一話
「伊之助、急げ!」
「俺様の前を走るんじゃねぇ!つーか起きてたのかよ!おい待ちやがれ!」
先程まで後ろを走っていた善逸が、血相を変えて飛び出す。
耳が良い彼には、悲鳴に混じって、ある叫び声が聞こえてきた。
『だめだ!禰豆子!』
『ガァァアアアッ!』
「炭治郎の声がした、禰豆子ちゃんも一緒だ!」
「二人だけか!?先に向かった祭りの神は!?鬼は!?」
「分からない、とにかくこっちだ!」
「答えろよオイ!」
「静かにしてくれ、聞こえないだろ!」
近づくにつれて、声の内容が鮮明になっていく。
『グガァァァァァア!』
『ごめんな禰豆子、戦わせて』
『痛かったな、苦しかったな、ごめん』
『でももう大丈夫だ、兄ちゃんが守るから、だから眠るんだ禰豆子!禰豆っ――』
バキバキッ!と大きな音がして、声が途切れる。
「何が起こってんのか俺にも教えろ!お前の耳貸しやがれ!」
「この先の通りだ!」
二人は屋根を飛び降りた。
そこにいたのは、体のひとまわり大きい鬼を組み伏せる炭治郎だった。
「炭治郎!禰豆子ちゃんどうしちゃったんだよ!」
駆け寄る二人を見て、炭治郎が叫ぶ。
「近づくな!危険なんだ、頼む!」
「禰豆子、あの二人のこともわかるだろう?お兄ちゃんといっしょにお前を守ってくれる優しい仲間だ、落ち着いてくれ、眠って休むんだ!禰豆子!」
しかし、禰豆子は暴れ続け、ついに炭治郎を突き飛ばした。ゆらりと立ち上がり、二人の方を向く。
「クソ、どうすりゃいい!オイ!ねず公!親分に逆らうんじゃねぇ!」
「禰豆子ちゃんに刀向けるなよぉ!」
「駄目だ二人とも、禰豆子は今危険なんだ!早く…………」
理性を失った禰豆子が、二人に襲いかかる。
「グルルル……ガアァ!」
「禰豆子ちゃん!」
「俺様に任せろ!」
伊之助が刀を捨てて正面から受け止める。
「うおおッ!チカラつよっ!」
禰豆子が噛み付く素振りを見せると、すかさず引きつけて投げ飛ばした。
「あんまり乱暴にするなよ!」
「んな余裕ねぇ!」
二人がかりでなんとか押さえ込むところに、炭治郎が駆け寄る。その目には涙が滲んでいた。
「禰豆子、お願いだ……正気に戻ってくれ……」
「ガァァ!」
消え入りそうな声で呼びかけるが、反応は無い。
「禰豆子ちゃん、君は優しい鬼だ、人を襲ったりしない」
「禰豆子……頼む……」
「オイオイどうする、聞こえてねぇぞ!」
「炭治郎、何か方法は?」
「……わからない……禰豆子が鬼にされたあの日も、俺は励ますことしかできなくて……」
「ごめんな禰豆子、お前にはいつも、苦労をかけるばかりで……」
「ヴヴアァ!」
彼の呼びかけには答えず、唸り声だけがむなしく響く。
「炭治郎、場所を代わってくれ。伊之助もしっかり押さえてろ」
「……善逸?」
善逸は禰豆子の首の位置に向かった。膝立ちになり、鞘から刀を引き抜く。
月明かりに照らされて、稲妻の走る刀身がキラリと輝き、そして――
自らの左腕に刃をあてがい、引いた。
鮮血が禰豆子の口へと滴り落ちていく。
「禰豆子ちゃん、お腹が空いてるんだろ?あんまり多くはあげられないけど、これで少しでも落ち着いてくれたらなって……」
禰豆子が血を飲んでいたのは、たった十秒ほどの間だったが、彼女の表情はうつろなままで、その場の時間の流れが止まったかのようだった。
血を飲み終えると、彼女はゆっくりと目を閉じた。大きくなっていた体格が少し縮んで、額に伸びていた角が消えていく。体に浮き出た模様も消え、そこで変化が止まった。
「もう大丈夫なのか?いつもの禰豆子ちゃんよりまだ少し大きいぞ?」
善逸が自分の左腕を止血しながら聞く。
「いや、これが本来の禰豆子だ、鬼になる前の……」
「オイ、離していいか?」
「……ああ」
押さえつけていた伊之助が離れ、3人で見守る。
すぐに禰豆子が目を開け、ゆっくりと上体を起こした。
「禰豆子、禰豆子!」
「……お兄ちゃん……」
「禰豆子!話せるのか?目が覚めたのか?」
「お兄ちゃん、わたし……」
額に手をあて、考え込むようなそぶりをする。すぐにその表情が変わり、恐怖に染まっていく。
「お兄ちゃん!みんなが!早く助けを呼ばないとーー」
「禰豆子……!」
炭治郎は耐えられず、禰豆子を強く抱きしめた。彼女は困惑した様子で辺りを見渡す。
「六太がいない……雪も消えてる……ここは……みんなは……?」
「もういないんだ、禰豆子。俺とお前以外は、みんな殺されてしまった」
「……そんな……」
禰豆子が、ずっと静かだった善逸と伊之助に気付く。
「黄色い人と猪の人……夢に出てきてた……」
「夢じゃないんだ、禰豆子。全部、現実なんだ」
彼女は無意識に口元を拭い、血が付いていることに気付く。口の中に広がっていた血の味に、不思議と不快感は無い。鋭く伸びた自分の爪を見て、その目に涙が溢れ出した。
「……夢じゃ……ない……そんな…………どうして、そんな……!」
「禰豆子……」
突如、辺りに轟音が響き渡る。何かが爆発したようなその音を聞き、三人は次に為すべきことを思い出した。
「二人とも、宇髄さんに加勢してくれ!俺も禰豆子を避難させたらすぐに向かう!」
「任せとけ!!やっと暴れられるぜ!!ほら行くぞ!!」
「急に大声出すなよ!さっきまで珍しく静かだったのにさぁ!」
「あ、あの……!」
「(ええと、確か……)ゼンイツさん、イノスケさん、ですよね?お気をつけて……」
「おうよ!」
「もっ、もちろん!ありがと、禰豆子ちゃん!」
「禰豆子、こっちだ」
そして二組は、別々の方向へと駆け出した。
走りながら、炭治郎はどうするべきか悩んでいた。
禰豆子は今も箱に入れるだろうか?外に出したままでは守りきれない……かといって離れてしまうと、また人を襲うかもしれない……
一方の禰豆子は、まばらな記憶によって混乱していた。鬼になってからの記憶はぼんやりとしていて、他人事のように感じてしまう。
「お兄ちゃん、ここはどこなの?街の中……?」
「ここは吉原だ、俺たちは鬼殺隊の任務でここに来た」
「任務……?……お兄ちゃん、その肩の怪我……」
崩れていない建物の中から
「……禰豆子、お前はさっき人間を襲おうとした。覚えているか?」
「……ううん、わからない……」
「今、意識はハッキリとしているか?」
「……うん、でも――」
「いいか、絶対にここから動くな……後で必ず迎えに来る!!」
「待って!」
「俺が迎えに行くまで、他の人に近づくな。自分を強く保つんだ。俺は行かないければ」
「私も、連れていって……私も戦える……!」
「ダメだ!!!ダメに決まっている!!!お前は怪我をしたんだ、怪我をしすぎて暴れ始めた……!!」
「これ以上、お前に怪我をさせるわけにはいかない……!!」
「私だって!!!!」
「私だって、お兄ちゃんに傷付いてほしくない!!戦ってなんかほしくない!!」
「……今はもう、たった一人の……たった一人の家族だから……」
「だからもう、離れ離れにはならない……もう二度と……!お兄ちゃんが戦うなら、私も戦う、戦える!!」