中山レース場、バ場稍重、天気は曇り、芝1600m。メイクデビューのレースがやってきた。セイウンスカイの脚がG1級であることは、私にとってはもはや覆しがたい圧倒的な事実になっている。それでも本番は初めてだから、出走前のこの時間にはなんとなく、もしや彼女がフルパワーを発揮できないのではとか、もしや進路妨害などしてしまうのではないかとか、余計な心配が浮かぶものかと思っていた。出走を待つこの瞬間、高揚感が身を包むこの瞬間にそんな杞憂の浮かぶはずが無かった。
出走時刻15分前。もう彼女はパドックに入っている。彼女はパドック内を所在なさげにふらふらと歩いていて、いかにもレース慣れしていない緊張した新人といった風だ。だが、彼女に限ってメイクデビューだからと緊張しているとなんてことは無いだろう。ただ、この時期……年の瀬の、本格化が始まってすぐにメイクデビューを果たしたウマ娘ならホープフルSなどが待っているこの時期にメイクデビューをするウマ娘たちにはそれなりの事情がある。それぞれのウマ娘なりに、いろいろな形で経験を積んでいるのだ。もしかしたらあそこで自分の足首を見つめるウマ娘は足首の怪我でデビュー時期がずれこんだのかもしれない。あの見るからに血気盛んなウマ娘は気性難でこのメイクデビューになったのだろう。関係者席からウマ娘たちを見ていると、彼女らにも様々な歴史があるのだろうと思わずにはいられなかった。もちろん、セイウンスカイもだ。
彼女に目線をやると、私が目をやったことに気がついたのか、やる気無さげな表情のままこちらを向いて親指を開いたピースサインをしてきた。そして、彼女が手を下ろす瞬間、ずっと気怠げだった彼女の表情が、一瞬牙をむいたようになった風に見えた。次の瞬間にはもう眉を八の字にして困っているような表情になっていたので、もしかしたら見間違いだったのかもしれない。それでもこれで革新できた。セイウンスカイが誰よりも速く走って、勝つ。
出走2分前。ゲート入りが進む。セイウンスカイは大外、8枠16番での出走だった。大外になれば、内側よりも長い距離を走るコース取りを余儀なくされるから普通は不利になる。だが彼女は普通ではない。スタミナさえあれば、大外ほどコース取りのしやすい位置もない。そして彼女にはスタミナがあったし、コース取りの技術もあった。どのウマ娘よりも前に出て、逃げ切るだけ。そうすれば勝てる。なんて容易いのだろうと思った。
各ウマ娘がゲートインして、レースが始まった。セイウンスカイも遅れず飛び出していく。彼女の体が前へ前へと押し出されていく。集団のペースを無視してもっと前へ。前へ!大外から出たのに、第2コーナーを回ったころには彼女はその青白い髪をなびかせて先頭に立っていた。
彼女に釣られてしまったのか、何人かのウマ娘がセイウンスカイのペースを追ってきた。セイウンスカイから1バ身離れて2人が競って来ている。確か1番人気の娘と3番人気の娘だったはずだ。そのさらに半バ身後ろにもう1人。2番人気の娘だった。セイウンスカイほどの実力を持ったウマ娘を3番人気にも入れないなんて、メイクデビューを見に来るほどのウマ娘ファンでも随分と節穴なものだ、と思っていた。きっと今もただ掛かりに掛かって暴走しているだけだと思っているのだろう。そんなウマ娘にしてやられるとは露ほどにも思わずに!
第3コーナーを回る頃には、ついさっきまで1バ身しかなかった差がじわりじわりと開きはじめてきた。セイウンスカイのペースに付いてこられるウマ娘などそうはいない。人気上位といえどもメイクデビュー、レースの感覚がまだ掴めていなかったのだろう。セイウンスカイの無茶な速度に巻き込まれ、第4コーナーも回らずにいっぱいになってしまっていた。しかしセイウンスカイはまだ走る。まだ加速する。第4コーナーを回り、ついに独走状態になった。
最後の直線に入って、セイウンスカイのペースを無視していたウマ娘たちの差しが始まった。沈んでいく人気上位のウマ娘たちと、それを追い越してぐんぐんと伸びるウマ娘たち。そこだけを見れば、なるほどセイウンスカイもじきに沈んで差されてしまうのだろうと思われた。実際は大きく違った。ここまで力を温存していたウマ娘たちがどんどんと加速していくのに、セイウンスカイとの差は縮まっていかなかった。バ身差が縮まらないどころか離れていく。3バ身差を超えて、まだ開いていく!
たとえ最後の1ハロンが見せられなくとも、ここまでの走りを見てセイウンスカイの勝利を疑う観客はいなかっただろう。圧倒的な速さを見せつけて、セイウンスカイは見事1着でゴールインした。掲示板を見ると、バ身差の欄には「6」の文字が輝いていた。
セイウンスカイは客席へすこしファンサービスをした後、すぐにウイニングライブの準備へ行ってしまった。G1ともなれば夕方にレースしてとっぷり日が沈んでからライブ、などという贅沢な時間の使い方をするものだが、今回はメイクデビューだ。レースとライブに充てられた時間はそう多くなく、次のレースが始まるまでにライブまで終えてしまわなければいけなかった。ぞろぞろとステージ客席まで移動する観客の波――といってもそんな大した人数はいないが――に乗って、私も会場まで移動した。
メイクデビューのライブといえばぎこちなく、拙く、場合によってはダンスをまったく把握していなかったために棒立ちをしてしまう娘もいるような、有り体に言えば歌と踊りを期待する場ではないようなところという認識だった。実際セイウンスカイにダンスレッスンをさせた記憶はなかったし、勝つと確信していたけれども、まあそんなに必要は無かろう、と思っていた。だから彼女もダンスの形を追えれば御の字だろう、と思っていたところ、なぜかかなり滑らかに踊ってみせた。私が笑顔になったのは彼女の闘争心の豊富さを感じたことによるもので、きっと彼女の踊りに魅せられたからではないだろう、きっと。
正午を少し回ってからという早い時間のレースだったので、レースが終わってウイニングライブが終わってもまだ一日はぜんぜん終わらないくらいの時間だった。しかし、そもそもレースに勝ったその日にやることなど祝勝会とビデオの確認ぐらいしかない。トレーニングなんかして故障でも起こしたら大惨事だ。向こう数日は休んでもらわねばならない。それに、勝ったのに褒めの一つもせずにトレーニング、トレーニングと急かすのはやる気をかなり削ぐ。少なくとも私はそうされたら嫌だし、彼女もそうだろう。だから、トレーナー室を会場にちょっとしたお祝いをすることにした。セイウンスカイに何か食べたいものはと聞いてみると、
「うーん、キャビアとか、トリュフとか?」
などとのたまったので寿司の出前をとることにした。世界三大珍味には及ばずとも、ちょっとだけお高いやつだ。
「……でも、ちょっと豪華なだけの『作戦会議』じゃん」
とは、うちのお姫様のお言葉。今日の薄曇りの空のような尻尾を揺らしながら、耳もご機嫌そうにぴんと立って見えるのは目の錯覚かもしれない。
「確かに飾り付けも無いし、特別な部分といえば寿司ぐらいに見える。だけどね、一番大きな違いは僕がおめでとう、と心から」
「はいはい、セイちゃんのことをお祝いしたくなっちゃうのはわかりますけどそのへんで。それよりも、『作戦会議』、したほうが良いんじゃないですか?」
彼女の耳はぴっちりと前を向いて、尻尾はずいぶんと暴れていた。言葉の上では飄々としていても、レースの興奮は彼女を衝き動かしているようだった。
次のレースはオープン級だ。重賞に勝ったウマ娘がごろごろいるトレセン学園ではオープンですら格下に見られているが、競争ウマ娘全体で見ればオープンに出走できたウマ娘ですら全体の3%しかいない。ほとんどの娘は条件戦止まりだ。それどころか一度でも勝てれば相当恵まれている方で、十度走っても二十度走っても未勝利戦においてすら勝てないウマ娘もいる。そして、競争ウマ娘全体でみればそれが当たり前なのだ。
その上で、条件戦をすっ飛ばしてオープンに直接乗り込んで、しかも勝つ。2月に入る前に世間に「セイウンスカイはクラシックロードに出なければならないウマ娘だ」と分からせる。それが次のオープンに出走する目的だった。
セイウンスカイにはローテーションは予め伝えてあったが、次のレースとその目的、そこで取るべき戦略などは詳しく共有しておく必要がある。伝えるのは早ければ早いほど良かったのだが、流石にまだ1勝もしていないのにクラシック路線のことを伝えるのは画餅というものだ。そこで伝えられる一番早いタイミングが今だった。そういった理由から、彼女にとってはいつもの『作戦会議』よりも随分とつまらないものをやっていたことになるのだろう。空になった寿司桶の上に言葉を飛ばし、ふと手元のタブレットから目線を上げると、彼女はいかにも「眠くてもう私倒れちゃいそうです」と言わんばかりの顔をしていた。あれだけ台風の日の薄野原のようにばっさばっさと振られていた尻尾がもう微風にそよいでいるかのようになっていた。
「ごめんな、レース当日で疲れたろうにいろいろと話までして」
「ほんとですよ、トレーナーさん……」
「眠くちゃ何話しても頭に入らないだろうし、続きはまたこんどにしようか」
「それでお願い……」
彼女はふわ~ぁと大あくびをして、座っていた椅子から立ち上がってトレーナー室のドアの方を向き、またあくびをした。
「今日のレースの録画ビデオの確認は……明日でいいよな」
次に彼女が来てくれる日だけは捕まえておこうと思って、半分独り言のような、半分は問いかけのような言い方をした。すると、セイウンスカイの足がピタッと止まってこちらにずかずかと歩いてきた。
「面白いことは今日やるに限る。トレーナーさん、ちゃっちゃとビデオの準備してください」
驚いて顔を上げると、目を爛々と輝かせたセイウンスカイの顔があった。
「そんなに今日のレースは楽しかったのか」
「レースならいつでも楽しいもんですよ」
また彼女の尻尾がモーターでも仕込まれたみたいに跳ね回っていた。
メイクデビューが終わり、トレセン学園の生徒らは冬休みに突入していた。トレーナーは学校の教諭ではないので特に冬休み中にやっておくべき仕事というものは無く、降っても地面で溶けてしまう雪につまらなさと安堵を同時に感じたり、餅を伸ばしたりして過ごしていた。これだけならトレセン学園に来てからの3年のいつもどおりの年の瀬だったが、今年はそれに加えてときおりセイウンスカイがトレーナー室に来ていた。なんでわざわざ、と一度聞いてみたところ、
「だって、寮の部屋は暖房を付けるか消すかしかできないから。ひどいと思いませんかトレーナーさん、こんな美少女がいるのにお部屋をあったかくしておくこともできないだなんて」
と言っていた。確かにトレーナー室は暖房の温度設定もできるが、そのためだけにトレーナー室に来るとはなんとも暇なウマ娘だな、と思った。芦毛の猫がソファの上で丸くなっていた。
自分がほぼサボっているような風なのに担当ウマ娘には走れと言うのはなんとなく気が引けて、ついでに言えば寒いので、日がな一日私はトレーナー室に引きこもったりしていた。ウマ娘を走らせれば自動的に私の仕事が発生することが嫌だったのかもしれない。去年までなら、あの娘は真面目だったからあの娘に付き合おうと思えばいくらでもできたし、実際していた。今年は……どうだろうか。あまり罪悪感を覚えずに済んでいるのは、視界の中にサボりの権化みたいなウマ娘がいるからかもしれない。
「……もし走るんなら、トレーナーとしては付き合うよ」
寝ているセイウンスカイに向かって、自分に対するアリバイ作りをした。寝言でも返事は無かった。