side: deep impact
「ジャパンちゃん」
「・・・・・・」
ジャパンちゃんを怒らせてしまった日から、なんとなく彼女とは話しづらかった。最低限のコミュニケーションはとるんだけど、それもなんだか淡白な感じがした。
・・・・・・
「数学の課題の提出っていつだったっけ?」
「・・・・・・」
「ジャパンちゃん?」
「・・・・・・」プイッ
・・・・・・
『いや反応が薄いとかの前に無視されてるだろそれ』
これはトレーナーさんの談だが、よく考えたら確かにそうだ。ボールを投げても投げ返さないどころか、ボールを取ってさえもらえないんじゃキャッチボールにはならない。私が一方的にジャパンちゃんにボールを投げつけてるだけだ。
皐月賞を前にして、いつまでもこんなんじゃ嫌だと思って彼女を中庭に呼び出した。・・・・・・呼んだらちゃんと来てくれた。私は彼女が来ないことだって十分あり得ると考えていたのだが。
「急に呼び出してごめん。本当は来てくれないんじゃないかとも思ってたから少し驚いたよ」
「呼び出しておいて驚くとは変なことを言いますね。こちらだって暇ではないんです」
「ご、ごめん・・・・・・そういうつもりじゃなくて」
「・・・・・・要件は何でしょうか?」
彼女の声色から未だにご機嫌ななめであることがわかって思わず肩を落としてしまう。要件が無かったらもう私とは話さないつもりなのだろうか、そんなにも私のことが許せないのか。もしかしたらあの時のことは綺麗に忘れて、また普段通りに話せるんじゃないかという期待が少しだけあったので、その分の落胆もまた確実に存在した。
それでも私は、今だけは彼女の冷たい視線をこちらも見据えるべきだと思い、まっすぐと目を合わせる。
「私、クラシック三冠出ることにした。皐月賞だけじゃない、ダービーも菊花賞も」
まだ誰にも言ってないこと、いやシャウト先輩には言ったか、それでもトレーナーさんとシャウト先輩しか知らないことを初めて口にする。
幸いにもこの時の中庭には私たち以外には誰もいなかったので、この情報解禁が触れ回られることはないと思う。ジャパンちゃんが周りに言いふらすようなタイプではない。
「・・・・・・それだけですか?」
「え? ま、まぁ、そうかな」
「そうですか。では失礼します」
ジャパンちゃんは踵を返し、私の元を去ろうとする。それ以上私には用がないと言わないばかりのその態度に思わず鼻の奥がツンとなってしまう。
「え、えぇ・・・・・・」
多少反応してくれることを期待したけど、まさかこんなに反応が薄いとは考えてなかった。あわよくばこの報告で仲直りできるかと思ってたけど、彼女はまだ私に対して不満なことがあるようだ。
「ちょっ・・・・・・待って!」
教室に戻ろうとした彼女の手を掴む。お母さんが好きだったアイドルの定番フレーズみたいになっちゃったけど決して狙って言ったわけじゃない。せっかく話せたっていうのにこれで終わりなんて嫌だ。
ジャパンちゃんの方は私に掴まれた手の方を見た。でも別に振り払うわけでもなく、私が掴んだその場所から動こうとはしなかった。
「まだ何か他に用事でも?」
「そういうわけじゃないんだけど、ただもっと反応してほしかったっていうか、どう思ってるか言ってほしかっただけで・・・・・・」
「あなたがクラシック三冠に出たから何だというんですか、そうだとして私に何があると言うんですか?」
「私が全部勝っちゃうかもしれないから、そのときはごめんねってことを言いたくて」
「・・・・・・へぇ」
彼女はようやくこっちを向いた。一瞬だけポカンとした顔を見せたが、すぐに彼女の表情は険しさを取り戻す。その目にはレース中以外では見たこともないような鋭い光が宿っていた。
彼女の目に映っている私は彼女にとってもはや「友達」ではなく、「倒すべき敵」になってしまっているのか。
「貴方が全て勝つ・・・・・・それはつまり、貴方が三冠ウマ娘になるということですか? 貴方が私たちを相手に距離もレース場も違う三つのレースの全てで勝ってみせると?」
「クラシック全部勝ったらそうなるんだよね? じゃあそういうことかな」
「ふふっ・・・・・・」
「ジャパンちゃんが笑ってくれて嬉しいよ。最近そう言う顔を見せてくれなかったから。でも面白いことを言ったつもりはなかったんだけどね」
「いえ、面白かったですよ。貴方が言ったことは」
何がどう面白かったとは言ってくれなかった。ジャパンちゃんがなんで笑ったのか知りたかった。
ジャパンちゃんはそうして再び笑う。しかし先程の思わず漏れ出した笑みではない。口角は確かに笑っているような角度になってるんだけど、その口元にそぐわない刺すような目つきだ。
「では心待ちにしています。貴方とGIの舞台で戦える時を」
「そしたらさ!」
またも私に背を向けて、行こうとするジャパンちゃんを今度は引き留めない。その代わりに彼女に声だけで呼びかける。
「もし私が三冠ウマ娘になったら、いつものジャパンちゃんに戻ってくれる? 前と同じように、私と遊んだりしてくれる?」
「いつもの私? 先程から貴方はおかしなことを言いますね」
「え?」
「私はいつも、こうですよ」
━
side: trainer
都内某所、URA本部。
今日は皐月賞出走ウマ娘会見ということで慣れない車を転がして来た。慣れないというのは免許を取ったのがトレーナー試験に合格した後だった上に、普段はトレーナー寮から少し離れたスーパーに食材を買いに行く時くらいしか車は使わない。休日だったとしてもウマ娘の論文やトレーニング理論を読んだり。受験勉強していた頃の癖が抜けないというのもあるが、俺はこのライフワークを楽しんでやっているから別に問題はない。おかげで趣味というものは無いのだが。
地元にいた時はそんなに道路が複雑じゃないので親の車を借りて色んな場所に行っていたが、東京の道路といったらまるで迷路みたいだ。しかし電車でURAの本部まで行こうものなら彼女を知っている者たちによって、もみくちゃにされるだろう。この間お出かけに行った際も何人かに声をかけられたがその時は平日だった。しかし今日は土曜日、家族連れや若い人らが沢山いるであろう休日だ。
「だぁぁ〜疲れた〜緊張した〜」
「お疲れ様でした」
「なぁ、もう学園に帰らない?」
「駄目ですよ。今到着したばっかりじゃないですか。何のために慣れない車を運転してくれたんですか?」
「・・・・・・会見に出るためです」
何がきついって帰りも同じように運転して行かなきゃならんってことだ。しかも道中に一通の所があったので帰りは別のルートになるということだ。行きはよいよい帰りはこわい、とはまさにこのことか。
はぁ。とひとつため息をつきながら、必要な荷物ともう一つ重要なものを抱えて車のトランクを閉める。
「それは?」
「皐月賞でGI初挑戦だからな。こいつも初お披露目ってことになるな」
まるで買ってもらったばかりの玩具を見せびらかすようにディープに見せたのは、自分の普段着ているスーツのカバーよりかは少し小さい、しかしながら中に入ってるものが、それよりずっと上等なものだとわかる衣装カバーだった。
━
『早速登場していただきましょう! ジュニアチャンピオン・マインハーベスト! そしてここまでの5戦で連対率100%を誇るロージクルーシャンです!』
2人のウマ娘が出てくるや否や、記者たちは我先にとシャッターを切る。ウマ娘においてはフラッシュの光が苦手な子も珍しくないので、記者たちが持っているカメラにはウマ娘用に光量が抑えられたフラッシュを搭載しているというのは有名な話だが、実際に見てみるとあんまり違いがわからないものだ。
袖から出てきた2人のウマ娘はGII以下で着用されている見慣れた体操服ではなく、GIレースに出場する際にだけ着用される勝負服を着ていた。
マインハーベストは植物のような優しい緑色を基調とした勝負服。ギリシャ神話の女神が来ているようなヒラヒラの布の衣服(キトンというらしい)を現代チックにアレンジしたものになっている。具体的に言えば下はスカートのようになっていて、そこからはアスリート特有の筋張った脚を覗かせている。素晴らしい。レースに向けてしっかり絞れている。しかしこんなにジロジロ見てたら勘違いされそうな気もする。
『マインハーベストさんはメイクデビューとGI朝日杯をレコードで制しており、前走の弥生賞では惜しくも3着でしたが、この皐月賞で2つ目のタイトルを狙います!』
もう一人のウマ娘ロージクルーシャンは今回が初対戦。俺は直接見るのも初めてだ。確かアドマイヤ家やメジロ家と同じように大きな一族の一人であったはず。その一族はGIを好走するもののなかなか勝ち切れていないことで有名だ。そしてそういうウマ娘は大抵ファンの人気を集める。
そのウマ娘の方の勝負服は黄色のリボンがあしらわれた黒のワンピース。その腰元にはカラフルな試験管が備わっており、その上からは燃えるような赤色のローブを纏っている。魔術師みたいな格好だが、スイープトウショウのような魔女っ子というイメージじゃない。現代のイラストみたいな感じだ。魔女っぽい大きい帽子もかぶってないし。
『ロージクルーシャンさんはホープフルステークスを2着で敗れたものの前走の毎日杯で重賞初制覇、さらにここまで3着以下のレースが無いという抜群の安定感で・・・・・・あれ?』
司会の歯切れが急に悪くなった。壇上の方を見ると、ステージの中央にあるマイクの前にそのロージクルーシャンが立っていたのだ。普通こういうのはなんか司会者とかが「意気込みを聞かせてください」とか言ったときだったり、周りの記者が何か質問をしたときにやるようなもんだと考えていたが、紹介の途中でやるとは中々新しいじゃないか。
『ディィィィプインパクトオォォォ!!!」
鉄の塊でぶん殴られたかのような衝撃であったが、付随して聞こえてきたハウリングの音によって、その衝撃がマイクに繋がれた大型スピーカーからの轟音によるものだと気づいた。
ロージクルーシャンがマイクのとこで大声で叫びやがったのだ。まだ耳が余韻でズキズキする。ディープの方も耳を抑えているが、ウマ娘の耳は頭頂部付近にあるので、ちょうど頭を抱えているような格好となる。
「ディープもああいうことやったりするの?」
「するわけないですよ! あれはウマ娘だからとかじゃなくてあの子がどうかしてるんです」
「意外と毒舌」
「あたしは!! このレースで!! お前にかぁぁぁぁつ!!」
「うるっさ・・・・・・」
「出てこぉぉい!! ディ── あっちょっとなにすんのさ!」
舞台袖からスーツの大柄な男が現れるや否や、あっという間にロージクルーシャンを脇に抱える。俺と同じ関係者証を首から下げてたし、彼女に対する無遠慮な感じからして彼女のトレーナーだろう。
抱えられた彼女はジタバタと脱出を試みるが叶わず、トレーナーと思しき男は彼女を抱えたまま、最後に取材陣にペコリとお辞儀をして袖へと消えていった。
嵐が過ぎ去り、安堵と唖然を半々に混ぜたような空気が充満する。司会者の女の人も戸惑いながらも進行を続けた。
『あ、生憎ですが、ほかに紹介すべきウマ娘の方がおられますので紹介を続けさせていただきます・・・・・・』
ほら、司会の人は見たところは若いし、少なくともベテランという感じでもなければ場慣れしているような感じでもない。や、それはこの場での俺も同じことなんだが、俺の方はこの会見ですることは特に無い。強いて言うなら写真撮影があるからフォーマルな服を着て来ていることくらいだ。
先程から汗をしきりに拭っている。緊張しているのだろうが仕方がない。ウマ娘は人間のアスリートと比べても一癖も二癖もある連中なのだ。この半年で俺もそのことを思い知らされた。
『前走の弥生賞ではディープインパクトをクビ差まで追い詰めたこのウマ娘! 主役の座を譲るつもりはありません! アドマイヤジャパン!』
現れたのは並々ならぬ気迫を全面に押し出している栗毛のウマ娘。「ジャパン」というだけあって勝負服も和風って感じ。走りやすくするための短めの袴とヒールのある下駄。そして何より目を引くのは浅葱色の羽織だ。その羽織には鋸歯型があしらわれていて、まるで新選組のよう出立ちだ。
「生憎で出てきたのが私で、申し訳ありません」
『い、いえ! そんなつもりは!』
「ふふ、冗談ですよ」
どっと取材陣に笑いが起こる。でも冗談って言ってたけど多分違うよな。にこやかに笑ってはいるけど恐らくめちゃくちゃイライラしてる。耳が絞られないように抑えてるようだが、やはり若干後ろに捻れている。ウマ娘のことを多少なりとも知っている人間ならそのことはわかるはずなのだが取材陣はそのことに気づいている様子はない。その一方で壇上のウマ娘たちは一人も笑ってない。
やはり彼女は気に食わないのだろう。世間の評価によるとこの世代ではディープインパクトの一強体制という見方がほとんどを占める。彼女は抗いたいのかもしれない。そのようなことを言う周りの人間に、そして何よりディープインパクトに。
『お待たせしました。最後に紹介するのはもちろんこの人! いざ世代の頂点へ! ディープインパクト!』
ディープの勝負服のマントが少し乱れていたので直してやる。そして身長の低い彼女と目線を合わせるためにしゃがむ。光の届いていない舞台袖では彼女の輪郭を捉えるのが精一杯だったが、彼女の顔の輪郭が形作る不安だけは確かに感じ取れた。
「いけるか?」
「えぇ、ちょっと緊張しますけど」
「そうか?」
「質問とか、上手く答えられるかどうか・・・・・・」
「上手く答える必要はないよ。ディープが思ったことを率直に答える方がいい。多分記者だって多少変わったことを言ってくれるのを期待してるさ。そっちの方が面白いし、記事にしやすいんだろ」
「何にも励まされてる気がしませんけど・・・・・・でもトレーナーさんが近くにいるって考えたら大丈夫かもしれません」
「それなら何よりだよ。トレーナー冥利に尽きるってもんよ」
「・・・・・・行ってきます」
「行ってらっしゃい」
彼女は舞台袖の闇を抜け出し、会場の光を一身に浴び、彼女が纏う勝負服もその全貌が見えてきた。舞台袖の闇をハサミで切り出してそのまま持ってきたようだった。
本来ならガーリッシュかつ大人な印象を与えるはずのボレロとウエストまで上げたスカートは彼女の髪の色を反映したような黒色で、加えてところどころに施された黄色の鋸歯型の意匠によって威圧感を与えている。そして何より目がいくのはそれらを包み込む禍々しいマントだ。
彼女の他の誰とも違う勝負服はまるで魔王のような異彩を放つ。それは彼女自身の才能をそのまま反映しているかのように思えて、俺は彼女に目が釘付けとなった。
『ここまで三戦三勝! いずれも絶対的な強さを見せつけてライバル達を捩じ伏せるその姿は、まさに『衝撃』の名に相応しいでしょう! GIの大舞台で再び衝撃波を起こせるか! ディープインパクト!』
━
side: sympathy
所変わってトレセン学園、中庭にある怪しげな紫のテント。
「表はあっても占い」小学生しか笑わなさそうな駄洒落をでかでかと掲げているその占い屋に一人の客が来ていた。
「皐月賞・・・・・・その行く末を・・・見てほしくて・・・・・・」
「おや、第六感の方は?」
「今の私に・・・・・・レースを見通すほどの・・・力はありません・・・・・・。ディープインパクトさんに・・・勝てるほどの・・・・・・実力も・・・・・・」
「救いはないのですか?」
「シラオキ様の・・・・・・お力を・・・・・・お借りしたい・・・のです。私の道を・・・・・・」
水晶を挟んで向かい合って座る2人のウマ娘が暗がりに輝く。
マチカネフクキタルとその助手ということになっているメイショウドトウ。彼女らの向かいに座っているのは自身の黄色の耳カバーを煩わしそうにつつくシンパシーであった。
未勝利戦からの勝利以来、京成杯にてアドマイヤジャパンの2着につけるなどがあるものの彼女は勝てずにいた。前走のOPレースを取りこぼした上での次走はGI皐月賞。それも世代の主人公とも言われるディープインパクトとの初対戦。彼女の足が親しい先輩の元へ向かうのも無理からぬ話であろう。
「必要ないと、私はそう思います」
「どういう・・・こと・・・・・・ですか・・・・・・?」
「は、はぅぅ・・・・・・」
いつもであれば水晶玉に手をかざし、シラオキ様のお告げを受け取るところだが今回のマチカネフクキタルはそうしなかった。
自分にはその資格がなかったのか、そう解釈したかのようにシンパシーが悲壮の色で顔を染める。ドトウがおろおろとした様子をしたところでフクキタルはぽつりぽつりと語り始めた。
「私の世代ではクラシックが始まる時点で今のディープインパクトさんのように圧倒的な存在はいませんでした。どちらかといえば群雄割拠といった具合に様々なウマ娘にスポットを当てられていました」
「・・・・・・」
「・・・・・・あの方も、皐月賞を前にして今のシンパシーさんのように苦しんでいました」
「あの、方・・・・・・?」
「はい。皐月賞を前にしてその方は未勝利戦以外にはOP戦を一勝しただけのウマ娘でした。当然本番の皐月賞の人気は下から数えた方が早い・・・・・・今のあなたと大差はありません。しかしあの方はやり遂げたのです。二冠ウマ娘ですよ、二冠!」
「そんな・・・・・・人が・・・・・・」
「私はその方とダービーで当たりました。誰にも見向きされず、いざ皐月賞を勝てばフロックだ、展開が向いただけだと後ろ指を指されていました。それでもあの方は、自分の道を進み続けていました。私も彼女の走りにはとても敵いませんでした・・・・・・」
二冠ウマ娘誕生のあの瞬間、あのどよめき、純粋な祝福だけではないだろう。自分が応援していたウマ娘が負けてしまった者の悲鳴も少なくはないだろう。しかし、その中心にいた彼女はただ手を挙げていた。
「あの方のそういう姿を見て私も頑張ろうと思えたんです。生憎その方はダービーを最後に引退してしまいました。できることなら菊花賞も、その先も、あの方と走っていたかった・・・・・・」
「・・・・・・」
「つまり! 私が言いたいのはですね!」
「ひぇっ!」
ガタッと音を立ててフクキタルが立ち上がると、それに合わせてドトウが体を震わせる。
「大事なのはレースで自分の走りができるかどうかです! 他の子たちがどれだけレースを勝っていたとしても! ディープインパクトさんがどれだけ評価されていたとしても!」
「そう、か・・・・・・それが・・・・・・」
「レースの結果は誰にもわかりません! それなのに人気を求めるのは意味がないことだと思います! ウマ娘にとって重要なのは!」
「1番人気より・・・・・・1着を目指す・・・・・・」
「救いはあるんですね!」
フクキタルはクラシック世代にはメジロブライトやサイレンススズカがいる中でマチカネフクキタルは最後の一冠である菊花賞を制したウマ娘である。二冠ウマ娘と三冠を分け合ったということで思うところもあるのだろう。
「ありがとう・・・・・・ございました・・・・・・」
「また来てくださいね〜!」
手を振る二人を横目にテントを出ると、正面にある切り株のウロを枕のようにして寝転がるウマ娘がいた。
この場所は日当たりもいいから寝転がりたい気持ちはよくわかるし、実際ここでそういう子を見るのはそう珍しいことではなかった。
「皐月賞出るんでしょ?」
「!」
寝ているかと思ったそのウマ娘に急に話しかけられてシンパシーは少し驚いた。特に気にも留めていなかったのでその呼びかけはあまりに唐突だったのだ。
彼女の右耳の辺りはヒマワリのような髪飾り、そして左手首には包帯が巻いてあった。
「そう・・・・・・ですが・・・・・・」
「話、外から聞いちゃって。ごめんね。ここって日向ぼっこにはうってつけでさ」
「いえ・・・・・・そんな・・・・・・」
そのウマ娘は立ち上がると背中を向けて歩き出す。
「GIってめっちゃ楽しいから。頑張ってねぇ〜」
「は、はい・・・・・・」
あの人はなんだったのか、そんな疑問も持たないうちに包帯の巻いてる方の手をヒラヒラと振る彼女の背中はいつの間にか小さいものになっていた。
━
side: trainer
地下バ道の雰囲気は嫌いじゃない。昔からレースが終わった後のウマ娘がここで涙を流したり、あるいはトレーナーやチームメイトなんかと抱き合ってるシーンをよくテレビで見てたもんだから、いつかは自分もここに来たいとは思ってた。まぁ正確には前走の弥生賞のときとか、なんならメイクデビューのときも地下バ道には行ったが、今のそれは全く別の光景だ。
GIだからみんなそれぞれの勝負服を着ているからっていうのもあるんだが、そこ以外にも理由はあるはずだ。だってこれはGIだ。多くのウマ娘にとって中央のGIはそこに立つだけでも栄誉であり、もし勝とうものなら、そのときのレースの覇者として永遠に名前を刻むことになる。
本来GIというものはそういうものだし、なんなら重賞で勝ちを収めたり、オープンウマ娘になることだってウマ娘全体の数から見れば小指の先ほどにもいないだろう。ディープは、まさにそんなレースでGIタイトルを手中に収めようとしているのだ。
「なんかいいのかなぁ」
「何がです?」
隣にいるディープが首を傾げる。背の小さなディープを俺が見下ろすような格好になるが、存在感がそんなことでは薄れない。GIだけの勝負服を着ているのだから尚更だ。
「ここに出てくるウマ娘がさ、思いとか、夢とか、それぞれ抱えているものがあるって、わかっていたつもりだったんだけど、なんかさ・・・・・・」
「言いたいことはわかります」
「こんなこと言っちゃ駄目なのはわかってるけどさ、やっぱみんな賭けてるんだよな、このレースに」
「前から私が言ってたことですよ。誰かが勝てば誰かが夢破れると」
「・・・・・・あぁ、わかってる。そうだよな。なら、仮に負けて、夢破れたとしても胸を張れるようなレースにしないとな」
「はい」
地下バ道の出口は光で真っ白に見える。光とともに割れんばかりの歓声が既にここまで聞こえてくる。そして次々とウマ娘たちは光に向かって歩みを進める。
「もう大丈夫か?」
「トレーナーさんを待ってたんですよ」
「そっか、悪い。・・・・・・俺は大丈夫だ、大丈夫」
トレーナーの不安ごとというのは本来、ウマ娘には関係のないこと、冷たい言い方をしてしまえば仕事に私情を挟んでいる。それはディープを邪魔こそすれ、助けたりはしない。
「じゃあ・・・・・・勝ってきますね」
「あぁ、正々堂々、徹底的に、完膚なきまでに、かましてこい」
彼女は俺に背を向けて光へと歩み出す。こつりこつりと彼女のシューズの底にある蹄鉄が地面を叩き、彼女の背が遠くなっていく。それに比例するかのように歓声は大きくなっていく。
あぁ、このまま、彼女は「みんなの愛バ」になるのか。そう思うと嬉しいような哀しいような。結婚していく娘を見送る父親の心情にちかいんじゃないだろうか。
「もし勝ったら何か欲しいもの、あるか?」
口を衝いて出たその言葉はしかし、自分でもどうして言ったのかわからなかった。なぜこんなことを口走ったのか、ディープを余計に動揺させるだけではないか。
「・・・・・・!」
それを聞くとディープは立ち止まる。こちらに背を向けているので表情は当然わからない。しかし耳をぐるぐると動かしているのはわかる。あれはウマ娘が動揺している証だ。まずいことをした。マジでなんであんなこと言ったんだ。
「悪いな、レース前だってのに。また今度それについて──」
「欲しいもの・・・・・・ってなんでもいいんですか?」
背中を向けたままディープは答える。何か欲しいものがあるのかな。でもあんまりこういうやり方ってよくねぇよな。物で釣るみたいでさ。
「・・・・・・倫理的かつ俺の給料の範囲内ならば、まぁ、なんでも、かな。なんせGIだからな」
「“物”じゃなくてもいいですか?」
「良いけど・・・・・・倫理的っつったからね? 誰かの命とかはだめよ?」
「私はウマ娘ですから、人の倫理観はよくわかりません」
「あのなぁ・・・・・・」
「ふふっ」
それまで背中を見せていた彼女が振り向いた時の表情は、いつもと何ら変わらない微笑みであった。歓声がバックにあったのはひどくミスマッチにも思えたけど、それだけ穏やかな笑みだったのだ。
━
side: trainer
スタンドには満員電車くらいの密度で人がごった返している。別にこれは珍しいことじゃない。特にGIレースともなれば数万人が1ヶ所に集まるのだ。ブルーシートや新聞を敷いて座ったりして各々見やすい場所を確保する。何せウマ娘の身体の大きさは人間と変わらないのにコースは広いもんだからより近い場所でないとはっきり彼女らを捉えることは難しい。
トレーナーである俺は入場券だけで入れる立ち見の場所ではなく、関係者に用意された指定席があるのだがレースを間近で見るためにウマ娘のトレーナーをやっているんだから、わざわざ人混みの中で応援する。
そういう風にやっているトレーナーは決して少なくなく、主要なGIレースのスタンドには大抵誰かしらのトレーナーがいるともっぱらの噂があるくらいだ。実際俺がその1人だ
「よっ」
肩を叩かれ振り向くと、見慣れたショートカットがそこにはいた。彼女はトレセン学園の制服を着ていたので周りと比べてかなり目立っていたが、誰も気に留める様子はない。これはウマ娘ファンの民度が高いからなのか、そもそも彼らにとって彼女は取るに足らない存在として捉えられているからなのか。
「ソウルシャウト・・・・・・わざわざ来てくれたのか、千葉まで」
「何言ってんの。かわいいルームメイトの晴れの舞台じゃないの。 来ない方が野暮ってもんだよ」
トレセン学園から東京レース場までは人間の足でも歩いて行けるくらいの距離だが、中山レース場は違う。50kmくらいは離れてるんじゃないか。でもよく考えたら京都でやってた若駒ステークスにも来てたなこの子。旅好きなのかな。
「春天は大丈夫か? 出走するんだろ?」
「今日はオフなんだ。最近はずっと坂路ばっかりやってハードなトレーニングが続いてたから」
「・・・・・・差し出がましいことを言ってもいいか?」
「天皇賞・春はあたしにとって距離が長すぎるってこと以外だったらいいよ」
「じゃあ忘れてくれ」
文脈から察するに彼女のトレーナーも俺と同じことを感じ取っているということだろう。
「はぁ・・・・・・トレーナーもずっとそればっかりなんだ。3200は長すぎるって」
「それでも出たいと・・・・・・自分の可能性を試したいんだな」
「ちょっと違うけど、まぁ似たようなものかな」
ソウルシャウトの持ち味はなんといっても猛烈な追い込み脚にある。しかしそれは最終コーナーの時点で脚を残せてこそのものだ。彼女が好走を見せたのはいずれも2000mから2400mまでの所謂”王道路線”の距離であり、それより長くなるとたちまち凡走を見せる。しかし王道と言うだけあってライバルも多い。だからこそ、たとえ好走を見せたとしても、なかなか勝ちきれない。
「ほら、あたしのことは今日はいいでしょ! プイちゃんの応援するよ!」
「お、おう」
━
side: deep impact
いつもと違う。
中山では前回も走ったけど、まるで違う場所のように見える。スタンドには隙間なく人が敷き詰められている。
スタート地点からスタンドまでの距離が近いからか、歓声の中にも意味を持った声援が聞こえる。
走る服装も違う。私としてはいつもの体操服にゼッケンというスタイルが走りやすくていいのだが、今日はマントというおまけがついている少し窮屈な勝負服だ。シューズもいつもより高いヒール付き。
出走人数にしたってそう。フルゲート18人という大人数でのレースも初めてだ。今まででも弥生賞の10人が一番多い。
学園のそれとは違う乾ききった芝の匂いが鼻先を刺激する。
「なんでも・・・・・・」
今日の皐月賞に勝てばGI制覇、私はGIウマ娘、彼もGIトレーナーとして評価が上がるだろう。つまり私たちにとって非常に大事なレースだ。そんなレースの前だというのに彼から言われた言葉だけが頭を支配していた。
「本日はよろしくお願いします」
「ジャパンちゃん・・・・・・」
彼女はそれだけ言うと向こうへ行ってしまう。その横目は完全に敵を見るものだった。勝負服の和風なデザインと腰に差した刀からそのまま斬りかかってきそうな威圧感を帯びていた。
パンと両方の頬を力いっぱい叩く。頬の痛みと手の痺れが4月の陽気に溶けて消える。こんな状態でレースに集中なんかできない。それでも一旦忘れなきゃ。彼の言ったことを考えるのはこのレースが終わった後だ。
手拍子が段々と大きくなる。スターターが位置に着いていた。もうすぐレースが始まる。
━
『8万人がこの目で見ようと、この中山レース場に集まりました! あなたが目にするのは未来の三冠ウマ娘か、はたまた新たなるスターの誕生か! ティアラ路線に続き今年の三冠路線クラシックはここから始まります! 第65回皐月賞です!』
場内アナウンスも、歓声も、この熱さもゲートの中からでもよくわかる。ゲートの中で落ち着かないウマ娘が少なくないというのも無理はない。
枠順は7枠14番と外めだから右を見ると、前を見ている他のウマ娘の横顔がずらりと並んでいる。彼女たちと同じように私も前を見ると無機質なゲートの網目の向こうには広くてまっさらな緑が広がっている。
「はぁっ・・・・・・!」
さっきは頬を叩いてまでレースに集中しようともしたけど、どうやらその必要はなかったみたいだ。
なぜって、ターフを見てから心の高鳴りが止まらない。ここで、この舞台で走れると考えたら今にも踊りだしてしまいそう。
誰が勝つとか、負けるとか、彼の言ったことなんてもうどうでもいい!
早く走りたい! ゲートを! 早く! 早く!早く!早く!
がこん。
『スタートしました!』
━
side: trainer
少し時は戻り、スタンドへ。
「ねぇ、プイちゃん大丈夫なのあれ?」
「え? なんかおかしいことあるか?」
ソウルシャウトに服を引っ張られ、14という数字の下にいるディープを見てみる。
今はアドマイヤジャパンがなかなかゲートに入ろうとしないという状況だ。係員が近づくと腰の刀に手をかけて威嚇している。・・・・・・まさか本物ってことはないよな?
そんな中でディープはとても落ち着いている。歓声や周りのウマ娘の気合いにびっくりするウマ娘だって珍しくないのだが、彼女は大人しくゲートの中で待っている。
「何も変なところないと思うんだが・・・・・・いい子にして待ってるじゃないか」
「あんたの顔にはまってるのは目玉じゃなくてビー玉かよ? もっとちゃんと見な」
「んー・・・・・・」
とても酷いことを言われたのには触れず、再度ディープの方へ目を凝らす。
確かに様子がおかしいかもしれない。一見おとなしくしてるけど、何となく落ち着きがないというか、これ以上待たされたら爆発してしまいそうな危うさがあるというか
「どう? わかった?」
「確かに、言葉でどう言えばいいのかはわからないけど、何というか、浮き足立ってるっていうのかな」
やはり俺が言ったことが原因か──。そう考える間にアドマイヤジャパンはゲートに入り、もう1人残っていたウマ娘はあっという間にゲートに入る。
「・・・・・・ソウルシャウト」
「なに?」
「俺、やっちゃったかもしれ──」
がこん。
『スタートしました!・・・・・・おっと大丈夫か!』
『ディープインパクト躓いた!』
「「あ」」
ディープが体勢を崩していた。おそらく何かに躓いたか、もしくは先ほどのゲート内での様子がおかしかったことに何か関係があるのか。
あわや競走中止になりかねないような角度になっていて、目を逸らしたくなる。
「ディ、ディープ・・・・・・!」
「大丈夫、ちゃんと走ってるよ」
ソウルシャウトの言う通りディープは特に怪我の様子もなくターフを駆け抜ける。しかし躓いたのはしっかりとロスにつながり、後方に控える形となった。
『ちょっとディープインパクトのスタートがどうだったかというところで、各ウマ娘が第1コーナーへ向かいます』
『やはりスピードで押していこうとするマイスモールアースがハナを奪おうというところか! そして14番ディープインパクトは後方2番手のレースとなります!』
『さぁ! ディープインパクトはここからどんなレースを進めていくのか!』
━
side: sympathy
息を吸って、吐く。今のところは問題はない。
周りには沢山のウマ娘たちがいて、このレースに勝ちたいという思いが肌にチクチクと突き刺さる。
そして今、自分の背後には死神がこちらを刈り取ろうと迫ってきている。
『──そして後ろからシンパシーが行っています。さぁその内には──』
レースが始まる前からディープさんの名前を呼んでいたというのに、私の名前は凄くあっさりと
もう十分わかっている。自分を含めて、ここにいるウマ娘の多くはディープインパクトという存在を盛り上げる脇役としか捉えられていない。これは第六感などではない。それに頼るまでもなくわかってしまう。
『1000m通過して、外からすぅっと上がってきたディープインパクト!』
「え」
場内アナウンスがその名を叫ぶ。
それを聞いて、彼女がどこにいるのかを見ようと眼球を動かす。
その黒い塊は左にいた。
瞬きをひとつすると、それは既に自分を抜き去っていた。
「こんなに・・・・・・早くから・・・・・・」
思わずギョッとしてしまう。あと1000mあるというのに、もうスパートをかけるのか。それでゴールまで保つというのか。
彼女と私はそこまで離されてはいない。絶望するような差ではない。しかしながら自分の中の直感がけたたましく警報を鳴らしている。「これ以上離されてはならない」と。
それと同時に勘繰る。今日のディープインパクトは大したことはないのではないかと。スタートからすぐ躓いたのといい、このレース中といい、どこか浮き足立っているように感じる。トレーナーさんと分析として一緒に見た彼女の弥生賞や若駒ステークスのような迫力のようなものを今日の彼女からは感じない。
『さぁバ群が凝縮してきました! ディープインパクトは外を通って中団から狙っています!』
『この辺りは弥生賞を踏襲したようなレース展開へ持っていけるかというところ! マインハーベストが早めに大外から前を狙っています!』
━
side: deep impact
バ群に呑まれるのを嫌って外目に行ったはずだったが、真ん前をマインハーベストに塞がれてしまった。
彼女のさらに外に持ち出すか、内を強引に突っ切るか。前者は距離ロスが大きくて内側の子たちを差し切れるかわからない。かといって後者は小柄な私にそれだけのパワーがあるのかといったところ。
「行かせない!」
「くっ・・・・・・」
もう1人のウマ娘に内への進路を塞がれる。やはりというか、当然ではあるんだけど、1番人気の私はマークが厳しい。
おかげで内には行けなくなってしまう。だとすれば選ぶのは──
「外っ!」
先団に取り付くために脚を使ったが、まだいける、そう思いながら再度自身の脚に力を入れる。しかし、
「な・・・・・・」
おかしい。確かにスパートをかけているのに景色が変わらない。他の子たちがいつものように私の視界から下がっていかない。それが意味するところはつまり私が抜け出せていないということ。中山レース場の直線は短いから最終コーナーの時点から仕掛けないと厳しい。
やはり今日は調子がおかしい。このレースがGIだからなのか。
第4コーナーに入る。いまだに抜け出せない。
ここにきて「敗北」という2文字が頭に浮かぶ。やはりGIで勝つのは簡単ではないのか。
でも負けた子の気持ちもわかるって考えたら、ここで負けるのも悪くないのかな。そうすればジャパンちゃんと険悪になることだってなかったかもしれない──
「デイィィィィプうぅぅぅぅぅぅぅ!!!」
「!」
第4コーナーから直線へ向く。目の前にはスタート前のゲートで見た、真っ青で広いターフ。右にはダートコースやターフビジョン、そして左側にはスタンド。
中山レース場のスタンドが人で埋め尽くされている。私たちのスピードでは今日応援しにきてくれた人たちの顔はわからない。ただ多くの肌色が通り過ぎていくだけ。そして誇張なしに耳をつんざくような歓声の中に、彼の声が聞こえた。
どこにいるかもわからない、他にも私の名を呼ぶ声がいっぱいある。それでも、彼が私の名前を呼んでいるのがはっきりとわかった。
芝に脚を突き刺し、蹴り上げる。
また芝に脚を突き刺す、また蹴り上げる。その繰り返しがさっきまでとは手応えがまるで違う。
自身の筋肉の躍動を感じる。血管を流れる血が熱く沸き上がる。
ただ彼に名前を呼ばれただけなのに、
それなのに、
どこまでも強くなれる気がした。
━
side: sympathy
『第4コーナーから直線に入りました!』
『横一線に広がって激戦の模様を呈してきた! 前目にはヴァジュラニオーとスモールアース、間を割ってアドマイヤジャパン、そして外目からはマインハーベストが狙っている!』
ディープさんは手応えが悪い。中山でここから巻き返すのは不可能に近い状態のはず。
一方で私はまだ脚を残している。ディープさんが通ったことでできた進路。私には輝く道にも見えた。ここから前に出ることができる! この幸運に乗らない手は無い。
勝てる。そう思い込んでから、一瞬。
「あれは・・・・・・なん・・・でしょう・・・・・・」
ディープインパクトの、目。
こちらが後ろのなので彼女の表情はあまり窺えない。
しかしコーナーを曲がり切る際に横から見えた、その目。
「目が・・・・・・生きて──」
目が生きている。それを認識する前に土が上がり、芝が舞う。
空気が激しく揺れる。
『しかし一気にディープインパクトだ!』
『ここが彼女の晴れ舞台になるか!』
この喧しい歓声が彼女の背を押すように、スッと上がる。軽やかに、そして力強く。
彼女の勝負服のマントが風に従って靡くそれは、黒い翼が羽ばたいているように見えた。
この歓声のほとんどは彼女を応援するものなのかもしれない。でもその中に私への声援が、もしかしたらあるのかもしれない。
たった1人でも私を応援してくれている人がいるかもしれない。なら私は負けるわけにはいかない、このレースに勝たなければならない。相手がディープインパクトだったとしても。
「くっ・・・・・・!」
私も彼女に続く。観衆はもう彼女が勝利を決めたとでも思っているのだろうか。
まだ終わっていない。私は諦めていない。
『ディープインパクト先頭で残り200を切りました!』
『外からなんとシンパシーが追い込んでくる! 内の方ではアドマイヤジャパンが頑張っている!』
まだだ、まだ負けてない。
『しかし先頭はディープインパクト!』
まだ。
『これは独走! 強い強い強い!』
まだ・・・・・・。
『ディープインパクト1着で今ゴールイン!』
『デビューから無傷の4連勝! まずは皐月、第一関門を突破しました!』
宝塚記念行きました。タイトルホルダーを信じきれず少額しか買っていませんでしたが、デアリングタクトの複勝に救われました。