「あなたメリーさん、いま、わたしが後ろに居るの」
「ぎゃあああ!?」
って、驚き過ぎじゃないの、メリー・アン。
「な、だ、だれ!??」
「“ガルマ・ザビ”です」
ちょっと手伝ってもらいたいことがあるんだよ。
✜ ✜ ✜
キリング中佐はグラサン野郎だった。
と言っても、色味は薄いから視線が伺えないこともない程度。
オールバックスタイル。見るからに性格が悪そうだ――残念ながら、ムンゾには悪党面が多いから、見た目だけで判断しちゃならんのは解ってるけどさ、滲み出すナニカがありすぎるでしょ。
あまり顔色の良くない顔を見上げる。さて、なんの用なのよ?
「よく来てくれたな、ガルマ・ザビ伍長」
「お呼びと伺いましたので」
強制連行だったくせによく言うって不満は隠して、おっとりと回答しつつ敬礼。
「まぁ、こちらに来てかけたまえ。マ・クベ中将とはそのように過ごしたのだろう」
それとこれと、どういう関連が――マ・クベとお茶したから自分ともお茶をしろと言うのか。
どのみち拒否権はないから、用意された席に座る。
茶器はわりかし普通。とんでもないアンティークとか、そういうのじゃない分、気楽っちゃ気楽。
さすがに茶葉はいいの使ってる。茶請けもムンゾの有名店。
目の前に座ってるのが、ヤバそうなグラサンオールバックじゃなけりゃ、ついでに背後にずらっと監視が置かれてなけりゃ、寛げたかも知れないね。
なんなの、怖がらせたいの? それでマウント取るつもりなら、出直してこい。
空気を読まず、のんびりとサーブを受ける。キリング中佐の爬虫類じみた眼差しが、絡みつくみたいで不快。
微笑みはそのままに、向ける視線の温度だけを下げれば、なぜか中佐は笑った。
「私は君を買っている。ガルマ伍長」
「……光栄です。キリング中佐」
「サイド7の海賊との交戦を指揮したのは、ガルシア…准将ではなかった、そうだろう」
「失礼ですが、キリング中佐は報告書をお読みではありませんか?」
ちゃんとガルシア・ロメオが全ての指揮を取っていたことになってただろ。
公式にはそういうこと。“ガルマ・ザビ”の関与なんてない。おれはただ、ワッケインとちょっとお話して、その後は片隅でぷるぷるしてただけ。
「ダークコロニーでも、MSパイロットの育成強化に一定以上の結果を出しているな」
「元から優秀な人材でした」
ライトニングとレッドグレイヴとか、人外レベルのパイロットがいたからさ、周りのレベルもドンと引っ張りあげられたわけだ。
「……なるほど、謙虚なことだ」
キリングは鼻を鳴らした。
「そう振る舞っていなければ、兄君の不興を買うと言うことかな」
――は?
おれが“ギレン”の不興買ってるとかないでしょ。なに言っちゃってんのさ、グラサンオールバック爬虫類モドキめ。
表情を抑えそこねて顰めっ面になったら、中佐は舌なめずりしそうな顔で笑った。
「残念ながら、ギレン閣下が君を疎んじているのは有名な話しだ。君の階級が、働きに比して上がらないのも、各所からの推薦を閣下が撥ね付けているから。それは君も知っているだろう」
知ってるよ。直接聞いたし。
ラウ少佐とロバート大佐、それからカーティス大佐にプロホノウ操機長まで揃えてみても駄目だって。
だけど、それがなにさ。そんくらいの妨害なら、疎んじてなくたって“ギレン”はやる。疎んじられてたら、それこそ排除されてる。
その兆候が無いなら、許容範囲ってことだ。
「位階が上がらないのは、連邦との兼ね合いもありましょう。僕は“暁の蜂起”の首謀者ですから」
苦笑いしてみせる。
だからこそ兵卒スタートだった。バンバン駆け上っちゃ拙いのは分かってる。でも推薦たくさん取っときや、後からの言い訳くらいにはなるだろ。
「タチから“鳩”を貼り付けられているから、迂闊なことは言えないか? いつでも雁字搦め。哀れなことだ」
ククと喉で嗤うようにしてから、キリングは身を乗り出した。
「……中佐?」
「案ずるな。ここには“鳩”は羽一枚とて舞入ることはできない。私は君の味方だ。だから、遠慮なく本心を聞かせてくれ」
はい冗談きました-。
なに言ってんだろうね、このグラサン。胡散臭さ倍増。
あなたの味方ですって言った人間が、本当に味方だったことなんて、どれだけあるんだろ。
しかも嫌な“ノイズ”びしばしさせてさ。
ニコリと温度のない微笑みを突きつける。この程度で手懐けられると思われてんなら、嘗めんのもいい加減にしとけ。
「……良い香りですね」
とりあえず、紅茶は美味いから楽しもう。
キリングが鼻白む気配を察して、背後の護衛が身動ぎしてるようだけど、何もできないだろ。
おれが中佐に呼び出されたことを知ってる人間は、少なくない。廊下で呼び止められたときにも数人いたし、何より本人が言った通り、“鳩”だって張り付いてるんだ。
今頃、タチにも報せが届いてるでしょ。
また切れ散らかしてんじゃないかな。「面倒くさい相手に捕まってんじゃないですよ!!」とかね。
「中佐はコーヒー党でしょう。これはわざわざ用意してくださったんですか?」
「……どうしてそう思った?」
「そんな気がしただけです」
この部屋に入ったとき、煙草くせえって思ったのさ。それから微かなコーヒーの薫りが。
つまり、中佐は日常的に煙草をふかしながらコーヒーを啜ってるってことだ。
スモーカーの部屋に紅茶を保管しときゃ、僅かなりとも香りは損なわれるだろ。
でも、口にした紅茶は劣化してないからさ、新しく用意したのかなって。
ついでに茶器はピカピカ。普段使いのそれを装ってるんだろうけど、新品感が抜けてない。
急拵えで対応しようとしたのか。でもなんで。
じっと中佐の顔色をうかがう――なんで“ガルマ・ザビ”にちょっかいを出したの。
おれの身柄は、実のところガッチリと“ギレン”が掴んでる。配属先も上官も、何もかもを直接指示してるからね。
だからこそ、佐官たちの争奪戦も表に出ることは無かったんだよ。
それをこんな形で引っ張って来るなんてさ、またぞろ騒ぎ出す輩が出ないとも限らないのに。
頭の中のパズルのピースを拾う。
正直、キリングについては、あんまりデータを集めてなかった。通り一遍等くらい。それでも、いい噂は聞いてない。
割と“ギレン”シンパ。情報部門の長につくために、些か強引な手段に出てたこと。タチを煙たがって、噛みつく機会を伺ってるらしいこと。
あと、なんだか聞き覚えがあるような名前なんだけど、思い出せないんだよな。んんん。
「よく言われるんですよね、“ギレン兄様”と仲が悪いだろうって。でも、別にそんなことはないです」
なんにしても、一応、誤解は解いとこうかな。
「兄様が特別、僕に厳しいからそう見られるだけです。あれで“ギレン兄様”までが甘かったら、増長して碌な大人になれなかったでしょうね?」
もしくは、“ギレン”がここまでおれに厳しくしたからこそ、他の親兄姉がベタ甘になったのかもよ。
「そう思いたいのはよく解る。兄に憎まれているなどとは、誰も信じたくないものだ」
したり顔で言ってくるけど、だから違うってば。
なんだろう。この何としても筋書き通りに話しを進めたい感じ。臨機応変を学んでから出直してこい。
「ザビ家に楔を打てると、そうお思いか?」
その響きの冷たさに、キリングが瞠目する。
二十歳やそこらの若造として舐めてんだろうが、残念だな、中身は“おれ”だ。
“ガルマ・ザビ”――おれの中の“おれ”は、不和の種の怖ろしさを誰よりも知ってる。だからこそ武器としても使うけど、使われるとなれば容赦はしないよ。
うっそりと目を細めて見る先で、中佐の地位にある男は、そっと姿勢を正した。
「とんでもない。ザビ家の結束は良く存じております」
口調が改められる。伍長に対してではなく、ザビ家の末弟に対するそれに。
ふぅん、威圧は通じるか――それでもキリングは黙らなかった。
「ですが、だからこそ、閣下に有る事無い事を吹き込んでいるタチ・オハラに気をつけて頂きたい。これは忠告です。あの男こそが閣下と貴方の間に楔を打ち込んでいる元凶」
「タチ・オハラ?」
いやぁ、やつは“有ること有ること”報告しやがってるだけなんだが。
「奴こそ奸賊、獅子身中の虫。閣下のお側にいることを良いことに、貴方の幼少期から、ずっと都合良く捻じ曲げた情報を上げ、ご兄弟の間に憎しみを育ててきたのですよ」
困惑するおれに、キリングはギラリと瞳を光らせた。
「あの男が閣下の側にいる限り、ガルマ様が閣下に赦される日は来ないでしょう」
――って、それどこ情報?
これどこから突っ込めば良い? 実際にそんな報告が上がってんならヤベェ問題だし、捏造してても、やっぱり大問題。
最近、タチの階級が中佐にあがってたけど、これ、もしかしなくても、コイツに対抗させるための措置だったりするよね。
うわぁ、なんでこんなのが情報部の上にいるの。どうしてこんな人事なの。
もう帰りたいんだけど。
紅茶も飲み終わっちゃったし、お茶請けもいただいたかね――って、いらないんだ、おかわりいらないんだってば!
出来る男です、みたいな顔で、副官らしき男が世話を焼いてくれるけど、要らん親切でしかない。
「………失礼ですが、中佐にお目にかかるのは初めてです」
反してタチとは古い付き合いだ。
突然呼ばれて、「ハイそうですか」ってなるほうがどうかしてるよね。
キリングだって、いくらなんでもそんな展開は期待しちゃいまいよ、と踏んだのにさ。
「だが、君もタチのことを良くは思っていないだろう」
食い下がるなぁ。
別にタチのことは嫌いじゃない。むしろ好き。“ギレン”の味方だもの。だからこそ“蜘蛛の巣”すら渡したんだ。
そのへんの情報は渡って――ないよなぁ、そもそも、情報網としての“蜘蛛の巣”を知ってる存在のほうが希少だし。表向きは社交――お付き合いの範囲に過ぎないからね。
それに、おれがタチを良く思ってないんじゃなくて、タチがおれを悪く思ってるの間違いです。
なんて、訂正はしない。どのみち聞き入れないだろうし、言うだけ無駄。
あと抗議したら、それだけ拘束時間が長引きそう。
――どうやって脱出するかね。
二杯目の紅茶には一切手を付けず、長居する気はありませんアピール。
曖昧な微笑みを貼りつけたまま、キリングの様子を伺ってみるに、うぅん、軍事畑。
社交用の駆け引きは無駄そうな感じ。なら、直截においとまを述べるかね。
だけど口を開く前に、誰かが入室してきた――って、フォルタじゃないか。
トール・A・フォルタ。タチが貼り付けてきた“暴走戦車型伝書鳩”。
なんでいるの――って、思いかけて、腑に落ちた。
――お前かよ……。
この一連の“勘違い”というか、“誤情報”のリーク元。
兄弟間の亀裂はタチが作ってますよ、とか、“ガルマ・ザビ”はタチが嫌いですよ、とか、そういうのをキリング吹き込みやがったんだろう。
――ダブルスパイのつもりかね。
連邦相手ならいざ知らず、キリング、一応ムンゾ将校ぞ?
ちょっと遠い目。
ホントに“暴走戦車型”なんだから。なんでそういう危ない橋渡りに巻き込んでくれちゃうの。
タチに言い付けてやるわ。修整できるとは思ってないけど。
ハイライトが消えたおれの眼から、おおかたを理解したことを、察したんだろう。フォルタはそりゃ憎々しくも整った微笑みを頬に乗せた。
「……と、言うことですよ、ガルマ様。タチが貴方に貼り付けていたこの男は、実は“伝書鳩”ではないのです。我々の同志だ」
キリングのドヤ顔。
うわぁ、騙されてる。
ドン引いてれば、フォルタにウインクをかまされた。
――裏切りてぇわぁ……。
「タチの監視は断ち切れたのです。今後は忌憚なくお考えを聞かせて頂けるものと思っておりますよ」
ニタリとしか言いようのない笑み――もしかしたら微笑みのつもりか――を浮かべたキリングが手をのばすから、その手をやんわりと握り返す。
はい、握手――したからって了承じゃないんだが。
ともあれ、ようやくこの部屋からは開放されるみたい。やれやれ。
敬礼を残して外に出たら、フォルタまでがついてきた。
並んで歩く。どこで誰が聞き耳たててるか知れないから、迂闊な会話はできない。
でも、無言のままでも不自然か。さて、と迷う前に。
「僕のことは信用してくれていいですよ」
フォルタがそう切り出した。どっちとも取れるセリフなのが、ねぇ。
タチとちゃんと繋がってるから信じていいなのか、キリングに付いたからタチからの監視は無いと信じていいなのか。
どちらにしたって、信じていい要素は1個もないからね。
胡散臭いって思ってることをカケラも隠さない眼差しで、微笑みばかりは柔らかく。
「正直、困惑しています。少し考えさせてください(すげえ迷惑。おととい来やがれ)」
さて、ニュアンスは通じるか――ん、一瞬の顰めっ面が
。これ通じてるね。
そこから副音声での会話が始まった。
「思い出してください。僕はいつもあなたに協力的だったでしょう?(総帥閣下の“新居”も教えてやったし、“鍵”の用意もしてやったじゃないか)」
帰ってきたのは猫なで声だった。
そうね、伝書鳩の中でも異質なフォルタは、もとよりおれの協力者でもあった。
「感謝はお伝えしてきました(対価は支払ってる)」
「お力になりたいんです(役に立ちますよ)」
「お返しできるものがないので困ります(高くつくから要らんっての)」
そこで一つ区切って、フォルタの顔を真っ向から眺めてみた。
晴れた空みたいな色の眼が、きつい光を宿している。タチが貼り付けてきたんだから、優秀さは折り紙付き。
だけど、だからこそ。
「境界線は踏み誤らないでくださいね?」
暴走はほどほどにしとけ。
おれについては、まぁ、ぎりぎりで見逃そう。だけど、キャスバルやうちの子達まで巻き込むつもりなら、許容できない。
ボーダーを超えるなら“敵”と変わらない。それは“排除対象”だ。
「……勿論です」
表情を消したフォルタが頷いた。緊張の響きが少しだけ混じっている。
暴走伝書鳩は、今になって、ようやく自分が“ガルマ・ザビ”の尻尾の先っぽを踏みさしたことに気が付いた様子だった。
そう、おれ、怒ってんのさ。
信用はしない。信頼もしない。
――せいぜい頑張ってよ。
おれを利用するつもりなら、おれに利用されるのも想定内でしょ。
✜ ✜ ✜
「あなたメリーさん、いま、わたしが後ろに居るの」
「ぎゃあああ!?」
って、驚き過ぎじゃないの、メリー・アン。
飛び上がったと思えば、可能な限り距離を取ろうとしてか、壁に張り付いてフルフル首を振る。
追い詰められたヒロインみたいだね。
――その割には悲鳴が濁ってたけど。
「な、だ、だれ!??」
「“ガルマ・ザビ”です。ちょっと手伝ってもらいたいことがあるんだよ、実はカクカクシカジカでさ」
「ぜんぜん解らない!」
「ん、詳しく知りたいよね」
「知りたくない!」
「これ諜!(これでよく諜報が務まるな)」
「やめてー! 腕捻り上げるのやめてー!」
諜報は知ることが仕事なのに、知りたくないとは何事か。
教育的指導をいれつつ、カクカクシカジカ、今度こそ詳しく説明する。
キリングとかフォルタに目を付けられて難儀してるんだよ。
一通り話し終えたら、メリーは床に懐くみたいに脱力した。
壁とか床とか、平面と仲が良いな。
「もう、嫌な予感がしてたのよ。リノから資料取りに行けって言われたとき。あんまり関係なさそうな内容だったし、殆ど使われてない資料室だったし……やっぱり罠だったのね!」
その通り。リノに頼んで来させてみた。
いまは女装中だから女言葉。メリー・アンは、前見たときより違和感が消えてて、どこからどう見てもキレイな女だった。
「察知してたんなら、次からは回避しなよ。ヒューミントは勘頼みも大事」
身を護ることに関しちゃ馬鹿にできないんだよ、“虫の知らせ”とか“嫌な予感”ってやつ。
ニュータイプでもそうでなくても、人間って、なんでかそういう“予兆”を拾うことが多いだろ。
気の所為で流すか、気に留めて逃げるかで生死すら分けるんだ。これ、“危機察知センサー”とか“臆病センサー”ってやつね。
「逃してくれないくせに!」
「“あきらめたらそこで試合終了ですよ”ってMr.安西も言ってたよ――って、それはともかく、君の力が必要なんだ」
おふざけは終了。ここからは交渉。
「どういうこと?」
「その変身術を、ちょっと僕にも施して……伝授して欲しいんだ。“別人”になりたい」
自分でも化けられるけど、限度がある。どうしたって癖が残るからさ。
「……さっき言ってたキリング中佐達に対抗するためってこと? 危ないわ。それならタチ中佐に相談したほうが良いと思う」
「タチなら相談するまでもないよ。きっともう知ってる、だけど野放し。つまりそういうこと」
「……投げられてる……」
放任って言ってよ。
「いくつかモデルがあるんだけどさ、“これ”になれるかな」
「――……えぇと。独特の趣味ね?」
「言葉を選んでくれてありがとう」
確かに独特というか、やや蓮っ葉な感じではある。
「どうかな?」
「そうね……なれなくはないと思うけど、あなたの場合、どうしても鋭さより柔らかさが出ちゃいそう。どうして、こんな気が強い悪女系を選んだの?」
「最強の隠れ蓑だから。それに、面差しは同系統のはずだよ」
「………そう?」
疑わしげだけど。そうさ。血縁があるんだもの。
「手伝って貰えるよね?」
ことさら優しく微笑みかけた先で、メリーは真顔でホールドアップをしてた。
タチに“蜘蛛の巣”を譲り渡してからも、“糸”や“小蜘蛛”は変わらず様々な事共を知らせてきてる。
遠くは連邦の――これは僅かばかりだけどさ――それから各コロニーの状況。最近、ザーンからのは殆ど入ってこなくなった。
んんん、これは拙い。情報を閉ざさなきゃいけないくらいに切迫してるってことだもの。
かろうじて掻き集めた細切れのピースは、どれもがザーン市民の不平不満。
ザーン政府は連邦の言いなりで、住人の自由を抑圧し始めてる。
増員された連邦軍の駐屯兵との軋轢も耐えない。乱暴狼藉、好き勝手。それを止める“チカラ”は、もう当局にないんだ。
まるで植民地時代に逆行したみたいな有様だよね。
統一政府なんて有名無実。一部の特権階級による支配と搾取が横行してる。
反抗勢力は弾圧を逃れて地下へ、さらに地下へ――そうなると、いつの間にかやばい組織と結びついちゃうんだよ。
特に活発に動いてる学生運動なんか、まさにそれ。
掲げてる“正義”のお題目は、そのうち良いように利用される――“戦争は金になる”って思ってる輩にね。
腹立たしきは、コロニーサイドの特権階級の一部も、連邦の威に擦り寄ってるってこと。
――“ギレン”の足を引っ張ってんじゃねぇわ。
面倒くさいから全部デリートしてやりたいけど、流石に誰にも気づかれずに遂行するプランは、いまのところ浮かばない。
あれこれ考えながらも手は止めない。
ふぅと息を吐いてから、毒々しいほど鮮やかなルージュを唇に乗せた。
ブロンドのボブカット。細い吊り眉、双眸も眦を吊り上げて、狐を思わせるような色香を履く。
頬骨を高く見せるように頬に影を挿して――おぉ、これは、まぁいけるんじゃない?
危険な気配を纏う“オトナの女”。
“ホンモノ”は露出の多いミニスカートだったけど、流石にそうはいかないからパンツスーツ。
鏡に映った姿をもう一度確認してから、背後を振り向く。
「どう?」
「55点」
「えぇ……」
あんまり得点伸びなかったよ。
キャサリン――キシリア姉様が変装した女に成りすましたつもり、でも、成りきれてなかったみたい。
「けっこう力作だったんだけど」
メリー改めマリマン・アン――女装を解いた姿――は、ふっと鼻から息を吐いて首を横に振った。
「それは認める。でも、ガルマが化けたいのは、この写真に写ってる人でしょう。だったらだいぶ違うよ。色味は良く似てるから、遠目には誤魔化されるかも知れないけど、近付いたら違うって直ぐに判るから」
なかなか難しい。
それからマリアンが手直し。改めて鏡を見たら、ふぉう。
――……姉様、もしかして化粧あんまり上手くないんじゃ?
一言で言えば、“けばけばしい”。
きつくて鋭くて毒がある感じ。冷酷と激情を併せ呑む雰囲気は悪くないけど、コレは好き嫌いが激しく別れるね。
毒々しさを意識して微笑み、塵芥を眺める眼差しを向けてやれば、マリアンが震え上がった。
「怖い! こっち見ないで!」
「ひど。……でも、ホントにこんなにコワい感じなの?」
――ぜんぜん堅気に見えないんだが。
マフィアの女幹部みたい。おかしいな。姉様はザビ家のご令嬢、ついてはムンゾのプリンセスのひとりなんだぞ。
「写真で見る限りはね。……ガルマの遣り方だと、より綺麗に可愛く見せようって心理が動いてるんだと思うよ。普通に美人になってた」
ふぅむ。身内贔屓もあるのか――でも姉様は綺麗で可愛いんだ異論は認めねえ――モヤモヤするけど第三者の視点は大事。
ひとまずは、この“姿”を記録する。自分でも化けられるようにね。
「でも驚いたよ、ガルマも変装できたんだね」
「地球で逃げ回ってた時に習得したんだよ。命懸けならなんでもできる!」
と、これは方便だけど、みんな信じるからさ。
「……大変だったんだね……」
ほら、マリアンも瞳をウルウルさせてるし。
「まぁね。でも、いまはそれは置いといて。これなら情報部も欺けるかもね」
タチ・オハラはどうか知らないが。
ふぅと溜息。それからニンマリ。
フォルタのせいでキリングからも監視がついた。もともと“鳩”やらなんやらに加えてのことだから、日々、鬱陶しいことこの上ない。
一挙手一投足に注目されるだなんて、動物園のパンダかよ。
キャスバルの方にも、そりゃ監視は張り付いているけど、ここまでじゃないのは“ギレン”のガードが強いから。
――だから“隠れ過保護”って言われてんのさ。
まぁ、“ギレン”が末弟そっちのけでジオンの遺児を大事にしてるのは、有名な話だしな。
「じゃあ、僕はガルマに成りすませばいいんだね」
ゴソゴソと鏡台に向かってたマリアンが振り返る――“ガルマ・ザビ”にそっくりな顔で。
背格好はともかく、顔立ちは全然違う筈なのに、見返す面差しは、まるで鏡を見てるみたいだった。
でもさ。
「……なんでそんなにポヤンとしてるのさ」
ポヤンというか、気が抜けた感じというか、間が抜けた感じというか。
おっとりし過ぎだろ、それ。
「だって、ガルマって大体こんな感じだよ?」
「えぇ……」
ちょっとショックなんだけど。
見てる間にも、髪を整え、服装も改めたマリアンは、“ガルマ・ザビ”になっていく。
「凄いね」
「扱かれましたから。でも、家族とかは流石に騙くらかせないからね。あと同期の人たちとかも。あの軍団おかしいよ。宗教団体みたい」
ブルブルって、そんな身を震わせるほどのことか。
「何教なの? キャスバル・レム・ダイクン教? あ、納得」
「それは君だよ!」
そうさ。士官学校の同期生並びに後輩、一部の先輩達も皆、キャスバルガチ勢だからな。もちろん、おれが筆頭。
「そっちもだけど、ガルマ信者の方!」
「なに言ってんのさ」
そんなものが居るわけないだろう。
やれやれと首を振って。
「“ギレン兄様”にバレると怒られるから、家族には内緒。キャスバルには報告してるけど、他には知らせてないから、気をつけて」
これは極秘事項。敵を欺くにはまず味方からってね。
まぁ、それでもそのうちタチが嗅ぎつけて、“ギレン”に言い付ける未来は予測してるがな。
アリアンはゴクリと息を飲んだ。
「……ガチ勢にはなるべく近寄らないようにするね」
「それがいいかな」
さて、それでは潜行しようかね。
フラウ・キャサリンの姿で出歩いてみた。
フラウ、つまりミセスだってのに、結構な人数の野郎が火遊びの誘いをかけてきやがる。
そりゃ元になってるキシリア姉様は魅力的だから、惹かれるのは仕方がないとしても、靡くと思ってんならお生憎。
姉様はシャア一筋なんだ。あんまりしつこい輩は後で始末するぞ。
まぁ、皆、素性を看破して声をかけてくるわけじゃないがな。
「悪いけど、またの機会にして頂戴。先約があるの」
「残念だな。俺はここの常連でね、次に見掛けたら改めて声を掛けさせて貰うさ」
これはマシな方。
老舗のバーのカウンターで、ひとりふたりと振り払ってカクテルを傾ける。ほんとはシングルモルトから選びたかったけど、この姿でそれはゴツすぎるってもんでしょ。
今夜逢うのは、沢山いる“糸”のひとりだ。
もちろん、本人に“糸”の自覚はないし、おれが誰かも知らないでいる。
24バンチ、“Tigarbaum”の愛称で知られる――返還前の香港をイメージしてもらうと分かりやすいかも――中華系観光地として知られるコロニーの出身者で、半分裏社会のひと。
しかし遅いな。
時間はとっくに過ぎてるんだけど?
良いオンナが待ちぼうけしてるって、またぞろ寄ってくる輩が出るじゃないか。
指先まできれいに包んだレースの手袋を眺める。
どうにもこうにも、ホンモノのフラウ・キャサリンの好む装いとは相性が悪かったから、この辺りはアレンジして、よりドレッシーなイメージに変えてみた。
露出を少なくする反面、流れ落ちる光沢のある生地が、渾身で創り上げた曲線美(人造)を強調してる。
メイクも、マリアンに指摘されたことを意識しつつ、色味から毒々しさを引いてみたらば、ちょっとお目にかかれないくらいのミステリアス傾城になったんだよ。
――さすが姉様だよね!
密かに讃えてれば、
「隣、失礼しますよ」
ほら、また有象無象が。うんざりした視線を……って。あれ。
「……もうバレたの?」
早かったね、タチ・オハラ。
“ギレン”の側近たる“伝書鳩”の親玉は、ちょっと野暮ったいスーツ姿でスツールに腰を落ち着けた。
ジロリと睨まれるから、意識して、艶めきつつも冷たい笑みを送ってみる。途端にタチは顔を顰めた。
「直に見ると、本当にとんでもないですな」
大した化けっぷりですって、潜め声には苛立ちが満載なんだが。
なんなの、褒めるならちゃんと褒めてよ。
「褒め方を知らないとモテませんよ?」
素性がバレてるから口調は戻すけど、こっそり小声でね。
「んなことはどうだっていいんですよ!」
ふぉう。なんでこんなにキレやすいんだ。
それはともかく。
「昇進おめでとうございます。もっと忙しくしてると思っていたのに、そうでもないの?」
自らバーに来るなんて余裕じゃないか。
「忙しいですとも! ですから、こんな“おいた”をして煩わさないで貰えませんかね。ちなみに残念ですが、待ち人なら来ませんよ。身柄はこっちで抑えました」
「ひどい」
呼び出すの大変だったのに。
「酷いのはアンタですよ。なんであんな“黑社會”をムンゾに踏み入らせてるんです」
「普通のコロニー公社ですよ、表向きは」
「裏側は真っ黒でしょう!」
だから半分裏社会なんだよ、と、それはさておき。
「まぁいいや。そのひと、ザーンの地下組織と繋がっています。“ギレン兄様”が気にしている学生運動にも接触してるから、いい情報が引っ張ってこれますよ」
以前、ザーンを訪れたときにアンチ連邦の学生運動のメンバーに捕まったらしい“ギレン”は、その後も何かと彼らを気にしているようだった。
政治やらの表向きの情報なら“鳩”たちが運んでくるだろうけど、アングラは届かないだろ。
「あなたにあげます」
「……はじめからそのつもりだったんじゃないですか。リーク元はフォルタか」
「他に居ます?」
基本、ソースは明かさないけど、あまりにあからさまなら隠す意味ないしね。
「暴走はするけど、ムンゾへの忠誠心は誰より強い。極めて優秀、良い部下じゃないですか」
「まさかの高評価。ですが、暴走する時点でアウトなんですよ」
タチが苦々しげに顔を顰める。
「報われないなぁ。彼はあなたのために、あの男に仕掛けたのに」
キリングにフォルタが近づいたのは、間違いなく、奴がタチ・オハラを排斥しようと動いていたからだ。
健気じゃないか。“鳩小屋”の主人を守るために、“オオトカゲ”をつつき倒しに行ったんだぞ。
フォルタは敏いから、境界線を見誤らない。1度の警告で行動を改めたのは流石だよね。
まぁボーダーライン見極めたからこそ、ギリギリ手前でタップダンスを踏まれるような鬱陶しさはあるんだが。
「……こんな時期なのに、どうしてみんな、薄氷の上で飛び跳ねるような真似ばかりするんだろ。割れて飲み込まれるのが怖くないのかな? 怖いってことも分かってないの?」
ポツリと喉から愚痴が溢れた。
不安定な情勢。
ムンゾは――コロニー社会は確実に力をつけて、連邦の軛からいつ放たれるかも知らないと、地球では戦々恐々。奴らは鵜の目鷹の目で瑕疵を探して、ムンゾを叩き潰す口実を探してる。
そして奴らには、いまだムンゾくらい捻り潰すだけの武力があるんだ。
宇宙に上がった人間たちは、“ギレン”の長年の尽力もあって、おおよそムンゾに好意的だけど、それは即ち、重荷と言い換えるべきものでもある。
いざ事が起これば、ムンゾの負担は計り知れない。
表面張力ギリギリのザーンが、いつ暴発するともわからないのにね。
「身内同士で噛み合ってる場合じゃないんだ」
「……その身内を、秘密裏に二人も屠ったお方が何を言うやら」
吐き捨てる口調。なるほど、やっぱりタチは、おれがギニアス達を嵌めたことを察してるか。
想定内だ。
やんわりと微笑む。どのみち証拠は何もないんだ。それにさ。
「ちゃんと調べました?」
ギニアス・サハリンの計画の中には、“ギレン”暗殺に関するものすらあったってこと。そうなりゃ、お前たちだって、事前にあの男を排除せざるを得なかったろうよ。
「僕は何もしてません、責められるようなことは何も」
「……私はあんたが恐ろしいですよ」
「口に出せる時点で、そこまでじゃないです」
本当に恐けりゃ何も言わないで離れてくもの。
「とにかく、あんな“オオトカゲ”なんかに足元をすくわれないでくださいよ」
「そんなにヤワじゃないですよ」
苦々しい顔のまま、用事は終わったとばかりに、タチが席を立つ。そのまま去るのかと思いきや、ふと立ち止まって振り返った。
「あぁ。どうせ“おいた”するなら、ヘブンにしておきなさい。あそこはいい店です」
って、ヘブンってあのヘブンか。アストライアが、そして後にはクラウレが歌姫をしていた、あのバー。
すごくビックリ。
良いのか。“聖域”じゃないのか。
「……聖域って」
あれ、口から出てたか。
「あんたにそんなものが存在するなんて、驚きですよ。やっぱり、初恋はあのひとだったんだろう」
じろりと睨まれるけどさ。
「違います」
どうして誰も彼も誤解するんだ。
でも、あの店の名前が出るって事は、つまり“鳩”がそこを抑えてるってことか。
おっかない気もするけど、行ってみたい気持ちは大きい。
それに、“鳩”の縄張りの中に居るほうが、安全かも知れんしな。何やかんやと理由付けしてる脳みそは、もう行くことを決めてるってことだった。
「『へぇ、こんなところだったのか』」
キャスバルが、興味深げに店内を見回している。
ヘブンに行くって言ったらついて来た。かつて母親とクラウレがいた店だから、やっぱり興味があったみたい。
ジオンとアストライアの出会いの場所でもあるしな。
ヘブンは、煉瓦造りのさほど大きくない店だった。
下町と呼ばれるような区画の、階段をおりた低層にある居心地の良い空間。
古びたカウンターがあって、奥にはソファもある。
クラシックなピアノがひっそりと置かれていた。バンドと歌姫は、あの辺りで演奏するのか。
足を進めれば、ひょろりとしたバーテンダーが、低く響く声で「いらっしゃい」と迎えてくれた。
カウンターの奥の棚に並んでいるのは、どこにでもある銘柄の酒ばかり。客層はブルーカラーや連邦兵士――兵卒から下士官ってところか。
正体がバレるとなかなか厄介そうだから、おれもキャスバルも変装済みである。
姉様の扮装は、何故かめちゃくちゃ嫌がられたから、二人共にその辺にいそうな労働青年に。
キャスバルはそれでもイケメンだが、その横でおれは地味に埋没。ちょっと複雑。
「『それで、ここで何をするつもりだって?』」
「『今日は下見』」
単に来たかったから見に来ただけ。お前もそうだろ。
バーテンダーはおそらく“鳩”かその協力者のはずだけど、おれたちを見ても、愛想以外の表情を浮かべたりしなかった。
まだ混み合う時間じゃないからか、数人の労働者たちがチラホラと手頃な酒を傾けている。
スツールに並んで腰を下ろして、安価なウイスキーを注文したら、隣でキャスバルが顔を顰めた。
『そんなものを呑むつもりか』
『目立ちたくないだろ。酔うために飲むならこの程度さ、みんな』
多分、いつかの時間軸の“シャア・アズナブル”だって飲んでたはずだ。
ここにいるキャスバル・レムダイクンは、士官学校時代を除いて、厳選されたものしか口に入れてないから、安酒には拒否反応が出るみたい。
仕方ないなぁ。
バーテンダーをちょいちょいと呼んで、耳打ち。ちょっといい酒出して、内緒でね。
ひょろりとした中年オヤジは、眉をひょいと動かした後、奥に引っ込んでからグラスを一つ手にして戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう。『ほら、キャスバル』」
舌の肥えた幼馴染に差し出す時、ふわりと鼻腔をくすぐったのは、ブランデーの香り――コント10以上だよね、これ。
うぅ、おれもそっちにすれば良かった、なんて。
ちょっと唇が尖ったおれに、バーテンダーとキャスバルがクスリと笑った。
やがて奥からバンドマン達が出てきて、陽気な演奏が始まった。歌姫は、まだ不在だった。
喧騒の中で、氷が崩れる音を聞く。
『……アナハイムが割れて、月はコロニーサイドにつくようだよ』
ほんの数年前まで、月は地球サイドだった。アナハイムに牛耳られてて、あの頃のままなら、今頃は連邦軍の前哨基地になっただろう。
ところが“ギレン”の政策で、ムンゾ企業はどんどん月に進出した。ムンゾだけじゃなく、様々なコロニーでそれは推進され、いまや月にある企業の多くは宇宙で創業されたものだ。
その勢いはとどまることを知らず、アナハイム・エレクトロニクスの盤石と言われた基盤すらも揺るがした。
現CEO、メラニー・ヒュー・カーバインと、アナハイム創業家との齟齬による亀裂は修復不可能で、とうとう2つに別れた。
大部分は地球側の、メラニー・ヒュー・カーバインに吸収されたけど、残された月側の勢力だって決して弱くはない。
結果として、月の経済圏は、もはや連邦政府に唯々諾々と従うことはなくなった。
そして、自分たちの利益がコロニー共栄圏に基づくものと理解してる彼等は、その“要”たる“ギレン”が斃れることを良しとはしない。
だからこそ、治安維持を唱った連邦軍の駐在基地の増営を不要と撥ね付けた。ムンゾが不利にならないように。
これ、凄い転機だよ。
だって、月が地球を要らないって言ったんだ。
汚染された地上の人間は、もはやコロニーの助けなくしては存続できない――反してコロニーは、例え地上の人間が滅びたとしても、重力の発生装置としての地球が有りさえすれば生きていけるんだ。
なのに、どうしていつまでも地球なんかに首根っこを抑えつけられてなきゃならないの?
誰もがそのことに気づきはじめてる――スペースノイドも、アースノイドも。
流れが生まれた。
“ギレン”を中心にして、ゆるゆると進んできたムーブは、他の小さな支流を幾つも幾つも巻き込んでいまや轟々と流れる洪水みたいに、もう誰にも止められない。
敏い人間なら解っているだろう。
ムンゾひとつを潰してどうにかなる時期なんて、とっくに過ぎてるってさ。
また一つ現実化したピースが、脳裏でパチリとパズルに嵌まって、ほら、やっと“絵”が見えてきた。
かつて“おれ”の身内だったひとは、“負けない戦場を選ぶ”ことを信条にしてた。
負け無しだったかのひとを真似たくても、おれが“ガルマ”として目覚めたあの朝に、“勝てる戦場”なんてものは存在してなかった。
だったら作るしかないだろ――それでもまだ、“勝ちの拾える可能性のある戦場”どまりでしかないけど。
『間に合って良かった』
戦いが始まる前にここまでこれた。
キャスバルの思考波が、そっと“パズル”を撫でていく。
『……随分と歪だな』
『そうさ。“負けない戦場”には程遠い。だけど、“勝てない戦場”じゃないんだ』
遥かに強大な敵に挑むための準備を、この日まで十重二十重に重ねてきた。
月を抑えて、ムンゾを獲って。コロニー同士の繋がりを強め、反して連邦政府の権威を墜として。
実のところ、その全てを為したのは“ギレン”であり、ザビ家の親兄姉であり、ムンゾ議会の面々であり、ムンゾ市民であり――そしてコロニー社会に生きる人間たちであって、まったくもっておれじゃないんだよね。
おれは専ら“おねだり”と“後押し”と“妨害”と“強化”を繰り返してただけ。あとは“情報操作”。
持つべきものは生家の権力。ほんとにザビ家に生まれてて良かったよ。
『……悪知恵ひとつでここまで来るとはな。僕の幼馴染みはとことん悪辣らしい』
『残念だけど、悪辣勝負でも僕が負けてるからね』
今生で一度も勝ててないんだ、あらゆる事柄において。
融けた氷で薄まった安ウイスキーを喉から注ぎ込む。
ステージでは、ようやく出てきた歌姫が、流行歌を披露しはじめた。
「『……クラウレに少し似てる』」
化粧とか、声色とかが。でも、クラウレ――いまはレディ・ラルだね――のほうが美しいと思うのは欲目かな。
「『いつまで初恋を引きずる気だ?』」
思考を読んだらしきキャスバルが顔を顰めた。
「『だから違うってば!』」
お前もか。どうして誰も彼も誤解するんだよ、違うんだってば。
「『妹を泣かせるつもりなのか』」
「『まさか! お姫様はおれの女神だぞ!!』」
おれが泣き叫んだとて、アルテイシアを泣かせるなんてことがあってよいものか、いや、絶対に無い!!
ギャンギャンと言い合うおれたちを眺めて、バーテンダーが生温く笑ってる。
エデンの夜は、まだ始まったばかりだった。