「トレーナーさん、ちょっとお耳借りてもいいですか?」
十月も今日から下旬に入って、菊花賞まではあと二週間と少し。京都大賞典からは相対的に弱めのトレーニングしかしていなかった。レースによって足にかかる負担はとても大きいから、レース後半月や、場合によっては一ヶ月くらいの間運動強度を下げてトレーニングをするのは普通のことだったし、今までもしてきた。運動強度を下げたトレーニングも特段前と変わったところは見当たらず、もしトレーナーさんが私に気づかれないぐらい上手く私を走れなくする方法を持っているのでなければ、きっと、走れなくなってくれ、という言葉は私に向けられたものじゃないのだろう、と思えた。
あれはなんだったんだろう、とまだ思うけど、直接聞く機会を見つけられなかった、と思っている。もしかすると勇気がなかっただけかもしれないけど、そうじゃないことにしておきたい。
それで、今私とトレーナーさんは二人でグラウンドの端の方に立っていた。もう日もだいぶ傾いて、今日のトレーニングはここまでにしてブリーフィングに移ろう、というところだった。あと数日もすれば菊花賞まで二週間を切って、そうなれば本格的なトレーニングが始まるだろう。だから、ちょっとした作戦をトレーナーさんに聞かせてみて、反応はどうか、と思っていた。
トレーナーさんが膝を折り曲げて、私が背伸びしてもまだちょっと耳打ちするには高い身長になる。
「もうちょい」
「もうちょい?」
私の文句にトレーナーさんが答えて、ちょっとしたスクワットみたいな姿勢になった。面白いのでわざと引き延ばそうかとも一瞬思ったけど、どちらかといえばすごくどうでもいいことなのですぐに忘れた。そんなことより、とトレーナーさんの耳に小さく声を投げ入れた。
「ちょっとやってみたいことがあってね」
「うん」
「……京都大賞典での私の走り、覚えてる?」
「……」
「……あれを、菊花賞でもやってみたくて」
トレーナーさんが急に足を伸ばして立ち上がった。どうかな、と思ってトレーナーさんの顔を見ると、やっぱり、にんまりと笑っていた。
菊花賞の3000mは私には明らかに長すぎる。対抗バにスペちゃんがいるとなれば尚更、スペちゃんのスタミナに正面からぶつかっては勝ち目はない。だから賭けてみよう、という提案だった。
私の京都大賞典での走りを、トレーナーさんが忘れていたはずはなかっただろうと思う。お世辞にも良い勝ち方とは言えない走りだった。うっかり掛かって、うまく息を入れられて、それで夏に成長した分で押し切れた。距離が伸びて相手がスペちゃんになるのなら、そんな雑なやり方では負けてしまうだろう。それを「やってみたくて」と言って、トレーナーさんは同意してくれた。考えなしに笑いかけるような人ではない、という私の認識がずいぶんすっとぼけていなければ、の話だけど。
で、これをトレーナーさんに言ったのには訳がある。
「でも、どうやったら合わせられるのかはセイちゃんにはぜーんぜんわかんないんですよー。トレーナーさん、トレーニングプランの方よろしくおねがいしますね?」
と、丸投げするためだった。
「まあ……駄目で元々だからな」
「おっとトレーナーさん、それは聞き捨てなりませんよ?」
流石に菊花賞は厳しいと思うけどね。
それから何日か経って、トレーナーさんが持ってきたトレーニング案は同じペース配分で何度も反復練習する、というものだった。普通なら、千変万化するレース展開に予め反復練習しておくなんてことはできない。でも、大逃げなら別。大きく逃げてレース展開を握ってしまえば、あとは相手がかかってくれるかどうか次第ではあるけれど、だいたいこっちのものだろう、というのがトレーナーさんの答えだった。
ただ、反復練習を学園のグラウンドでやっているわけにはいかない。バレちゃうからね。というわけで、私とトレーナーさんは秘密のトレーニング場……もう、ここに元の一文字を付け加えても良いかもしれない、にやってきていた。
ここに来るのはしばらくぶりだ。前に来たのはいつだっただろうか。夏合宿よりは確実に前で、それがいつだったかは思い出せない。
そして、一走だけしてみてもうわかったこともある。私が間違いなく成長している、ということだった。
私が踏み固めては耕した土は前よりもずっと走りやすいし、十分に安全な距離を見積もって置いておいたはずの標識に従ったら危うく藪の中に突っ込みそうになるところだった。つまり、ここは狭すぎるようになってしまっていたのだった。
とはいえ、他に場所の選択肢があるわけでもない。だからといって、このあたりの藪を刈ってちょっとしたグラウンドをつくると聞かされると流石にうへぇとなる。菊花賞のためにエンヤコラ、とは言ってもめんどくさいものはめんどくさい。河川敷を勝手に使ってるから重機や芝刈り機などを持ち込むわけにもいかず、そこを整備するだけで数日かかってしまった。
明くる日、明くる日、そして3000mを試しに一走。……案の定、京都大賞典のときのようにはいかなかった。あのときは偶然に歯車が噛み合ったのであって、どう噛み合わせるかは今から検証しないといけない。トレーナーさんも今の私の走りを見てわかったみたいで、じゃあラップタイムを測るか、とすぐに切り替えてきていた。
こんなにうまく行かないなら菊花賞でもちゃんと思ったとおりには走れないんじゃないか、京都大賞典がG2だったからたまたま上手くいっただけなんじゃないか、という気持ちが無いわけではない。それよりも、今の私は夏を経てずいぶんと強くなったことをわかっている。トレーナーさんは強くなった私をさらに強くしてくれる。そういう確信があった。
トレーナーさんも私に焦りがないことを見て取ったようで、
「なんというか……G1ウマ娘としての風格、みたいなものが出てきたような気がするな」
なんて言っていた。
「太ったってことですか?」
「いやいや違う違う、そうじゃなくて」
「冗談ですって」
と、軽くトレーナーさんをからかえるぐらいには、菊花賞に向けての不安はもう無くなっていた。
最も強いウマ娘が勝つ、ということの意味を、今の私は完全に分かっていた。それが、もっとも速い、とは区別されている理由が。
今年は去年よりは冷え込まないらしい。11月の下旬なのにまだ凍えるように寒くはなくて、でもウマ娘は移動中いつも走ってるのだから、走れない洛中ではいつもより寒く感じる。京都レース場はここから少し遠い、長岡京のはずれにある。ウマ娘とはいえ走っていくには遠い距離を、しかも途中まで走れない、というわけでURAが運行しているシャトルバスに乗っていくことにした。
バスに乗っても流れていく景色は走っているときよりも遅い。それで私の足が動いていないのがもどかしく思えて、菊花賞の3000mもこんな風に長く感じるのかな、とも思った。
控室でトレーナーさんと最後の確認をして、私は地下バ道に歩いていく。
コンクリートにかつん、かつんと蹄鉄が当たる。目線の先には明るい光があって、私はそれに向かって行く。不意に私の靴の鳴らす音が途切れて、私の足が少し沈み込む。私を、歓声が迎えた。
パドックでお客さんたちに一通りアピールした後、まだゲート入りするには数分ある。自由に歩きまわったり、ちょっと駆けてみたりしたり、自由に心を落ち着かせるための時間だ。私はキングちゃんを見つけて、キングちゃんも私を見ていた。キングちゃんは私の肩越しに誰かを見ていた。たぶん、スペちゃん。
「キングちゃん、3000mに挑戦するなんて思い切ったねえ」
「あなたこそ。ダービーのことは忘れてないでしょうね?」
私とキングちゃんとスペちゃんの3人の中では、スペちゃんが一番スタミナがあって、キングちゃんが一番スタミナが無かった。人気順もその通りになっていて、私はスペちゃんに次いでの2番人気、とさっきパドックで言われていた。
「いやー、セイちゃんってば忘れっぽいからね、なんのことやら。首尾よくスペちゃんから逃げ切れることを祈るばかりですよ」
「……そう。なら、覚えておきなさい。私は、あの時みたいな無様な負け方はしないわ。掛かって、スタミナを切らしてウマ込みに沈むなんてことはしない」
またキングちゃんが私から目線を外した。
「私は差し切るわ。スカイさんも、あなたも」
「……負けないからね、キングちゃんにも、セイちゃんにも!」
左後ろからスペちゃんの声がした。
「おーこわ。じゃ、私も頑張っていきますか」
つい口角が上がってしまいそうになって、2人から見えないように右に回る。きっと、間違いなく楽しいだろう。ライバル2人と争えるなんて。きっと、間違いなく心躍るだろう。キングちゃんとスペちゃんと競い合えるなんて。
ああ、きっと、間違いなく、すごく嬉しく思うのだろう。そんな2人に勝てたのなら。
ゲート入りは済んだ。内枠、4番のゲートだ。1枠1番ほどの最高の枠番でこそないけれど、逃げを打つには悪かなり良い。キングちゃんはもうちょっと外で、スペちゃんは大外。スペちゃんやキングちゃんの爆発力があるのなら後ろに付いたって何の問題も無いのだろうけど、私には大問題だ。そして、京都レース場の3000mのスタート地点は坂の途中で、しかも1ハロン半も無いところに最初のコーナーがある。内枠でなければ先手を取るのは難しいだろうし、そこで先頭を取りそこねたら致命傷だ。つまり出遅れが致命傷になる。
全ウマ娘のゲート入りはまだ完了しない。なら、これ幸いと深呼吸をする。目を開いたらもうゲートが空いてしまっているんじゃないか、という気になって見てみても、まだ閉まったままだった。でも、実況は最後のゲートインを知らせていた。待つ。ゲートが開く。駆け出す!
内ラチまで急行して先頭を目指す。私より前に1人いたけれどその内側に潜り込んだ。ここからが私の賭けになる。
坂を駆け上がって第3コーナーを曲がり、そして坂を駆け下る。ハナに立った。足の回転をちょっと上げる。もっと上げる。明らかにペース配分を壊した速さだけど、無視して走る。掛かってしまったときは今よりももっと速く走っているはずだけど、その感覚は思い出せない。
そして後ろが離れていくのを感じる。これなら早々と勝ちを決めちゃうことになるかな、と思っていた。
「さあ先頭はセイウンスカイ、その後ろにキングヘイロー!その後ろは2バ身ほどはなれてさらにぐんぐんと差を開いていきます」
そうは問屋が卸さないか。じゃあ、これならどうかな?
足のギアをさらに一つ上げる。もう本当に怖いけれど、それよりもキングちゃんを振り落とそうと必死に走れることがとても嬉しい。坂を降りて第4コーナーを曲がって、もうひとつペースアップ。このラチの流れる速さには見覚えがある。京都大賞典のときのやつ、かもしれない。
スタンド前をかっとばしていく。キングちゃんはまだすぐ後ろ。だんだん息が苦しくなってきた。京都大賞典なら、この後ちょっと息を入れれば逃げ切れたはずだ。でも、今日はあのときより3ハロンも長い。だからこそ、今キングちゃんから逃げ切らなくちゃいけない。
こんなに速く走っては間違いなくスタミナ切れしてしまう。怖い。怖い。怖いけど、足は緩められない。第1コーナーを曲がる。キングちゃんの気配が薄まった。一瞬振り返って見る。キングちゃんが離れていっている。流石に息を入れないと無理、と思ったのだろう。
私の勝ちだ。
第2コーナーを曲がり、キングちゃんは4バ身ぐらい後ろ、と実況で言っていた。ここで私も足を落とす。でも、本当にゆっくりと、キングちゃんにもバレないように。向正面に入って、景色の流れる速度はさっきよりもずっと遅い。キングちゃんやスペちゃんは、この速度の差を意識していたのだろうか?もしそうなら、私の負けになる。そうではなかったのだろう。なぜなら、
「セイウンスカイ足取り軽く逃げています、セイウンスカイから2番手キングヘイローまでおよそ8バ身のリード!」
と実況が鳴り響いたからだった。
さっきは途中から登った坂を今度は麓から登る。坂で自然に速度が落ちる以上に、わずかにもう少し速度を落とす。張り詰めた足をちょっとだけ開放した気分が出る。そしてまた第3コーナーから、最後の淀の坂を駆け下りる。
京都レース場の最後の直線は中山のそれほど短いわけではない。まだバレちゃいけない。坂を下るのに合わせて自然な加速はするけど、必要以上に加速しないように制御する。バ身差がすこし詰まってきたらしい。でも、まだ。まだだ。さっきはあんなに速すぎることが恐ろしかったのに、今は遅すぎるように思えて恐ろしくなっている。今ちょっとだけ溜まった足を今すぐ開放してやりたい。でも、そうしたらスペちゃんにもキングちゃんにもきっと勝てない。まだ、まだ、まだ。そして坂を下って第4コーナーに突入した。
「セイウンスカイまだ粘る粘る、後ろからキングヘイローやってきた、スペシャルウィークまだ後ろ!」
まだ、まだ、いやもう大丈夫!
一気に加速して、空気が私をもっと阻害する。苦しい。前のレースならもう終わっていたのだから。
「セイウンスカイがんばる! 2番手キングヘイローがじわじわと追い上げていきます、そして大外からスペシャルウィーク!」
がんばるって。じゃあ頑張らなきゃ。あと2ハロン。私のゴールはまだ先だから、まだもっと足を回さなきゃ。
「キングヘイロー差が縮まらない! スペシャルウィーク伸びてきた! しかしその差6バ身以上!」
あと1ハロン。
「セイウンスカイが伸びる! セイウンスカイが沈まない! 外からスペシャルウィークも伸びるが届かないか!」
あと半ハロン、もうすぐそこだ、もう、本当に。
「セイウンスカイ、セイウンスカイだ! セイウンスカイ1着で今ゴールイン!」
「で、なんでまだ私の二冠祝いの準備ができてないんでしたっけ?」
2日後、私とトレーナーさんはトレセン学園まで帰ってきて、そこのトレーナー室にいた。もちろん、私が祝ってもらおうと思ってやってきたのだった。
「すまない、でもちょっと立て込んでてね。昨日から徹夜で仕事してるんだ」
そう言われてトレーナーさんの顔を見ると、なるほど目の下に隈が……これは前からあったような気がする。どちらかというと、雰囲気としてちょっと清潔感を欠いた感じになっていて、そちらからああなるほどといった納得があった。
「もう、早めにしてくださいね? かわいいセイちゃんは許しますけど」
祝われたついでだったらもっと容易かっただろうけど、仕方ない。来たからには目的をなるべく果たそう、と思ってソファに腰掛けた。
「これでも私は感謝してるんですよ? トレーナーさん」
「……今……なんて?」
「だーかーら、感謝してるって言ったんですよ」
いつもは言わない言葉が恥ずかしくてトレーナーさんから顔を背けてしまう。
「クラシック戦線を戦い抜いて私を二冠ウマ娘にしたのはトレーナーさんなんですから。ありがとうございましたって」
いつもよりもすごく早口になってまくし立てた。トレーナーさんの言葉を待つ。……来ない。
「……トレーナーさん?」
「えっ、あぁ、ああ、そうか、そうかぁ……そうか」
驚きすぎて声も出なかったと見える。
「……休憩でも、するかな」
トレーナーさんがそう声を出して、立ち上がって、派手にふらついた。私が入る前から開けっ放しになっていた引き扉に手をかけて、がっ、ががっと車輪は音を鳴らしながらそれを閉めた。またロウを塗るよりも、扉ごと代えたほうが早いかもしれない。
「……スカイ、アロマを炊いても、大丈夫か?」
「私もちょうどお昼寝したいなと思ってたところだったので、いいですよ」
気のせいか、トレーナーさんの顔がさっきよりもひどいものになっているように感じた。