コン、カラ、という音が聞こえた。地面にハンマーが落ちていた。直後にどすんと音がして、トレーナーさんの体も落ちてきた。目が合った。トレーナーさんの目から、少し涙が出ていた。
「……と、トレーな……」
何が起こったのかよくわからなくて、とりあえずトレーナーさんを呼ぼうとしたら、トレーナーさんは手のひらを見せて私を制止した。そのまま動けなかった。
「………………」
「…………
不意にトレーナーさんの顔が歪んで、目線が外れた。トレーナーさんの目線を追ってみると、赤いものが見えた。スリッパ越しのトレーナーさんの足だった。足の甲だった。
「……! トレーナーさん、血が、っ」
立とうとして、足が引っかかった。
ぶわっと鳥肌が立った。なんで一瞬でも忘れてしまったのだろう、というぐらいの恐怖の波が襲ってきた。それから、そのまま引いていった。トレーナーさんが恐ろしい人のように見えたし、今でも少しだけそう感じるけれど、足がすくむほどじゃなかった。
「……トレーナーさん、私の縄ほどいてくれませんか?」
少し声が震えてしまった。
「えっ、あっ、ああ、もちろん」
そう言ってからトレーナーさんの顔が動いて、すぐ左を向いて止まった。トレーナーさんが手を伸ばして、ハンマーがあった。
「ひ、ぁっ」
やだ、嫌、えっ?
私の目の前にハンマーが突きつけられた。突きつけられたのは柄の側だった。
「スカイが持ってて、くれないか」
「トレーナーさん、手をじゅ、自由にできないのに持てませんよ」
トレーナーさんがぱっと顔を上げた。
「そうだな、……」
足を引きずって、トレーナーさんが私の後ろに回った。赤い線が地面に引かれていた。そして、私の手が自由になった。赤い線が多分私の後ろにも引かれて、右足が、それから左足も自由になった。今度こそハンマーを渡されて、無言で受け取るしかなかった。
手元が重い。これは……どうしよう。とりあえず、足をあぐらに組んだ。特に股関節が鳴るとかもなく、さっきは何時間にも渡って私がトレーナーさんに襲いかかられていたような気がしたのに、実際には数分だったことを思い出させるようだった。
ハンマーは鈍く光を跳ね返していた。黒い部分に少しだけ、他のところよりももっとよく反射する、水濡れしたみたいな部分があった。目の焦点が自然にハンマーの奥に行って、投げ出されたトレーナーさんの足を捉えた。たぶん元は全面灰黒色だったのだろう靴下がすっかり黒くなって、縁のところだけに元の色が見えた。私はこの場で座り続ける以上になにをしたらいいのかすっかりわからなくなってしまって、もう一度ハンマーを見て、天井のライトが反射していたからそれを見上げた。眩しいのを数秒見て、視界に棒状のもやができた。視線で追って、まばたきしても消えないけど、その奥にトレーナーさんの顔があった。
「セイウンスカイ、さん」
不意をつかれて、寝てるときにそうなるみたいに、肩をビクッと跳ね上げてしまった。
「なんで僕を殴らないんですか」
「なんで、って言われても……」
本当に。トレーナーさんを殴る必要はないし、それに……でも、ハンマーで?
「……さっき、僕が……」
そこでトレーナーさんの口が止まった。
「……もしかして、ハンマーを私に渡したのって」
「それで、僕にやり返してください」
「……セイちゃんを犯罪者にするつもりですか?」
「いや、えっと、そうじゃなくて、つッ」
トレーナーさんがちょっと動いて、また戻った。ちょっとおかしかった。
「トレーナーさん」
今度は、トレーナーさんの方が聞く番。トレーナーさんが求めるなら……トレーナーさんが恐怖する番。
「ウマ娘の力でヒトを倒すのに、こんなものが要ると思う?」
下を向いていたトレーナーさんの顔が上がって、口を少し開いて、なにも喋らずに閉じた。
「そう、こんなものはいらないんですよ」
そう言って、こと、とハンマーを脇に置いた。
「でも、セイウンスカイさん、僕は……僕は、セイウンスカイさんを」
「なんですか、そのセイウンスカイさんなんて呼び名は」
「……僕はスカイを……競争ウマ娘としてのスカイを殺そうとしたんだ」
「それで?」
今はもう違ったし、
「……だから私にやり返せって言うんですか?」
「……そうだ」
結果論だけど、トレーナーさんはすんでのところで踏みとどまった。
「わがままですね、トレーナーさんは」
なのに、その上で、トレーナーさんの言葉を借りれば「殺そうとした」相手に、私に、トレーナーさんはまた要求をしている。
「……そうだな、僕はわがままだ。すまない」
トレーナーさんが、まだちょっとだけ怖かった。でも、それ以上に、
「……じーっ…………」
「……すまない」
つい口が笑ってしまう。必死に押さえつけて、変な顔になっているはずだった。トレーナーさんはすっかり地面以外に見えるものが無くなっているようだった。
「……トレーナーさん」
「……すまない」
怖いのに、トレーナーさんが何をするにも今は私次第だ、ということに奇妙な感覚を覚えて、それが愉快だった。言うなれば、私がすごく綺麗な爆発物になって、薄く切られてトレーナーさんに観察されているみたいだった。私がその気になれば、トレーナーさんをいつでも吹っ飛ばせる。けど、トレーナーさんも私を薄切りにして、油の中に漬け込んでしまえる。トレーナーさんはまずそんなことはしないだろう。それに、私も爆発する気にはならないだろう。でも、そんなことしないという確信はあるけれども、トレーナーさんはもしかしたら私を粉々にしてしまえるかもしれない。そういう気持ちだった。
「トレーナーさん」
立ち上がって、一歩だけ近づいて、トレーナーさんの目の前に膝を落とした。
「……すまっ、」
肩を突き飛ばした。当然、何も準備していなかったトレーナーさんの上体はしたたかに床に打ち付けられて、多分頭も打ったと思う。トレーナーさんの体が後ろに倒れて、どん、と音がした。
「はい、これでトレーナーさんのわがままは聞いてあげましたよ」
「すまない……ありがとう」
膝を摺りながらトレーナーさんの横に回って、顔を上から覗き込んだ。こんな顔だったっけ、と思った。
「ありがとう、スカイ。……それじゃ、すまないけど、机の上にスマホがあるから取ってくれないか」
指差した方を見ると、すぐ横に机があって、お目当てのものもあった。取って、渡す前に一つ尋ねた。
「トレーナーさん、これで何するつもりですか?」
「……救急車を呼んで、着くまでの間にたづなさん、学園長の秘書さんに電話する」
「……トレーナーさん」
出すつもりじゃなかった低い声が出て、脅すような声音になってしまった。
「私のトレーナーは続けてもらうよ」
「は?」
今度はトレーナーさんから変な声が出て、また一瞬怖いと思った。だからだった。
「…………えっと……なんですか、トレーナーさんは自分の担当ウマ娘のわがままも聞けないんですか? それもさっき自分のわがままを聞いてくれたばっかりの」
「それとこれとは」
「同じです」
押し切った。
「とにかく、救急車は呼んであげますけど、トレーナーさんがうっかりどこかに電話したりしないように、この携帯は私が預かっておきます」
そこまで言い切って、ジャージのポケットに滑らせて、私のは部屋に置いてきたことを思い出してまた取り出した。
「……どうして」
蚊の鳴くような声でトレーナーさんが言った。
「どうして、って……」
いつもの私なら、乙女の秘密がどうのとか言って間違いなく逃げただろう。これからの私もたぶんそう変わりはしない。だから、今この場で言わないと一生言えなくなる、と直感した。
「それはですね、えーと……」
でも恥ずかしいものは恥ずかしくて、顔を横にそむけてしまった。トレーナーさんから見たら意味不明に違いない。そのトレーナーさんだからこそ、今言えるかもしれない。
「その……トレーナーさん」
向き直る。トレーナーさんも真面目な顔でこちらを見た。やっぱり恥ずかしい。
「えっと……その……そう。トレーナーさん、前に私が、私にはスペちゃんやキングちゃんみたいな才能はない、って言ったじゃないですか。その私が、スペちゃんもキングちゃんも打ち破って二冠ウマ娘になれたんですよ。それがトレーナーさんのおかげ、ってことじゃ不十分ですか」
不十分に決まってるだろう。さっきトレーナーさんが何を言ったのかをすっかり忘れたウマ娘じゃなきゃ、こんな言葉を素で吐けるはずはない。案の定、トレーナーさんの表情は……ちょっと硬くなった気がする。
「……トレーナーさんには才能は無くて、全部私のおかげ、なんでしたっけ。嫌ですよ、そんなの」
私も私には才能があんまりなくて、もしかすると今のトレーナーさんじゃなくても重賞ウマ娘にはなれたかもしれないけど、二冠ウマ娘になんて。でも、どう見てもお互い様だった。
「だから、痛み分けってことにしません? トレーナーさんも私も、自分に才能は無くて相手にはある。そうお互いに思ってる、ってことをお互いに認めるんですよ」
ここまでが前座だった。ここまでは私もトレーナーさんも思ったよりかなり頑固だった、ってことを再確認しただけで、ちょっとずつ譲歩しませんか、と提案しただけだった。そんなのはまだ専属契約が続くことが前提になっているとき以外にする話じゃないし、今はその前提を聞かれている。話をそらしているのはトレーナーさんにもわかっているはずだった。話して、覚悟は決まった。
「それで、トレーナーさん。……さっきのトレーナーさんは、それはもう、すごく怖かったですよ」
「すまない……」
「……それが良かったんです」
伏せられていたトレーナーさんの目がこっちを向いた。
「私はいままで、のらりくらりとやってきたウマ娘なんですよ。不真面目で、それでいて肝心なところは要領よくやってきて、大人たちやほかのウマ娘たちをからかったりして」
またトレーナーさんのことが見られなくなってきた。
「だから、感動にしろ恐怖にしろ、ものすごく深く関わったことは……たぶん、私が覚えてる限りでは、無かったはず。……そこにトレーナーさんが割って入ってきたんですよ」
勢い任せに舌が回っていく。トレーナーさんはしたいと思っても録音できない状況だから、それだけが救いだった。もし正気に戻ってから今話していることを聞いたら、それこそ衝動的にトレーナー契約を解除してしまうかもしれない。
「結構、トレーナーさんのことは信頼してたんですよ? いえ、今でも信頼してます。だって、トレーナーさんは結局私のことを殴らなかったじゃないですか。でも、怖いものは怖くて、トレーナーさんが少し怖いままで、トレーナーさんをすごく信頼してるのに怖くて、えっと、何だっけ、その」
わかんない、わかんなくなってきてしまった。なんだろう、何を言っているんだろう。
「と、トレーナーさんは! えっと……トレーナーさんが、私の感情のバリアを破ったんですから! だからトレーナーさんが悪いんですよ! トレーナーさんが……その……」
きっと顔が真っ赤になっている。何を言っているのかがわかるようになってきて、声がしぼんでいってしまった。
「スカイ……」
「なっ、なんですかトレーナーさん!」
「本当に、専属トレーナー契約を切らなくてもいいのか?」
「……当たり前ですよ」
「……そうか」
横目にトレーナーさんの顔が見えた。恥ずかしくて、見なければよかった、と思った。トレーナーさんに背を向けて半回転したら、今度は床の血塗れが見えてぎょっとした。
「あっ、救急車」
手に持ったままのトレーナーさんのスマホを見て、電源ボタンを押してみたけどパスワードがわからなくて、結局トレーナーさんに返した。とんとんと小さな音が鳴って、
「119……はい、事故です……トレセン学園の……」
空気が、いつもどおりに戻った気がした。
「……トレーナーさん」
電話がトレーナーさんから外れて、私の顔も冷めた。
「……『感謝してるんですよ、トレーナーさん』」
後ろを向いているから、トレーナーさんの顔はわからなかった。
「私は、トレーナーさんに感謝してます。それに、トレーナーさんには才能がある、と思ってます。でも、トレーナーさんはそれを受け入れがたいし、逆もまた然りというわけです」
トレーナーさんに向き直った。予想通り、トレーナーさんの眉間に皺が寄っていた。
「だから、これを『お互いに認め』ません?」
もう、トレーナーさんとの専属契約が続くことは前提になった。救急車のサイレンが聞こえてきた。トレーナーさんの変な顔に、苦笑が滲んだ。
「……勘弁してくれ……」
声音は思ったよりもかなり優しかった。つい、笑ってしまった。