私はセイウンスカイの勝利を目撃した。私の担当ウマ娘であるセイウンスカイが菊花賞を勝って、皐月賞と合わせての二冠ウマ娘になったところを目にした。本当に勝ってしまうのかという驚きが少しあり、しかし、私はもうすっかりセイウンスカイの強さを納得してしまっていた。普段は午後になればグラウンドはとっくに大混雑なのに、雨の降る日だから昼を回っても十分スペースが残されていた、というような納得できる驚きだった。
私は、もう一年もずっと彼女が走るところを見てきた。最初から強いウマ娘だった。大の負けず嫌いで、自主練にも励んで、それでいて跳ねっ返り娘。おそらく、それで前にいたトレーナーや教官の人とも反りが合わなかったのだろう。私のもとにやってきたときの印象は、すっかり私にも不信の槍を突きつけてしまっているようで、その穂先に申し訳程度のオブラートが被さっていたように見えた。彼女は、それで問題なかったからだった。
彼女は一人で走ってきた。もちろん、私からのトレーニングやライバルとの戦いといったものが無かったといえば私は大噓つきになる。いや、ライバルたちとの協力は私の知り得ないところでもなにかあったのだろう。一人で、というのは私の思い上がりだ。正しくは、私の無能力さをどうやってか迂回して、というところだ。
私が担当して、一時は前の娘のように、セイウンスカイの才能も食い潰してしまったのだろうと思っていた。やはりこれも思い上がりだった。彼女は私にかかわらず走って、そして私にかかわらず強くなっていった。そして、クラシック戦線を戦い抜いて2つのG1タイトルを手にした。私が彼女の担当トレーナーになったのは全くの偶然だし、あまつさえ私は彼女の能力を弱めてすらいるけれど、それでも担当ウマ娘が二冠ウマ娘となれば嬉しくないはずはなかった。
だからこそ、そうであってはいけなかった。
彼女が私に感謝するなんてことは、絶対にしてはいけないことだったはずだった。
G1にもし担当ウマ娘が勝てれば、その報奨金の額ももちろんすごいが、仕事量もすごいことになる。結果として私は徹夜で机仕事をしていた。せめて、事務作業が遅れてセイウンスカイになにか迷惑をかけるわけにはいかなかったからだった。
寒いほうが眠気も覚めると思って、扉は開けっ放しにして仕事を進めていた。そこで彼女が来て、どうせ昼寝をしにきたのだろうし私も休憩するかな、と思っていた。
「これでも私は感謝してるんですよ? トレーナーさん」
ソファに座った彼女がそう言った。
「だーかーら、感謝してるって言ったんですよ」
感謝?
……そうか、私が担当トレーナーとして付いていなければスカイはそもそもレースに出られないし、器具とかを経費で買ったのも私の権限によるものだ。そのあたりは感謝される謂れがあるだろう。でも、私の能力に、では絶対に、ない。
うん、そうに決まっている。フリーズして逡巡するなんて、私も不意にはそんなに強くないらしい。
「クラシック戦線を戦い抜いて私を二冠ウマ娘にしたのはトレーナーさんなんですから。ありがとうございましたって」
だから、だから、違う。違う!
違う、私に感謝なんてしないでくれ、そんな。
目の焦点が合わない。そうであってはいけないことが、今彼女はそう言った。否定したかったのに声が出ない。ぼやけた視界でも人の向きぐらいはわかり、彼女はどうしてか向こうを向いていた。今の顔を見られずに済んで、良かった。
「……トレーナーさん?」
「えっ、あぁ、ああ、そうか、そうかぁ……そうか」
水面から顔を出したみたいに声が出た。
そうか、そうか、だったら。そうでないようにしなければいけない。
「……休憩でも、するかな」
まず、扉を閉めなければ。引き扉に触れて、とても冷たい。引っ張る。錆びついて動きにくい。もっと引っ張る。動いた。がりがりと音を立てながら、動くなら良いから、閉め切った。
「……スカイ、アロマを炊いても、大丈夫か?」
「私もちょうどお昼寝したいなと思ってたところだったので、いいですよ」
正しいように、しなければいけない。
なんとか椅子まで戻った。椅子に腰を落として、背中に背もたれが斜めに当たった。座り直すよりもやるべきことがあった。机の引き出しの一番上を開く。紙ばかり入っている。ここじゃない。もう一つ下を開く。小さなキャンドルアロマとマッチ箱を私は見つけた。キャンドルアロマを一つひったくる。マッチ箱も持ち上げる。マッチ箱には歴史上の偉大なウマ娘を記念してマッチェムと書いてあり、普段ならつまらないギャグだと思うだけなのだろうが、今はすごくおかしいような気がした。
でも、笑うよりもやるべきことがあった。
火を点けた。知らない香りが広がった。
それから、また私は机に手をついて立ち上がった。3歩歩いて、戸棚を開いた。トレーニング用具をまとめた戸棚だ。必要なものはロープだった。それから、蹄鉄を打ち付けるハンマーが目に止まった。両方取り出して戸棚を閉じて、ソファの方を向いた。
水色の髪の毛が上下に揺れていた。そこまで近づいて、私はしゃがみ込み、一度彼女を揺すってみた。予想通り、彼女は起きなかった。
「フラワーはかわいいねえ」
私は花畑にいた。花畑の中で胡座をかいて私は座っていて、その中にニシノフラワーがいた。フラワーはぐるっと顔を回して背中越しに私を見て、えへへと笑った。
「スカイさんこそ、こんな素敵なところに連れてきてくださってありがとうございます」
私が連れてきてあげたんだっけ? そうだったかもしれない。見回すと、デイジーの花畑とパンジーの花畑がパッチワーク状になっているように見えた。いい香り。
フラワーの頭を撫でると、彼女はくすぐったそうにしていた。その仕草も可愛らしい。いい香りで、ポカポカ陽気で、フラワーも可愛くて、永遠にこうしていても良いような気分だった。
もし触れたものを金の塊にしてしまう力を持っていたら、それはすごく不幸なことだ、と今ならはっきりわかる。フラワーの髪を撫でてやれないどころか、ただの金にしてしまうなんて。少し前に授業でやったギリシャの話を思い出しながらそう思った。その話ではリンゴが金になっちゃって物が食べられなくて死んでしまったんだっけか。フラワーを金にしてしまうことを考えたら、ものが食べられなくなることぐらい本当にどうでもいいことになるのになあ、と思った。
不意に体が持ち上がった。体の下を見ると、なんと木がめきめきと盛り上がって動いて私を運んでいた。木のもっと上の方を見ると、たぶんトレーナーさん、がいた。遠くて顔がよく見えなかった。
私はフラワーを抱いたままぽんぽんと動かされて、足を前に投げ出すような形で座る体勢で落ち着いた。胡座に戻ろうとしたけど左足が動かず、見ると木に埋まっていた。右足もすぐに埋まった。まあ、でも、フラワーがいるし、トレーナーさんもいたし、いっか。トレーナーさんがいるなら、きっとそのうち助けてくれるはず。
そうしていたら、不意に花畑が消え去った。あっ、夢だったんだ、とそこで気づいた。そうだった、私はお昼寝していたんだった。そろそろ起きてもいい頃合いだったから、起きた。
……起きたのに、手足が上手く動かない。壁に背をもたれかけて私は座っていた。寝る前はソファにいたはずだけど。見ると、足首のところにはなにか巻きつけられて固定されているみたいだったし、手も後ろ手に縛られているっぽい。そして、目の前にはトレーナーさんの立つ足があった。ということは、
「もうトレーナーさん、いまさらセイちゃんにお仕置きですか?クラシックロードを完走したからって」
……ってところだろう。私はかなり散々な問題児だったはずだし、クラシックの三戦の間は我慢してたけどそろそろ堪忍袋の緒が切れたってところ。お尻……は乙女として嫌だけど、適当なところに一発ぺちんと貰うぐらいなら、トレーナーさん相手なら仕方ないか、と許せた。これも愛のムチってやつですかね、と思っていたのだけれど、
「そうじゃない」
と言ったトレーナーさんの声音がこわくて、反射的にトレーナーさんの顔を見ようと私の顔を上げた。泣きそうな顔をしていた。
「スカイ……セイウンスカイ、スカイは、どうして二冠ウマ娘になれたんだ」
「そりゃあセイちゃんの才能と努力、そ」
「そう!」
言葉を途中で遮られて、トレーナーさんが続けた。
「二冠ウマ娘どころか、重賞ウマ娘になるだけでもとんでもない才能と努力の結果なんだよ」
さっきよりも声色が明るくなった。でも、それだけではない。それだけのはずがない。
「それから、それから!……トレーナーさんのおかげでもあるんですよ?」
本当はさっき言い切ってしまうつもりだった部分を急いで付け足してしまった。なんで拘束されているのかがまだ見えないけど、
「違う」
「違うってトレーナーさん、何が違うもんですか」
「違う……僕がトレーナーになって、スカイにいい影響を与えられたことなんか一度もないだろうが!」
何を言っているんだろう、トレーナーさんは。私はもう、それこそ死ぬほどトレーナーさんから色々なことを学んできたというのに。
「スカイがダービーで4着に沈んだとき、僕は残念にも思ったけど、それ以上に確信したんだよ、僕自身のトレーナーとしての能力のなさを」
「……」
確かに、スペちゃんほどはダービーに向けた調整はしていなかったし、対ダービーだけを考えたらスペちゃんのトレーナーの人よりは能力は低いのかも、とは思うけども。
「だから、京都大賞典は負けるだろうと思ってた。もちろん菊花賞も。しかもただの負けじゃなく、大敗で。僕がトレーナーに付いている限り、スカイの能力を奪い続けることになるはずだったんだよ」
「……でも、私は勝ちましたよ」
京都大賞典は偶然勝てたみたいなものだったけど。
「そう、だから僕も流石におかしいなと思ったよ」
当然だ。トレーナーさんが担当するほどに私の能力も伸びていたはずなのだから。
「スカイ、君は私がトレーナーに付いていることも意に介さず、自身の能力によって成長して、勝ったんだよ」
そんなわけない。
「そんなわけないじゃないですか、トレーナーさん。トレーナーさんがいたから、私はこんなに強くなれたんですよ? 夏とか特に、すっごく強くなってるって実感できるぐらいでしたもん」
意見とかではなくて、事実だから曲げられない。トレーナーさんが私を強くしてくれたんだし、だからこそ私はトレーナーさんに感謝してる。言葉で言うのは恥ずかしいから、さっきお昼寝する前にちらっと言ったぐらいだけど。
「そうか」
トレーナーさんの足が動いた。
「じゃあ……正しいように、しなくちゃいけないからな」
そう言ってトレーナーさんは床においてあったハンマーを取り上げた。正しいようにする?
それって、もしかして。
「トレーナーさん、そのハンマーって……」
嫌な予感がする。
「スカイ、これで君の脚を折る」
「……トレーナーさん、……っ冗談にしては、面白くないですよ」
口の中が乾く。舌が口蓋に貼り付いて、少しの間思ったように声が出せなかった。
トレーナーさんはそんな人じゃない。そんな人じゃないはずだった。でも、トレーナーさんの変な言動の筋が、私の中で通ってしまった。夏になんで走れるんだって言ってたのは、まだ私自身の能力だけで勝ってるなんていう偏狂に陥っていなかったから。走れなくなってくれ、なんて口走ってたのも、もちろん私に向けてに違いなかった。だからといって、担当ウマ娘の脚を折る、なんて。そんなわけ無いと思いたかったから、トレーナーさんの顔を見上げられなかった。トレーナーさんの足が一歩前に出た。
「……っ」
息を勢いよく引きつけてしまった。私の両足を引こうとして、がしゃっ、と音がなった。
冗談じゃない。どうしてトレーナーさんのおかげでここまで来れたのに、トレーナーさんがそれを台無しにしようとしてるのか。嫌だ、私はまだ走りたい。私はまだトレーナーさんと走りたい、やだ、やだ!
「トレーナーさん、かっ、考え直しません? ね、ねっ?」
自分の呼吸が浅くなっているのがわかる。舌がうまく回らなくて、一回噛んだ。トレーナーさんからの返事は無かった。トレーナーさんの足が私の目の前で止まった。
つい顔を上げてしまった。
トレーナーさんがハンマーを私の右足に向けて構えていた。狙いをつけている。やだ、やだ、どうして。体を動かそうにも足首は動いてくれなくて、腰も動かない。座った姿勢から逃げられない。どうして、なんで、なんでトレーナーさんは。トレーナーさんの顔は眉間にしわが山ほど寄っていて、目は真剣そのものだった。真剣そのものに、私の膝を砕こうとしていた。
声も出せなかった。トレーナーさんに砕かれるしか道は無いように思えた。トレーナーさんがハンマーを振りかぶるのが見えて、私の足がまたガチャと鳴って、私の瞼が反射的に閉じて、
どん。こん、から、
「うぅぁっ……」
トレーナーさんのうめき声が聞こえた。