あ、ありのまま今、起こったことを話すぜ!
俺がエルコンドルパサーの取材をしていたら、フランスまで密着取材を行うことになっていた。
何を言ってるのかわからねーと思うが、俺も何をされたのかわからなかった。
頭がどうにかなりそうだった。
伝達ミスだとかサプライズだとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねぇ。
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。
『そうか。どうも性別を勘違いしているような感じだったから、本人を見て判断してくれと言ったんだが、考えは変わらなかったか』
電話口で編集長は開口一番にそう言った。
『よっぽど気に入られたみたいだな、色男』
「茶化さないでくださいよ。こっちはパスポートも持ってないんですよ」
『そんなもん一週間もありゃ取れるだろ。出発は4月頃なんだから準備期間はあるはずだ。まあ、どうしても嫌だというなら、俺から断りを入れてもいい』
どうやら強制ではないようだ。当然だろう。俺は正式な社員というわけではないのだから、いくら編集長といえども命令権はない。ああでも、俺を名指ししたということは個人的な依頼ということにもなるのだろうか。うーむ、線引きが難しいな。
「角が立ちませんかね。代わりに乙名史さんでも行かせるんですか?」
『あいつはちと暴走癖があるからなぁ。それに、俺たち業界人は密着取材というものに及び腰なんだ。あんたも例の一件を覚えているだろう?』
「ああ、あれですか」
前世でも起きたあの事件だ。こちらではいくらかマシだったようだが。
『そうだ。あの一件で、ひとつの局と雑誌が完全に締め出された。一部のアホ共が暴走したせいで、こっちまでとばっちりを食らうところだったよ。北原トレーナーは何とか矛を収めてくれたが、六平トレーナーは未だにブチギレてる。まああの人は元々マスコミ嫌いだったからな。俺の知り合いの記者は岩塩ぶつけられてゴミ置き場に捨てられたらしいし』
え? なにそれ怖い。普通に事件では? というかなんで岩塩? 塩撒いとけ的なアレなの? やっぱ中央は魔境だわ。
『今さらあんたの良識を疑うつもりはない。短い付き合いだがそれくらいは分かる。だからそういった心配はしていないが、どのみちこれから忙しくなるんでな。さすがに密着取材に人はさけん』
凱旋門賞というのは、当然ながらひょいと行って勝てるようなレースではない。エルコンドルパサーの場合は4月に渡仏し、10月のレース本番までの間に、欧州仕様の脚に鍛えなおすプランだ。
要するに半年近くの間フランスに滞在しなければならない。
「まあ、少し考えてみますよ」
そう言って通話を切る。
これが夏くらいなら二つ返事で引き受けただろう。俺が渋っているのは、稼ぎ時を逃すからだ。
でもまあ、落ち着いて考えてみれば、この春はそこまでおいしいGⅠはなかった気がする。皐月賞を取って渡仏するのも、ありっちゃあありかもしれない。
「それよりも店をどうするかなんだが……」
「給与補償はありますよね?」
唯一の従業員が不安そうにこちらを見ている。半年間だからなぁ。仕事に慣れたやつは確保しておきたい。一から人間関係を築くのも面倒だし。
「調理もできるって言ってたよな。いっそのこと店を仕切ってみるか?」
「それって私が店長代理になるってことですか?」
「そうだな。まあひとりで回すのは無理だろうから、ひとりふたりならバイトを雇ってもいい」
「ん~、じゃあ知り合いに声かけますよ。それでもいいですか?」
「ああ、任せる」
そうして、一ヵ月ほどかけて店の引継ぎを行った。その後、4月中旬に出発したエルコンドルパサーを追って、俺はフランス行きの飛行機に搭乗した。
◇
シャルル・ド・ゴール国際空港からタクシーに乗って、パリ北部にあるシャンティイトレセン学園へ。
その門扉の前には、金髪のフランス美人が待ち構えていた。
「Bonjour。時間通り、あなたがムッシュ北川ね。よろしく、キャサリン・クラウドよ。キャシーでいいわ」
小さくウィンクをしながら、流暢な日本語で彼女はそう言った。
「北川令です。これから半年間、よろしくお願いします。キャシー」
「ええ、よろしく。レイと呼んでも?」
「よろこんで」
握手を交わし、トレセン学園の中に足を踏み入れる。このシャンティイトレセン学園の一角を間借りして、エルコンドルパサーは練習を行っている。
そして俺も、東条トレーナーの厚意により、この学園のトレーナー室の一室を借りることができた。
広大なトレセン学園を30分ほど歩くと、トレーニングコースが見えてきた。そこではちょうどエルコンドルパサーがランニングを行っているところだった。
こちらに気づいた彼女が、大きく手を振ってくる。
「ブエナスタルデ~ス! 久しぶりデスね、北川さん。迷わずこれまシタか?」
「言葉が通じないのは不安だったけど、タクシーの運転手にはちゃんと通じたよ。これから凱旋門賞までの約半年間、よろしくお願いします。エルコンドルパサーさん」
そう言って右手を差し出す。だが彼女は苦笑して、ニッと白い歯を見せた。
「硬いデスね~。アタシのことはエルで構いまセンよ。敬語もいりまセン。もっと楽にいきまショ~」
人懐っこい笑顔を浮かべて、俺の右手を取る。こうした気安さが彼女の魅力かも知れない。
「なら俺のことは令と呼んでくれ。改めてよろしく、エル」
「ハーイ。よろしく、レイ」
とそこで、キャシーがパンパンと手の平を鳴らし、首を突っ込んで来た。
「友情を確かめ合ったところで、これからの話をしましょう。エル、レースが決まったわ。一ヶ月後のイスパーン賞。そのレースに出走してもらいます。よろしい?」
「望むところデ~ス」
ビッとピースサインを作り、エルはランニングを再開した。
「こっちに来て一ヵ月でレースというのは、少し早くないですか? しかもイスパーン賞はGⅠでしょう?」
「そうね。まあ勝てないでしょう」
「勝てないのに出走を?」
「適性を見るためさ」
キャシーはただそれだけをつぶやき、続く言葉はなかった。
◇
5月中旬、イスパーン賞を迎える。エルは地元のウマ娘を抑えて1番人気に推された。レースでは中団追走から最終コーナーで3番手に位置を上げ、最後の直線で先頭に立った。しかし2番人気のウマ娘に外から差され、2着に敗れた。
「予想通りですか?」
「いえ、私の予想ではボロ負けするはずだったの。そこから立ち上がれるかどうかを、見定めたかったのよ」
試しに出走させたレースで得られた結論は、エルが優秀なウマ娘であるということと、この地のウマ娘も決して侮れるものではないということだった。
「あそこから差し切られるとは、やられまシタね~。さすがクロちゃんデス」
レースを終えて帰ってきたエルを見るかぎり、敗北のショックはなさそうだった。だが蒼い瞳の奥は爛々と輝いていた。そこに潜む感情が何なのか、俺にはうかがい知ることはできない。
「おそらく彼女も出てくるわよ。凱旋門賞にね」
「大丈夫デス。大体分かったデスから。アタシ、同じ相手に二度負けたことはないんデスよ」
エルが決意を込めて呟く。ここから、世界との闘いが始まったのだ。