『裏山で保護した野良犬がニホンオオカミだった。』 作:ウーメン梅田
翌日。
平坦な道のりをしばし進み、鬱蒼とした木々が階段のように連なる山頂付近にたどり着いた。土から根が飛び出て
ふと一人の調査員が呟くように一言。
「なんか、下が温かくないですか?」
「え?」
「…確かに、ちょっと温かいです」
湿った地面に触れてみると、土越しに微かな温もりを感じた。
「これ、地熱じゃないですか」
「てことは温泉?」
確かに、夏場だからたまたま地面も温かいだろう…と仮定するには妙に熱を発しているように思える。
「裏山に温泉があったなんて…なんかラッキーだな」
「秘湯ってやつですな…調査のついでに拠点部隊に探してもらうよう手配でもしますか?」
「そんな簡単に…」
「サーモカメラ使えば一発だと思いますよ」
「…じゃあ、お願いします」
お言葉に甘えて、サーモカメラを搭載したドローンを要請する。上空から熱を検知することが出来るハイテク技術、ある程度低空飛行して地熱を探索すれば湧き出る温泉を探すことも容易である。
実際、ものの10分程度で温泉の流れる川を発見するに至った。
「温泉なら…温泉微生物を採取したいんですが…」
申し訳なさそうに手を挙げるのは、前回の調査にも同行していた水生生物学者の嶋佐さん。東京海洋大学で教授を務めるお偉いさんで、海水から淡水までありとあらゆる生物に精通したプロフェッショナルだ。実際、『プロフェッショナルとは?』と問われたことがあり、放映されたものを記念として録画しているお茶目な部分もある。余談だが、10歳年下の奥さんがいて、その人はドラマや映画で主演を務めるレベルの国民的人気女優だ。
数年前に夕方のニュースで『一般男性との婚約を発表』と速報で伝えられた時は、心底ナイーブな気持ちになったが、まさか結婚相手が嶋佐教授だったとは思わなかった…。今は主に、ニホンカワウソの研究を国から依頼されているせいか、なかなか家に帰れてないという。
帰ってやれよ…日本男児全ての推しが家にいるのに、ニホンカワウソの方が大事なのかよ…と目尻から流れる汗を拭きながら、心の中で『お幸せに』としか言えない自分が心底惨めだった。
話が脱線したところで、そんな今世紀最大の幸せ者が目をギラッギラに光らせながら、是非とも温泉を採取したいと言うので、快く了承した。
歩くこと数分、苔の生えた大きな岩が連なる神聖な場所にたどり着いた。岩と岩の間をチョロチョロと流れる温泉、あからさまに人が入ったら大火傷を負うぐらいの湯気をモンモンと漂わせながら、小川のように流れている。
嶋佐教授は、持ってきていた専用バッグの中から遠心管を取り出して、湯や苔などを採取した。
「あ、完了です。お騒がせしました」
採取は直ぐに終わり、再びルートに戻る。
研究員の中には、湧き出る温泉に興奮を覚えていた者もいたようだが、明らかに人間の入れるタイプの温泉じゃないことを察すると、落胆したように肩を落としていた。
そもそも、入れるぐらいの温度かつ大きさの温泉が自然にできていたとしても、防護服を脱ぐことは出来ないので、最初から肩までゆったり浸ることは不可能だったんだぞ…と肩を叩きながら追い討ちをかけるのはやめた。
気持ちを切り替えつつ、しばし歩みを進め、山頂に登頂した我々はようやく折り返し地点に到達したことを喜んだ。
途中途中、広域な探索をしつつの登山だったので大分時間がかかった。ここからは山を越えるために斜面を下る必要があるため、より慎重な探索が必要となる。
下山して400メートル地点、第2の拠点ポイントが見えた時には思わず安堵の声が漏れてしまった。
緩やかな斜面に置かれたアイテム。
簡易的に展開できるテントはもちろんのこと、設営が簡単な斜面用のハイデッキ、巨大な熊、極めつけにシャワールーム。その他、見たことの無い最新アイテムetc。
「熊…?」
岩のようにでかい毛の塊。いびきをしながら寝そべる褐色の猛獣。
すぐさま猟友会の人間が銃を構える。
「デカい…」
大きさから推察するに300キロはあると思われる。
人間の気配を察知したのか、ゆっくりと身体を持ち上げた熊は森に君臨する王者のように、力強く闊歩した。
「人間を…恐れていない…」
熊が人間を襲う理由は、その臆病さが起因している。人間を恐れているからこそ、排除しようと牙を剥くことが大半で、捕食するために向かってくるのは極めて稀なケースだ。
しかし、眼前の熊は恐れるどころかまるでこちらを挑発するように睨みながら、ゆっくりと歩いている。
「こいつは、一度人を襲っているな…」
人間が弱い存在であることを知った熊ほど厄介な存在はない。当然、人を食えばその味を覚えて、再び人を襲う。
猟師がゆっくりと狙いを定める。刹那。
傍らにいたニホンオオカミが遠吠えをあげた。
捜索から1日が経過した、ひさし村の拠点ではこれまでにない緊迫感と、静寂の中に響き渡る無線の音で、冷や汗を浮べる者がチラホラ居た。
熊が現れたという報せを受けた調査員らは、すぐさま発砲による射殺を伝えたが、返答はなく、なにか不測の事態があったのかと右往左往する者ばかりだった。
さすがにあれほどの人数を擁する調査団が、無線を使用する間もなく襲われるとは思えない…と楽観的に仮定する者も居れば、最悪の事態を想定している者もいた。まさか、ニホンオオカミごと食われたとなったら、それこそ取り返しのつかない事態になる。
現場近くを確認できるようなドローンは無いのか。
救助隊を編成しろ。
という怒号が飛び交う。
無線から得た情報では、遭遇したクマは大層大きくかつ人間を恐れていないらしい。危険極まりないのは明らかだった。腕の一振りで人を殺せる生物だ、ベテランの猟師が数名ついているとはいえ、不安は拭えなかった。
そんな最中、まるで緊迫から一拍置いたような、焦りが過ぎ去った後の静けさを、気高い遠吠えが響き渡った。
静寂を一気に支配する、あまりにも異様なその遠吠え。
ありえない、調査隊は拠点からかなり離れているはずだ。遠吠えなんて届くはずがない…と誰もが頭の中に思い浮かべた妄想を振り払った途端、再び鳴り響いた木霊するような遠吠えは、山全体から力強く発せられたような、幾重にも重なった重厚なものへと変貌を遂げた。
そんな空間に割って入るように、通信が入った。
『こちら調査隊』
「ど、どうしましたか…そちらは大丈夫でしょうか」
『えぇ、大丈夫です』『信じられない!』『奇跡だ!』
通信の主は、笹壁だった。安堵したような声の裏に、調査隊のうちの誰かと思われる声が途切れ途切れに聞こえる。一体何が起こったのか…と問う前に、笹壁は落ち着いた様子で語り始めた。
『クマに襲われそうになったところを、助けてもらいました…この山に住まう狼たちに…なんて言うか、気高いの一言で…いやぁ、すごい』
「…ということは」
『えぇ、発見しましたよ…というよりも我々をこの山にようやく迎え入れてくれました。ニホンオオカミの群れが』
「むれ…群れっ!?」
その声を聞いたと同時に、再び慌ただしくなる拠点。
山全体から響き渡る遠吠えは、正しくかのニホンオオカミの群れのものであった。先ほど以上にてんやわんやとする拠点を、傍らに通信していた研究員は、冷静に問うた。
「ぜ、全部で何匹ですか」
『…あっはは、これが凄くて、今見えてるだけで8匹…多分遠吠えからしてもっといるとも思います。毛並みはほとんど黒と金で、白と金の色をしたオオカミもいます』
「ほ、ほんとに?」
『えぇ』
想像以上だった。
逆にこれほどいて、なぜ今まで見つからなかったのか疑問に思うばかりだった。今までニホンオオカミの発見例は確かに報告されているが、ひとつの山にこれだけの個体数がいるとなれば、広域に分布している可能性もある。
となると、今まで想定されてきた日本国内の山における生態系の構図はガラリと変貌を遂げる。唖然としている研究員は、ふと我に返り状況の確認を急いだ。
あちらは今、熊と遭遇した直後だ。
負傷者はいないか、熊はどうなったのか…聞いてみれば、あまりにもあっさりした声で驚きの内容が返ってきた。
『オオカミが倒してくれましたよ』
「群れでですか」
『いや、単体で』
「え…」
今、とんでもないことが聞こえた気がする…。耳を疑うしか無かった。オオカミと言えば主に群れを成して、獲物を捕獲するのが通常だ。というか、野生動物の殆どは、余程の力があったとしても強い動物に単体で挑むことはまず無い。
あの百獣の王ライオンですらそうだ。
『いや、俺のそばに居た
「それで」
『そのまま、首を噛み砕いて倒しました』
「噛み砕いた?熊の首を…というか骨を?」
『そうです』
熊の骨なんて、相当な力がなければ砕くことは容易じゃない。噛む力の強いワニでさえ出来るかどうかも分からない芸当だ。それをオオカミがやったなんて、聞いたことがない。
「…と、とりあえず無事だと言うことですね」
『はい』
思わぬハプニングには見舞われたが、笹壁一行は熊の脅威を潜り抜け、ついに山に生息するニホンオオカミの群れと遭遇することに成功した。