深夜、空には欠けた月が浮かぶ。生い茂る木々は月明かりを遮り暗闇を作り出す。その中を駆ける一つの影があった。
その影は立ち止まることなくひたすら速く、速く、速く。前へ、前へ、前へ。
草を踏みつけ枝を払いのけ木々を避け道なき道を影はただ前へ走った。肌に枝先が掠りじんわりと痛みが走るがそんなことを気に留める余裕はない。振りかえらず、ただ前進あるのみ。
「ハァ、ハァ、ハァ、ッ!」
影の――少年の荒い息遣いが音の無い森の中に洩れる。生い茂る草に足元が見えなかったからだろう、木の根に足が引っかかりバランスを崩し倒れるもすぐに立ち上がる。
息が苦しい、心臓が破けそう、足は棒のようにまるで自分のものじゃないようだ。
「どうした、もう終わりか?」
真後ろから掛けられた声にゾクリ、と少年の背筋が凍る。どれだけ速く走っても、どれだけ複雑な地形を走っても、相手は常に少年の後ろへと迫る。
「――――!」
叫び声をあげたつもりだったが声にならなかった。そして少年は振り返ることなくただ走る。それ以外手段がない。
バランスを崩しそうになっても立て直しなんとか走り続ける。
その様子を上空から、文字通り高みから見物する二つの姿があった。クランとフォーゼだ。
「あの吸血鬼、なんだか楽しそうですね」
「元々そういう性格なんだろ」
二人は外部から邪魔が入らないよう結界を管理しつつノリノリで脅かすエヴァンジェリンを眺める。
「しかし本当によろしいのですか? あのような子供を下につけるなど」
「最終的判断はエヴァが決めるが問題はないだろ」
フォーゼの問いかけにクランは答える。彼女の心配は尤もだ、何の役にも立たなそうな子供と行動する理由は無い。
試験、と言っていいのかよくわからない鬼ごっこが始まる前にエヴァンジェリンに対しクランも文句を言った、ただの子供を傍に置く必要は無いと。
しかしそれにエヴァンジェリンは首を横に振った。これから拠点を持ち生活する上で子供がいる、という事実は少なからず利用価値がある。そしてもし、あの子が自分の眼鏡に適うようなものならばそれこそ役に立つだろうと。
確かに長い目で見れば役に立つかもしれない、それを見るための試験でもある。人間やる気になれば大抵のことはできるものだ、その動機が酷く歪んだものだとしても。
目の前で家族を殺した奴への復讐、それがあの子供の行動原理である。同じく復讐を目的として力をつけ生きた彼女としても何か思うところがあるのかもしれない。
「さて、残り五分か。そろそろ仕掛ける頃合いだな」
時計に目をやり時間を確認するクラン。そしてエヴァンジェリンを見るとそこでようやく魔法による攻撃を開始した。
「加減はするが当たり所が悪ければ死ぬぞ。避けろよ」
「ッッ!!」
後方から聞こえた声に反応する少年は、そして同時に真横へと跳び木の影へと隠れた。その直後、少年が居た場所を魔法の矢が通過する。追尾すべく軌道を変える矢はしかし森の中であり遮るものが多々あるところでは役に立たず木々によって防がれる。
追尾を防げたことに安堵する少年。だがそれも一瞬のことだった。
「ほら、安堵している余裕はないぞ!」
エヴァンジェリンは休む間を与えることなく次の魔法を発動させる。先ほどのより威力を上げた魔法の矢は少年の隠れる木へと直撃すると爆発し木もろとも少年を吹き飛ばす。
「ぐっ……」
背後からの衝撃にごろごろと二、三回転転がる少年。痛む身体に鞭打ち何とか立ち上がり走り出す。
しかし先二回の攻撃で障害物となる周囲の木々は無くなり辺りは開けてしまった、そのことを逃すエヴァンジェリンではない。再度魔法を放ち氷の粒が少年の足を切り裂く。少年を転がし動きを止めるにはそれだけで十分だった。
「ぐあ!」
余りの痛みに立つことができず、それでも諦めず這ってでも逃げようとする少年。その後ろからわざとらしく足音を立ててエヴァンジェリンがゆっくりと近づいて行く。
這って逃げる者と歩いて追う者、その差はすぐに縮まりエヴァンジェリンは少年を蹴り飛ばす。まるでボールのように少年は飛んだ。数回転しながら最後には仰向けに倒れる。
「ゲホッ、ゲホッ」
「降参しろ」
衝撃に
「復讐など忘れて普通に生きろ、誰もお前を責めはしない」
それは甘い響き。この辛い状況から脱却できる唯一の方法。全てを諦めて忘れる。家族を殺された事も、赤フードの事も、復讐する心も。
それでも少年は僅かに動く首を横に振る。
「イヤ……だ……」
忘れたくない、忘れられない。それだけ怨んでいる、憎んでいる。出来る事ならこの手で殺してやりたい、それが無理ならば死ぬところを見届けてやりたい。非常に黒い感情が少年の中に渦巻いていた。
「そうか……ならここで朽ちろ」
刃を振り上げるエヴァンジェリン。
死ぬ。殺される。何もしないまま何もなしえぬ。復讐を果たすこともできず無残にここで――
「アアァァァァァァァ!!」
気が付くと叫び声を上げながらエヴァンジェリンへと跳びかかっていた。足の痛も体の疲れも忘れ少年は襲い掛かる。
「そうだ、それでいい」
一歩横にずれるだけで難無くそれを躱す。少年はそのまま地面へとぶつかる。しかしすぐさま四肢を地面へと突き立てエヴァンジェリンを視界に捉え跳ぶ。
「ハハッ、まるで獣じゃないか。いいぞ、捕まえてみろ」
それから何度も少年は跳びかかる。それを躱すエヴァンジェリン。
幾度となく繰り返された動作はやがて力尽きたのか少年は
「繰り返し言おう、復讐など忘れて普通に生きろ。お前は全て忘れる事ができる権利を得た。別な人生を歩める権利を、な」
その声は今までのどの声よりも優しい声だった。
「……イ……だ」
「……そうか」
声にならないほどの僅かな音を聞き取りエヴァンジェリンは嘆息を吐く。
「キッチリ十五分だ、弟子入りを認めてやる。明日から覚悟しろ」
その言葉を聞くと少年は今まで無理していた疲労に襲われ意識を失った。
××××××
意識を失い泥だらけになった少年を洗浄(文字通りの意味で)して寝かせたクランは先にソファーに腰掛け紅茶を飲んでいたエヴァンジェリンの隣へと座る。
「それで、どうするんだ?」
「どうするもなにも修行は付けてやるさ」
クランの問いかけにさも当然とばかりに答えるエヴァンジェリン。
「まあ
「……マスターがよろしいのであれば私は構いません」
クランに答え紅茶を準備するフォーゼだがエヴァンジェリンを半目で睨んでいる為説得力は低かった。エヴァンジェリンも少しバツが悪くなったのかフォーゼの方を見ず明後日の方向を向いていた。
「なあエヴァ」
「なんだ?」
「お前さ……後悔してるのか?」
何を、とは問わない。クランの言いたいことはエヴァンジェリンには十分わかる。
「ハッ、何を言い出すかと思えば。私は〝悪い魔法使い〟だぞ、そんなものは無い」
その答えに嘘偽りはない。そんなものは遠の昔に消えたのだから。
「なら吸血鬼に成ったばかりの、復讐を覚えたばかりのお前だったら。人間に戻り記憶を消し普通の人生も歩めるようになったら、さっきのお前の問いに何と答える」
「……愚問だな。何も変わりはしない」
そうか、とクランは言うと紅茶を一口飲んだ。どうやらこれでこの話題は終わりのようだ。
しかしエヴァンジェリンは自問する、本当にそう言い切れるのかと。今でも忘れることのできない血の惨劇、全ての始まりであり全ての終わりのあの日の出来事。
辛かった、苦しかった、悲しかった、憎かった、恨めしかった。すべての負の感情が入り混じったあの時に救いがあったのなら……
(止めだ、そんなことを考えても意味はない)
それに、もしそんな人生を歩めたとしたら今の自分はいないことになる、それはつまりこの出会いも――
「クラン……」
「なんだ?」
いつの間にか声が洩れてしまっていたようだ、ハッとしたがもう遅い。クランはその声を聞きとり次の言葉を待っていた。
「……ワインが飲みたい」
「わかった、赤でいいな」
「うむ」
苦し紛れだったがどうやら誤魔化せたようだ、クランは立ち上がるとキッチンへと向かった。フォーゼは何か言いたそうに此方を見ていたが結局何も言わず紅茶を飲んだ。その日最後に飲んだワインはいつもより濃い血の味がした。
恋愛描写とかラヴラヴ描写ってなんですかね?
次で2章は終わりかもしれない