泣き崩れてしまったことで、千聖さんは洗い物を手伝ってくれた。お客さんにそんなことをさせてめちゃくちゃ申し訳なかったけど、流石に遠慮する気力もなくて、そのまま俺は頭痛がし始めたため、ベッドに寝転んだ。一人暮らしでこれは外せないと言い張って親に買ってもらったちょっと広めのベッドは、俺にやすらぎと暖かさをくれる。
「そう、夢ね」
「うん……でも俺、やっぱり……意味わかんなくて」
「いいわよ、わざわざ言わなくて」
あと、やすらぎをくれるのは千聖さんの手だった。優しく撫でてくれるその手に暖かさを感じて、うとうとしてきてしまう。ただ、また寝ると悪夢を見るのが怖くて、身体が冷えるような恐怖を味わっていく。その恐怖を紛れさせるために俺は支離滅裂な言葉を千聖さんにぶつけてしまう。
「やっぱさ、ダメなわけじゃん。そういうのって、ちゃんと責任とか、覚悟とかなしで軽々しく抱くもんじゃないじゃん」
「光博」
「そうやって覚悟決めてたのに、花音はきっとアイツと」
「──もういいわよ、もう……これ以上自分を傷つけないで」
花音がもしかしたら夢で見たあのシーンを望んでいて、カレシとふたりきりの空間になるとあんな顔をするなんて、思いたくない。思いたくなんてないけど、あの時、俺が花音を押し倒せなかったから、アソビは終わりってなったのかなって思うと今度は花音を貶したくなる。貶して、貶めて、あの子をビッチだとか、頭ン中性欲しかないクソ女だとか言ってしまいたくなるから。
「あなたは……少し勘違いしてるわ」
「勘違い……なに?」
「なるほどね、私はてっきりそういう雰囲気にもならなかったと思っていたけれど、違っていたのね」
千聖さんはそんなことを言って、少し前の厳しい千聖さんに戻ったような気がした。しかもその顔はお説教をする時の千聖さんだ。どうして、と思うまでもなく俺の頭を撫でていた手を引き、こっちに来なさいと自分の対面を指した。俺は、驚きとちょっとの怖さを抱えてベッドから降りた。
「私も、正直あの子がどうして一年半付き合ってるカレシがいながらあなたと関係を進めたのかはわからないわ」
「うん」
「だから、それを一旦忘れて」
「なんで?」
「いいから、私はクリスマス後すぐにそのことを聞いたことにするわね」
え、ちょっと意味がわからないと戸惑っているが、つまりはわからない部分があるから一概に言えないってことなんだろう。花音の真意は千聖さんにもわかってない。だから花音が俺のことを好きだったって仮定の頃の気持ちで俺への厳しい言葉を向けようってことのようだった。
「いい? あなたの心情や、私が言ったことそのまま実行したとはいえ、あなたは花音をホテルに誘ったのよ?」
「う、うん……」
「クリスマスデート後に、ディナーとお泊り。同じ部屋で、同じベッドで、それは言葉にしてなくても一つの意味を持つのよ?」
「意味……って」
「そう、だから花音は煮えきらないあなたに言葉で返してくれたじゃない」
──
花音はたしかにそう言った。いいよって、それは本当はもっとずっと前、それこそデート計画を教えた時に同じことを言っていたんだ。俺は全然、そんなの気付かずにそうしたらいいわよって千聖さんの言葉に背中を押されて……というか千聖さんのいいわよの意味すらも勘違いしていたのか。
『ホテル……っ』
『え、なんか……嫌だった?』
『う、ううん……
『マジで? やった!』
彼女は、その時点で俺が性行為までの流れの同意を訊ねてると思ってたんだ。だからいいよと言って、それで煮えきらない俺に対して重ねていいよと言ってくれたのに。俺はヘタレをよくわからないところで発揮したせいで、花音を失望させたのか? 千聖さんはその言葉に頷いた。
「大きなミスよ、取り返しがつかないくらいに……」
「でも、そうじゃなかったとしても花音にはカレシが」
「それは別問題なのよ」
「……納得できない」
「据え膳食わぬは男の恥、そもそも自分から皿に乗せておいて放置した男が納得、なんて口にする方が滑稽よ」
ため息を付かれながらのその厳しい言葉に項垂れる。その言葉、本当にそうなのか信じられないんだけど。少なくともそういう雰囲気になったからヤリましたって、後で訴えられたりしない? クリスマスイブでホテルオッケーしてもらったからって言っても、その場で嫌だったとか、後で下手だったからとか言われて嫌われたら怖いじゃん。俺、童貞なんだよ?
「くだらないわね、みんな童貞よ最初は」
「でも」
「傷つく勇気もない男が……恋愛なんてっ!」
「……っ!」
なんで、なんで。それは、千聖さんに俺の気持ちがバレた時に、そして俺なんかがあの子に気持ちを向けていいわけがないとか言った時の言葉とほぼ同じだった。でも、その言葉に籠もった熱はあの時とは全然違って、感情的で、あまりに少女のような、乙女のような熱があった。
「なんで……泣いてるの、千聖さん」
「あなたは前に進む勇気がないだけじゃない! 傷ついてでも、好きな人のことを知ろうともしない、臆病者じゃない……!」
「うわ、千聖……さん?」
それが、彼女の、千聖さんの保てる平静の限界だったんだろう。泣き出して、俺にタックルして……じゃなくて抱きついてきてるんだなきっと。勢いが強すぎて、ベッドに背中を打ってしまう。痛い、けど涙をとめどなく溢れさせてる千聖さんの方が、よっぽど痛そうで。俺はわけがわからなくなりつつもその後頭部に手を置いた。
「……私は」
「なに?」
「私は、ここに来る度に、私は思ってたわ」
「……えっと、お説教を?」
「違うわよ、
はい? そう問いかける間もなく、俺は千聖さんに唇を奪われた。今までの会話の流れと、この行動が示す意味はつまり。そういうことなんだと気付かされる。花音の言葉と同じ意味、千聖さんはそれを今度はもっと直接的な行動で教えてくれる。ドキっとする、してしまう。まだ失恋中のはずなのに、間近にある千聖さんの顔にまるで吸い込まれるように、ではなく千聖さんの腕が強引に俺の首を抱き寄せて。
「卒業させてあげるわ」
「はい?」
「そんなに童貞で、経験ないのが劣等感なら……私で卒業しなさい」
「……そんなボロ泣きで言うこと?」
「う、うるさいわね……私だって、泣くつもりなんてなかったわよ」
ああ、わかった。なんかすごく最低なことをしているような気もするけど、俺が立ち直るには、花音への片想いを忘れるには、これしかないのかもしれない。逃げる、甘える、頼る。そして、新しい恋をする。花音と同じタイミングで出会って、そして一年の間、何度も顔を合わせてきた千聖さんと恋をする。相手は芸能人でアイドルで、だからこそ住む世界が違うとすら最初思っていた彼女と。
「わかってると思うけれど、内緒にしときなさいよ。私に言えない相談はひまりちゃんやリサちゃんだけにしておきなさい」
「わかってるよ」
「ならいいわ、ふふ……それに」
「それに?」
「私、多分すごくめんどくさいから、覚悟しておきなさいね?」
いや自分で言うんかい、とは思ったけど千聖さんのかわいらしい微笑みに俺は頷いた。それから、二月が終わって、三月が過ぎて、春休みを挟んで四月、ようやく千聖さんとの恋人同士という関係に多少の慣れができた頃、俺と千聖さん、そして花音は高校三年生になった。秘密の恋は甘いものよ、だなんて言ってた俺のカノジョの言葉通り、こっそりってことがクセになり始めていた。
花束なんていらなかった。キレイなお花で飾っても、それは食べられるものじゃないから。私に必要なものはお花じゃなかったのに、彼はなんにもわかってくれなかった。それに、私はそんなキレイな子じゃない。あなたに美しいから、と飾られるような花じゃないのに。
──だから私は、彼を裏切った。花を千切り、踏みつけ、彼の前に投げ捨てた。最低な子でいい、汚らしい子でいい。私は、血肉を食らうケダモノでいいから。
「ん……」
「おはよ、花音」
「ん〜、おはよお……」
夢を見ていた気がした。なんだか変な夢、もう覚えていないけれどカレからの目覚めのキスが私の意識を微睡みから覚ましていく。ふと外を眺めるとやけに明るいなぁと思っていたら、どうやら雪が積もっていたみたいだった。私は窓際に駆け寄ってその光景を目に焼き付ける。いいなぁ、こころちゃんとか今頃遊んでるかなぁ?
「おい、服」
「あ……えへへ」
それに気付いて恥ずかしくなっちゃう。着替えて、スマホを見るとやっぱりこころちゃんが雪ではしゃいでるみたいだった。私はすかさずカレに振り向いてこころちゃんたちと雪遊びしてくるねと報告する。ここに住んでるわけじゃないけど、すっかり居心地がよくて、なによりカレと一緒にいられるのが嬉しくて。
「今日は、あの男のところに行かないのか?」
「光博くん? う〜ん、最近リサちゃんとか千聖ちゃんが入り浸ってるからなぁ」
「油断した、ひまりも関係者ってか、ひまりと一緒に居たのがまさかそいつだったなんて」
まぁそれはしょうがないよ。私も顔の特徴とか誰とか言ってなかったし。それに、私は
「なぁ、ホントのこと……言わなくていいのか?」
「うん」
「けどオレ、マジで余計なことまで言ったから」
「大丈夫……そのくらいのほうが、わかりやすいから」
よしよしとカレの頭を撫でる。いつもは照れさせられたり、甘やかされてばっかりだから、たまにはこういうのもいいなぁとか思いながら私は少し、また泣きそうになってしまう。いつも、私は泣いてしまう。心の底から幸せだって、大好きなあなたといられて幸せだよって笑えなくて、申し訳なくなってしまう。
「傷つくって決めたんだろ? どんだけ誰かを巻き込んでも、戻れなくなっても……動かすって」
「……うん、でも、ごめんね?」
「いいって、元々こっちは何回もフラれて、それでもみっともなく縋り付いてるだけだからな」
それも含めて、なんだけどな。私の気持ちはずっと、クリスマスのずっと前から宙ぶらりんだ。私に勇気がなかったから、他人を傷つける勇気がなかったから。私のまぶたの裏にこびりついた景色が、私の口を重くさせてしまったから。好きな人が私に一生懸命、花を手渡して、美しいと褒めてくれた。私はそうやって言われるのが嬉しくて、幸せで。私はだから自分の心を開けようとしたのに。
「それじゃ、ちゃんと復習しなよ〜?」
「りょうかいです、師匠! なんちゃって」
「調子に乗りすぎよ、上達しているけれど、まだ花音の方がスキルは上なのだから」
「う……スイマセン」
「まぁまぁ、これからこれから! ね?」
「もう……まぁ、精進しなさい」
あなたは私の心の門のずっとずっと外にいた。あなたは私を蔑ろにしていた。あなたは私に吐いた気持ちの意味を全然理解してなかった。だから、私はカレを選んだ。カレに選ばれた。あなたが、私を拒絶したから。
──いいよって言ったのに。
「きゃ……ふえぇ、どうしたのいきなり?」
「なぁ花音」
「ん?」
「今日も、泊まってってくれると嬉しいんだけど、どうだ?」
「……
「じゃあ、待ってる」
「はぁい、行ってきます……!」
「行ってらっしゃい」
私は花じゃない。私はケダモノだ。愛がほしくてほしくて飢えたケダモノ。だから私のことを嫌いでもいいから、もう好きじゃなくてもいいから、知っていてほしい、あの日のいいよの本当の意味を。知って、あなたはどうするのか、どういう選択をするのか。教えてほしいから。
──恋はお砂糖のように甘くて、思わずほっぺが緩むほど幸せの味がするもの。もっとって欲張って、分け合って、そうやって二人で共有していくものなんだよ。あなたにも、分けてあげたかったな。