日本ダービー、正式には東京優駿というレースの歴史は戦前にまで遡る。日本ウマ娘に携わる全ての者たちが目指す高みであり、日本に於いて競技ウマ娘として登録されている約5000のウマ娘たちの頂点に立つレースと言われている。ウマ娘にとっては出場機会は平等に一生に一度。その舞台に立つ18人でさえ氷山の一角、その頂点の氷粒だ。そんなダービーに俺は大本命と期待されているウマ娘のトレーナーとして参加することとなる。
かく言う俺はというと、このレースに執念のようなものがあるかと聞かれれば無いと答えてしまう。当然GIレースなのだから勝てるに越したことはないし、とても光栄なことではあるのだけれど、東京2400mはジャパンカップもあるし、グランプリのように人気投票で選ばれるというわけでもない。歴史の古さを言うのなら天皇賞もある。通常のGIレースと同じように獲得賞金やトライアルレースの結果によって出走権を得る。特別感が感じられないというのが素直な感想であった。
それに近年のダービーウマ娘というのはイマイチ成功できていないという印象がどうしても拭えない。昨年のダービーウマ娘は期待できそうではあったが早々に怪我をして引退した。その他にはジャングルポケットがクラシック級のうちにジャパンカップを勝っただとか、二冠ウマ娘のネオユニヴァースが勝ちきれないレースの後に大阪杯で勝っただとか、最近のダービーウマ娘の活躍といったらそれぐらいしか思いつかない。
2400mはディープインパクトにとって初めての距離、東京の左回りも初めて、と何もかもが未知の舞台だ。まぁそんなことは他のウマ娘にも当てはまるのだろうが、そんな初めて尽くしであっても彼女が負けるビジョンは見えない。俺は恐らくダービートレーナーになるだろう。その結果、どれだけのウマ娘を、そしてそのトレーナーに、彼らを応援する幾人の人に苦渋を嘗めさせることになるのだろうか。ここへきて皐月賞に挑む前のディープの気持ちをようやく理解することになった。
しかしディープインパクトは、俺たちはこのレースに勝たなければならない。どんな人気だろうが境遇だろうが、勝負であるからには全力で叩き潰す。天皇賞・春でのソウルシャウトの走りを見て、改めて実感させられた。
ディープの方も天皇賞・春以来、まるで人が変わったように貪欲にトレーニングに励んでいる。相変わらず俺の指示に対して意見する、みたいなことはないがトレーニングの中で最大限の効果が得られるよう自分自身で模索している。それに口を出すようなことはしない。
「調子はどうだい?」
「・・・・・・はい?」
低く、渋く、それでいて鋭く突き刺さるしゃがれた声。自分に向けられた言葉だと認識するのに少しの間が空く。と言うのもこうして俺に話しかけてくるトレーナーはあまりいないのだ。
ディープインパクトの功績を担当トレーナーである俺の能力によるものと勘違いする者は少なくない。能力のある者は往々にして腫れ物に触れるような扱いを受けることを能力も無いのに身をもって知る羽目となった。
しかし俺に投げかけられた言葉からはそういった嫌みを感じられない。こんな風に俺に話しかけてくる人、それもトレーナーというのは本当に珍しかった。
老年というには若すぎる、かといって中年辺りというにはどうにも味わい深い。いい意味で年齢がわからない。清潔感のあるスーツ、白髪が多く混じって灰色に見える髪をかきあげているヘアスタイルは洒脱な印象を受ける。酸いも甘いも味わってきたナイスミドルという感じだ。だがそんな人物であったとしても突然話しかけられたとなっては警戒せざるを得ない。
「ディープインパクトのことでしたら、まぁ、いい感じだと思います。ルームメイトのレースで励まされたようですし」
「それなら何よりだね」
俺の方には目もくれず、ターフの上のディープインパクトをただ見つめるその男の横顔には見覚えがあった。確か一昨年のジャパンカップ、衝撃的な逃げ切り勝ちを収めたタップダンスシチー、そのトレーナーだった。勝ち方が勝ち方なだけにその当時の俺はレース動画を何度も見返した。レースだけでなくレース後のインタビューも今後の参考として見た。というのもその当時はトレーナー試験の勉強に勤しんでいる最中の時期で、そういった動画からも自分の糧にしようと必死だった。そしてそのときの動画に出ていたのが、まさに今俺の隣にいる男であっだ。
「君は才能という言葉は好きかな?」
「好きではないですね」
いきなりなんなんだ、そんな抗議の言葉は一旦飲み込んで話の続きを待つことにした。
「なるほど。理由を聞いてもいいかな?」
「理由・・・・・・その人のしてきた努力を否定するみたいだなって思って。いろんな分野で活躍する人をみんな天才だとか言ったりしてますけど、それってその人が努力もしないで才能だけでのし上がったみたいに聞こえるんです」
「そうだなぁ。そういう意見もあるなあ」
才能という言葉を使うのは往々にして努力を知らない者であるということ、こう思うようになったのは割と小さい頃、小学校の頃だ。テストで100点しか取らないような奴がいた。俺も含めて周りは彼を天才だと囃し立てた。しかし彼は俺がよく遊んでいた公園の近くにある学習塾に毎日のように通って、そして俺や友達が遊び疲れて、空が暗くなっても塾から出てこなかった。
彼にとってそれが幸せだったのか、もしくは大人になった今、彼が幸せなのかはわからないだろうし、正直どうでもいい。ただひとつ言えるのは彼のテストの点は才能よりも努力によって掴んだ実力であるということ。でも彼のそれを才能ではなく努力だと認めてしまったら矛先が自分に向く。疎かにしている自身の現状から目を背けたくて人は「才能」という言葉を口にするのだ。
「あの、失礼ですが、どなたでしょうか?」
「おっと、失敬」
そう言って初老の男は流麗な仕草から名刺を差し出してきた。一方の俺はというとディープのトレーニングの最中だったので名刺を持っていなかった。
「しまった」と思ったが、無いものは仕方がない。親子くらい歳が離れていそうだから相手が寛容になってくれるのに期待するしかない。それでも一応は探す素振りをする。
「すみません、今持ってなくて」
「いや、いいんだ。トレーニング中に押しかけたのは此方だからね。それに君のことはもう知っているんだよ。ディープインパクトのトレーナーは有名じゃないか」
「そんな」
「私は君とダービーで戦う者だよ。ソルフィエスタのトレーナーとしてね」
名刺にあった男の名前は俺の記憶に相違ないものだった。新人の俺なんかよりずっと知られた名前だ。しかし俺は彼の口から出てきたそのウマ娘をよく知らなかった。
ソルフィエスタ、誰だったかなと少し考える。そしてソウルシャウトと共にディープをつけ回したときにギターを持って歌っていたウマ娘のことを思い出した。目の前の男が彼女のトレーナーであるならば、彼がここに来たのは当然に敵情視察の類いに違いない。
今回の日本ダービーは誰が勝つかというよりかは寧ろ「ディープインパクトかそれ以外か」という評価に固まりつつある。どの陣営にとっても結局勝ちたいのなら彼女は超えなければならない壁だ。だからなのかダービーが目前になった今、敵情視察とか、下手をすれば新人の俺に何かを言ってくるだとか、そういう手合いも珍しくはなかった。
「あぁ、京都新聞杯の・・・・・・」
「そうそう」
ソウルシャウトのときのように神戸新聞杯と間違えたりはしない。今年の京都新聞杯、そのウマ娘はスタートでもたついて最後方に控えた。だがコーナーからの猛烈な追い込みでハナ差の勝負を制した。まさにディープインパクトのようなレースをするウマ娘である。あれが件のソルフィエスタであったか。
「改めてどうだい。ディープインパクトの方は?」
「というと?」
「勝てると思うかい?日本ダービー」
あのジャパンカップのインタビューのときとはまるで違う。眼光というか凄みというか。あれはカメラの向こう側にいる観客に向けてのもの。だが今のこれは生で、真っ向から敵を見ているという感じ。
「勝てると思いますよ。トレーナーが自分の担当を信じなくてどうするんです」
俺がそう応えると彼は「それならよかった」と満足げに微笑み、視線を俺から再びコースの方へと移した。
「君はダービーというレースをどう思う?」
「どう思う、というと・・・・・・」
「あのレースにはどんな意味があると思う?」
相手は俺よりずっと先輩なのだから嘘でも特別だ、とか、目標である、とか言った方が良いかとも思った。でもなぜかこの人に嘘を言ってもすぐに見破られるような気がした。
「三冠レースの一つというだけだと思っています。レースとしてのレベルとしてはシニア級のそれの方が上だと思いますし、正直なぜあんなに皆がありがたがる理由がよくわからないです」
「なるほどね。それもまた一つだ」
そう言うと男は俺の肩をぽんぽんと馴れ馴れしく叩いて踵を返す。そして「参考になったよ」とだけ残してその場を去った。
━
天皇賞・春で敗れたアタシが一番最初にしたこと、それはふて寝であった。そんなだからソウルシャウトは大一番で勝ち切れないのだと言われれば、それは全くもって返す言葉も無いのだけれど、レースが終わってから暫くは疲れが取れなかったのだ。
3200mという慣れない長距離とそれに向けたスタミナ増強のためのトレーニングメニューによる身体的な疲労というのも当然あった。だがそれより俄然、精神的というか頭の疲れが半端ではなかった。アタシがこれまで経験してきたのは長くてもせいぜい二分ほどのレース。しかし今回の天皇賞は三分強。思考する時間が一分近く増えたことになる。一分程度どうってことないと思われるかもしれないが、疲労というのは一次関数ではなく二次関数のように蓄積していく。位置取りや他のウマ娘からの圧力、レースの進め方など考えることがたくさんある中でのレースで一分はとても大きい数字だと分かった。
ここまでは一応の理由、聞かれたときに答える建前だ。ふて寝をしたもう一つの理由にして真の意図。それは単純に恥ずかしかったからだ。
トレーナーにはあんな感じでカッコつけて、結局負けて、たまたま見かけたプイちゃんにあたかもエールを贈るみたいなあの動作。しかもあれは天皇賞・春という衆人環視の下であった。あの行為が今となってどうしようもなく恥ずかしいものと感じるようになってしまった。
恐る恐ると言った感じでネットの検索欄に【ソウルシャウト】と入力してみる。所謂エゴサーチをかけてみてもその行為に関して何か言われているような感じはない。逆に賞賛だとか次のレースへの応援みたいな内容ばかりでアタシは少し辟易としてしまう。いっそ思い切りこき下ろしてくれた方が気持ちが楽だったのに、と。
「ただいま」
ぎい、というドアの音とほぼ同時にその声は降ってきた。穏やかなそれとは対照的にどきりと心臓が弾む。アタシがさっきまで考えていた黒歴史のようなものが実感となって襲いかかってくる。それに耐え切れずベットの中に潜り込む。今の自分を見せたくないと思ったのだ。
「・・・・・・おかえり」
「まだ疲れが取れてないんですね・・・・・・。してほしいことがあったら遠慮しないで言ってください」
布団の中で発生した声は当然布団に反射されて、いつもより自分の声がよく聞こえた。それに対してプイちゃんは心配そうな声を出すが、それも布団越しなのでくぐもって聞こえる。恐らく耳を垂らして心配そうな顔をしているのだろうが見ることはできない。アタシより小さい体躯でずっと優れている後輩の前では自分というものがどんなに不甲斐ないものかを目の当たりにするのは嫌だった。
「プイちゃんさ」
「はい?」
相変わらずあたしは布団を被ったままなのでプイちゃんの様子を見ることはできない。だけど恐らく彼女は素直だから、今からどんなことを言われるかを考えてるんだろうな。
彼女のそんな振る舞いは同室の先輩としてはとても可愛らしいものだ。だが、いずれ同じレースを走ることになったらと考えると、それはとても恐ろしいもののように思えてならなかった。
「今度ダービー出るんだよね」
「そうです」
「そっか」
頭上に隕石が落ちてくるような可能性だったけど、ほんの少しだけ「出ませんよ」と言ってくれるのを期待した自分がいた。
「これは仮定の話だから軽く聞き流してもらいたいんだけどさ」
「はい」
「アタシがプイちゃんにダービーに出ないでほしいって言ったらどうする?」
「出ません」
自己満足のための質問だった。しかし彼女は一切の躊躇も、ほんの少しの逡巡を挟むことなく私の願ったままの答えを即答してみせた。その意味を今更わからないほど鈍感ではない。だから「どうして?」だなんて野暮な質問はしないことにした。
だがアタシの方はどうだろうか。アタシがもしプイちゃんと同じ立場にあったとして、日本ウマ娘の頂点に立てるかもしれないとして、誰かに言われたからってダービーウマ娘になれるチャンスを蹴るだろうか。そう考えるとまた恥ずかしくなってきた。
「これは本当に冗談だから忘れてほしい」
「じゃあやめるのやめますね」
「うん」
━
お初にお目にかかる、というわけではないけど、せめて久しぶりとでも言っておこうか。ボクはソルフィエスタ。現在のウマ娘レースにおいて最も注目されていると言っても過言ではないディープインパクト、そのクラスメイトにして、彼女に挑む無謀な挑戦者だ。
本当は皐月賞からクラシック戦線で彼女と戦いたいところだったんだけど、勝ち上がるのに時間をがかかって日本ダービーからの参戦という形になっちゃった。でもどちらにせよダービーには出場したいし、というか一番の目標だ。それに間に合ったんだから問題はないよね。
というのもスペ先輩と同じタイトルを獲得するという野望はあったんだけど、その前に同期にして同じくスペ先輩派のヴァイオラがボクに先んじて、ボクを差し置いて、この世代のティアラ路線の頂点、あのオークスを勝利した上に海外遠征まで計画しているという。では自分もトレーナーさんにわがままを言った形で、どうにか京都新聞杯を勝ち、こうにかダービーへの出走が決まったというわけだ。
「フィエスタ! 頑張ってね」
「応援してるから!」
「私、ディープよりもフィエスタに勝ってほしい!」
みな口々にこのような言葉を口にする。ボクへの期待の言葉、励ましの言葉ばかりだ。だけどどうしてか、そんな言葉たちがボクの不安を煽っているように感じられた。
雪解け水を人肌で暖かくしたような生ぬるい優しさがボクの耳を突き刺す。だけどそれは悪意ではなく間違いなく善意によるものだということを忘れちゃいけないね。だからいつもこう答えるんだ。
「ありがとう! きっと期待に沿う走りをしてみせるよ!」
こんな気分だと、ギターを弾いてもインスピレーションが湧いてこない。いいフレーズも浮かんでこない。レースへのイメージも良いものになってくれない。
チームの部室に一人、私物としてスタンドに立ててあったアコースティックギターの弦をじゃららんと爪弾く。
「緊張してんのかなぁ・・・・・・」
「やぁ」
低くしゃがれた声がドアが開く音と共に優しく響く。ボクが独りごちたのとトレーナーが部室に入ってくるのが同時だった。聞かれてないよね・・・・・・?
「わわ!」
「どうしたんだい? 様子がおかしいじゃないか」
「だ、大丈夫」
「最近ちょっと元気がなさそうじゃないか。ギターもしばらく聞いてないしなぁ。たまには聞きたいなぁ」
ボクとトレーナーが初めて会ったのはトレーニング中でもなく、模擬レースでもなく、なんでもない日。ボクがギターを弾いていたところ声をかけられた。あまり評判の良くないボクの歌やギターを気に入ったと言って、走りも見ないうちにチームにスカウトされた。
「どうだった?」
「ん?」
トレーナーは首を傾げる。結構いい歳いってるくせに、ふとしたときに見せる仕草がいちいち可愛いのだ。
「ディープのトレーニング見に行ったんだよね。どう思った?」
そう聞くとトレーナーは白髪の混じった頭に手を置いて「そうだなぁ」と呟く。まるで何を言うべきかを考えているみたいだ。
祈るような気持ちでその質問をした。頼むから「思ったほど大したことはなかった」とか「君ならあの子にきっと勝てる」だとか、そのような言葉がトレーナーの口から出てくれないだろうかと、そんなことで頭がいっぱいだった。
「なんだか不思議な子たちだったよ」
「たち?」
「あぁ、ディープインパクトのトレーナーのことも含めてさ。トレーナーの方と話もしたよ」
ディープインパクトのトレーナー。その人は新人も新人、一番最初の担当ウマ娘が無敗で皐月賞を制したという究極にラッキーな男。話に聞くにはそんな感じだったけどテレビに出てきたときには何の当たり障りのないことばかりを言っていた。
彼自身は地味で普通。少なくとも力のないウマ娘を、それも短期間で無敗の皐月賞ウマ娘にまで引き上げるような力は無く、今の活躍もあくまでディープインパクト自身の力によるところが大きいとそう思っていたんだけど。
私がらしくもなく頭で考えて、脳から煙が出んとばかりだった様子だったらしく、トレーナーはボクを気遣うような言葉をかけてきた。
「ディープインパクトのトレーナーどうこうは僕がいうべきじゃなかった。すまないね」
「どういうこと?」
「彼と戦うべきなのは君じゃなくて僕の方なのさ」
相手がどんなウマ娘か、どんな作戦をとってくるかを考え、適切にトレーニングを行い、相手に勝利するための策を練るのはトレーナーとしてはメインの仕事になってくる。
「トレーナー・・・・・・」
「もちろん君にはその分ディープインパクトと戦ってもらうけどね。彼女は手強いよ」
「うん」
「大丈夫、あの作戦なら、いやフィエスタならきっと勝てる」
ボクのトレーナーは今では白髪の混じった頭が真っ黒だった頃からトレーナーをしていると聞いた。そしてトレーナーはその中で日本ダービーを獲っていない。
スペ先輩とのこともそうだけど、こっちの方が重要かも知れない。日本ダービーを勝ちたい、彼をダービートレーナーにしてあげたい。でもそう考えれば考えるほど、鹿毛の色をした暗闇が一層濃くなっていく。
━
5月29日、日本ダービーの、まさにその日。アタシはルームメイトの後輩ちゃんの晴れ舞台を見ずに済まそうとしていた。
そんなことをしていたのは多分、彼女がいよいよダービーまで勝ってしまえばアタシの可愛い後輩じゃなくなってしまうのがわかりきっていたからだ。
皐月賞を無敗で制したあの子と、良くてGIでの善戦止まりの自分とでは既に天と地ほどの差があるのはわかっていた。だけど去年の『死のダービー』とまで言わうれたあのレースを取りこぼしたアタシにとってプイちゃんがダービーウマ娘となってしまうのは、これはどうしようもなくアタシと彼女との明らかな違いになってしまうと思ったのだ。
〜♫
「・・・・・・」
誰とも連絡を取りたくなくて放置していたスマホがブルブルと震える。大方トレーナーだ。一緒にダービーに行くって約束してたのに、今日になってドタキャンの連絡を入れたままでほったらかしにしてしまっていた。
せめて謝罪の言葉だけでも言っておこうと点けた画面には予想とは違う文字列が並んでいた。
【ディープインパクト】
「プイちゃん・・・・・・」
考えられる中で今一番話をしたくない相手。その文字を認識して瞬きもしないうちに額から汗が滲み出てくる。
だというのにアタシの指はまるで強い磁石が引きつけ合うように、応答ボタンに吸い寄せられる。
「・・・・・・はい」
『シャウト先輩、今大丈夫ですか?』
彼女の声はいつもと同じように聞こえる。でもその声色は興奮に染まっているように感じた。これから始まる一生に一度の大舞台。数々のライバルたちとの戦い。その当事者となれば胸が躍らないはずがない。
「それはこっちの台詞。もうすぐレースなんでしょ。大丈夫なの?」
『それはそうなんですけど・・・・・・』
電話の向こう側では素直な彼女らしくもなく言い淀んでいた。しかしそれは長くは続かず、彼女は再び話し始めた。
『シャウト先輩はダービーを前にして、どんな気持ちでしたか?』
「え」
想定の埒外からの一撃。範囲外から範囲内へと踏み込むような質問が、何の前触れも、文脈もなしに突きつけられた。
『いえ、ダービーってやっぱり大舞台ですよね。そのときの心構えみたいなのが知りたくて・・・・・・』
「ダービーの前のことか・・・・・・」
アタシの運命を決定づけたと言っても過言ではないあのレース。多くの同期をトレセン学園の校門から見送ることになってしまった忌まわしき「死のダービー」。
いつまでもあのレースで負けた後のことを考えていた。そして決まって、いなくなった仲間やライバルのことを思い出して奮起しようとする。やっぱり勝てなくて、それでまたダービーで負けたときのことを思い出す。
小さい頃から走るのが好きで、そのための努力も苦しくなかったのに、いつからか良いこと2割で嫌なこと8割。良いことが続いてもそれを上回る嫌なことが続いて簡単に塗り潰される。
「楽しみで、しょーーーがなかった」
それでも口をついて出た言葉は誤魔化せない。
『やっぱり』
『そうですよね。私もそれでいいんですよね』
「それ以外何がいるっての。最高の舞台に最高の役者が揃ったんだ。プイちゃんは楽しんでいけばいいんだよ」
『ありがとうございます』
通話が切れるとアタシは部屋着を脱ぎ捨て、制服に着替えていた。
スカートのファスナーを上げ、留め具をかけると髪を整えもせずウマ娘用のローファーを履き、部屋を飛び出す。
━
アタシが間違っていた。このレースは何がなんでも自分の目に焼き付けなければならないものだった。
公道のウマ娘専用レーンを制服のままで走る。ここを走っているトレセン学園の生徒は基本的に学園指定のジャージを着ているのでアタシは周りから奇怪な目で見られていることだろう。だがそんな視線は流れる視界には入ってこない。
幸いトレセン学園と東京レース場は同じURAの施設であるため近距離にある。走って10分もしないうちにレース場の歓声が耳に、最寄りの駅の出口からレース場に傾れ込む多くの人が目に入ってきた。
「くそっ」
もうレースが始まってしまうのではないか、その焦りがアタシの頭を乗っ取る。急いで、しかし危ないので早歩きでその人混みの中に入り込む。
冷静に考えればレースが始まるにはまだ時間が早いし、レース直前であるならば 駅から人が入っていくということは少ないはずだ。だというのにアタシはもうすぐレースが始まるのではないかという誤解をしてしまっていた。
結果、足元のタイルの溝に足を取られ、アタシの身体は地面に叩きつけられる。
「っ・・・・・・」
足の方は問題ない。だが胸部を強く打ち付けたことで呼吸ができなくなる。
「っ!・・・・・・かっぁ!」
衝撃からか肺がゾウにでも踏まれているかのような圧迫感が消えない。まずいまずいまずい。助けを求めようにも声が出ない。側から見ればアタシはただ蹲っているだけなので「ヤバいウマ娘が道端に転がっている」くらいにしか捉えられていないんだ。
「失礼」
喉で押しつぶしたような低い声。アタシの耳には聞き覚えがなかったけど、その声の主は間違いなくアタシのすぐ近くにいた。
その柔らかい目元が少し動いただけで、声も出せないアタシの状況を理解したようだった。
「大丈夫、寝た状態でいいから膝を立ててごらん」
「落ち着いて、ゆっくり呼吸だ」
白髪は多く混じっているけど顔は若々しい。40か50、もしかしたら60くらいかも知れない。そんな広い範囲にしかおおよその年齢を絞ることしかできなかったその声の通りにする。
すると胸のつかえのような、強張りのようなものが消え、肺に空気を入れられるようになった。確認するようにすー、はー、と何度も深呼吸をすると彼は安心したように笑った。
「転んだようだが脚の方は大丈夫かな?」
「そ、それは大丈夫。あの、ありがとう」
「それならよかった」
彼の手に引っ張られ立ち上がると彼とアタシとの身長にそこまでの差がなかった。同じだけの体積なのに詰まっているものは全然違うと思った。
「おや、今更で申し訳ないが君はソウルシャウトじゃないか」
「アタシのこと知ってるんだ・・・・・・」
「中央でトレーナーとして食べてるからね。だがそれに関係なく君は十分有名だよ。何せ去年のダービー2着だからね」
「はは・・・・・・」
人混みの真ん中でのやりとりであったので彼に促され歩きながら話すことにした。中央のトレーナーであるということにはあまり突っ込まない。言われてみればトレセン学園でも見覚えがないわけでもなかった気がする。曖昧だが。
「今年のクラシック戦線で注目しているのは誰かな?」
「まぁ、やっぱりプイ・・・・・・ディープインパクトかな。というか三冠ウマ娘を確実視されてるくらいだからみんなそうなんじゃないの? アタシの場合ルームメイトだからその贔屓もあるけど」
「それもそうか」
そう言われても隣の彼は一切穏やかな表情を崩すことはない。
「中央のトレーナーって言ってたよね。今日はディープインパクトのデータ収集かなにか?」
「いや、うちのチームの子が出走するのさ。ソルフィエスタというんだが」
「あ・・・・・・」
彼からすればアタシの発言は無神経なものだったかもしれない、そう考えるとやってしまったという後悔が後から後から湧き出してくる。
「えっと、それじゃ、その子のとこに行ってあげた方が・・・・・・」
「ディープインパクトに勝つための方法を全て教えてきたんだ。僕があの子にしてあげられることはもう何もない。だからスタンドで暇してたんだ。そこに向こうのほうでウマ娘が苦しそうにしてたのを見かけてね」
「あの子に、勝つ方法・・・・・・」
「おっと、あまり口を滑らせるものじゃないな。詳しく聞きたければ僕のチームに入ってからだよ」
もちろんこれはジョークだろう。数少ない例外はあれど、トレセン学園において基本的にチームの移籍はあり得ない。相手方のトレーナーとそのウマ娘が強い希望を持ち、担当トレーナーがそれを許可するという行程が必要な中でそれらの条件を全て満たす例が極端に少ないのだ。
かく言うアタシも今のトレーナーを気に入っている。何度も通じないっつってんのにフランス語で話しかけたりするところはたまにイラッとくるけど、それでもアタシ達のために頑張ってくれてる。そんな彼にアタシがGIタイトルをあげたいんだ。
「君はどうして見にきたんだい? この日本ダービーを」
「え」
「君にとってこのレースはどんな意味がある?」
何の事情も知らないであろう彼の言葉が、まるで神様からの言葉に聞こえた。「覚悟を決めろ」という言葉に。
「これからどんな子と戦えるのか、それを見に来た」
彼は目尻に皺を寄せて、アタシの回答に満足げに頷いた。そして、この場所にいる者全員の総意のような言葉を告げた。
「ダービーへようこそ」
━
アタシはソルフィエスタのトレーナーとスタンド席にいた。本当は関係者席で人混みに揉まれることもなく見ることもできるが、アタシはこの人でごった返す場所に身を置くことがレース観戦の醍醐味だと思っている。彼もそれには同意のようだった。
既にゲート前には出走ウマ娘たちがファンファーレを待っている。その中には当然ディープインパクトもいて、彼の担当であるソルフィエスタもいた。
「聞きたいんだけど」
「ん」
「アタシにダービーがどんな意味があるか聞いたよね」
「そうだね」
「そう言うアンタはどうなの? この日本ダービーにどんな思いをかけてるの?」
会って間もない、それもトレーナー相手にいつもの癖でアンタ呼ばわりをしてしまったが、隣の彼はそのことに気づいてもいなさそうに「そうだなぁ」と言って顎をさする。
「どんな思いというよりかは願いなんだ。このレースに勝ちたいって」
「願い?」
「確かに同じ条件で、もっとレベルが高いレースだってある。でもダービーは一回しか出れないんだ」
それまで余裕のあった声色が大きく変化することはなかったけど、少しだけ彼自身の感情に揺れているようだった。
「僕はトレーナーを続けてる限り、何回でも挑戦できる。でもあの子たちは違う。ダービーで勝てないどころか、出ることすら叶わずにその資格を失う子が山ほどいる。僕はそんな子達をたくさん見てきた」
彼はそこまで言うと「君の境遇が恵まれてるって言いたいわけじゃないよ」と慌てて付け足したが、アタシは「わかってる」と続きを促した。
赤い旗を持ったスターターが昇降機に立ち、ゆっくりと上がっていく。レース場のボルテージは最高潮になっても、彼の声はよく聞こえた。
「だから僕は勝たせたい。日本ダービーに勝ちたい。あの子たちの一人残らず、無駄な努力をしてきたんじゃなかったと大声で言いたいんだ」
スターターが赤い旗を振り、音楽隊がファンファーレの生演奏を行う。いつもはゲート付近にいるから実感しづらかったが、大観衆による手拍子は地響きにも似た迫力だった。
『最初の頂点から数十年、さぁ72代目の誕生を共に見守っていきましょう。スタンドを訪れた13万人、ファンの気持ちは一つです』
場内アナウンスと同時にターフビジョンに映されたのはアタシのルームメイトだった。
━
『──今、大欅を過ぎたところでディープインパクトは前へ前へと取りついていきました!』
「来た!」
その小さくも力強い鹿毛が第4コーナーを前に大外に持ち出す。ここから大捲りを決めるのがプイちゃんの必勝パターン。皐月賞と違って東京レース場は直線が500m以上と長い。
『直線コースに向いてディープ、早くも先頭馬を捉える形に入っています!』
しかしそんな状況に抗うように最内から一人脚を伸ばす。南米あたりの民族衣装のような勝負服のウマ娘、ソルフィエスタ。前走の追い込みから一転、今日は前めの方でロスなくレースを進めてきた。
一騎打ちのような形になり観客スタンドはさらなる熱狂に包まれる。いよいよ決着だと。
「・・・・・・ディープインパクトの持つ切れ味も、ロングスパートも、そこで勝負しようとしたら敵わない。多分、今日本にいるウマ娘では無理だ。君も含めてね」
この熱狂を作り出しているソルフィエスタのトレーナーが語り始める。今から話そうとしていることはアタシがチームに入ってからではなかったのか。
「そんなウマ娘に勝つためにはどうすればいいか、簡単な話だよ。最初から最後まで彼女の前にいればいい。そのためのスタミナも、レースの進め方も鍛えてきた」
最後の坂に差し掛かる。2000m近くを走った後のコンディションで最後に待ち受けるのは高低差2mというまさに心臓破り。ソルフィエスタの顔も苦悶に歪むが、脚を進めるのをやめない。
『最後の坂にかかって内の方でソルフィエスタが頑張っている!』
彼女だけではない。皆同じ思いでこのレースに挑んでいる。この一生に一度の大舞台で勝ちたい、日本ダービーで勝ちたいと。
しかし、
『だが、早くも! 早くも! ディープインパクトが先頭に立つ!』
その鹿毛はその思いも全て置き去りにする。
内ラチ沿いにいるソルフィエスタとバ場の真ん中あたりを駆けるディープインパクトは並ぶ間もなく、一完歩を刻むごとに差が開いていく。
『さぁディープ!ディープ!上がってきているのはディープインパクト! ソルフィエスタ2番手!』
『大勢全く変わらない!』
『このスピード! そしてこの強さ!』
『ついに決めた! ミホノブルボン以来の無敗の二冠ウマ娘誕生! そして秋の京都へ衝撃は引き継がれます!』
2:23.3。これはまさしく去年のダービーでアタシが見た数字そのまま。あの子が選手生命を削ってまで叩き出したレコードだった。
━
「行かなくていいの?」
アタシは隣の彼に問いかける。ソルフィエスタは2着という惜しい着順ながら、圧倒的な力を見せつけられて負けた。ちょうど去年のアタシと同じ状況だ。
「今はそっとしておくよ。これから帰ったらあの子と一緒に分析だからね」
「ダメ!」
去年のアタシはあの子に負けてから、かなり精神的に参っていた。もっと仕掛けるのが早かったらとか、そもそもトレーニングが足りなかったんだとか、どうしようもないことばかりが頭をぐるぐる回ってどうにかなりそうだった。
でもアタシのトレーナーは何も言わずに近くにいてくれた。アタシのどうにもできない後悔も全部受け止めてくれた。
「今あの子かなりキツい状況のはずだよ。アタシがそうだったんだ。だから一緒にいてあげるだけでいいから、行ってあげてよ」
「・・・・・・それもそうだね」
彼はそう言うと地面に置いていた荷物を持ってその場を後にしようとする。
「最後に聞いておきたいんだが」
「ん?」
「君はディープインパクトとルームメイトと言ってたね。彼女とは今後どう付き合ってくつもりかい?」
「それを聞いてどうするの?」
「いや、単なる興味だよ。忘れてくれ。・・・・・・今日は楽しかった。学園で会えたらよろしく」
「こちらこそ」
ここまで言うと彼はこの場を後にする。その後もアタシは彼に言われたことを反芻していた。アタシとプイちゃんは今後どうなっていくのか。倒すべき敵なのか、親愛なる同居人なのか。
━
私の今日の勝利でみんなが喜んでくれた、彼も喜んでくれた。とても嬉しいけどなんだか色んな人と話していたから今日は少し疲れてしまった。
しかし自分の部屋、シャウト先輩が待っているであろう部屋の前で私はノブに手を掛けることを躊躇ってしまう。ダービー前の先輩の言葉がよぎる。もしかしたらダービーで何かあったから私に「出てほしくない」みたいなことを言ったのかもしれない。
そんなことはないと思いつつもあの先輩が自分の勝利を喜んでくれないんじゃないかと思っている。だがどちらにしてもこのドアは開けなきゃいけない。意を決してノブを捻ると、
パン。パパン。
「プイちゃん! 日本ダービー制覇おめでとー!」
クラッカーを手に持ち、パーティグッズの三角帽と鼻メガネを付けた先輩がそこにはいた。先輩の背後には大きな文字で「祝! 無敗で二冠!! ターボかく」と筆で書いてある大きな紙が貼られてあり、部屋は飾りつけられ、部屋の真ん中にある共用の座卓にはジュースやらお菓子がいっぱいに広げられている
「せ、先輩?」
「さぁー今日は無礼講だ! 好きなだけ飲んで食べようではないか!」
「これは・・・・・・」
私が戸惑っているとシャウト先輩は「やっぱこれはなし」と言って鼻メガネを取る。
「色々言いたいことあって。まず最近心配かけたよね。ごめん」
「い、いえそんな」
「それと、今日見に行ったよ。カッコよかった」
「あ、ありがとうございます」
いつも飄々として掴みどころがないとおもってた先輩からストレートに褒められると、どうしても口角が上がってしまう。
「菊花賞、行くんだね」
「はい」
「三冠ウマ娘になるんだよね」
「・・・・・・はい」
「そっか」
私に確認するように聞くそれは、まるでシャウト先輩が自分自身に確認するように見えた。もしそうだったとしても何を確認しているのかは知る由もないことだけど。
「プイちゃん」
「はい」
「アンタがこれからどうなろうとも、アタシは変わらない。これからもアンタはアタシの可愛いルームメイトの後輩ちゃんだ」
「はい!」
「でも・・・・・・」
先輩は長いまつ毛を伏せ、それから見開いて私の方を見据える。
「レースで当たったその時は、アタシが勝つから」
「! ・・・・・・はい!」
これからも遅れますがこれからも書き続けます