私は、ひどく動揺していた。光博から朝は学校行ってくることにしたと元気そうな連絡が来て、ほっとしつつも、忙しいのを言い訳に放置しないようにしようと心に決めて仕事に臨んでいたのに。リサちゃんからの連絡に、思わずスマホを落としてしまいそうになるくらいに動揺してしまった。
──忙しい? 余裕あったら羽沢珈琲店に来てほしい。結構メンタルやられてるっぽい。
「何があったの……?」
十中八九どころか十割全て花音絡みでしょうけど、私はちょうど撮影が終わって、今日は事務所寄ってからのんびり帰ってタイミングがよかったら電話でもしてあげようかしら、なんて計画を全て白紙にして、足早に現場から去っていく。まだ閉店まで間に合うはず、そんな風に息を切らせながらまっすぐに商店街を目指していく。
「はぁ……っ、はぁ……!」
「ち、千聖さん! いらっしゃいませ……?」
「……ふぅ、惨めな死体さんはどこかしら?」
つぐみちゃんが視線を横に滑らせた、その先になんだか見慣れた格好で机に突っ伏した情けない男がいた。惨めな死体さんで誰のことかわかってしまうのね。まぁ店内に死体が一つしかないから当然といえば当然だけれど。コーヒーの匂いをほんのりと漂わせた
「ホントに来たんだ」
「来るわよ、当然でしょう?」
「どこに必然性があるんだ……」
「ごめんなさい、二人とも」
「いーっていーって、情報共有したかったところだし」
「はい、正直、私もよくわからなくて……千聖さんは、何か知っているかなって」
何のことかしらと訊ねるとひまりちゃんは二時間ほど前にあったことを教えてくれた。光博から聞いていたのと同じ変わらない花音の態度、そしてバイトリーダーであり花音のカレシである男の言葉、その情報に私の眉間のシワはきっと深い谷を形成していることだろうと思う。リサちゃんもびっくりというより、少し、怒り混じりのような雰囲気を感じる。
「……その情報だけだと、とんだ茶番に巻き込まれたのね、私も、みんなも」
「そう、ですね」
「……意味わかんない。じゃあなんで、最初からカレシがいるって」
「秘密にしなきゃいけない事情があった、とか?」
ひまりちゃんの言葉はしきりに関係などについては内緒とカレが言っていたというのが根拠だった。だからって、わざわざカレシのいる子がクリスマス・イヴに他の男とデートして、あまつさえホテルで一泊なんて真似するかしら? 幾らそこで蚊帳の外というか口出しすることすらできないほど憔悴しきってる男が恋愛経験ナシの童貞ヘタレで意気地なしでその上EDだったとしてもリスキーだわ。そんな危ない橋を渡ってまで手に入れられるものなんて舞い上がる残念男の横顔くらいでしょう?
「……ごめんなさい、舞い上がった挙げ句でごめんなさい」
「千聖〜、言い過ぎだって〜」
「はぁ……軽率だったわ。私も少し苛立っているみたい」
「今回ばっかりは……花音さん意味わかんなさすぎですよ!」
いつもなら花音との進展がないことに関して全て悪い、くらいのことを言ってのけるひまりちゃんですら光博の肩を持つ。それくらい、花音の言動が不明瞭で不確かだ。嘘を吐いてる? そうだったら自然だけれど、そんな意味のない嘘を吐くかしら? 花音が一年生の頃から付き合ってる、だなんて。ひまりちゃんにそこで嘘を言っても、なんの得にもならない。
「その人ってさ、アタシはあんまり知らないんだケド、ヤバそうなヤツ?」
「ヤバい、とは?」
「女食ってるとか、セフレとヤリまくってるとか」
「いいえ、先輩はめっちゃカッコいいですよ! ね、千聖さん!」
「ええ、まぁ……確かに本来だったら花音との関係に口を挟むことなんてないくらいの男ではあるわね」
「……だろうね、うん、まぁ俺なんかよりもずっと人格者ではあると思うよ……」
「光博は黙ってなさい」
「……うっす」
まったく、よしよし……ふふっ、この触り心地はなんだか癖になるわね。まるでレオンが私の膝にいる時のようなあやし方をしながら会話を続けていく。とにかく、この状況は納得できない。そう、何が事実であり真実であれ、
「私、巴にもそれとなく伝えてもうちょい調査してみます!」
「アタシは……んー学校違うしなぁ、しばらく千聖と交代で光博の様子見てった方がよさそうだね」
「そうね、さすがに何日も何日も構っていられないから」
「ごめん、迷惑かける」
「はいはい、たまには弟子に料理を振る舞ってあげるのも、師匠の努めだし?」
少し、いえ少しどころじゃないくらいに妬いてしまうけれど、今は私個人のわがままよりも光博のケアを最優先すべきだわ。幸い光博が人並みに料理できるようになったのも、自分の部屋をいつでも花音が上がれるようにと教えたのもリサちゃんだ。ここは彼女に任せるのがいいでしょうね。
──それに、心理的負担が少ないのもリサちゃんとひまりちゃん。私はアイドルで女優で、という認識が強くて私が自分に時間を使っているという事実に心を痛める小心者かつ自己肯定感の低さがあるから。そういう意味だとリサちゃんはRoseliaの練習やバイトでバタバタしてることも多いからそれで落ち込むけれど。
「よかったね」
「……よくない」
「そこをよかったと言えないのが今のあなたのダメなところね」
「前から」
「あはは〜、確かに」
直しなさいって言ってるのよ私は。前からと開き直ってる場合じゃないでしょう。というかひまりちゃんやリサちゃんに優しく慰めてもらっておいて自分のことばかりなのかしら? 私が紹介しなかったらあなたじゃ縁も結べない相手だったでしょうに。
「ってか、千聖〜」
「なあに?」
「内心、すごく顔に出てますよ」
「……失礼したわ」
「何の話?」
「なんでもないわよ」
ここ数日少し想定外のことばかり起こっているせいで表情を作れなくなっているわね、気をつけないと彼の前で緩んでしまうわ。リサちゃんやひまりちゃんは関わっていく中で既に把握されているということは知っているからいいけれど、自己肯定最底辺の朴念仁にはしばらくまだ秘密にしておかないと、ね?
「というか、千聖さんからしたら……チャンス的な?」
「どうかしらね」
そりゃあ、光博は失恋しているでしょうけど、だからって花音のことを忘れられるはずがない。未練が後を引いて、まだ、いえずっと私なんて視界に入ってすらいない。そんな私が想いを伝えても、きっと彼は困惑して、なんなら意味がわからず距離を取ってくるおそれすらあるもの。ここは慎重に、ね? チャンスの女神が振り返ってくれているけれど、前髪を掴もうと焦れば足許を掬われてしまうから。
「ひとまず、ここまで焚き付けた責任を負わなければいけないわ」
「いいよ、俺なんかの失恋にそこまでしてくれなくて……千聖さん忙しいのに」
「あら、じゃあ独りで立ち直れるのね? 誰にも何も言わずに、誰にも慰められずに、また花音に会ってもなんとかできるのね?」
「……ごめんなさい」
「わかればいいのよ」
失恋したからってそれじゃあさようなら、なんて言うわけないでしょう? それは私が惚れてようが惚れてなかろうが同じことよ。その証拠にリサちゃんやひまりちゃんも同じ気持ちみたいよ。ほら、そんな私たちに対して申し訳ないからいいとか、いらないとかそういう冷たい言葉で突き放すつもりじゃないわよね?
「強引、すぎない?」
「お節介だからね、アタシらって」
「私は単に納得してないから、ですけどね」
そろそろ閉店ということで、リサちゃんとひまりちゃんに彼を任せて私は自分の帰路につくことにする。すっかり暗くなってしまったわね、なんて思って別れようとすると、ちょっと回復したことで一応は復活した光博が私の前に立った。意味もわからず、無駄にでかい身長で進路を妨害され、少しイラッとしながら私は笑みを作った。
「あら? どうしたの? 甘えたりないのかしら?」
「いや独りは、まずくないか……って思って。もう暗いし」
意外な言葉が口から出てきたことにきょとんとしてしまう。確かに、もう暗くて独りで夜道というのはリスクがあるとは思う。でもそれをまさか、光博自身から口にするなんて。リサちゃん当たりの入れ知恵かしらとそちらを伺うとなんだかびっくりしつつも暖かい目をしていた。
「……ふっ、ふふふ」
「うわ、そこで笑う? いやでもさ……」
「笑うわよ」
自分がボロボロのくせに、本当は今すぐにでも帰って寝て今日のことは忘れてしまえればいいと思ってるくせに。本当に私のことを気遣える体力なんてどこに残ってたのよ。どうしてこう、あなたは忘れた頃に私の心を揺らそうとしてくるの? 狙ってやっていたら、相当な策士って呼んであげてもいいわよ。
「二人で歩いてるところ、見つかったらどうするつもりなのかしら?」
「あ、えーっとそれは……あれだ、50メートルくらい離れて、隠れとく」
「ストーカーよそれ」
「そっか……確かに、通報されたくはない」
それでもしあなたが俺は千聖さんを夜道で独りにするのは危険だと思ったからこうしたんだとか弁明しても絶対に擁護しないわよ。なんなら知らない変質者扱いしてやるわ。だからってあなたとふたりきりで夜道に帰るなんてリスキーなことしないわ。ヘタレで意気地なしなあなたが送り狼、になんてならないでしょうけど、それをおもしろおかしく切り抜こうとする輩はいるでしょうから。
「だから、二人を呼んできてちょうだい」
「う、うん」
「って言うと思ってもう来てるよ〜☆」
「ごめんなさいね、わざわざ」
「いえいえ〜」
「まぁ四人なら、多少はダイジョーブそうじゃない?」
「そうね」
でも、私は少しだけ残念な気持ちもある。私は秘密を好む生き物だから、自分の気持ちを伝えてこなかった花音やあなたにはもちろん、誰にも教えていない気持ちもあるの。それはとっても困ったもので、特定の条件においてそれを抑えるのがとっても難しくなる。私が抱えた甘くて、苦しい、秘密。ふふ、きっと言わなければわからないのでしょうね、私が浦部光博という人物に特別な気持ちを、恋をしているということも、きっと可能性として頭に一瞬浮かべて、それを様々な言い訳で否定しているのでしょう? そんなあなたには絶対にわからない気持ち。その条件の一つにあなたとふたりきりというのがあるから。
「光博」
「なに?」
「頼りなさい」
「……うっす」
これまで私はあなたに甘えるなと叱咤し続けていた。すぐ逃げようとする、まっすぐ自分の気持ちに向き合おうとしないあなたに対して私はいつも、いつだって甘えるな、逃げるな、誰かに頼ろうとするなと厳しく言い続けてきた。でも、今は違う。甘えてしまっていい、逃げてもいい、頼っていい。だってそれはあなたの気持ちひとつでどうにかなる問題ではないから。
「……なによリサちゃん」
「いやぁ、なーんか、いいなぁと思ってさ」
「そんないいものじゃないわよ。少なくとも相手が悪いから」
「それもそっか、でも、アタシは一年頑張ってきた光博にも、千聖にもご褒美はあっていいと思うんだ」
「──私はもう、たくさんもらってるわ」
「わ、言うことが大人だね〜」
別に大人なんかじゃないわよ。私は大人になれてない。ただのわがままな子どもよ。花音と光博が幸せになってくれれば、花音が相手なら私の恋が叶わなくても仕方がないって思えた。だから、花音がいらないと言うなら、私でなきゃダメなの。私が彼の隣で彼に微笑みをあげたいから。
「私、独占欲強いのよ、とっても」
「あれ、もしかしてアタシ警戒されてる?」
「ええ、ひまりちゃんは……大丈夫だとは思うけれど」
チラリと後ろで最近の俳優やドラマの情報をひまりちゃんに教えてもらいその俳優の髪型なんかの特徴を教えてもらっている光博、こう外から見ると、彼、随分変わったわよね。ひまりちゃんのおかげで、ええ、大丈夫だと思うけれど。リサちゃんは距離が近いのよ、家にも気軽に出入りしているの、知っているのよ?
「あはは、まぁまぁ、横取りなんてしないって」
「信じるわよ」
そんなことを話しながら、私は家の前で三人と別れた。これから、何が始まるのか、何が変わるのかはわからない。花音の真意も、光博のこれからの気持ちの変化も私には読み取りきれない。
──でも、だからこそ私はこの秘密の恋を楽しんでいられるような気がした。その先にあるものが、決して甘いだけでないことを予感しながらも、私はその苦味ごと飲み干そうと、スマホに耳を当てるのだった。
ここまでがプロローグになるのかな? ここから、少しずつ時間が進んでいきます。