トレーナー室にはちょっとした調理設備がある。本当にちょっとしたもので、コンロが一口に狭いシンクが付いているだけのものだ。まな板を渡さなければ野菜を切るのもおぼつかないが、私の昼飯を作るぐらいには事足りる。セイウンスカイはキングヘイローたちと一緒に昼寝を始めてしまったので、私は先にトレーナー室に戻って昼食をとることにしたのだった。トレーナーとしては担当ウマ娘のことを理解してやりたいが……さすがにウマ娘総お昼寝計画なんてものは……ちょっと、厳しい。まあどうせすぐに頓挫するか気分が変わるかするだろう、と思ってとりあえず放置でいいかと思ってはいる。
戸棚に置いておいたインスタントラーメン、コンビニで買ったもやし、それからカット野菜。本当は肉もあったほうが気分は上がるが冷蔵設備が無いから置いておけないし、何より調理も面倒だ。鍋に全部突っ込んで、付属の調味粉末をかけるだけで完成。特別美味しくは無いが、いつもの味だ。わざわざこんなものを作らずともトレーナー室棟を出てちょっと歩けばウマ娘たちも使うカフェテリアがあるが、いつもそのちょっとした距離に面倒を感じてトレーナー室で完結させてしまおう、と思ってしまっていた。
寒くなってくるとやはり温かいものが恋しくなる。冬来たりなば春遠からじとは言うが、カレンダーはまだ暦上は冬の入り口だということを主張していた。今日は11月28日だ。
日付を見るとどうしてもセイウンスカイのことが脳裏に浮かぶ。彼女はトゥインクルシリーズに登録していたにもかかわらず、おそらく素行不良を理由としてだろう、まだメイクデビューもしていなかった。じゃじゃウマっぷりに手を焼いた先輩がついに手綱を手放して、体感的にはとっくに冬というような時期になってから私のもとにやってきたのだった。
彼女の走り方は分かった。速さも分かった。もうメイクデビューして遅れを取らないか、なんてものは杞憂に過ぎないことを分からせてくれた。ならもうレースに出させるよりほかに彼女を輝かせられる道があるだろうか?
直近で出られるメイクデビューのレースは……本当に直近なら、明日の日曜日のレースがある。それは流石に無理だ。ある程度調整をすることも考えると、年明けてすぐが良さそうだ。メイクデビューで勝って、その後のOPでも勝つ。条件戦なんてすっ飛ばしていけるという確信がある。その後すぐに弥生賞が待っている。あの脚でクラシック路線に進まないなんてのは嘘だ。私とは違う、あの才気溢れる脚があれば、それこそ今年でなければ三冠バの最有力候補の座は揺るぎなかっただろうし、スペシャルウィークなどのライバルを目にしてさえ、私の中ではセイウンスカイがクラシックの冠を頂く姿がありありと浮かぶ。トライアルが終われば、次は皐月賞。その次はダービー。夏が明ければ何か重賞に出てから菊花賞だ。その後は……有馬記念も、あるいは。
午後2時を過ぎたあたりでセイウンスカイがやってきた、もしくは帰ってきた。
「ひどいじゃないですかトレーナーさん、美少女の連絡先を手に入れておいて既読の一つも付けないだなんて」
開口一番に責められて面食らっていると、
「ほら、はやく確認して」
と急かされ、メッセージアプリを開くと昼前までは見当たらなかった会話相手がいた。メッセージは6分前と表示されていた。「もどるよ」とだけあった。
「そうか……」
「うん、私は戻りました!」
「そっか……」
そうではなくて。
「とりあえずトレーニング案が出来たからさ、説明がてら読み合わせでもやろうよ」
さっきまで昼寝していたのだろうから、トレーナー室に来たのも昼寝のためでは無いだろう。彼女の気分屋が閉店しないうちにさっさと押し切ってしまうことにした。
とりあえず一通りの説明を終わらせた。セイウンスカイはなんとも言えないような表情をしている。
「気になるところがあれば何でも言ってくれていいぞ」
「うーん、なんというか……トレーナーさん、これ本気でやる気あります?」
無い。正直に言うと半分以上すっぽかされる前提で作っている。それに、彼女が「本気で」と言ったのは、おそらくトレーニングメニューがかなり基礎に寄っていることを指してのことでもあるだろう。やっぱり彼女の輝きをトレーニングを通して潰してしまうのではないかという観念から解放されたと言えば嘘になるし、基礎偏重なのはそういった理由もある。しかし彼女なら、ということで意図的に説明を減らした部分を1箇所作っていた。セイウンスカイは敏い娘だ。きっと気づいていることだろう。
「あるさ。確固たる基礎の上にしか才能は開花できないからな」
完全な嘘ではなかったが、本音でもない。あとは彼女が食いついてくるかどうかだった。
セイウンスカイの両耳はせわしなく動いている。左右が同期しないような動き方だったが、あくまで表情は飄々としたままだ。私はノートPCの画面から目を上げて、彼女の目を見た。彼女は一瞬眉根を強張らせたように見えた。
「質問が無いならこのへんで終わるけど、どう?」
画面にもう一度目線をやって、次の動きの準備をした。もし食いついてこないようだったら、忘れていたていで話すつもりだった。
「トレーナーさん待った。この『作戦会議!』ってとこ、説明しますよね?」
内心のガッツポーズに留めるつもりがうっかり口角を思い切り上げてしまった。
「うわ、性格わるーい」
とセイウンスカイが声を漏らした。彼女の表情はあまり変わらなかったが、耳の動きは収まっていた。
それからのトレーニングはまずまず順調だった。気まぐれなように見えて、彼女の闘志とそれに裏打ちされた脚は本物だ。だから、基本は彼女のやりたいようにやらせるのが一番良かった。すると、トレーナーの仕事はもうほとんどなくなる……ように見えて、実はまだ9割ぐらい残っている。彼女のモチベーションを引き出すこと、彼女に故障を起こさせないこと、彼女のトレーニングの効果を最大化すること、そして、彼女のトレーニングに助言――指示や命令ではなく、あくまで助言――をすること。こう並べてみれば、ほとんどやるべきことは減っていない。そして何よりありがたいことに、トレーニングに助言をすることを除けば、私がやる必要のあることはほとんどすべて当然やらねばならないことだった。私が足を踏み外しさえしなければ、彼女の光に雲を被せることもない。そう思えるだけで幾分か気が楽だった。
モチベーションを引き出すことは、トレーニングをやりたいようにやらせている限りではぜんぜん難しいものではない。引き出すと言っても毎日トレーニングさせることが目的であるわけでもないし、遅刻させないようにしようというわけでもなければ、興味の無い分野の勉強をさせようというわけでもない。もっと速く、もっと勝てる走りを追求するという志も共有している。だから、ちょっとした煽りを重ねることでもっと走らせたくする、というだけで十分だった。『作戦会議!』とはそういうものをやるミーティングを彼女が興味を惹くだろう名称にしたものだ。それを毎日やって、煽りの中に問題点の指摘を含め、同時に成果を嫌々認める風をする。天の邪鬼な彼女もこれなら満足してくれることだろう。下手にご褒美で釣るよりよっぽど効果的だ。
トレーナーは普通、指導するウマ娘が複数であってもウマ娘のトレーニング中はその一挙手一投足を見るものだ。故障の兆候を見落としたら、なんて思うと私は怖くなって、むしろその足の動き、腕の振り、体幹の傾きなどから目を離すことはできなくなってしまう。セイウンスカイの場合は特に、なにか問題があっても伝えてくれなかったり、あるいは表情も飄々として、何か伝えられるべきだったはずのものはすぐ風のように過ぎ去って行ったりするきらいがある。完全な信用は得られていないということだろう。親友や恋人というわけでも無いのだから、まあ当たり前といえば当たり前なのだが。
問題点があるとすれば、彼女の芦毛がスパートに入ってふわっと流れていく姿などはあまりにも惚れ惚れとするようで、つい本当に見るべき足の動きなどを見落としそうになってしまうことがあるぐらいだ。彼女の才能が損なわれかねないことにおののくことと、彼女の才能が形を得たかのような美しさに目を奪われること、両方とも本心だった。
後者の言い訳をすると、練習中の姿を見ることはトレーニング効率の上昇にもつながる、とも言える。問題点の指摘の準備、トレーニングのちょっとした助言のための確認なども練習中の姿を見ることを通してしかできない。もしや熟練のトレーナーさん方なら歩く姿を見るだけで百を言い当ててしまうのかもしれないが、少なくとも私にはできない。だから穴が空くほどその走りを見る。走るセイウンスカイを見続けながら手元を見ずにメモを取るので、手元のタブレットに書かれた文字がまるで自殺した草書体のようになってしまい判読不可能になることもしばしばあった。セイウンスカイが走り終わったところを見つけて、可能な限りを覚えているうちに書き直しをする。今日はちょっと書き直す必要のある文量が多く、ようやく正し終わって顔を上げると彼女の顔がこっちを向いていたのが見えた。さも「なんで見ててくれなかったんですか」とでも言っているかのような表情に見えた。いい走りだった、の意味を込めて親指を上げて返すと、彼女はそのまま走りに戻っていった。
日が暮れてセイウンスカイの練習が終わっても、私の仕事まで終わることはほとんどない。列挙すれば、明日の練習前の『作戦会議!』の準備、消耗品管理、練習場整備、といったところだろうか。ほかに細々した申請書類の準備などがあるが、一番つまらないので正直やりたくないし、なるべく避けている。
消耗品管理といえばもっぱら靴と蹄鉄だ。レースをするウマ娘に限らず、すべての陸上競技者にとって靴の重要性は言うまでもない。ウマ娘の場合は高速で走るから、足や靴を保護するための蹄鉄も消耗品に加わり、蹄鉄が摩耗してくれるおかげで人間の陸上競技者よりは靴の消費がやや少ないと言われている。蹄鉄にもいくつか種類があり、安い鋼の練習用蹄鉄、軽いが高いアルミ合金のレース用蹄鉄、最近はそれらの性質を組み合わせたハイブリッド型の蹄鉄もある。レース用と練習用の靴は違うのだから蹄鉄も別々の靴につけておけばいいだろうとも思ったのだが、そうは言っても蹄鉄の重さが同じというだけで走りの感覚の矯正の必要が減るらしく、最近はハイブリッドを好むウマ娘も増えている。セイウンスカイもそうだ。履きつぶした靴、摩耗しきった蹄鉄はトレーナーが処分する。申請すればトレセン指定の靴や蹄鉄もほとんどタダみたいな額で買えるのだが、セイウンスカイはこだわりがあるのか、私に申請してくれと言ってきたことはなかった。
練習場整備はもっぱらチップの敷き直しだ。毎日多くのウマ娘たちが使う練習場に芝を生やしつづけておこうとするのは無理がある。もし練習場がターフなら、そこはウマ娘たちの強靭な脚力で土があっという間に掘り返され、いつの間にやらやわらかダートに早変わりしてしまっていることだろう。なので、練習用コースは芝ではなく、しかしダートコースでは芝の練習になりにくいので、ウッドチップを敷き詰めて芝のようにすることで練習環境が整備されている。練習後はだいたい内側が浅く、外側に向けて厚くチップが積もるからこれを均すのが主な仕事だ。トレーナー持ち回りで、学園長が自腹で買ったと噂の大きな機械を使ってやっていく。つい先日この当番が来たので、私の番はしばらくは来ない。大きな機械をブロロロと動かすのはなかなか楽しく、また当番が来る日を待ち遠しく感じるほどだった。
そうして日々が重ねられていった。来ない日、2時間の大遅刻をする日、30分の遅刻で来たがそのまま昼寝に入って結局何もしなかった日、昼寝が広まりすぎて生徒会が禁止令を出した日、それを無視して普通に昼寝をしていた日。思い返せば様々なバリエーションのサボりを目にした。それでも彼女の走りは明らかに良くなった。その成果が今日、このメイクデビューのレースで発揮されるのだ。
あの娘、私が3年もの間担当し、ついに私があの娘の才能を摘み取ってしまったことが明らかになった娘――あの娘も、メイクデビューの段階では3バ身差の大勝利を挙げていた。才能があれば、燦然たる才能があれば。トゥインクルシリーズの蠱毒の中でも格下を蹴散らせる、圧倒的な才能があればこそ、私はその輝きに目を焼かれる定めなのだろう。目を焼かれて、盲目になって、身の丈に合わないウマ娘の指導をする役をして……。
どうしても、レースの前は気が滅入る。セイウンスカイが負けることなど、全く想像もつかない。彼女なら勝てる。勝てないなんておかしい。でも、もし負けてしまったら?もし、私が彼女の足を折るような真似をしていたとしたら?
「……リラ~ックスですよ、トレーナーさん」
声に気づいて視線を向けると、少し不満げな表情のセイウンスカイがいた。
「大事な大事な、こーんなに可愛い担当ウマ娘のメイクデビューで、私のことを見てくれてないなんて……私はとんでもないトレーナーさんに担当させられちゃったんだ、しくしく……」
わざとらしい嘘泣きを見せられて、つい顔をほころばせてしてしまった。そうだ。私が今心配しても、できることは変わらない。
「すまなかった。……レース、がんばれ」
「あーあ、今トレーナーさんがちゃんと見ててくれなかったからやる気下がっちゃったなー、トレーナーさんがもっとちゃんとどうにかフォローしてくれないとレース負けちゃうかもなー」
「ふふっ」
あんまりにも嘘みたいな言い方が面白くて、つい声が出てしまった。どうやらできることはまだあったらしい。
「ごめんごめん、何してほしい?」
「何してほしいと思います?」
「えぇー……、えっと『スカイ、君なら絶対に勝てる。私が保証する。頑張れ!』」
できる限り、自分の思うかっこいい声を作って、彼女に即席のセリフを向けてみたが、
「なにそれ」
不評ッ!不慣れなことは慎むように!
「トレーナーさんは、私の頭でも撫でとけばいいんですよ」
少しの間固まってしまった。普通に考えて、ただの一介のトレーナーに、乙女の命と呼ばれることもあるその髪を気安く触らせるだろうか。そんなわけはないので、ならばその発言の意味は、と考えると……『気遣いが下手』あたりだろうか。下手な気遣いなら直接的な方がいくらかマシ、とかそのあたりか。
「トレーナーさん?おーい、トレーナーさんやーい」
数秒固まってから考えるためにさらに数秒動かずにいたので、傍目には突然十何秒も止まっていたように見えただろう。セイウンスカイが私の前で何か変な動きをしていた。それがまた目に入って、つい笑ってしまった。
「そうだ、手を出してみて。……ああいや、そうじゃなくて掌をこっちに向ける感じで立てて」
セイウンスカイの手は存外に小さいのだな、と思った。あまり日に焼けない掌は顔や腕よりも白さを増して見えた。私に手相の心得でもあれば、と思った。
「メイクデビュー、ファイト!」
私はそう言って、パンと音を鳴らしてハイタッチをした。セイウンスカイは一瞬驚いたような顔をして、すぐに好戦的な目つきに変わった。控室を出る時間になった。