無事に掛け軸に潜む妖怪を倒し、確保した寝床で皆が寝静まる夜半。悪い夢を見た珊瑚が、勢いよく身体を起こした。冷や汗を垂らした怯えた表情に、恐怖が色濃く滲んでいる。
さっき見た目の前で弥勒を失ってしまう夢が、頭にこびりついて離れない。きっと掛け軸に潜む妖怪に操られた弥勒が、自ら進んで殺されようとしたからだろう。
荒い息を整えた珊瑚は、大丈夫だと言い聞かせても不安が拭えず、衝立の向こうに縋るような視線を向けた。なるべく静かに布団から出ると、四つん這いで弥勒の傍に行く。
弥勒は掛け布団を肩までかけて眠っていた。犬夜叉に背を向ける形で横たわっている為、珊瑚の視界に端正な横顔が映る。深い眠りに落ちているらしく、普段よりも気の抜けた柔らかい寝顔だ。
珊瑚が呼吸を確かめようと、弥勒の口元付近に手を当てる。手のひらにぶつかる静かな寝息が、彼の生存を告げてくれた。だが、それでも不安を払拭できず、珊瑚は布団からはみ出た右手を見下ろす。
掛け布団に隠れていて見えない右腕に、しっかり封印の数珠が巻かれているのか、布に隠れた手のひらの呪いに異変はない。珊瑚は左手でそっと弥勒の右手を掴み、念の為、手甲の上から脈を測る。
ようやく弥勒が生きている確証を得られ、心の底からホッと安堵の息を吐く珊瑚。知らぬ間に強張っていた身体から力を抜き、瞳を閉じて早鐘を打つ鼓動を落ち着かせる。
もう一度、ふぅ、と小さく吐息を漏らして目を開いた珊瑚は、ずっと眠り続け検証中も身動ぎ一つしなかった弥勒を見つめた。固く閉じられた彼の夜色の双眸に認識されたい衝動に駆られる。
ほとんど消えたとはいえ、まだ胸の中に燻る不安を取り除きたい。寂しいから起きてほしいという本音を指先に込め、珊瑚が迷子の子供みたいに不安で揺れる瞳で弥勒の頰を突く。
何度かツンツンと柔らかい頰を突いても起きず、次は後ろで一つに束ねられた黒髪に手を伸ばした。頭の形を確かめるみたいに撫でたり、サラサラと指の間をすり抜ける艶やかな髪を梳く。
しばらく、ずっと触っていたくなる黒髪を堪能した後、薬でも盛られたかと疑いたくなるほど昏々と眠る弥勒に、普通のことでは起きてくれないと判断した珊瑚は目線を移した。
緊張した面持ちの珊瑚が捉えたのは弥勒の尻。流石に布団越しとはいえ身体を撫でれば、起きるだろうと手を伸ばす。折角、落ち着かせた胸が、再びドキドキと早鐘を打ち始めた。
羞恥心と好奇心が入り混じった仄かに紅い顔で、恐る恐る弥勒の尻を撫でていつもの仕返しをする。
女の自分とは違う男らしい硬い尻の手触りに、他人の下半身を触っていると強く意識させられ、珊瑚の身体がかあっと燃えるように熱くなった。
しかし、ここまでしても、貝の如く閉じた弥勒の瞼は上がらない。何をしても起きない弥勒を見て、珊瑚の心の奥底に、ある一つの欲望が生まれる。
珊瑚はそれを抑えることなく実行しようと、鋭い聴覚の犬夜叉に聞こえそうなほど胸を轟かせ、弥勒の方を向いて布団の横に寝転んだ。恐る恐る頰に手を添えて、親指で優しく弥勒の唇をなぞる。
羞恥で水気を含む目を蕩けさせ、徐に弥勒の唇と距離を縮めていった。あと少しで唇が重なり合うというところで、ふと誰にも見られていないか気になり犬夜叉を見ると、勢いよく開いた金色の瞳と視線がかち合う。
「———————ッ!?」
「うぐっ!?」
珊瑚は鬼灯の花に負けないほど紅潮した顔で素早く身を起こし、咄嗟に枕を投げた。犬夜叉が弥勒に用意された枕を受け止めた顔面を片手で抑える。
「——……珊瑚、てめぇ。いきなり何しやがる」
「ご、ごめん。それより、突然どうしたのさ?」
痛そうに声を絞り出した犬夜叉に謝罪した珊瑚は、気まずげに目線を泳がせながら頰を赤らめて尋ねた。
閉じられていた瞼が突如あんなに勢いよく開いたら、たとえ接吻を迫ってなくても枕を投げたかもしれない。
珊瑚の問いを聞き、痛みに悶えていた犬夜叉が、顔から手を離して弥勒に目を向ける。眉を顰めた犬夜叉につられて、珊瑚もすやすやと眠る弥勒を見下ろした。
「弥勒からすげぇ甘ったるい臭いがする」
「えっ?」
指先まで衣の袖で隠した右手で鼻を隠して、嫌そうな渋面を作る犬夜叉の言葉に、きょとんとする珊瑚。
かなり近くまで顔を寄せていたが、焚き染められた抹香の匂いが、ほんのりと漂ってくるだけだった。
妖怪の嗅覚でしか嗅ぎ取れないのだろうか? と訝しむと、犬夜叉が弥勒の身体を包み込む掛け布団を片手で剥ぐ。
二人の視界に飛び込んできたのは、無数の蔦に締め付けられた弥勒の身体。法衣が皺になるほど強く絡み付いているのに、弥勒は苦しそうな様子もなく安眠している。
「これは……ッ!」
「知ってんのか!?」
見覚えのある光景に、珊瑚は大きく目を開いた。どこからともなく現れて弥勒を拘束する蔦に、動揺を隠しきれていない犬夜叉が、説明しろというように素早く珊瑚に視線を向ける。
珊瑚は硬い面持ちで首を縦に振ると、墨衣を纏う身体に絡みつき、うねうねと動く細い蔦に触れた。予想通り、退治屋の仕事中、仲間が何度か使用した道具に該当しており、狼狽の色を隠せない。
「これは、退治屋の里で作られた封印道具だよ。倒すと不味い妖怪とか、手に負えない強い妖怪を封印するのに使うんだ」
「解除できねぇのか!?」
「本体の砂時計を逆さにするか、法師さまが目を覚ませば、蔦は消えると思う。だけど、退治屋の里にあった道具を、一体誰が……」
蔦に伸びた犬夜叉の手首を掴んで触れるのを阻止し、何故か封印されている弥勒に怪訝な眼差しを送る珊瑚。退治屋の里は奈落の罠により滅ぼされ生存者は居ない。
つまり、誰かが復興の目処が立っていない里から持ち出し、弥勒に使用したのだろう。しかし、犯人に見当をつけられず首を傾ける珊瑚には、もっと不可解なことがあった。
それは、妖怪を封印する道具が、人間である弥勒に効いていること。幼い頃や退治屋として仲間と働いていた際、何度か目にした封印道具は妖だけを封じていた。
誤って人間に発動したり蔦に触れたところで、妖気を持っていなければ何も起こらないはずなのだ。現に、珊瑚は弥勒に絡みつく蔦を触っているが、封印されていない。
「かごめ?」
すると、難しい顔つきで瞳を伏せて考えていた珊瑚の耳に、犬夜叉の怪訝そうな声が届いた。顔を上げた珊瑚の視界に、険しい眼を部屋の外に向けるかごめが映る。
「た、助けてください。掛け軸の妖怪が……ッ!」
「えっ、お姫様!?」
それと同時に勢いよく解放された襖の向こうから、恐怖と不安で染められた表情の姫が駆け込んできた。素っ頓狂な声を上げて目を丸くしたかごめに、犬夜叉がすんっと鼻を動かして感心する。
「すげぇな、かごめ。何で分かったんだ? 全然、匂いも気配もしねぇのに」
「おらも全く分からんかったぞ」
「でも、かごめちゃん。分かってたにしては、びっくりしてなかった?」
いつの間にか起きていた七宝がかごめの肩に乗り、きょとんとした顔で姫を見上げた。珊瑚も二人に同意だが、姫を迎えた際のかごめの反応が気になり、動揺している彼女に尋ねる。
かごめは警戒心を露わにしながら、姫から目を逸らさずに小さく頷いた。かごめから困惑を孕む瞳で監視されている姫は、不思議そうに首を傾けている。
「——……お姫様だと分かってたわけじゃないわ。ただ、四魂のかけらの気配が、どんどん部屋に近付いてきたから」
「何!?」
硬い表情で姫を警戒し続けるかごめの答えに、犬夜叉が大きく目を見開いて咄嗟に刀に手を添えた。姫から妖気も感じなければ、妖怪特有の臭いもしないようで、全く気付いてなかったらしい。
珊瑚も眠る弥勒を背に隠して、壁に立てかけた飛来骨を構える。もしかすると、偶然、かけらを手に入れた普通の人間かもしれない。その思いが、犬夜叉と珊瑚に、攻撃を躊躇わせる。
「あの。どうして、四魂のかけらを持っているんですか?」
かごめも同じ思いなのか、姫にかけらを持っている理由を問いかけた。姫は何を言っているのか分からない様子で、困惑気味にかごめを見つめ返す。
演技か誤魔化そうとしているか見分けがつかず、かごめは気を張り巡らせて生唾を飲み、存在を主張するかけらを隠した場所に目を向けた。
その瞬間、少し面食らったように瞠目した姫が、ニヤリと笑って攻撃してくる。
「かごめ!」
咄嗟にかごめを抱き寄せて弥勒の近くに飛び退き、姫の身体から伸びた無数の蔦を避ける犬夜叉。先端は丸みを帯びていて細長いのに、鋭利な刃先を持つ武器で突き刺したみたいな威力だった。
「本当は法師の魂をいただくまで騙すつもりだったが、まさか四魂のかけらが見える小娘が居るとはな」
姫が床から大量の蔦を生やして悪どく笑い、先程と同一人物とは思えないほど雰囲気を変える。正体を見破られた割には余裕綽々だ。
姫の周りでうねうねと動く無数の蔦が、全く目覚めない弥勒を縛るものと同じで、道具を使った犯人だと悟る犬夜叉と珊瑚。
「だが、作戦に影響はない。当初より少し時間はかかるが、法師の魂はわしのものだ」
姫が勝ち誇ったように犬夜叉達を嘲笑い、不安など見る影もない瞳を妖しく眇める。
直後、弥勒のそばに避難していた七宝が、泡を食ったみたいな悲鳴に近い声を上げた。
「弥勒の指が砂になっておる!」
「えっ!?」
「何!?」
「どういうこと!?」
七宝の焦りと恐怖を混ぜた叫びで、珊瑚、犬夜叉、かごめの視線が弥勒に向く。弥勒の左指がジワジワと砂に変わり始めており、既に五本とも第一関節まで消えていた。
真っ白になり狼狽で埋め尽くされたはずの脳が、このままでは大切な人を失うと冷静に判断し、珊瑚の背筋を凍らせる。底の見えない深い穴を覗き込んだみたく、頭から血の気が引いていった。
まるで稲妻のように脳天から爪先まで突き抜けた恐怖に、冷や水を浴びせられたみたいに冷え切った身体を支配され、珊瑚は未だに眠り続ける弥勒を震える手で恐る恐る揺らす。
「法師さま。お願い、目を開けて」
しかし、弥勒からは寝息しか返ってこず、珊瑚は更に恐慌状態に陥った。規則正しい呼吸をしていて体温も感じられるのに、あまりにもぐっすりで生きているのか不安になる。
「やい、弥勒! いつまで寝てんだ、だらしねぇぞ! いい加減に起きやがれ!」
「法師さま、起きて! 法師さま……ッ!」
犬夜叉が追い詰められたように酷く慌てた声で怒鳴りながら、弥勒の身体を拘束する蔦を刀で切り裂いた。珊瑚も悲痛な叫びと共にもう一度強く揺するが、弥勒の瞼は上がらない。
亀の歩行ほどの速さだが確実に進む砂化により、弥勒の左手はもう指の付け根までなくなっていた。