光博が妙に元気がないということにすぐ気づくことができなかったのは、長期のロケで会えなかったからだった。戻ってきて、リサちゃんに開口一番言われたことが光博がやけに落ち込んでいるってことだった。思い当たることといえば、私に会えなくて寂しくなっているか花音と何かあったか、かしら。まぁ後者よね。
「はぁ……」
「ロケから帰ってきていきなりため息ですか白鷺さん」
「マネージャー」
「彼のことですか?」
「ええ」
運転席から話しかけられミラー越しにも視線を合わせないように窓を見ながら返事をする。マネージャーは味方ではある。あるけれど、それはあくまで事務所にとってマイナスとならなければという話。あくまで彼女の持論ではあるが、恋愛は万物のモチベーションになりえるのだとか。実際、私も光博という癒やしがあるからこそ、前よりも頑張ろうと思える。
「まぁ恋愛のせいでダメになる子もいるんですけど、白鷺さんの場合は大丈夫だ……って思ってましたから」
「さすがですね」
「まぁ、マネージャーなので」
あの事務所にはいっそもったいないくらい有能なマネージャーよね。まぁこういう独断でものを考えるから全体主義の大手には合わない人材なのかもしれないけれど。
それはさておき、しばらくはパスパレの全体レッスンも重なってるし、新曲の練習もしなければならないし、光博の家に行けない。そういう意味でもため息ね。
「早めに予定を合わせることをオススメしますよ」
「……わかっています」
「そうなった場合はお申し付けを、ちゃんと送り迎えしますんで」
「ありがとうございます」
スキャンダルは起こさない、起こしたくない。自分にとって最もリスクの低い道を選ぶ。そんな気持ちとはまるで真逆だ。今すぐ走って、彼の腕の中で眠りたい。少女のように恋い焦がれて、私の理性を焼き尽くそうとしてくる。なにより花音絡みで何があったのかが知りたい。必要ないと合鍵を家に置いていったことが憎らしい。
「──おや?」
「どうしたの?」
「あれは、松原さん、でしたっけ」
「……花音?」
夜も更けてきたというのに、私の家の前でじっと立ち尽くしていたのは松原花音、私の親友であり、また私の恋人が未だ想いを燻らせる人物。言わば恋敵のような人物でもあった。とはいえ、私としては以前のように花音のことも大切にしたい友人であるため、これを機と車を降りた。
「久しぶりだね……千聖ちゃん」
「ええ、花音」
その花音の表情はいつもどおりの花音、というわけではなかった。どうしたのだろう、と考えると同時に光博が何かしたわねという怒りにも変わった。彼はどうしてこうも花音と相性が悪いのだろうか。いっそ本当にこうやって花音が別の男と一緒にいてよかったのではと思ってしまうほどだ。
「どうしたの?」
「ごめんね、忙しそうだから直接、と思って」
「花音からの連絡ならいつだって歓迎よ」
冗談めかして、冗談ではなく花音からの連絡ならいつだっていいのだけれど、彼女を自宅に招く。両親も妹も花音のことは大好きだからいたく歓迎される。いい加減、光博も家に招かなければいけないわね。それをするには車に乗せなきゃいけないからリスクがあるのだけれど。
「それで、どうしたの花音?」
「……私、光博くんに嫌われちゃったかも」
「何の話をしているの?」
光博が花音のことを嫌うなんてことあるのかしら、いや想像できないわね。恋人に抱く感想ではないかもしれないけれど彼の努力は全て花音のためにあるのに。ファッションも、料理も、今の彼の生活の基本は全て松原花音というたった一輪の花を振り向かせるために積み上げられた努力の上にある。毎朝のランニングや身体作りだってそう、最近はサボり気味だったから私がいる間は厳しくいかせてもらったわ。
──けれど、花音の口から語られたことは、私に衝撃と怒りと、そして哀しみを与えた。
「……そう、光博がそんなこと……」
「あはは……私、汚かったんだなぁって……光博くんから見て、私は」
「……あの男、許せる言葉じゃないわね」
花音がいいよと言った意味を私で知っておきながら、それを否定するってどういうことなの? 結局それじゃあ……私はなんなの? その汚れをあなたと被ってる私は一体なんなのよ。戸惑いと、それに対する最悪の想像に息が苦しくなる。しかも花音があの間フリーだったのを知ったのに。いや私も知ったのはロケに行く寸前だったけれど、その上で結論に至ったというの?
「でも、千聖ちゃんは……きっと千聖ちゃんなら」
「何を、言っているのよ」
「私は知ってるよ? 千聖ちゃんが光博くんのこと、ずっと好きだったって」
「……花音」
それを知られていたということに特に驚くことはなかった。私が花音のことをわかるようにきっと、花音だって私のことをわかるでしょうから。その上で、あまり他者と付き合う、恋人になるということに対してリスクが付き纏うという理由があって辞退した。二人が幸せになることを望んだのに。その結末は、あまりに残酷なものだった。
「こんなのだったら、私も千聖ちゃんみたいに最初からお友達がよかった……」
「私は」
──私は、花音が羨ましかった。彼に想われたかった。私のことを考えて、見て、そして私のために頑張ってほしかった。今更届かない想いを私だって抱いているのに。涙に暮れる花音を見て、私も涙が溢れそうになる。だけど、ここで私が感情的になってはいけない。私はいつだってクールに。それが私に求められ、許された
「全く、ちゃんとお説教しておくわね、花音は何も悪いことは言ってないのだもの」
「……うん」
そう、彼は仲直りと
「さて、父が送っていってくれるらしいわ」
「……千聖ちゃん」
「なあに?」
「
苦笑いと共に吐き出された言葉に私は微笑みで返す。謝る必要なんてないわよ。夜道の独り歩きなんて危ないし、そうじゃなくてもあなたは私の大切な親友なのだから。
──それよりも、私は行かなきゃいけない場所ができた。マネージャーに連絡すると、どうやら事務作業をしていたようでワンコールで出てくれた。
「すみません……少し、急用ができました」
「……わっかりました、では十分ほどかかりますので」
「構いません、お願いします」
「泊まりますか?」
「もちろん」
電話を切って、車を用意してくれた父に事情を説明する。一緒に花音を送ってその帰りにその泊まる相手にも連絡をする。何をしていたのかは知らないけれど、彼は数コールしてから気の抜けた返事をしてくる。なんとか苛立ちを抑え、いつものトーンを意識して私は電話の向こうにいる恋人に話しかけた。
「そっちに向かうわ」
「え、ええ、急……」
「あら、困る? 両親はいないのでしょう?」
「ん、まぁいないし来ないけど……ご飯食べ終わったよ?」
「私ももうとっくに食べ終わってるわよ」
「なんか怒ってる……?」
いけないいけない、警戒されている。やはり私の素の姿で一緒にいることが多いからか中々私の怒りを察知するのが上手になってきているわね。そういうところばっかり成長されても困るのだけれど。
けれど、そこで引き下がるわけにはいかない。そして仮にも女優である自負を持ってる私が一般人たる彼をごまかすことができないなんてプライドに関わるわ。
「……ごめんなさい、ロケ帰ってすぐ新曲の合わせで少し疲れているみたい」
「そ、それなら、なんで俺んち?」
「私の癒やしはあなたよ……言わせたかったの?」
「いや、いやっ、ごめん……鍵は、持ってたよね」
「ええ」
「わかった」
一月に花音が侵入、もとい心配して以来、彼はなんとなく鍵を閉める習慣を付けたらしい。まぁありがたいことね。男だから安全ってわけではないのだから。少し眠そうなマネージャーに再度頭を下げて謝罪して、それからまるで我が家のように鍵を開けた。台所を見ると少し食器が溜まっていて、部屋も少し散らかっているようだった。これでもおそらく私が来ると知って少しは片付けていたのだろう。落ち込んだ途端に部屋が汚くなるなんてまったく、わかりやすいわね。
「千聖さん」
「なあに、この惨状は?」
「……ちょっと、やる気が起きなくて」
「何かあったの?」
「いや……あったけど、なんて言ったらいいのかわかんない」
そうね、私もなんて言ったらいいのかわからないけれどただ、許すわけにはいかないの。だって、あなたの言葉を許したら私の気持ちはどうなるのよ。私はあなたと過ごすことで、あれだけ満たされていたのに。
──好きな人に甘える幸せを知った。好きな人と同じ時間を過ごせる幸せを知った。私にとって一番甘美だった秘密はそのままに、苦かった恋が甘く幸せになったのに。
「……花音に話を聞いたわ」
「そっか」
「あなたは、最低よ」
「なんで……」
「なんで? 花音の気持ちを踏みにじって、過去も現在も踏みにじって傷つけて最低じゃないなんてことがあるの?」
「花音の、気持ち……?
「そうよ」
そう、たとえ過去がどうであろうとも花音は
「……そっか」
「ええ、だから」
「千聖さんまで、
「……光博?」
「わかったよ」
──違う。一瞬の顔色の変化にはっとする。これは理解じゃない。私の言葉にわかったというリアクションじゃない。これは、諦観だ。どうしてこんな顔をするの? 違う、わかったこれは……私は
「ごめん、俺……花音に色々言われて、落ち込んでた」
「え、ええ……」
「でも、そうだよな。元は俺がやらかしたことなんだ……最後まで向き合わないと」
「光博」
「反省したよ」
そう言うなり光博は私に抱きついてくる。そのぬくもりは私に言いようのない心の距離を感じてしまった。頭を撫でても、唇を重ねても。もう私は彼を愛してあげることはできなかった。その愛を光博が拒絶しているのだから。身体を重ねても、子どものように甘えても、もう。このどうしようもない心の溝を埋める方法が私にはわからなかった。
「ごめん」
「謝らないで……私の方こそ」
「ううん、俺がバカだから……
もう私がいいわよ、と言っても彼の口からはごめんとしか言ってもらえない。抱きしめてもらっているのに怖くて、寒くて。でも疲れているせいもあって私はすぐに眠ってしまった。
睡眠不足だったのだろう、起きたらラップされた朝ごはんだけが置いてあって、とっくに学校は始まっている時間だった。
「……午前中はオフでよかったわ」
オフでよかったと同時に鏡に映った顔を見て、オフではなくてもこれはマネージャーに見られた瞬間にアウトねと自嘲した。ひどい顔だ、そして頭も重い。家に帰って頭痛薬、と思ったけれど目の前にあった朝ごはんにお腹が鳴った。丁寧に魔法瓶の水筒にお湯が入っていて、茶葉と見慣れないマグカップが置いてあった。
あんな顔をさせたのに、その紅茶はやけに暖かくて、私の頭痛をどこかへ飛ばしていくくらい優しくて。私は誰にも見られないところでそっと涙をこぼした。
花音の、そして浦部、二人のごめんねに振り回される千聖。頑張れヒロイン、お前がメインヒロイン。
☆8二つ、ありがとうございます! 次回の展開もぜひ、お楽しみに!