今回、食事と寝床の提供の代わりに退治を任された妖は、村で一番大きな屋敷に建てられた納屋の壁を陣取る掛け軸。
納屋として扱うにはもったいないほど大きく、奥行きもあって広いそこには何もなく、不気味な絵の掛け軸が存在感を主張していた。
弥勒が納屋を覗き込み、入り口から中を観察する。掛け軸は一番奥の壁に飾られているのだが、納屋の広さ的に少し目を凝らす必要があった。
「なるほど。確かに、邪気を感じますな」
「村の人達が掛け軸を燃やしても夜には元に戻るって言ってたのは、薄い結界が張られているからみたいだね。本体に火が届いてないんだ」
「本当だわ。掛け軸の周りに薄っすらと膜が見える」
戦闘服に着替えた珊瑚が、弥勒の隣で掛け軸を見ながら、家臣達の疑問に答えを見出す。かごめも二人に倣って目を凝らしてみると、ラミネート加工を施されたみたいに、掛け軸がほんのり厚みを帯びていた。
戦いに縁がない姫様や家臣の頭の中には、結界なんて知識がなく、分からなかったのだろう。かごめだって弥勒や桔梗と出会うまでは、結界の存在なんて知らなかったはずだ。
「あの中に妖怪が息を潜めておるのか?」
弥勒の肩の上で掛け軸を見ていた七宝が、不気味な絵を指差して珊瑚に視線を向ける。怖いのか眉を顰め神妙な顔つきをしており、黒染めの着物を両手で強く握り締めていた。
「恐らくね。法力を持つ人が納屋に入った時だけ、出てくるんだと思うよ。どうやって奪うか分からないけど、法師さまは納屋の中に入らないようにね」
珊瑚が何やら呑気に掛け軸を値踏みしている弥勒に注意を促す。この妖怪は綺麗な顔の法師を好んで狙うらしく、更に高い法力を持っていれば、文字通り骨の髄まで食われると説明を受けた。
「えっ?」
「——……ッ」
珊瑚は弥勒にきょとんとした端正な顔を向けられ、ジワジワと恥じらいが込み上げてきて頰に含羞の色を刷く。
珊瑚から暗に眉目秀麗だと告げられ、驚いて目を瞬いていた弥勒が、嬉しそうに破顔した。やはり好きな女の子に容姿を褒められるのは、男として喜ばしいのだろう。
珊瑚の身体がかあっと熱くなる。赤面せず何気なく言うことには成功したのに、弥勒の夜色の瞳と視線がかちあい、微笑まれたことで、胸に湧き上がる羞恥が止まらない。
「そうですな。今回は犬夜叉にお任せします」
「けっ、俺が結界を叩っ斬って、掛け軸から引き摺り出してやる」
嬉々として大人しく引き下がる弥勒の横で、犬夜叉が納屋に一歩足を踏み入れ、腰の鞘から鉄砕牙を抜いた。刀身が赤く染まっている。
「ひいいいいいーーッ!?」
犬夜叉が鉄砕牙を振り上げても余裕がある納屋の中で、掛け軸に切っ先を向けると同時に響き渡った七宝の悲鳴。犬夜叉は珍しく大きく肩を揺らし、焦ったように振り返る。
「七宝! いきなり変な声を出すんじゃねぇ!」
「い、いい、今、掛け軸の絵の目が光ったんじゃ!」
「えっ?」
弥勒の肩からかごめの腕にしがみついた七宝が、涙目で怯えたように震えた。恐怖で顔を引き攣らせた子狐を腕に抱え、よしよしと背中を撫でていたかごめは、掛け軸に怪訝な眼差しを向ける。
掛け軸は先程と何の変哲もなく、犬夜叉と珊瑚も首を傾げた。七宝に詳しく話を聞こうとしたその時、弥勒が徐に足を動かして納屋の中に入り、犬夜叉より前に出る。
「法師さま?」
「弥勒さま、犬夜叉の前に出ると危ないわよ?」
珊瑚とかごめがゆっくりと離れていく法師に声をかけるも、草鞋も脱がず、のろのろと足を進め続ける弥勒。どんどん納屋の中に入っていく弥勒に、犬夜叉が眉を顰めて怒鳴る。
「おい、俺が叩っ斬るっつってんだろ。何する気だ!」
「ちょっと、法師さま。どうしたのさ?」
「弥勒さま、様子が変だわ」
珊瑚とかごめが小走りで駆け寄り、自分から妖怪の元に行こうとする弥勒を見上げた。話しかけても返事がない弥勒は、何の意思もない虚な瞳で足を動かし続ける。
魂がない抜け殻のような状態で奥に向かう姿に、掛け軸に呼び寄せられているのだと全員が察した。ボーッとした双眸を真っ直ぐ突き刺し、力の入っていない身体を前に進めていく弥勒。
フラフラとしていて、足取りもゆっくりだが、確実に掛け軸の方へと近付いている。珊瑚は焦燥に駆られた表情で、真ん中辺りまで進んでいる弥勒を後ろから抱き締めた。
「法師さま、止まって! 中に入るのはダメだって言っただろ!? 法師さま!」
顔を歪めて悲痛な声で訴えかける珊瑚に、弥勒は見向きもしない。珊瑚は愛しいおなごの腕の中で足を動かし続け、先に進もうとしている弥勒の腰に回した腕の力を強める。
一応、止められたものの男女の差がある為、時間の問題だ。どうすれば弥勒の暗示を解けるか考えていると、犬夜叉の鼻が何かを嗅ぎ取ったようにピクリと動いた。
「かごめ、弥勒に破魔の札を貼れ! 弥勒から微かに妖怪の臭いがする!」
「えっ!? わ、分かった!」
かごめが弥勒の右手を握りながら、困惑気味に首を縦に振る。後ろから抱きつく珊瑚と、右手を両手で包むかごめにより、足を止めない弥勒の前進は止まっていた。
犬夜叉がかごめと抑える役を交代する為に、鉄砕牙を片手で持ち、弥勒の左腕を掴む。腕から移動した七宝を肩に乗せ、かごめが弥勒の懐に手を突っ込んだ。
「弥勒さま、元に戻って!」
突然、着物の中に手を入れられても無反応な弥勒の額に、取り出した破魔の札を一枚貼るかごめ。それと同時に、珊瑚も弥勒から僅かに妖気を感じた。
どういう原理なのか、かごめが手を離しても札は離れず、進もうと抵抗する弥勒の顔の前でひらひらと揺れている。中の妖気に反応しているのだろうか?
すると、不意に弥勒の動きがピタリと止まった。大人しくなった抹香の匂いがする身体に、珊瑚は抱きついたまま恐る恐る声をかける。
「法師さま?」
「——……珊瑚お前、随分と積極的ですな」
後ろにくっついている珊瑚に視線を向け、驚きと戸惑いが入り混じった瞳を瞬く弥勒。無我夢中で抱きついていた珊瑚は、今の状況に気付き、火を灯した顔で慌てて弥勒から離れた。
「ほ、法師さまがいきなり、掛け軸に向かって歩き出すからだろ!」
「へっ?」
「弥勒さま、覚えてないの?」
紅潮した頰の珊瑚に掛け軸を指差して否定され、弥勒の満面に滲む困惑の色が更に深まる。動揺気味に小首を傾けた弥勒は、怪訝な眼差しのかごめに、真面目な表情で頷いた。
「はい。犬夜叉が妖怪を斬ると言った後、不意に意識が途絶え、次に気が付いた時には珊瑚から熱烈なお誘いを受けていました」
「違うって言ってるだろ!」
「あいたっ」
引き締まった顔で尚も揶揄ってくる弥勒に、珊瑚が真っ赤な顔で調子に乗る法師の背中を叩く。
割と大きな音が響いたが、弥勒は嬉しそうに笑っていて、あまり痛がっていないように見えた。
普段と変わらず珊瑚とイチャつく弥勒に半眼を向けた犬夜叉は、二人より前に出て鉄砕牙を構える。弥勒を操られたことで斬る瞬間を逃し、白く戻っていた刀身が再び赤く染まった。
「珊瑚。その馬鹿、もうちょっと抑えてろ。また引き寄せられる前に、あの掛け軸を叩っ斬る」
「折角なので、前からでお願いします」
もう一度、法師を引き止める役を任された珊瑚は、恥ずかしくて右腕の法衣を控えめに握る。
しかし、ニコニコと笑みを浮かべた上機嫌な弥勒が、両腕を広げて珊瑚に小首を傾け、先程みたいな抱擁を所望してきた。
「もうっ、馬鹿っ!」
否定してもお誘いだと曲解されて紅い顔で弥勒を睨んだ珊瑚が、前へと移動して微笑む法師に抱きつく。
揶揄われても怒っていても言う通りに動いたことに、我ながら法師さまに弱いなとむず痒くなる珊瑚。
はにかむように双眸を眇めると、目を輝かせたかごめと視線がかち合う。それにより、余計に恥ずかしくなって、香の匂いがする袈裟に顔を埋めた。