃないからあのミントのような色の勝負服はしまい込まれているけれど、こんなに綺麗なウマ娘、そうそう見落とせるものではない。対して、キンイロリョテイさんは逆にすごく黒くて、小さくて、なんとなく雰囲気も見逃してしまいかねないような気がする。あそこにキンイロリョテイさんがいる、と目線を飛ばしてみるとかなり機嫌が悪そうにちゃかちゃかと動いていて、むしろこれでどうして見落とせるんだろう、とまで思えるのに、目線を外すといなくても構わないかのように思えてくる。2人とも、違った意味で不気味なウマ娘のように思えた。さっき観客の人に切った啖呵の余裕はどこへやら、すっかり参ってしまって、係員の人に誘導されるまでゲートにも入れず固まってしまった。

 そうこうするうちにゲートが開いたので、条件反射的に飛び出した。飛び出したけど、何をどうすればいいんだろう。そうだ、走らなければ。一番前に行かなくちゃ。内ラチを横目に見ながら加速して、ハナに立つ。後ろにメジロブライトさんの圧力を感じて、それか気づかないうちにキンイロリョテイさんに抜かれていくんじゃないかという気がして、足のギアを上げずにはいられなかった。速い、速くて、まだ遅い、気がする。気づくと後ろにはほかのウマ娘の姿は見えなくて、

「セイウンスカイ、大逃げだ! 10バ身ほどのリードを付けて、さらにリードを広げていきます」

と実況にまで言われて、やっと私の大きなミスに気づいた。

 私は完全に掛かってしまっていた。もう向正面に入るのに、後ろには大差をつけて、つまり私だけ消耗してしまった。どうしよう。どうしようもない。とりあえず、一息入れなければ何もできない。そう思って、少しだけ走る速度を落とす。内ラチの支柱の流れる間隔がちょっとだけ広がって、感じる気温が僅かに上がる。風の圧力がちょっとだけ弱まって、私が取り込める酸素が増えていく。たぶん。スポーツ科学とかはよく勉強したわけじゃないから、適当だけど。

 第3コーナーに差し掛かる頃には、一番大きかったときに15バ身差ほども付いていた差が1バ身もなくなっていた。すぐ後ろにはメジロブライトさん。この速度のままでは、すぐにバ群に飲み込まれてしまうだろう。そして、夏よりも前の私なら実際これよりも速くは走れなかったに違いない。でも、今の私にはまだ余力があった。スピードをちょっとだけ上げて、メジロブライトさんの半バ身前に位置する。吸って蹴って吐いて蹴って吸って蹴って吐いて蹴って、第4コーナーに突入する。

 驚いたことに、私の足は軽い。私は今からスパートをかけることができる。そう思った瞬間、また足のギアを上げずにはいられなくなった。でも今度は掛かりじゃない。掛かりだったとして、もうゴールまで3ハロンしかない。顔に当たる風が目尻を切って流れていく。尻尾がもっとまっすぐになっていく。後ろに誰もついてこない。

 あと2ハロンになって、実況がメジロブライトさんの名前を叫んだ。負けたくないから、速度は緩めない。後ろから迫ってくるのだろう、と思っているうちに左斜め後ろにメジロブライトさんが見えた。ぐんぐん迫ってくるけど、あと1ハロン。半ハロン。私は逃げ切れる。そして、メジロブライトさんも、誰も私に届かない!

 吸って、吸って、息が壊れているから整わない。メジロブライトさんが私を追い抜いたのは、ゴールの前と後、どっちなんだろうか。届かない、と思ってみたけど確信は無く、掲示板を見上げてみても、真横からでは何も見えない。実況も私とメジロブライトさん、どっちかの名前を言ったはずだ。でも、聞こえなかった。

 私は勝てたのだろうか。勝てていたら、それよりも嬉しいことは無い。思い出してみると、追い抜かれたのは私がゴールするよりも前だったような気がしてきた。いや、それでも大健闘だろう。春の盾の覇者を相手に、ハナ差か……そうでなくてもアタマ差か、クビ差……もしかすると1/2バ身差で、惜敗したことになるのだから。両足を交互に着地させて、レースのときよりはずっと遅いスピードでターフの上を走って、回っていった。

 正面に回ってきて、掲示板を見上げた私は、もうすっかり負けた気になっていたので尻もちをついてしまいそうな気持ちになった。一着のところには「1」と書いてあったからだった。……もしや、と思って私は顔を下に向けて、私の服を見る。ゼッケンにはやっぱり1の文字があった。ということは……私は、勝ったんだ。

 そう思うと、今度は急に、あたかも余裕綽々にこのレースを勝てたような気分になってきた。掲示板にはハナ差とちゃんと書いてあるのに、まるで圧勝したみたいな気分。こころなしか足取りもスキップをするみたいになってきて、観客席のトレーナーさんまではすぐにたどり着いた。

「えっ、おっ、おめでとう……?」

と、トレーナーさんはまだ目を白黒させていた。

 控室に戻ってから、

「いや、ごめん、正直に言うと、スカイが勝つとは思ってなかった」

とトレーナーさんが白状したので、

「そんなあ、セイちゃんの担当トレーナーさんはセイちゃんのことを信じてくれないひどいひとだったなんて、よよ……」

とか、私は思う存分ふんぞり返ることができた。トレーナーさんはこうなることがわかっていたのか、割と最初の方から引きつった笑顔をしていた。

「まあ、とにかくおめでとう。タイムもすごく良かったしね」

「えっ、あんなにペースを壊したのに?」

「むしろ壊したからじゃないかな。ダービーのときより1.2秒も早くなってるぞ」

……へえ。

「へえ、そんなに。って言っても、もう一回やれっていわれたらできるかどうかわかんないけどね」

半ば本心で、半ば嘘だった。多分、やろうと思えばできるだろう。確信が無かったというより、感覚を完全に掴めているわけではない、という感じ。だから、何度か練習すれば、これは菊花賞でも使えるんじゃないかな、という気がした。

「ごめん、ちょっと外の空気を吸ってきてもいいか?まだちょっと、スカイが勝った、ってことが信じられなくて」

私が頭の中でレース展開のことを考えていると、トレーナーさんがそう言ってきた。

「もう、セイちゃんが勝ったんですよ? はやく現実を受け入れて、それからセイちゃんに勝利祝いをプレゼントしてください」

と軽口を叩いて、トレーナーさんは部屋を出ていった。

 部屋が静かになって、掛け時計の秒針の鳴る音まで聞こえてきた。気になって時間を見ても、ウイニングライブまではまだまだあり、先にお手洗いにでも、と思って立ち上がった。ドアノブに手をかけたところで、ドアの外でトレーナーさんがなにか言っているのに気づいて、すんでのところでドアノブを回さないで留まった。よく聞こえないので、壁に耳を当てた。

「どうして」

間違いなくトレーナーさんの声だ。電話でもしてるのかな?

「……頼むから、走れなくなってくれないか」

……談合か、八百長? トレーナーさんが? もしそうなら、もう少し聞き耳を立てていれば決定的な証拠が聞こえてくるだろう、と思って耳を壁に密着させる。……トレーナーさんの声はしない。もしや、と思って控室の机の上を見ると、トレーナーさんのスマホが置きっぱなしにされていた。……ということは、独り言? 走れなくなってくれ、って、誰が?

 今すぐドアを開けてトレーナーさんに問い詰めることもできたはずだけど、しなかった。

 もし、万が一だけどね。そう小さく声に出した。

 もし、この目的語が「私」だったらと思うと、すごく怖くなって、どうしてもその扉を開けることはできなくなってしまった。

 いや、きっと、たぶん、私のことじゃないだろう。なにせ、あんなに頑張って私とトレーニングしてくれたトレーナーさんのことだから、きっと……たぶん、ほかの……誰かに、言うような気はしない。そう逡巡していたら、ドアは突然開いて、トレーナーさんと目があった。私もトレーナーさんも2, 3秒の間固まって、

「……そろそろ、ウイニングライブの方に行ったほうがいいんじゃないか」

というトレーナーさんの言葉が聞こえて、私は

「……うん、そう、だね」

とだけ言うことができた。

 

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