モブ娘-BIZARRE DERBY-   作:歌楽須

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モブウマ娘って、多くね?と思い。これって一人くらい借りても、良くね?と思ったので書きました。後悔は無い…。


序章 ようこそトレセン学園

 或る昔のことです。当時といえばあのマルゼンスキーがその名前を轟かせていた頃でした。

 大地を駆ける幾つもの影。今となっては想像もつかないけれど、彼女たちのような傑物が縞を削る時代。皇帝も覇王も未だ舞台にはいない、近くて遠い過去。その重く踏みしめる足音の多さは、決して褪せる事なく今に続いています。

 

 

 当時は今の如き群雄割拠とはいきません。皆が鏡合わせのように歯を食いしばって技を磨き、芝に幾つもの傷跡を残していました。何時からか、塊になった群れから顔を出す者も現れました。

 先に申し上げた彼女もその一人。

 技が生まれ、道具が生まれ、戦術が生まれ、ゆったりとした時計の針がにわかに動き始める。思えば、ここから歴史が足を早めていったのでしょう。

 

 

 高く伸びる坂が蹄鉄の音を響かせる。

 濁流を流れる砂金と、周りに転がるカラフルな石の群れ。時折未来はそこにひょいと現れて、流れに乗る砂金だけを拾って満足顔で帰るのです。

 

 

 二つめの曲がり角。建てられたレーンに張り付くように大地を蹴った。

 このお話はそんな時代の思い出語り。砂金を囲む、黒い小石の物語。

 

 

 過去も未来も、勝利以外を坂の下に振り切って、最後の直線。眼前風を切る尻尾を見ると、同時に湧き上がる理不尽への怒り。顔にのしかかる風を肺に詰め込んで、最後の勝負へ踏み込んだ。

 

 

 彼女の名はアレイキャット。この物語の幕開けは、取るに足らない、小さな出会いから始まりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼は今心から清々しい気分でいた。それは学園行事と重なった休日が別の日にずれ込んで休みが増えたこともそうだし、それに合わせて有給を贅沢に取り、ある田舎まで孤独に旅に来たことも理由だった。

 

 

 早朝の河川敷は彼一人だった。東から目を覚ました太陽に半身を照らされる形で彼は歩いていた。そして彼にとって(或いは彼の友人にとって)非常に珍しい事に、鼻唄すら歌っているのだ。

 人好みされないであろう、彫りの深い、やくざな顔に笑みを浮かべて、軽い足取りで彼は町を眺めていた。

 

 

 目下数え切れない田畑が見事なモザイクアートを完成させている。稔りに稔った稲穂は金色の海を思わせる、ふと昨日の旅館の夕餉を思い出して(地元の有名な白米を使用していた)、今日の楽しみが増えたと彼は喜ぶ。冷え冷えとした風が、調子の外れた歌を運んで行く。耳をすませば、革靴もリズムを刻んでいるとわかる。

 

 

 彼は歩き続けようとして、踏み出そうとした一歩を止めた。実を言えば、彼は目的地がある訳では無かった。当てもなく歩くのも、また一興じゃないかと、殊更享楽的な思考を持って旅館の部屋を飛び出したのだった。にも関わらず、彼はこれもまた旅の楽しみだと、自虐的な笑いを浮かべた。笑顔が怖いと生徒を遠ざける悪どい顔は、幸い誰にも見られる事はない。

 暫く歩いていたが、心に滲んでいく虚しさに耐えられなかったのか。結果はこの通り、何処にも行くことのできない、寂しいおっさんがポツンと立っているのであった。

 

 

(せめて本田さんか藤井を呼べば良かった。いいや、今更後悔しても意味が無い。レースも人生も、塞翁がウマだ)

 

 

 この辺りに何か観光名所はないのだろうか、とジーンズの尻ポケットからスマホを探し当てると、電源をつけた。そして広がる通知の数々。緊急、至急と銘を打たれた、要するに出勤要請の山だ。その中には送り主が本田や藤井となっているものも多く、そして宛先が親愛なる同僚へと書かれたものもまた多い。

 

 

 彼は稀に、(決して故意などではないと三女神に誓えるが)最悪の場面で有給を取るので嫌われていた。

 

 

 最後まで見るのに一日はかかりそうだ。なので、彼は見なかったことにした。たとえ知人がどれほど過酷な業務を強いられていたとしても、今日の彼には有給を消化する大事なお仕事があるのだから。そう思い直して、彼は記憶と通知表示を消した。途端にさっきから背中に張り付いていた緑帽子の女の幻覚が晴れたような気がした。

 そして「M市 観光名所」と打ち込む。   

 

 

(ほぉ、この辺りは神社が多いのか。縁結びのお守りでも買って行こうか)

 

 

 と、考えて、画面に映る時間が八時を示していることに気づく。薄暗さを残していた空は既に青々とした色を取り戻していた。一時間くらい歩いたらしい、と、大体このような事を考えて、向こうに見える橋のあたりで引き返す事を決めた。

 

 

 彼は余りある時間を使って散歩を続けた。何しろ今日は起床からとても素晴らしい心地だったのだから。髪を整え、髭を剃り、出張用の高級コートを着こなしている。そして、もしかしたら、念願の交際相手となる女性が現れるのではないかと淡過ぎる期待を胸にしまっているのだった。御年30歳。そろそろ人肌が恋しい季節。

 楽しい時間は瞬く間に終わった。気がつけば川に横たわる橋が右手にある。顔を反対側に向ければ、遠くにホテルが見えた。結局河川敷に人が現れることはなかったが、これも仕方の無い事と割り切る形で彼は田園に続く階段を踏んだ。この、丁度その時。

 

 

 一陣の風が彼の背中を押した。幸いそれは彼のガタイの良い背中を、風に揺れる枯草のように傾けるだけで惨事は起こらなかった。しかし原始的な反応に突き動かされた彼が振り向くと、河川敷上の一本道を通る、初めての通行人がいた。

 

 

 水色を基調とした簡素なジャージの彼女は、足元の砂利を蹴り飛ばして走っている。既に彼の前を通り過ぎてその背中を拝むことしかできないが、刻一刻と小ささを増す彼女に、彼の目を惹くものが二つあった。

 一つ目は、鮮やかなピンク色の映える帽子。膨れ上がった輪郭が特徴的だった。そしてその後方、空いた穴から生物の尾のように、黒い一筋の髪を垂らしている。髪は彼女の走るにつれて、振り子のように揺らぐ。

 そして二つ目。これが、彼の小さな疑問を直ぐに解決させた。彼女を見た時、彼は少なからず驚いたのだ。成人男性の体が動かされる程の強風が、どうして人間が走った程度で起こせるのだろうか。

 

 

 つまり、少女は人ではなかった。空に続くジャージの色の上を、黒髪が泳ぐ。そして、髪の先には、もう一本の毛の束があった。

 それは腰の辺りから伸びる、形容詞的な意味ではない正真正銘の尻尾であった。この世界では、彼女のような尾を持つ人をウマ娘と呼ぶ。

 

 

 彼女らは耳と尾、そして人を超える力を持つ。走れば自動車並みの速度を出すし、馬鹿げた大きさのタイヤを軽々と引いていく。当然、肌の色程度で争う人類が別の似た種族と一緒に生活するなど差別や対立が発生するに違いないという疑問が浮かぶかもしれない。しかし、現在から遠い過去までウマ娘と人間は奇跡的な均衡の元で共存を可能にしており、歴史上種族間対立などは無かった事を明記しておく。

 過去どのような事が起きていたのか、それは我々の知り得る所ではない。どうしても納得がいかないと思ったなら、中央トレーニングセンターの本田という男を訪ねて欲しい。優秀な指導者(その時代のカエサルやナポレオンに当たる人物)がウマ娘に友好的だったからなどと、早口で教えてくれるだろう。

 

 

 兎も角。彼から遠ざかる彼女がウマ娘である事を彼は知った。よく見れば頭も両端が何かによって押し上げられているだけで、真ん中が不自然に凹んでいる。その中にはきっと、耳があるに違いなかった。

 

 

 そのまま彼は河川敷を降りていく水色を見送った。一呼吸を挟んで階段を降りる。革靴が固く響く度、眉間の巌を思わせる皺が硬くなる。その心には、感慨深いものが込み上げていた。

 人を遠ざける生来の癖が木漏れ日の下で続く。冷ややかな朝の大気を貪って彼は考える。

 

 

(そうだ、いや、困ったな。これでは休みにならない。でもなぁ)

 

 

 彼女たちは元気だろうか。堅物な彼は懐古と休暇の間で悶々と思いを馳せる。思い出せば溢れる記憶の一つ一つを懐かしみながら、彼は階段を降りる。担当した初めての生徒が、後半年も経たずに学園を去るのだ。時間の流れの速さを、改めて実感させられる。

 

 

 意図せず微笑んで、石段を叩く。硬い音色は十分過ぎる程よく響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼は結局、川を去った後ホテルへと足を戻した。レストランはバイキング形式で、並んだ料理の中でも名物の米粉を使ったパンを見て衝撃を受ける。日本人は何でも米と合わせたがる、と苦笑したが結局興味に抗えず三つも食べてしまった。 加えて非常に美味だったため、やはり驚愕だった。

 食い溜めを済ませると、機械的な挨拶に背中を押されて扉を後にする。その右手は質素な紙袋を持っている。バスを乗り継いで小一時間。彼は気にかけていた縁結びの神社へと向かった。

 

 

 その一時間と数分後、びくしょん、と、品の無い豪快な嚔が大地に舞った。足場を埋め尽くす枯葉が鳴らす、規則的な乾いた音。頭上に広がる枝葉は秋風に洗われて一足早い冬を迎えていた。その上では、青空が横たわっている。

 今日は風が強く、むずがって鼻を擦る男にも容赦は無い。冷え切った大気が、徐々に体温を奪っていく。決壊した我慢が、一瞬体を震わせる。

 

 

「ひっくしょん!」

 

 

 あまりの寒さに、既にコートのボタンは全て留められている。山の頂上に続く勾配のある参道に沿って絶えず風が吹き付ける。視界の端で、道の横に立てられた旗が風に煽られ暴れていた。

 彼の心は既にげんなりと萎んでいた。時期外れな白い吐息も、その憂鬱を膨らませる。

 

 

(お参りしたら早く帰ろう。手が痛くなってきた)

 

 

 そう思う彼の左手は固くポケットに押し込められているが、右手は紙袋を持っているせいでどうしても外に出さざる得ない状況だった。白い吐息を吐き吐き、砂利と枯れ葉を蹴散らして、身を切り刻む寒さと悪戦苦闘すること十分と少し。彼は神社に辿り着いた。

 巨大な金鎚で叩かれたような、真っ平らな大地の真ん中にその社は建っていた。焦げついた茶色の材木は、埃を被っていたわけではないが、なんとも時間の流れを想起させる。境内は三方を巨きな木々に囲まれているため、少し暗かった。また、鳥居から見て左手からは海が見えた。遠くにぼんやりと島があるのが分かる。所々禿げた朱の鳥居を潜り、境内の石畳に足をかけた。コツ、と革靴が鳴る。

 

 

 まずは手を清める。非常に悩んだが、結局両手を洗うことにした。蛇口から流れるキンキンに冷えた水は、完全に彼の指を破壊した。最早その指は小刻みに震えるばかりである。ハンカチで綺麗に拭き取って、流れるように賽銭箱の前に足を運ぶ。

 社の中は畳張りで、奥に金色の彫像が鎮座している。襖は隙間無く閉じられていて、物音一つ聞こえてこない。さっきから人の気配一つ無いので、恐らく神主も居ないのだろう。彼は不意に寒気を感じた。暗がりに沈む彫像に見られているような心地がして、鈴を鳴らす事も忘れて賽銭だけ投げて踵を返した。

 

 

 手洗い場横のベンチを見れば、上に置いたはずの紙袋が石畳に転がっていた。手を伸ばしてそれを掴み、境内から去るための数歩をまたたく間に駆け抜ける。背後に取り憑くような、何とも奇妙な恐ろしさが離れない。脳裏に張り付いた不快感が拭えない。故に無意識に足が早まる。彼はいつの間にか憎々しく思っていた寒さも忘れて、首を縮めて、鳥居を跨いだ。

 

 

「おい」

 

 

 心臓が止まった。絶叫の声を上げずに済んだのは偶然だった。誰も居なかった筈の背後に誰かが居る。それはカツカツと耳に届く足音が証明していた。全身が粟立ち、舌がカラカラに乾く。俺が動くよりも先に、その誰かは続ける。

 

 

「おい、こっちを見な…こっちを見ろって、言ってるんだぜ」

 

 

 その声に恐ろしい悪魔のような鋭さは無く、恐怖を催す物々しさは無い。寧ろ、柔らかく澄んだ、少女の声だった。

 

 

 生唾を飲み込む音が鼓膜を震わせる。多少和らいだ硬直をそのまま、首だけを振って背後を見た。右に流れる視界の終わり。赤焦げた社殿を背にして。高く突き抜ける青空の下で。一人、灰色の滲む道に立っている。

 黒髪の、若いウマ娘に見える。

 その子はのろのろと右手を上げると、いや、のろのろと右手で彼の右手を指し示した。どきりとした。幾つもの仮定が脳髄で弾けたが、この紙袋の中身はパン屋で買った只のカツサンドだ。それも冷めたやつ。ずずっと鼻をすすりながら、もしかして腹が減っているのか。などと、非現実的な予想も浮かんだ。

 

 

「おっさんそいつは、私のだ…か、返してくれ」

 

 

 目の前の彼女は白い息を吐きながら言う。その顔は険しく、声は震えていた。訳が分からない、としか思えなかった。そもそも何故少女がこんな辺鄙な所に居るのか(彼女は私服と思われるデニムと暖かそうなでかいコートを着ていた)。彼の貧しい女性観から見ると、町中でスイーツ屋を尋ねるような格好で登山をしていることになる。その上この子は自分のカツサンドを奪おうとしている。

 必死に逡巡を重ねて、取り敢えず彼はこちらの立場を明かすべきだと考えた。万が一なにかの勘違いならそれで良いとも。そして、躊躇いがちに返す。

 

 

「あの、なにか勘違いされてるかもしれない。これは只のカツサンドで、さっきサンジェルマンで買ったんだよ」

 

 

 ほら、と袋を開けて、中身を見せようとした。しかし彼は気づかなかった。少女の顔が瞬く間に青褪め、飛ぶように石畳を蹴った事を。その音に顔を上げた時には既に、小柄な体躯が目前に迫っている。

 

 

 結論から言えば、紙袋は2つあった。この日、地域は強風に見舞われており、少女の持つ紙袋も、風に攫われて飛ばされてしまい、探しに来た少女は彼の持つものが自分のものだと勘違いしたのだった。現在、彼女のものは境内を囲む茂みに捕まっている。

 彼からすれば完全なとばっちりで、運が悪かったとしか言えない。しかし後悔は先に立たず。時計の針を戻すことは、どんなものであろうとできない。それが、なんであろうと。

 

 

「やっ」

 

 

「お」

 

 

 ずるりと小柄な体が滑った。不格好な受身の姿勢を取りながら、脇腹に突っ込んだ硬い頭蓋の衝撃が臓腑をへしゃげさせる。潰れた肺から掠れた呼吸が漏れた。

 二人でもつれ合って倒れ込む。幸いには少女は自分が下敷きになって怪我をせずに済んだようで、不幸にも自分は腰を強かに打ち付ける事となる。

 

 

「うぉ…かぁーっ…」

 

 

 真っ先に腰に手を伸ばす。痛いと思った瞬間、脂汗が吹き出た。嘘だ。俺はまだ30だぞ。こんな、くそぉ…。じわりと、痛み以外の何かが胸に広がった。

 その後、腹の上の重みで少女の存在を思い出す。視線の先で、彼女は倒れ込んだまま素早く落ちた袋に手を伸ばす。そして視線の先で、冷めたカツサンドを見た。

 

 

 それから彼女は飛び起きて、一度視線を合わせた。けれども直ぐに周囲を見渡して、ぐるぐると回りながら何かを呟いている。つぶやきの最後、掠れた声で小さく、どうしよう。と聞こえた気がした。

 彼女が一歩遠ざかる。二歩、三歩と、踏み出した足が、金縛りに遭ったかのようにそこで止まる。そしてもう一度だけ、こちらを見た。彼女の肌はとても白く、人らしき赤みが全て抜けてしまっていた。そしてひどく狼狽した様子で、視線だけが俺を捉えている。

 

 

 痛みが収まりつつあり、よろめきながら立ち上がって、改めて彼女をよく見てみた。改めて見ると、とても若い少女だ。中学生くらいだろう。で、どうしようか。本当になんなんだろうこの奇妙な状況。そうだ、まさか観光客を狙ったスリか?いや、財布もスマートフォンもある。違うか。じゃあ、一体。

 

 

「あ…あの」

 

 

「え?」

 

 

 彼女から何か言ってもらえると思い喜んだけれど、すぐに押し黙ってしまった。しかも、まじか、おい…待て、泣くんじゃない。お前から突っ込んできたんだぞ。俺腰痛めたんだぞ。

 

 

(状況が…「悪化」しているッ!)

 

 

 彼女はとうとう泣き出してしまった。俺も泣きたかった。だが...堪えた。

 そこには大人の意地があった。心はまだ20代でいたかった。そして、建前と言うには大き過ぎて、本音と言うには気恥ずかしい。トレーナーとしての誇りがあった。

 

 

「ねぇ、君」

 

 

 肩が揺れる。ごめんなさい、と言おうとした彼女を押し留めて、片膝をついて視線を合わせた。

 

 

「何か困っているなら、手伝えるよ。俺、トレーナーやってるんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ…あった!」

 

 

 背後から聞こえる喜色を含んだ声に思わず振り返る。彼女は鳥居の横の茂みを覗き込んで何かを大事そうに抱えている。声を掛けると、こちらに駆け寄ってくる。

 

 

「ありがとうございます!本当にありがとうございます!」

 

 

「うん。俺も、探し物が見つかってよかったよ」

 

 

 ほんと、焦り始めた時に見つかって助かった。これ以上追い詰めるのは精神的に辛い。ポケットに引っ込めた手が財布に当たる。この身分証が有ったおかげでだいぶ助かった。明らかに態度軟化したもの。

 

 

「それと、なんだけれど」

 

 

 彼女の顔が強張る。俺の視線に気づいたのか、やはりウマ娘は勘がいい。ほんの少し、彼女は後退する。さて、ここは言葉を選ぶべきだ。なんと言えば警戒されないかな…。

 

 

「その、そう。君のそれ。疑っているわけじゃないし、態々除いたりもしない。ただ一つ教えてほしい。そのー…事件性は、無いんだよね?」

 

 

 そう言うと、彼女は少し呆けて、千切れんばかりに顔を振った。

 

 

「無いです!全然!もう全く無い!」

 

 

「そ、そっか。分かったよ」 

 

 

 本当です本当です。と必死に繰り返すがもう十分伝わっているので手で押し返す。後ろを向いて彼女の顔が見えなくなると、急に思考が落ち着いてきて、なんだかとても温かい気持ちになった。人助けっていうのは気分がいいなぁ、来た甲斐が有ったってもんだ。

 彼女に手を振って、それじゃあ、と神社を後にする。浮き上がる心と反対に、疲労で足が重かった。苦労しいしい鳥居を潜って、何もかもが背後へと消えていく。太陽は既に中天を過ぎていた。僅かな時間の、小さな偶然だ。だが、こういうのも悪くない。

 

 

「あの!」

 

 

 今度は自分が立ち止まる番になった。それを察して、彼女は立て続けに、我武者羅に言う。

 

 

「私!あの!近くのトレーニングセンターに行ってて!」

 

 

「高校になったら、東京に行きたいんです」

 

 

「お金の問題とかは大丈夫で、あとはもう試験だけって感じなんだけど」

 

 

「あの、中央のっトレーナーなんですよね!?私、東京で走りたいです!」

 

 

「あの、あの、あのっ」

 

 

 何度も何度も噛んでいた。聞き取り辛く、何を言っているか分からない所もあった。けれど、良心を痛めるのを恐れたのか、その声の真摯さに心を打たれたのか。振り返って、聞き届けることにする。

 

 

「どうしても、中央に行きたいんです。そっ…それでえ!」

 

 

「中央に行くためには、どうすればえいですか!!」

 

 

 噛んだな。いや違う。目の前で顔を赤くする少女。このまま黙っていればずっと俺に問いかけてくる、そんな気を起こさせる程に鬼気迫るものがあった。

 それは叫びのようにも聞こえた。偽り無く、自分の内面を全部ぶちまけられてしまった。この年頃の少女には珍しい、と思う。答えに詰まって、空を仰いだ。どこまでも青い。目は何も捉えず、耳は何も聞こえない。感じるのはただ、この胸に広がる、言いようもない熱だけだ。

 

 

「中央は、地方とはレベルが違う」

 

 

 精一杯、言葉を吟味した。この訪れるであろう未来のスターに。今自分が出来ること全て、やりきってあげたい。無意識に、そんな子供染みた感情が脳を満たしている。脈打つ心臓が、喉に、脳に、血を滾らせる。

 

 

「全国から選び抜かれた生徒たちがいます。この国の上澄みを掬い取ったような場所です。当然、化け物みたいな奴がポンポンいるんですよ」

 

 

「中央を夢見る、君と同じ大勢のうち半分は、結果を出せずに終わってしまう。努力すれば、お金をかければ、そんな淡い希望を抱いた生徒が数え切れない程消えるのが、中央です」

 

 

 そこで一度言葉を切った。現実を突きつける事も重要だが、彼女ならそんな心配はいらない気がした。だから、その背中を適切に後押しする一言。それが欲しかった。

 

 

「だから、その熱意を失わないようにして欲しい。それが一つ目。そして、二つ目は、知識を大切にしてください。筆記試験のためだけでなく、走る知識だけでもなく。知識への貪欲さを身につける事。それは、気が付かなかった新しい物の見方を与えてくれるからです」

 

 

 紙袋を抱いて、彼女は静かに俺の話を聞いている。決して視線を俺から離さない。その姿に、背を押される感覚がした。

 

 

「それと、最後に。試験の練習をやっておいて下さい。いいですか、「試験」の練習です。本番で実力を発揮できるように。学校でもうやってるかもしれませんけど、何度もやっておくことをお勧めします。勿論筆記だけでなく走りについても。内容も時間も全く同じものをやっておいて体を慣れさせましょう。試験で多少緊張せずに済みます」

 

 

 これくらいで、いいだろうか。何か言ってくれねぇかな。担任に言われてる事と被ってたりしたら嫌だなぁ。その後言う事が尽きて沈黙が流れ、いたたまれなくなったので、それじゃあ頑張ってくださいと言って帰ろうとして、重大な問題に気づいて最後にもう一度、本当にもう一度振り返る。

 

 

「ごめん!名前、聞いてなかった!」

 

 

 少女は、口を動かした。中々声を出さなかった。困惑する俺を無視して、両目いっぱいの涙を拭く。そして、今日一番の大声で、その名を告げた。

 

 

「私っ、アレイキャットって言います!」

 

 

 アレイキャット、アレイキャット。その名を忘れないように、心にこれでもかと留め付けた。そして、アレイキャットを見据えた。

 

 

「アレイキャットさん。中央で待っています。頑張って下さい」

 

 

「…あ、ああっ…はい!」

 

 

 満面の笑みを見届けて、漸く俺は山を降りた。バスに乗っている間も、ホテルで食事する間も、何かに背中を押されている感覚がした。昼間の名状しがたいあの熱さが胸に焼き付いている。

 結局、その後の予約を全てキャンセルして府中へと帰った。同僚からの詰問攻めに遭ったことは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 府中の駅は紫色の制服で溢れかえっていた。目の前で混ぜ返される人混みに目眩がして、目を遠ざける。見上げた先で、久方ぶりに見る高層ビルがたった数ヶ月の間により高くなっている気がした。気がつくと自分の両の後方から人が流れてくる。そこで、自分が通路の真ん中で立ち往生していたことを理解して、顔を赤くして、急いで目の前の同じ制服の女の子の後ろを付いて行った。

 

 

 少女の歩いていく先にあったのはバス停だった。しかし、スーツ姿の大人や学生たちがすし詰めになって乗り込み、自分や前の子はそのバスには乗れないようだ。振り向くと、さっき並んだ時以上に行列ができているのだから、あんな罰ゲームのようなものは絶対嫌だと、苦渋の決断だが歩いて行くことにした。   

 春の府中は思ったより暖かい。晴れ晴れとした快晴だった。寒暖の差という大きな違いがあるにせよ、この日の太陽は、あの日と同じ顔を見せている。道路を駆け抜ける心地良い風が淡い色をした桜の花を乗せて背後へと消えていった。

 

 

 スマホの地図と周りの人を頼りに歩くこと数十分。歩けば歩く程、周囲の制服の数が段々と増えていった。学校に近づいていることに安堵する。周りを歩く、トレセンの学生は、背丈も髪色も様々だった。黒髪が思ったより少ない事は少し不安だったけれど、何より帽子を被る生徒は私一人だったので、こっそりと背中に隠した。初っ端から周囲から浮くのはごめんだ。

 

 

 小学校の頃から使っている愛用の帽子。いつも、朝のランニングには欠かさなかった。もうすっかり煤けて、色褪せてしまっている。家に置いていってしまうのが忍びなかったから持ってきたけど、失敗だったかな。制服も、自分のものだけ安っぽく見えてきた。襟の所がもう解れているし、袖を通したのは一昨日と今日の2回だけなんだけど。お母さんになんだか申し訳なくて、また気分が落ち込んだ。

 そんな事を悶々と悩んでいるうちに、信号が青に変わる。人の波に押し潰されないように、背負った小さめの旅行鞄を背負い直して、また歩き出す。

 

 

 真新しい煉瓦の塀の終わり。その威容はそこにあった。

 中央トレーニングセンター。約二千人の学生を抱える、日本の最高学府。ここに入る生徒は誰もが一流のアスリートの卵であり、日々レースの高みを夢見る乙女である。そして、彼女たちの為だけに用意された、選別された優秀な教員と、レース場や豊富なトレーニング機材を含む広大な施設。自分だけでなく全てを使って、彼女らは中央に許されたレース…トゥインクル・シリーズと呼ばれるレース群に挑戦する。「勝敗」という絶対的リアルが生み出す数多のドラマは人々を魅了し、レースという戦いを加速させていく。同時に生まれる、敗者の影を横たえながら。

 そしてこの少女。アレイキャットも、背負う物の為に此処に来た命知らずの一人だった。

 

 

「おはようございます」

 

 

「お、おはようございます」

 

 

 校門に立つ教員たちの横を過ぎる。ほんの少し振り返ってみても、会いたかった顔は見つからない。その事に幾分落胆して、小さく息を吐く。仕方無い、また後で探そう。

 玄関に入ると、クラス分けの表が貼ってあった。高校一年生の部分を見ると、一番最初のクラスの一番目に名前があった。嘘だ、また最初?地方の時もだったけど、あから始まるウマ娘、少なすぎ?

 

 

 教室には既に殆どが集まっていた。何人かがこっちを見て首を傾げたけれど、直ぐに顔を背けて喋りだす。中学の時ってこんなに緊張したっけ…。そろそろと首を縮めて席に着いた。扉の一番近いところだったので助かった。

 それから数十分程(実際は数分程度)経って担任と思わしき女性が入ってきた。自己紹介では、北川と名乗った。眼鏡をしたのほほんとした見た目だ。先生の指示で体育館に移動する。始業式があるらしい。

 

 

 始業式は体育館で行われた。今、壇上で溌剌とした演説を語るのがこの学園の理事長だ。名前は秋川やよい。中央のウマ娘たるもの何よりも己を律する力を磨き云々。言葉の節々に熱意の籠もる、聞いていて飽きない語り口だ。てか、それよりもあの人何処?体育館全体を見渡しても見つからない。根気良く探してみても、見つかる前に理事長のお話が終わってしまった。

 長かった始業式も終わり、生徒は教室へ戻っていく。教室に戻る道すがら、ある不安が内心浮かび上がる。あの人...もしかして、既に退職してるの?

 

 

 結局何も分からずに教室に着き、先生の幾つかの説明があってから本日はお開きとなるそうだ。それから思い出したように、編入生の説明会の話をした。主に私の方を見て。小さく頷くと、彼女はまた呑気な顔をして教室を去った。他の生徒たちは一度こっちを向いてから、編入生の話を聞いて得心がいったように視線を移した。

 北川先生がいなくなって、真っ先に教室を抜けた。今はあまり、人と話したい気分じゃなかった。説明通り指示された空き教室に向かうと、電気は付いていたが誰も居なかった。聞き間違いじゃあない筈だし、まだ着いてないのだろうな。うん。

 鞄を床に下ろして、椅子に腰を落とした。それと同時に、硬質な足音を捉えて耳が揺れる。耳に残る乾いた音を掻き鳴らして扉が開く。

 

 

 見たかった。焦がれた顔がそこにあった。

 

 

「こんにち…「あの!」…はい」

 

 

上狩(あかり)トレーナー、ですよね?私の事覚えてます?M市の神社でお会いしたことが在るんですけれど。私っ!」

 

 

 椅子を蹴飛ばして、机を蹴散らして、記憶の頃と多少髭の薄くなったその相貌を見た。鋭い目尻も、厚い唇もあの時と同じだ。仕立てられた白シャツと紺のズボンのサラリーマン姿で、静かに彼は私の言葉を聞く。口が動きを止め、もう一歩でぶつかるといった距離になって漸く理性が働き出す。

 死んだ。やばいどうしよう。冷え切った心境と裏腹に心臓の鼓動が煩く響く。どうにか喋ろうにも、掠れた息が漏れるだけだった。長く時間が引き延ばされていく。一秒が伸びて伸びて、限界を迎えるとどうなってしまうのだろうか。そんな意味も無い現実逃避から私を引き戻したのは、あの日と同じ、鷹揚な声だった。

 

 

「アレイキャット君、だね」

 

 

 頭を下げようとするのを手で静止して、彼は穏やかに始める。

 

 

「勿論覚えているよ。カツサンドの取り間違いは俺の生涯であれきりだからね。まぁ、今となっては笑い話だけど」

 

 

 そこで台詞は途切れた。小さく唸りながら瞑目する彼に対し待つことしか出来ないのは息が詰まる思いだ。何を言われるだろうか。いや、覚えててくれて凄い嬉しい。いやいやそれでも距離の詰め方が馬鹿だろ。いやいやいやいや…。

 

 

「まずは、入学おめでとう。去年君が名簿に無かった時はそりゃあもう驚いたけれど、君、あの時中二だったんだね」

 

 

「あ、そうですね」

 

 

 語彙力死んでて芝。

 

 

「うん。そうだ。改めて、入学おめでとう。正直俺が言うことはそんなに無いけれど、君が学園に来たことは本当に嬉しいよ。アレイキャット君」

 

 

 そして続ける。

 

 

「………ようこそ、トレセン学園へ」

 

 

 赤々と…体が燃えているようだ。合格通知が届いた時。家族に、友人に、それを伝えた時。夢が叶うと涙が溢れた。心の芯が熱を帯びて、叫びながら走り出したい感情に襲われた。でも、今は、それ以上だ。二年前のフラッシュバックが脳裏を襲う。脳をぶっ飛ばして叫んだあの炎を。再び思い出した。今度は、涙は流れない。

 

 

「じゃあ取り敢えず、寮の説明からしようか。もう聞いてたりする?」

 

 

「いいえ!まだです!」

 

 

「…良い返事だねぇ」

 

 

 こうして、物語は幕を開ける。一匹の黒い不良猫の、熱く駆け抜ける物語。未来の栄光が、仲間が、ライバルが。そして、彼女に取り憑いた「とある影」が。穏やかに出番を待つ。

 

 

 彼女はまだ知らない。「中央」という言葉の意味を。

 そして、情熱と共に走り抜いた先の、全く以て奇妙なる、その結末を。

 

 

モブ娘ーBIZZER DURBEYー 

 




ストーンオーシャンがディモールトベネなんでみんな見て。
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