雲・つかみ放題   作:イカ爆弾

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春はいずこと

 翌日、午前10時、グラウンド。セイウンスカイの姿は見えない。昨日交わした約束……というよりは一方的な宣言だったが……は、ともかく守られなかったようだ。予想通りに。しかし、今回はそこまで落胆もない。むしろあの反応で今この場にセイウンスカイがいることを期待するなんて、ほとんど何もせずに重賞に勝てることを期待するようなものだろう。だから、私は彼女に対して努力してみることに決めた。

 セイウンスカイが唯一くれたヒント――「そんなにガツガツやるタイプじゃない」。ある側面においては、これは本当だろう。しかし、本当に怠惰ならこんな結果は出さない、と私は踏んでいる。今私の手元にあるプリントに記されているのは、過去に行われた模擬レースの結果だ。あの恐ろしい末脚を持つキングヘイローを相手にアタマ差の惜敗。キングヘイローといえば、ついこの間重賞初勝利を挙げた有力なウマ娘だ。……あの娘と同じレース場で。

 ともあれ、G3とはいえ重賞に勝利したウマ娘と競り合うことができた、ということが何を意味するのか分からないトレーナーはいない。セイウンスカイももちろん重賞に勝てるだけでなく、G1級の実力を持っている可能性がある、ということだ。「ガツガツ」とはやっていなくとも何らかの努力は確実に行っているに違いない。

 さて、私はこの場で彼女から選択肢を与えられているようなものだと思う。どこかでトレーニングを行っているであろう彼女のことを黙認するか、探し出して介入するか。もちろん介入したい。会えなければ信頼構築の望みもない。……可能性は薄いが、もしかすると気まぐれにグラウンドまで来るということもあるかもしれない。10時に集合と言ったなら、サボり気質を示す彼女のことだ、もしや10分や20分ぐらいは平気で遅刻するかもしれない。いや、30分……いっそのこと1時間ぐらい、この場で彼女を待ってからでも探しに行くのは遅くないだろう。それから……心当たりがある場所はそう多くないが、探しに行ってみよう。でも1時間ぐらいは待とう。

 どうせ来ないだろうにグラウンドで待つ時間を積み増したのは、単に探し出せなかった場合とか、探し出せても拒絶された場合とかを考えるのが怖かったからだった。

 そのまま1時間が経った。私はこれからセイウンスカイを探しに行かなければならない。そう思うと足が重い。心なしか頭も重い。当然ながら気も重い。なんとかして立ち上がって、足を1時間前に歩いてきた方へ回した。昨日彼女が寝ていたトレーナー室のソファを見てみる。いれば儲けものだ。私の知っている範囲で彼女の行きそうな場所なんて、指を3つも折らずに数え終わってしまうのだからどこであっても儲けものなのだが。

 トレーナー室に向かって歩き始めると、今度はむしろ走り出したくなってきた。できる限り速く移動して、彼女のいそうな場所を見て、彼女がいないことに安心したい。彼女が見つからないことこそが私が今トレーニング手腕を発揮しなくていいことの免罪符だ。私が知っている限りの場所を探し回っていなかったとなれば、もう形式上は私の手に負える範囲ではないということになる。そうなれば私がトレーニングしなくてもいい。そうなれば私がG1級の才能を潰すこともない。そうであってほしい。

 私のトレーナー室はトレーナー室棟1階の奥から2番目の部屋だ。トレーナー室棟と言っても本館にほど近く、本館からグラウンドまで行く道すがらにある。その建物に私は足を踏み入れ、タイル張りの廊下に石を投げたような音を響かせていく。10歩も歩かないうちに私のトレーナー室の前についてしまった。たっぷり5秒を気合を入れるのに使ってから、ドアをカステラの包み紙を剥がすようにそうっと開けた。部屋の明かりは付けられていなかった。ソファの位置をドアから伺う。……誰もいないように見える。部屋に足を入れて、ソファに誰かいれば完全に見える位置まで、まるで人類初月面歩行の第一歩みたいに踏み込んだ。

 誰もいなかった。

 どっと疲れが出てきてしまった。なんで、まずいないだろうと踏んでいたトレーナー室で、しかもやましいことをしているかのような振る舞いをしているのだろう。私は次の場所へセイウンスカイを探しに行かなければならないのに。

 次の場所は河川敷だ。彼女が持っていた釣り竿だけがヒントだった。もしここが外れれば、私は近所の猫集会所を探して回ることになる。セイウンスカイ本人を除いて誰に訊けば猫集会所の情報など手に入るのだろうか。

 このあたりで川といえば一つしかない。私が歩いて10分少々なのだから、ウマ娘が走れば私がトレーナー室棟とグラウンドを往復するときの感覚とそう違わないのだろう。それにしても、冬の河川敷は寒い。治水のため広く平たく造成された人工的な河岸段丘は、ごく一部分がちょっとした公園に造成されたり、河川敷遊歩道沿いにちょっとした樹が植えられたりしていることを除けば遮るものがない。陽射しも、冬風も、視線も。堤防の上から、学園から遠い側の川岸にあの綺麗な芦毛を見つけた。見なかったことにはできなかった。ウマ娘はヒトよりも優れた聴覚や嗅覚を備えているが、視覚についてはヒトとそう変わらない。川岸からこちらを見上げれば私はただの通行人に見えるはずだ。彼女に気づかれないうちに対岸まで橋を渡って、砂利の地面になっているところまで降りていってしまおう。それから……どうしよう。

 とりあえず見守るだけ、と考えて反対側の堤防までたどり着いた。青い双眸がこちらを向いていた。血の気が引くとはこのことを言うのか、と思った。ところが、彼女の顔はいたずらっぽい笑みを浮かべていた。

 彼女からすれば、私は不真面目なウマ娘をトレーニングに連れ戻しに来たうるさい新トレーナー、といったところだろうと思っていた。しかし私は今、口角を上げっぱなしにしている彼女に手招きされて川岸に降り立ち、彼女が釣りをする横で彼女と並んで座らされている。

 冷たい水気を含んだ風に体が冷やされていく。釣りを続けるセイウンスカイだって寒かろう。彼女にとって、寒さを忘れてやり続けられるほど釣りは楽しいものなのだろうか。私は……彼女のために、と言うと下衆なようで、彼女の信頼のために、と言うとうざったいか。とにかく、彼女と一緒にいさせてもらえることがありがたい。

 セイウンスカイが竿を振り上げた。つられてそちらを見ると、針先にはなにもかかっていなかった。

「あちゃー、ボウズだ」

不意に彼女が声を発して、そのまま水面に釣り竿を振り直した。釣り針の着水した音は聞こえなかった。水が互いを擦り合う音と、時折風のヒュッと吹く音の中に、もう声を割って入れる隙間が失われてしまったように思えて、何十秒かそのままでいた。

「……」

「……釣り、好きなのか」

言ってから、またそれが水と風に吸い込まれてしまったように感じた。たぶん10秒と少しぐらいだったはずだが、その間セイウンスカイは何も返事をしなかった。

「……トレーナーさん」

いつもの口調だった。ただ愉快そうで、その実私に失望でもしているのではないかとひやひやする口調だった。釣りが好きなことなど見ればわかるだろう、愚問だ、という返答かと思って口を開こうとしたが、彼女が先に言った。

「……お小言とか、無いんですか?」

「……言ったほうがいいか?」

「それはヤですよ」

心なしか口調が元気になってきたように思えた。

「トレーナーさん、今やってるのが終わったら帰るつもりなので、クーラーバッグ持ってもらえません?セイちゃんってば張り切っちゃってもうクッタクタで」

体力なら人間よりもウマ娘の方がよほどあるはずだし、アスリートとなればなおさらだ。まあ、荷物持ちぐらいは甘んじて受け入れよう。全くの拒絶よりはよほど良い。

「何か釣れたのか?」

「うんにゃ、ぜーんぜん」

クーラーボックスを開けてみたが、手乗りサイズの小さい魚しかいなかった。

「まだお昼前だからハゼは寝てるみたい」

「そうなのか?」

「そうそう。そこに入ってるのはブラックバスばっかりでセイちゃんがっかりですよ」

本物のブラックバスは初めて見た気がする。ゲームでは何度か見た覚えがあるが、こんなに小さい魚だったのか。それとも稚魚なのだろうか。

「リリースとかはしないのか?」

「うーん、この子外来魚だからリリースできないなんですよね」

そういうのもあるのか。それをそこで口に出し損ねてしまったからか、会話が途切れてしまった。今度は彼女の声がそこに無いことがとても不自然に思えて、川のせせらぎがとてもやかましく思えた。ただ座っていることができなくなってしまったので、立ち上がってなんとなく腕を伸ばした。上に伸びて、腕を組んで横に伸ばし、まだ時間が埋まらないので手持ち無沙汰になった。そうしていたら、突然待ち望んでいた声が飛んできた。

「トレーナーさん、いくらセイちゃんが美少女だからって挙動不審すぎじゃないです?」

「あー、申し訳ない……」

そう言うと、彼女は声を上げて笑い出した。彼女の芦毛がぴょんぴょんと動いていた。

「もう、トレーナーさん、私がせっかくいい感じに間を作って重苦しい感じの雰囲気を作ろうとしてたのに台無しにするなんて、ひどいですよ」

「申し訳ない……」

言うほど申し訳ないだろうか?言ってから全然申し訳なさを感じる必要が無いような気がしてきた。

「それでトレーナーさん、トレーナーさんは……えっと」

そこで彼女は一回咳払いをしてから、私の方を向いて言った。

「トレーナーさんはどうして私の担当になってくれたんですか?」

「えっ?」

質問を全く想定していなかったわけではない。トレーニングの意図や、私のトレーニング能力については……まあ、多少の欺瞞は含むかもしれないが……ともかく、十分に答えることができただろうと思う。

「ほら、トレーナーさんって……ええと、前のトレーナーさんからの紹介っていうのはその場にいたし知ってるんですけど、後から断ることもできるじゃないですか」

トレセン学園ではウマ娘とトレーナーのマッチングのときには両者が合意しなければならないとされている。実力のあるウマ娘にトレーナーが群がっても全員担当になれないということはざらにあるし、逆もまた然りだ。それほど極端な例を持ち出さずとも、なんとなく嫌、ぐらいの理由で断ることはできる。先輩への恩義ぐらいでは渋々受け入れる理由にはならず、つまり彼女はこんなサボり癖が知られているのに専属契約を容認したのか、ということを訊いているのだろう。

 そう訊かれると答えに窮した。先輩から紹介されたから、というのは答えになっていないし、もし本音がそうならそれはセイウンスカイではなくとも良かったはずだという意味で、これほど信用を損ねかねない答えも無いだろう。では、よくある答え……「君に才能を感じたから」はどうだろうか。一回も走る姿を見ていないのに?単純に欺瞞で、これも彼女を失望させるだろう。それならば、

「……いい目をしてるから、かな」

彼女のラピスラズリのような目は、いつ見ても綺麗だと思っている。嘘ではない。つい髪ではなく目と言ってしまった理由はわからなかった。

「えー、それって、ひーとーめーぼーれ、ってことですか?セイちゃん美少女すぎて困っちゃうなぁ」

「……いい目を、って言ったら普通は闘争心とかじゃないか?」

まだ一度も闘争心を見せてくれたことは無いけれど。そう思いながら言うと彼女は一瞬虚を突かれたような顔を見せて、すぐいつもの笑顔に戻った。

「そんなことよりトレーナーさん、釣りって興味ありません?大っきいお魚を釣れると楽しいですよ」

突然調子よく彼女が喋りだしたので少し面食らってしまった。釣り……そういえば、もともとアウトドア趣味はあんまり持っていなかった。釣りにもそんなに興味は無いのだが、これを機に趣味にしたほうがいいかもしれない。

「そりゃそうだろう」

大きい魚が釣れれば楽しい、というのは素人考えには釣りをする唯一の動機に見える。

「ちっちっち、そこがそうでもないんですなートレーナーさん。大っきい魚が釣れればって言っても、ただ川に釣り糸を垂らしたら釣果アリ!ってわけでもなくて。この時期に釣れる魚とその動き方、そこからわかる釣りやすいポイント探し、釣り上げるための竿の振り方とか……ともかく、いろいろと考えて。それで備えに備えた準備がぴーったりとはまって、大っきな魚が釣れた!ってときが最高なんですよ」

間延びした口調に似合わず、身構えていたよりもずっと大きな情報量をぶつけられた。彼女は一見ダウナーなように見えたが、少なくとも釣りに関しては相当の熱意があるらしい。

「もしかして、川のこっち側で釣ってたのもポイント、だっけ?を探してたからか?」

釣り糸を垂らすだけなら学園に近い方でもいいはずだ。それをわざわざ向かい岸側でやるというのなら相応の理由があるのだろう、と思って尋ねた。

「そうそう。ここは流れが少しゆるやかで、そこの岩で影ができてたからね。魚にとっては隠れてお昼寝するのに最適なスポットってわけです。それでこの時間になると影が動いてお目覚め、そこを釣り上げる……ってつもりだったんだけど、今日はハズレの日だね」

「釣り、本当に好きなんだな」

「にゃはは。……それじゃ、セイちゃんの釣り講座はこのへんでおひらき!私は帰って猫ちゃんを――」

「なあ、セイウンスカイ」

先輩からいつも逃げ果たせていた娘だ、聡い娘なのだろう。普通はずる賢い、と形容するが。私が本題に入ろうとしていたところの空気を察してか彼女はもう逃げの姿勢に入っていた。私はそれを言葉で差す。

「……レースも、同じだと思ってみないか?」

 

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