雲・つかみ放題   作:イカ爆弾

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惜しげにもあるか

 レースの後、私とセイウンスカイは揃ってトレーナー室まで戻った。いくらトレセン学園が広いとはいえ、グラウンドからトレーナー室棟まで歩いて5分もかからないような帰り道の空気がいつもよりも澄んでいるように感じた。私がやる必要のあることははっきりした。私は担当を降りるべきだ。一度才能を潰してしまった過ちを繰り返すことだけは避けなければいけない。そのことが頭のほとんど全てを占めて、トレーナー室のドアに手をかけたところで我に返った。ずんずんと歩いてきてしまったはずだからセイウンスカイは、と思ってまた頭を真っ白にして振り返ると、振り向いた顔の目と鼻の先に彼女がいたので驚いて飛び退いてしまった。

「もう、何やってるんですか、トレーナーさん」

彼女がくすくすと笑って、暗い室内ではすっかり灰色に見える彼女の耳がぽんぽんと揺れているのが見えた。

 彼女を私の担当のままにしておくことはできない。全然彼女は悪くなく、ただ私が耐えられないだけなのだ。白磁の大器を突然腕の中に渡されて、じろじろとそれを見て、あまつさえ絵柄を描きこむこともできるとでも言われているような気分だった。絵柄はもちろん失敗するだろうし、目線を注げばそこから腐り落ちてしまうかのように思え、そうでなくともそう遠くないうちに器は手から滑り落ちて粉々になってしまうのだろう、と思えて仕方がなかった。

 扉を開けて、さてどうこれを切り出したものか、と思いながら椅子に座ると、ソファに直行するものだとばかり思っていたセイウンスカイが机の前まで来た。彼女がトレーナー室まで来る必要は全く無いと言えば嘘になるが、これまでの彼女の自由奔放さを考えれば精々昼寝でもしに来たぐらいだろう、と思っていた。

「トレーナーさん。この間見せてもらったトレーニングプラン、見せてもらえません?」

返答に困ってしまって、少しの間あー、とかうーん、とか唸っていた。

 私にとって模擬レース前のウォーミングアップやレースでの走りが彼女の肢体の躍動を見ることができた最初の機会だったから、最初に考えた無難にすぎるトレーニング案は変更される必要がある。そう説明して、ひとまずのところは彼女を追い返すことができた。彼女はレースで疲れたのか、昼寝もせずに、彼女にしてはやたらと素直に帰っていった。

 うっかりと、新しい案は明日また来てくれたら見せられるだろう、と口走ってしまったから明日も会うと口約束を作ってしまった。だから、私はすぐに新しいトレーニング案を作り上げるか、あるいは何も作らないで私の力不足を伝えるかのどちらかを選ぶことができた。当然、後者を選ぶべきだった。

 私は新しいトレーニング案を作ってしまった。とりあえず彼女から承認があることに喜んで、もしや前の娘のことは不運だっただけかもしれない、私もトレセンのトレーナーとして十分にウマ娘たちを活躍させることができるのだろう、と舞い上がっていろいろと案を作ってしまった。

 朝になり、目覚ましが私をまどろみから叩き出してすぐに私の過ちに気がついた。幸いトレーナー室の鍵はトレーナーのわたしが持っていて、正しいものに改めるよりも先にセイウンスカイに見られるなんてことはない。

 まだ6時を回るかという時間帯で、しかも下り方向の電車なのにこの路線は少し混む。憂鬱な気分で立ち呆けているのも苦痛で、なんとなく普段は聞かないのに音楽などを聞くためのを道具を持ってくれば良かった、と思った。

 学園に着いてまっすぐにトレーナー室へ向かった。机の上のファイルの中に昨日プリントアウトまでしておいた紙が入っている。数枚をまとめて取り出して、一番上以外を戻したはずが2枚残り、まあいいかと思って重なったまま上からボールペンで書き足した。不要な部分に打ち消し線を引き、空白部分に書き足す。そのまま燃やしてしまうような度胸が無くて、私の凡才で彼女を殺さないための変更で満足した。ほとんど自主トレのみのような案ができた。

 とりあえずやるべきことが終わると眠気が襲ってきた。そういえば今日は朝のコーヒーを飲んでいなかったような気がする。都合よく、この部屋には昼寝のできるソファがあった。目を閉じればすぐに眠れそうだったから、部屋の鍵もかけずに、目覚ましもセットせずに寝てしまった。ソファには青い毛が一本付いていたのが見えた。

 夢の中でセイウンスカイが走っていた。見事な走りで、あの7冠王にも勝てるんじゃないかと思えるほどだった。この走りをトレーナーとして手に入れられるなんて、そんな幸運あってもいいのだろうか、と思っていたら彼女が目の前までやってきて、はい、となにかを手渡してきた。魚と包丁だった。彼女は、期待してますからね、と言ってどこかに消えてしまった。私も手元を見ると、魚がいつの間にかなくなっていて、包丁は脇差になっていた。そうするべきだと思ったのでそれを自分の腹に突き刺してみると、豆腐かなにかを切るみたいに抵抗なく、痛みもなく皮膚が割けていった。饅頭を割ったみたいに、中は見えるのに何もこぼれてこなかった。脇差がなにかに当たったので、腕を突っ込んで掘り出してみると、柄の無い鋤のような形をした骨が出てきた。面白かったので両手で持ってみると、それはするすると銃身の長い銃に変形していって、引き金はなかったけど撃とうと思えば撃てるのだとわかった。振り向いてみるとちょっと離れたところに私がいたので撃ってみると、弾は命中して頬に当たった。銃を撃つ機会などなかったので当たって喜んでいると、気づいたら向こうにいた私はセイウンスカイになっていて、彼女の頬から血が流れているのを見て銃を取り落とすと、私は銃と一緒に地面の支えを失ってどこかへ落ちていってしまい、そこで目が覚めた。

 跳ね起きた。日はまだあまり高くなっていなく、時間を見るとまだ30分ぐらいしか経っていなかったようだった。1時間目が始まって少し経っているはずだ。今来ていなければ、セイウンスカイも放課後まで現れないのだろう。なんとなく、すこし安全地帯の中に入れたような気がした。

 教官としての仕事がなければ、普通の教員として採用されているわけでもなかったので、今やるべきことはほとんどなかった。自然、考えることはセイウンスカイのことになった。彼女の走りは素晴らしいものだ。過去のウマ娘のデータと比べれば、あるいはそのペース配分を検討してみれば、それよりか昨日のことを思い返してみるだけで、その才能を汚損してしまうことにひどく恐怖を感じて、しかし専属トレーナーの地位という錦の御旗を手放すことができないとも感じていた。エゴ駆動のデッドロックだった。

「やあトレーナーさん、かわいいセイちゃんがやってきましたよー、っと」

放課後になり、セイウンスカイがやってきた。欲しいものはこれだろ、と無言でペンのやたらと入ったトレーニング案を渡すと、彼女は最初の方はしげしげと紙を眺めていたが、すぐに興味をなくしたような顔をした。

「トレーナーさん、前のプランの方にしてもらえません?」

「なっ……なんで?」

突然何を言い出したのか、一瞬理解を拒んだ。

「いや、前のプランそのままじゃだめだ。あれは君の走りが全くわかってなかったときに作られたプランだったし、何より……」

「はーいはい、何でもいいけどセイちゃんがお昼寝してる間にちゃんとしたプランをお願いしますよ」

そう言って彼女はぽすんと体をソファに横たえた。

「待ってくれ、新しい方の案は……何が嫌なんだ?自分で言うのもなんだが、かなり上手くできた案だと思う。……君の輝きを、曇らせない案だ」

「……トレーナーさん、もしかしてこのソファ、使いました?」

話を逸らされた。ヒントなしで解けということか。ソファは……自分では特段嫌な臭いには気づかなかったので何もしなかったが、やはり消臭したほうが良かったか。ウマ娘の嗅覚は人間のそれよりも何倍も強いらしいが、実感する機会はあまりない。

「私は、トレーナーさんがトレーナーさんじゃないとだめだから」

「えっ?」

彼女はすぅすぅと寝息を立て始めてしまった。耳を見ればわかるが狸寝入りだ。トレーナーがトレーナーでなければだめ。禅問答じみた問いに聞こえた。どういう意味か解説するつもりはなさそうだ。わからない。

 狸寝入りでも、セイウンスカイが気持ちよさそうに寝ているのを見ると私まで眠くなってきた。時として寝たほうが良い思考ができることもある。今がそうだろうと思って、息を吐いて机に突っ伏した。ソファの方からギギ、と音がした。

 目が覚めると、すぐそこにセイウンスカイが立っていた。私が起きたことに気づくと、彼女はうひゃっ、と小さく声を上げて跳び退いた。悪戯でもされていたのか、されかけていたのか。

「セイちゃんがお昼寝してる間に、って言ったのにトレーナーさんまでお昼寝しちゃうとは。私の眠気フィールドづくりも年季が入ってきましたかね?」

そう言われて寝る前のことを思い出した。そういえば、トレーニングプランを修正する必要があった。

「とりあえずでいいので、どんなトレーニングをするかを教えてもらえません?」

「……もしかしてトレーニングしたい?」

「トレーナーさんがどーしても、って言うならしてあげなくもないかな。私は釣りとかお昼寝とかに忙しいですからね」

少しは私を信頼してくれるようになったらしい。トレーナーとしての信頼はありがたいはずなのに、今はそれが自分で許容できなくて複雑な気持ちだった。

 トレーニングは日が落ちれば終わりにすることが多い。ナイターの本番様の練習や、日が落ちても残ってトレーニングをするというウマ娘のためにグラウンドにもナイター設備は整えられているが、単純に暗くなると事故の危険が増すことからあまり推奨されていない。まだ冬のこの時期は日光が消えると寒さが地を這って出てくることもあり、多くのウマ娘が逃げるようにグラウンドから去っていく。私とセイウンスカイもその例に漏れなかった。私は彼女を寮の前まで見送ってからトレーナー室に戻った。別れ際、彼女のいつも通りのにやけた顔が少し柔らかくなっていたような気がした。

 トレーナー室に戻ると、机の上にトレーニングプランを置き去りにしていたことにすぐに気づいた。彼女が拒否したプランだ。何が不服だったのだろうと思って読むと、今度はすぐにわかった。『トレーナーがトレーナーでなければだめ』の意味も見れば合点が行く。こんなプランは自主トレに形式的にトレーナーが付いているようなものだ。自由を尊んで彼女の才能を汚さない、と言えば聞こえは良いが、実質的には職務放棄をしようとしていたらしい。そんなものが拒否されないはずがなかった。

 

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