深く沈んでいた意識が浮上し、ゆっくりと瞼を上げる弥勒。一度も目を覚まさず朝を迎えたのは久々だ。だというのに、徹夜をしたみたいに、身体が妙に気怠く重たい。
ボーッと天井を見ていると、人の気配を感じて左に流し目を送る。眠たいわけではないのに半分しか開いていない瞳に、憂慮を孕む暗い顔で左腕に密集する仲間が映った。
珊瑚が不安を色濃く滲ませた面持ちで、弥勒の左手首を掴んでいる。その膝上に座り、左手を両手で触る七宝。何かを確かめるように左手を睨み、両手で揉んでいた。
テストと戦うべく参考書に目を走らせるかごめも、反対の手は弥勒の左の前腕を離さない。犬夜叉ですら仏頂面で睨め付けながら、法師の左側の上腕を強く握っている。
「——……何故、私の左腕にお揃いで?」
何一つ理解できず夜色の瞳に困惑を宿し、弥勒は寝起き特有の掠れた声で疑問を投げかけた。眠たげだった双眸を、戸惑い気味に瞬く。就寝中、珊瑚が証拠を隠滅した為、綺麗に着せ直された法衣の左袖だけ皺になっていた。
動揺する弥勒の声が耳に飛び込んできた瞬間、一斉に左腕から法師へと視線を集める仲間達。ビクッと小さく肩を揺らした弥勒を視界に捉え、憂色が滲む表情を安堵の色に塗り替える。
泣き出しそうな安心したような顔を向けられ、弥勒は更に当惑した。珍しくあからさまに狼狽している弥勒に構わず、七宝が胸に飛び込み袈裟にしがみつく。
「弥勒ーーッ!」
「遅いよ、法師さま。心配したんだからね!」
「よかったぁ。全然起きないから、やっぱりダメだったのかと思ったわ」
「ったく、ぐーすか爆睡しやがって。だらしねぇぞ、弥勒」
「は、はあ……」
涙目でくっつく七宝を支えて身体を起こした弥勒に、珊瑚も前から抱きついてきた。子狐ごと腕に包み込んだ珊瑚に瞠目する弥勒をよそに、かごめがホッと胸を撫で下ろす。
悪態を吐く犬夜叉まで安心しているのが丸分かりで、弥勒は困ったように小首を傾げた。声を押し殺して泣く珊瑚の背を撫でながら、視線でかごめと犬夜叉に説明を求める。
「法師さま、ご無事でしたか!」
すると、かごめの説明より先に、慌ただしい足音と共に姫が現れた。昨夜、月光に照らされて妖しさを醸し出していた姿と同じで、弥勒以外の肩に思わず力が入る。弥勒は更に困惑した。
部屋に飛び込んできた姫は、焦燥に駆られた表情で弥勒の頰に手を添える。酷く沈痛な面持ちだ。だが、まだ昨夜のことを知らない弥勒は、戸惑い気味に瞬きをして、軽く身を引いた。
後悔の念を抱く気遣うような姫と、ひたすら当惑中の弥勒が見つめ合う。しばらくして、珊瑚がさりげなく弥勒に身を寄せたところで、鈍い音を鳴らし床に額を打ち付ける姫。勢いが良すぎて、一瞬、土下座だと分からなかった。
「私が妖怪に騙され閉じ込められたせいで、法師さまに多大なるご迷惑をお掛けして、本当に申し訳御座いませんでした!」
「えっと、すみません。それは、どういう……」
「えっ? ——あっ! もしかして、今、お目覚めになられたばかりですか?」
「ええ、まあ……」
困った顔に笑みを咲かせた弥勒の問いに、深々と下げていた頭を上げる姫。弥勒の弱りきった表情に、昨夜のことは何も知らないとありありと書かれている。
では、ご説明致しますと前置きをして、義務感に駆られた姫が詳細を語り始めた。まるで肉眼で見ていたかのような口ぶりに、犬夜叉達が揃って怪訝な表情をする。あの場に居た彼女は偽物のはずだ。
「——なるほど。そんなことが……」
簡単に一通り説明を受けた弥勒は、今はもう解放された左手に目を落とした。肩から手首まで伸びた腕から、しなやかな指先までちゃんとある。
難なく動かすこともできる己の手が、熟睡中に砂になっていたなど信じられない。だが、封印されていたというのであれば、昨夜から眠り続けていたのも合点がいく。
「すみません。皆にはご迷惑をおかけしましたね」
「ちょっと……」
未だにくっついたままの珊瑚を右手で抱き締め、反対の手で柔らかい尻を撫でながら嘆息する弥勒。自分の不甲斐なさに落ち込む弥勒を咎めるも、珊瑚はいつもみたいに彼の頰に紅葉を刷らない。
抱き締め返されたことで腕の中に収まり、肺腑いっぱいに香の匂いが広がる。とくん、とくんと鼓膜に届く心臓の音に耳を傾け、珊瑚は儚げな双眸を伏せた。説明を聞いたことで、昨夜の感情が蘇る。
確かに弥勒を失う恐怖に怯え、ずっと薄氷の上に立っている心地だった。けれど、砂時計の破壊により、弥勒から愛されていると知れたのだ。口が裂けても言う気はない為、心の中に閉まっておくつもりだが、悪いことばかりではなかった。
ついでに着物を脱がせて弄ったことも思い出し、珊瑚の頰が朱色に染まる。弥勒と目を合わせるのが恥ずかしくなり、隠すように色づいた満面を袈裟に埋めた。
「……珊瑚?」
「な、何!?」
尻を撫でても怒らない珊瑚の頭上から、弥勒の怪訝な声が降ってくる。大胆な行動を鮮明に思い出し、一人で顔を紅くしていた珊瑚は、大袈裟なほど肩を跳ねさせ弥勒を見上げた。驚きのあまり声が裏返る。
仄かに色づいた頰と、動揺を誤魔化すみたく咲いた笑み。焦りと驚愕でドキドキしているのが一目瞭然な珊瑚に、ジーッと訝しげな眼差しを突き刺す弥勒。しばらく珊瑚を観察した聡明な頭が答えを弾き出す。
「お前、もしや——」
「そういえば、どうしてお姫様が、昨日のことを知ってるの?」
眠っている間に何かしたのか? そう続くはずだった疑問は、かごめの唐突な質問で遮られた。バレそうになり逃げ出しかけた珊瑚は、こっそりと安堵の息を吐く。
「私は結界が張られた部屋に閉じ込められ、ここ最近、妖に姿形を模倣されておりました。妖怪は法師さまや巫女さまが自身に殺されて、それを見てしまった私が怯えるのを楽しむ為、私と自分の目を魂を媒介に繋げていたのです」
「つまり、繋がっていた妖の目を通して、全部見せられてたってわけか」
「はい」
弥勒と珊瑚を興味津々に見ていた姫が、顔をうつむかせて犬夜叉に頷いた。自分の姿に騙された巫女や法師が、何人も獲物にされるところを見てきたのだろう。申し訳なさそうで苦しそうだ。
「……かごめ様。今、わざと話を変えませんでした?」
「あははー、気の所為じゃない?」
暗い雰囲気の中、不満気な弥勒が、かごめにジトッとした目を浴びせる。珊瑚を守る為にわざと遮ったかごめは、乾いた笑みと共に視線を泳がせた。
だって、仲間も姫も居る前で、本人に昨夜の行動を話すなんて、あまりにも可哀想ではないか。かごめも何があったか詳しく知らないが、珊瑚にしてはだいぶ攻めていたはずだ。
「あ、あたしも一つ聞きたいんだけど」
「何でしょう?」
かごめに救われた珊瑚が、おずおずと右手を挙げる。照れていた名残りで微かに紅い頰と、小動物みたいに庇護欲を擽る瞳に、姫は少し面食らいつつ首を傾げた。
「退治屋の里にあるはずの妖怪専用の封印道具を、どうやって人間の法師さまに使ったのか分かる?」
今回の騒動で最も疑問だったこと。退治屋の里で何度か見た際は、妖を封じていた道具が人間に牙を剥いた。その理由を求める珊瑚に、姫が首を縦に振る。
「それは簡単です。道具の中に封じられた妖の魂を全て捉え、砂に変えて妖力を高めることで蔦から支配権を奪ったのです。退治屋さまはあの蔦が元々は妖怪だとご存知なのでしょう?」
「うん。退治屋の鎧や武器、道具は、倒した妖怪の亡骸を使って作るからね」
「あの蔦には持ち主が死して尚、魄を縛る妖力が込められており、大抵は逆らうことができません。しかし、数多の妖怪を養分とし、一気に妖力を増幅させた彼奴は、蔦を凌駕し機能を変えたのです」
道具を作る里の皆を思い浮かべる珊瑚に、姫が話を締めくくった。悲しげで懐かしむような瞳を垣間見せた珊瑚は、里の道具をどこかに移そうと決意する。もうこれ以上、里の皆が作った道具達を、悪用されたくない。
「きっと、四魂のかけらを持っていたのも、その蔦に勝った理由の一つね」
「ああ。四魂のかけらは、一つでも厄介だからな」
取り上げたかけらを集めた瓶を出し、かごめと犬夜叉が頷き合う。犬夜叉はあっさりと倒していたが、思っていたより厄介な妖だったようだ。
すると、妖怪の目を通して見てきたことを説明し終えた姫が、パッと顔を明るくして珊瑚の両手を握る。何やら恋を応援する時のかごめみたいで、珊瑚は嫌な予感がした。
「ところで、退治屋さま! 砂時計を探す為に法師さまの袈裟を解いた後のことを、詳しく教えていただけますか!? ずっとお伺いしたいと思っていたんです!」
「ええっ!?」
「ほう?」
姫からのとんでもない要求に、珊瑚の顔がかあっと燃えるように熱くなる。含羞を色濃く滲ませた目を瞠り固まる珊瑚に、弥勒まで企みを孕む碧瑠璃の瞳を輝かせた。青金石を彷彿とさせる双眸が、興味深そうに光っている。
「実は妖怪の目を通して法師さまと退治屋さまの様子を楽しんでいたのですが、半妖さまの攻撃で妖怪が弱り結界が解けた際、目の繋がりもなくなったのです。なので、あの後に退治屋さまが法師さまにどんなことをしたか気になって……」
「私も何があったのか気になりますなぁ」
「うっ。わ、悪いけど、必死だったから、もう覚えてないよ」
呂色の瞳をキラキラと輝かせた姫と、悪戯っぽく微笑む弥勒にたじろぐ珊瑚。何度か動揺を押し隠すと、頰に一重梅を咲かせて、目線を遠くに逸らした。
しかし、優しく顎に手を添えた弥勒により、恥じらいを全面に出した顔の向きを戻される。狼狽える珊瑚の視界に自分を映した弥勒は、顎の手を頰に移動させた。
「朱色に染まったお前の顔は、覚えていると言ってるのに?」
「〜〜〜〜ッ!」
揶揄うように双眸を眇めた弥勒に、親指でそっと撫でられた珊瑚の頰が、淡い薄桃色から唐紅へと色を変える。柘榴の果実みたいな紅味を帯びた真紅の満面を、見られないよう両手で隠した。
楽しそうにクスクスと笑いながら見せて下さいと告げる弥勒と、耳まで真っ赤にして抵抗する珊瑚が攻防する中。完全に置いて行かれた姫が、緩みそうになる口を勢いよく両手で覆い隠す。
「はあぁぁぁ……、法師さまと退治屋さまの戯れを、目の前で拝めるなんて夢のようです! 眼福……ッ!」
興奮した声色で歓喜を叫び、身分など捨てて床を転がる姫。気持ちの昂りが最高潮に達しているせいか、涙目で苦しそうに呼吸を繰り返している。
「ひ、姫が倒れたぞ!」
「幸せそうな顔してるし、そっとしておきましょう」
「今にも死にそうになってるけどな」
釣り上げられた魚みたく暴れる姫に怯え、生暖かい眼差しをおくるかごめの肩に乗る七宝。狂喜乱舞で着物が乱れてもお構いなしだ。
小狐に怯えられている姫は、顔から離れた手で心臓部を強く掴み、身を丸めて呻き始めていた。半眼を向ける犬夜叉の言う通り、今にも意識を飛ばしそうだ。
その後、弥勒の揶揄に耐えきれなくなり、真っ赤な顔で昨夜の出来事を叫んだ珊瑚により、姫は無事に力尽きた。