ゲート前、出走ウマ娘たちがそれぞれの方法で集中を高めている。その中で、ブロワイエだけがにこやかに笑みを振りまいていた。周囲のウマ娘たちに、あるいは観客席に。その視線はこちらへとは向いていない。離れているというのもあるが、それだけではない何かを感じ取るくらいの余裕が、エルコンドルパサーにはあった。
――ブロワイエはエルのことを警戒しているよ
令の言葉を思い出す。あれはフォア賞に出走する前のことだった。偶々ブロワイエを見かけて、挨拶をしに行ったらファンと間違われてサインをもらうことになった。だから、自分は歯牙にもかけられていないのだと知った。
だが令は逆だといった。警戒しているからこそ興味のないような素振りをしていると。最初は信じられなかった。フランスのスターウマ娘が、極東の島国からやってきたウマ娘を警戒するだろうかと。
しかしこのゲート前で、一瞥すらしないというのは逆に不自然ですらあった。
(ホントに警戒されているのかもしれまセンね~)
まだ短い付き合いではあるが、令は時々おかしな視点で物事を捉える。記者とも、ましてやトレーナーの視点とも違う。
彼は言った。エルはブロワイエを凌駕している、と。だが本人は逆であった。大きく劣っているとは思わないが、そこまではっきりと勝っているとは思っていない。
そして、令はダービーを引き合いに出すことがよくあった。今まさに、エルはダービーのスタート直後のことを思い出していた。
(似てマスね。この状況)
最内の1枠1番で、エルは最高のスタートを切った。そんな自分に追随してきたのは、キャシーの言っていた逃げウマ娘。そのウマ娘は一時並びかけたものの、すぐに身を引いて先頭を譲った。
(ここでキングは暴走したんデスよね)
皐月賞と同様に、ダービーもセイウンスカイが逃げてレースを引っ張るだろうと、多くの人がそう思っていた。エル自身もそういう展開になると予想していた。だが蓋を開けてみれば、先頭を取ったのはキングヘイローだった。
(皐月賞で2着だったキングは、ダービーで慣れない逃げを打ち、ペースを作れず大敗した。レイの懸念が当たりまシタね)
逃げウマ娘の後ろにつき、そのウマ娘をペースメーカーにして、スリップストリームで脚を溜めながら好位先行でレースを進める。これがエルのプランAだった。だがそれは瓦解した。自分が先頭で、抜き去られる気配はない。
(このまま押されるように走っていては、脚が残せない。となればプランBに移行するしかなさそうデスね)
ここで下がるのは愚策だ。下手をすれば閉じ込められる。ましてやこの不良バ場である。知らず知らずのうちにスタミナは削られていく。
ここで脳裏をよぎったのは、またしても同期の顔。
(仕方ありまセン。ここはセイちゃんにも一枚噛ませてあげまショウ)
序盤はハイペースで進み、中盤にミドルペースまで落とす。ここで落とし過ぎてはいけない。このレースは
(スピードを落とすのはここ! この上り坂デス!)
スタート直後の約400メートルは平坦で、そこから最大斜度2.4パーセントの上り坂が続く。最初は勢いよく入り、懸命に駆け上がっているふりをしながら緩やかにペースを落とす。
そして坂を駆け上がった後に待っているのは、約600メートル続く下り坂だ。
(坂はゆっくりと下ることがセオリー。そんな常識は、シービー先輩がぶっ壊したデスよ!)
加速しながら坂を下る。本来ならそれは、大きく膨れ上がる危険を秘めた破滅の走法でしかない。だがその常識を覆したウマ娘がいた。クラシック三冠ウマ娘のミスターシービーである。
エルはその
(想像以上にバ場が悪い。最悪デス! 一瞬でも気を抜けば一気に持っていかれマスね。でも!)
この高低差は京都レース場の比ではない。それでも、エルは普通に曲がる心算などまるでなかった。
(レイは言ってまシタ。普通に走れば2着には入れるよ、と。高評価なのか低評価なのか分かりセンが、それって要するに普通にやれば負けるってことでショ! だったら、普通になんてやってらんないデスよ!)
2着だろうとシンガリだろうと負けは負け。それがエルの常識だった。レースにあるのは
コーナーを抜け、ロンシャンレース場名物、
欺瞞のペースでスタミナを稼いだ。坂落としでスピードを稼いだ。
それをこの偽りの直線で反故にするわけにはいかない。スパートをかけるべきタイミングはここではない。
250メートルを駆け抜け、ゴールが見えた。残すは最後の直線。ダービーと、東京レース場とほぼ同じ距離、533メートル。この攻防ですべてが決する。
26の瞳から発せられる、背中を突き刺すような視線。その中でもひと際強い、獲物を狙う獅子の如き眼光。
(――ブロ……ワイエッ!!)
振り返るまでもなく感じる。熱い汗が冷たくなるのを感じながら、それでもエルは走った。自分の中に残されたすべての力を注ぎ込んで、エルは遮二無二駆けた。
風の音が変わる。明滅する景色の中で、エルは自分が限界領域に踏み込んだことを確信した。
(今なら、レイの言っていた意味がわかる気がしマスね)
己の力で、この脚で、世界まで駆けてきたと思っていた。だが自分の中には多く仲間がいた。共に切磋琢磨した激戦のライバルたち。そんな彼女たちとの戦いが、確かな経験となって自分の魂に刻まれている。
歓声がさらに大きくなった。エルの耳が頻りに動いている。ブロワイエはすぐ後ろまで迫っていた。息遣いが聞こえるほど間近に。
(――残り、100ッ!)
もはや駆け引きなど必要ない。必要なのは勝つという強固な意志のみ。
(――残り、50ッ!)
ふたりが並んだ。
その時、エルの瞳に飛び込んで来たのは意外な光景だった。いつものようなスター然とした余裕のある表情ではなく、必死の形相になって走っているブロワイエが、そこにいた。
(相手も苦しいんだ)
自分が苦しい時は相手も苦しい。そんな当たり前のことを実感する。だからこそ、負けられない。負けたくない。
歯を食いしばる。奥歯が軋むほどに強く。
(負ける……もんかッ!)
多くのものを犠牲にしてきた……わけではないけれど、それでも大見得切って、多くの期待を背負ってフランスに来た。
「負けるもんかぁーーーッ!!」
ゴールは目前。距離にしてあと7歩。エルは最後の力を振り絞り、ターフを強く踏みつけた。
怪鳥は
伸ばしたその手で夢を掴むために。
――この日、日本の怪鳥は世界の怪鳥となってパリの空に舞った。