光博は、私を選んでくれた。色んなゴタゴタが終わって数日後のある日、いつもなら来るはずの花音が来なくて、どうかしたのかと訊ねたところ、花音と別れたのだと彼は寂しそうに笑った。
──選んでくれた嬉しさは、もちろんある。これからは千聖さんだけを愛するからって言われた時の胸の高鳴りは、本物だった。だからこそ、私は同時に痛いほどに胸に穴が空いてしまったことを、誰にも言わないということができなかった。
「千聖もアタシを頼るのか〜、こう見えてアタシ、カレシとかできたことないんだケド?」
「ごめんなさい……でも、話せるのがリサちゃんしかいなくて」
「まぁ、そりゃそうだけど……ん、そうだね。アタシも相談された。光博には秘密にしといて、って言われてたこと」
「教えてくれるのね?」
「特別に、ってか千聖は言わないと納得なんてしないでしょ?」
「……そうね」
秘密、いつもは私が愛してやまないその言葉に胸が針に刺されたようだった。光博は、その選択をするまでにきっと涙なんて枯れるくらいに悩んだのだろう、あの時の寂しそうな笑顔はどうしても幸せだなんて思っている風ではなかった。だから、私はリサちゃんを頼ったのだ。予想通り、リサちゃんは悩んでいた彼から相談をされていたようで、当時の状況、といっても数日前だけれどその当時を振り返ってくれた。
「──気持ち悪い、ね」
「うん、アタシもその言葉にちょっと……うーん、納得してるわけじゃないケド、そっかぁって思っちゃった」
彼は私の特別になってくれるという秘密と、花音と私の二人を同時に愛しているという秘密の両方を抱えて、抱え込みきれなくなっていたんだ。私や花音も気づかないほど、いえ、きっとどこかでは気づいていたんでしょうね。
「たぶんさ」
「ええ」
「光博は、まだ結局、トラウマを克服できてないと思うんだ」
「……トラウマ」
まだ幼かった彼は二度、彼の幼馴染によってその淡い恋心を身体という直接的かつ短絡的な方法で踏み潰されている。その時に抱いた気持ち、トラウマ、同じ
「三人の関係を秘密にしていることへの後ろめたさ、それを知られた時の気持ち悪さ、か」
「もしかしたら知られて、それを誰かにおかしいと言ってもらえれば、まだよかったのかもしれないわね」
「……あー、みんな、なんだかんだで受け入れてたもんね」
「ええ」
私と花音、リサちゃんやひまりちゃんの関係者から始まりパスパレメンバーや「CiRCLE」にやってくるガールズバンドの子たちやまりなさん。そんなメンバーから
──こんなのが許されるはずがない。お前は常識的にありえないことをしている。そんな風に思われたほうが、まだ秘密を保っていられたのだから。
「それで、ホントに花音を振って千聖と付き合う選択をするなんてね……」
「……そうね」
「やっぱり、嬉しくないんだ」
「嬉しいわよ。でも、ふと不安になるの」
今までの話を総合して、その漠然とした不安がより強いものになった。それは
「あ、そういえばそうだね」
「ええ、それなら花音の方が彼としても堂々とできるものじゃない?」
「……でも、もう千聖のカレシとして有名になりすぎてるからってのもあるんじゃないカナ?」
「確かに、そういう理由もありそうね」
ありそうだけれど、これからも周囲の反応に気を配らなければならないのは変わらないわ。相手がもし花音なら、イチイチ隠す理由もないじゃない。それに結局私は半年以上も付き合っていて、デートのひとつもしたことがないのに。
花音に勝てないと感じるところはそこね。結局、秘密の甘さよりも恋愛の甘さのほうが勝りそうなものでしょう? 花音とは何度もデートに行っていた。基本的には水族館だったけれど、気ままにショッピングに行ったり、映画を観に行ったり。夏にはプールにも行ったと聞いた。
「いつも、その思い出を語る彼は幸せそうで……私は、二人でどこかに出歩くこともないのに」
「そっか、千聖は……花音が羨ましかったんだったね」
「ええ」
「羨ましくて、自分じゃ絶対に勝てなくて……そして自分が足らないところを補ってくれてた存在なんだね」
恋愛の甘さはいつも花音が教えていた。私が教えてあげられるのは秘密の甘さ。隠し味であり、ほのかに香る蜂蜜のような甘さ。そして以前、付き合ったばかりの春休みのとある日にふと私の頭を撫でた彼が申し訳無さそうに言ってくれた言葉が、私を今日までなるべく光博の傍にいたい、いてあげたいって思ったきっかけなのだから。
「今日も泊まる?」
「……ええ、それとも、迷惑だったかしら?」
「ううん……傍にいてくれてありがとう」
「……っ、光博……ん」
「あと、どこもデート行けなくて、ごめんね?」
「それは、私のセリフだと思うけれど」
「いやいや、毎日部屋ばっかりじゃ代わり映えしないだろうからさ」
「ふふ、いいわよ……あなたのぬくもりがあれば、それで」
傍にいてくれてありがとう、という意味がこんな傷心中の俺なんかの傍にいて慰めてくれてありがとうって意味だったとしても、あの日の唇の感触と、どこかに連れて行ってくれそうな、私を連れ出してくれそうなあの言葉は私の宝物だわ。そして私が花音と彼のデートを羨ましいと思っていて、それに気づいていたからこそ、たくさんの話を私に聴かせてくれたことも。
「光博がねぇ」
「彼、自己肯定感は低いし、メンタルすぐ低下するし、そのクセたまに遊びに来る妹にはデレっとするけれど」
「最後のは個人的な嫉妬じゃ……」
「──でも、暖かいの。ひだまりみたいに暖かくて、傍にいるとほっとするの」
特に花音と二股を掛けて、今の家に引っ越してからはちゃんとした意味での愛を分けてくれるようになった。疲れていると当たり前のように隣にいてくれて、何も言わないでいてくれる。どんなに甘えても嫌がる素振りも見せずに優しい声で名前を呼んでくれる。そんな彼を外に連れ出してあげられる花音が、私には必要だった。きっと花音にとっても私の関わりが羨ましくてそして掛け替えのないものだって思っていた。そういう奇跡的なバランスで、私たち三人は成り立っていたのに。
「そんなに、優しい子じゃないよ……私も、彼も」
「……花音」
「こんにちはリサちゃん、千聖ちゃん」
「え、あ……うん、花音も座る?」
「それじゃあお邪魔します」
相談の間に割って入ってきたのは、噂の本人とも言うべき花音だった。きっとハロハピの練習が終わったのだろう。怒ってるのか、落ち込んでるのか、どうかと顔を伺うと花音は決して幸せという顔はしてはいないけれど、いつもの花音だった。気負っているわけでもなく、隠していることもない、私の知る松原花音の表情をしていた。思わず私は、縋るように何もかもをすっ飛ばして花音に訊ねていた。
「どうして、私だったの……?」
「どうして、かぁ……私も詳しく光博くんに訊いたわけじゃないけど、
「……え?」
「んっとね、私って秘密は嫌だ……っていつも言ってるでしょ? あの人と最初にお別れした原因も、内緒の関係だったからだし」
「そ、そうね……」
「だから、なるべく関係を内緒にしたい光博くんにとって、都合が悪い、でしょ?」
手先が冷たくなるような気持ちだった。その理論で行くと、確かに私は
「……どうしたらいいんだろうね」
「どうしたらって?」
「どうしたら、光博くんを幸せにできたのかな……私はもう、幸せにすらさせてもらえなくなっちゃったけど」
「花音……」
「千聖ちゃん……考えてあげて」
そんなことを言われても、私にはどうすることもできない。私はいつだって彼にもらってばっかりで、彼のぬくもりに甘えるばかりで。もし彼が今の関係をおしまいだって言ったらただ泣きじゃくることしかできない、泣いて縋って、みっともなく捨てられる哀れな女にしかなれない。きっと部屋に籠もってうずくまることしかできないのに。花音に何かを託される資格なんてないのに。
「ん……なるほどね」
「どうしたのリサちゃん?」
「いや、この反応観て、光博の性格からすると……アタシはなんとなくわかったことがあるってだけ」
わかったこと、とは言ったけれどリサちゃんはそれ以上教えてくれることはなかった。ただ一言だけ、花音も同意した言葉があった。
──このままじゃ結局何も変わらない。光博にとってのトラウマ、気持ち悪さと私の恋愛がいつか不協和音を生み出す。だからその前に私が私だけの力でたどり着かないといけない。
私はそのままの足で花音たちと別れ、私は光博の家に向かう。あの事件以来、事務所としても黙認状態だからもう自分の足で行ける。私はもらったスペアキーで鍵を開けて、そして玄関に置いてあるコルクボードにクラゲのキーホルダーのついたもう一つのスペアキーの隣にそれを掛けた。千聖、と書かれた名前と、隣に、ほんの少し前まであったはずの名前のない、持ち主のいないスペアキー。彼女は別れを切り出された時、どうしたのかしら。涙をこらえて笑みを作ったのかしら、それとも。
「あ、おかえり千聖さん」
「……光博」
「ど、どうしたの? 今日オフじゃなかったっけ?」
「光博……っ」
「……うん、俺はここにいるよ」
大好きな人のぬくもり、優しい声、香り、手、全てが私を慰めようとしてくれる。何も訊かずに優しく受け止めてくれる。私はそこに以前との違いを見いだせない。花音がいてはいけなかった理由がやっぱりわからない。世間的にまずいから、常識的に考えておかしいから。そんな理由で、
──どうしてまだそんなに優しくいられるの? 私も、すぐに捨ててしまえるから? 結局、あなたにとって好きって気持ちは、愛する行為は、気持ち悪いものでしかないの?
「もしもし?」
「あ、すいませんオフのところ……ちょっと急ぎでどうしても伝えたいことがありまして」
「また事務所で何か?」
そして夜、光博の家にある私の部屋の机で台本を読んでいると電話がかかってきた。相手はマネージャーで言葉通り少し急ぎ気味だった。私はさっきまで読んでいた場所に付箋をつけて一旦閉じる。幸い事務所で何かトラブルとか、私と光博の関係にちょっかいを出そうとかそういうのではないようで少し安心した。それどころかマネージャーが伝えてきたことは、私の胸を躍らせるようなものだった。
「クリスマスは無理だったんですけど、その前の週でオフ取れて……デートできそうです」
「本当ですか?」
「はい、浦部さんにも伝えておいてください」
「ええ、必ず」
「それじゃあお疲れ様です。失礼します」
先月からずっとマネージャーが気にしていたデートの件、どうやら根回しや説得がうまくいったようだ。期間は約二ヶ月空くけれど、まさか光博と恋人としてクリスマスの気分を味わってデートができるなんて、以前では考えられないことね。嬉しくて、さっきまで台本を読んでいたことも忘れて、階段を降りてリビングにいた光博に報告した。
「わかった、その日は空けとくね」
「絶対よ? 空けなかったらお説教してあげるわ」
「うん……それにしても、クリスマスか」
そう、クリスマス、つまりはクリスマスイブの花音とのデートからもうすぐ一年ということを示していた。あっという間だったような、それでいてすごく長い時間だったような。
──私と光博と花音の転換点から一年、そして私たちの二度目の転換点がもうすぐそこまで迫っていた。
運命の転換点、二度目のクリスマスまであと二ヶ月となりました。
まぁそんな長く描写するつもりもないけど。