微睡の中に、懐かしい景色を見た。
前を行く黒鹿毛。漆黒の尻尾が揺れる、切ない思いが溢れ出す。
ああ。待ってくれ。
俺、アレから頑張ったんだ。どうやったらお前を止められるかずっと考えたんだ。何をすればお前の運命を変えられたのか、ずっと、ずぅっと。
それでな。やっと、編み出したんだ。彼が編み出してくれたんだ
でもな、無意味なんだ。お前はもういないんだから。
だから待ってくれよ。お前が目の前にいてやっと、“コレ”は存在意義を持つんだ。俺がここまで生きてきた理由になるんだ。
なぁ。
行かないでくれよ。
置いていくなよ、今度こそ救わせてくれよ。
なあ───ぁ?
誰だ、お前。
アイツじゃない。アイツは素直だけどもっと生意気な目をしてて、実際そういう奴だった。お前みたいな只真っ直ぐなだけの奴じゃない。
なら、何だ。この世界は何だ?
そもそも、俺は。
俺は何故、栗毛になってる?
『……っ!?』
そこで目が覚める。見えたのはいつもの天井、次いで寝藁。調教の疲れで眠ってしまったのか、我ながら情け無い。
……だが。今の夢を見たのには、心当たりがあった。
『使うのか、グラスワンダー』
一途な想いに研がれた刃。かつて出会い、そして……自身の不完全な
『《有難いですが、使う事は無いでしょう。私は私自身の力でのみ戦いたいです》……と言ってたのに。どんな心変わりがあったのやら』
だが、嬉しさを抑え切る事は出来そうも無かった。もはや無意味な無用の長物、だが無価値な俺ではなく前途有望な若者によって使われるなら……きっとそれは、確かな意義を持って威力を奮ってくれるだろうから。
『せめて悔いの無いように。使えるだけ使いこなしてみせろ、グラスワンダー』
窓葉の愛馬。ライスシャワーの後継者よ。
蒼炎の系譜に、泥を塗るんじゃないぞ。
ボク達がやったのは、
とは言っても、今回の場合は問題点が二つ程あったけれど。
一つ。スペさん達がボク達を物凄く警戒している事。大逃げが大変で振り向く余裕が無いのは僥倖、でも意識はしっかり後方に向けられて僕らを捉えているのは分かっていた。これじゃ、何か仕掛ける素振りを見せた瞬間に即座に対応されてしまう。
二つ。大逃げのハイペースを前に、それを追っているボクの方が先に力尽きそうな事。サイレンススズカだろうとスペさんだろうとやはり大逃げは大逃げ、それに追随し続けるとこちらが保たない。どんなに希望的に見積もっても、このままだと最後の直線に着く頃には足を残せてないのは確か。
この二つを解決し、その上でスペさんに勝つにはどうするか。クロと互角に渡り合うまで成長し、スカイ君の策を正面から打ち破ったというスペさんに対して。
「グラス、こういうのはどうだろう」
そこに提されたマドバさんの案が、この通りだった。
まず、存在感──視線、足音、精神的な威圧、諸々の総称──を強め、スペさん達により強く意識させる。今ここにいるぞ、後ろにいるぞ……と。
その上で、存在感を強めながら……位置は逆に後ろへ。脚の回転を緩め、一先ず温存に徹するべく。スペさんは気付かない、ボクの気迫はまだ届いてるから。
次に……
『キング君、失礼しますね』
『殺気をブン回しながら来るのやめてくれないか……っ!?』
マドバさんと一緒に編み出した、新しい領域。クロに追い付かれない為、彼の末脚に劣らないそれを自分も発揮する為の下準備を行う。三番手についていたキング君にわざと抜かされ、その背に隠れる事で息を整える算段だ。
そして、気迫を一旦解いて油断を誘い、機を待った。存在感が遠ざかり、彼らは「リードを稼げた」と思うだろう。その判断こそが、綻びを生む。
ここで言う“機”とは。即ち、先ほども言った……
『ス、ゥ──ッ』
((ここっ!))
彼が息を入れた、その瞬間の事に他ならない!
(あの日出来なかった事を、今!!)
全霊で蹴り出した蹄が、芝を削ってその下の土ごと弾き飛ばした。その反動で、前へ。前へ。前へ!
気迫は鎮めて内にて燃やし、四肢へ流して末脚に。全ては今日、貴方に勝つ。その為だけに。
前を揺れる黒鹿毛の尻尾、それに近付く一歩が嬉しかった。これだ。貴方と競えて、漸く自覚出来た。
私は、あの日の───怪我する前の、最盛の自分を取り戻したのだと。
「そして今、超えていけ!!」
マドバさんの叱咤が飛んだ。返す答えは、最早言うまでも無い。
代わりに、更なる加速を。もっともっと、どこまでも勝利へ!
(ああ、やっとここまで来れた!)
夏の、久しぶりに3頭で走ったあの時。貴方にまるで敵わなかった、突き放された苦しみ、悔しさ。それをバネにした甲斐があった、報われると信じただけの価値ある日々だったのだと。
その感慨を踏み締め、並ぼうとしたら──進路正面。標的の黒い影が、割って入ってきた。
『──流石。どんなに意識しても、マークしても……その勘の良さだけは、馬生を懸けても会得出来る気がしません』
『よく言うよ……!』
スルリと、驚くほど無意識に口にした賛辞は他ならないスペさん自身に否定されてしまった。やはりクロが一番目に掛けていた馬、一筋縄ではいかせてくれませんよね!
私の接近に気が付いたスペさんが、抜かされる直前でコース変更によって追い抜きを阻害。次いで、乗ってるニンゲンさんも状況に気付いたのが分かった。これで振り出し……に一見見えるかも知れないけれど、体勢を整えた上に相手の動揺まで誘えたのだから大成功と言って良い。最後に残る問題は、どれだけロス無くスペさんの進路阻害を躱して前に行けるか……!
《グラス追う、スペシャル逃げる!二頭縺れ合いながら第三コーナーへ!!》*1
っ、もうこんな所か!もう少し温存しておきたかったですが仕方ありません、それに好機でもあります。
スペさん、ここからが勝負ですよ。
『言われるまでも無いっ!』
そうです。もっとボクに集中して、僕を意識して下さい。そうすれば必然、ボクからの影響を直接的に受け取る事になる。
鎮めた炎を再点火し、さぁ。
今。
『くぅ……っ!?』
「プレッシャーに緩急つけてきた──だと?!」*2
「好機だ、グラス!!」
分かってます、ええ分かっていますとも。スピードが落ち、それに付随して体勢を崩したこの時こそが。
絶対に逃してはならない、私の目指す相手達ならば必ず掴み取る勝機。
だからこそ、迷いも未練も、何もかも断ち切る一閃を。我が身に乗せて───!!
《2頭未だ差し合う!粘りあってとうとう最終直線おおっとここでグラスワンダー僅かに前に出たか!?と思えばスペシャルまた並んだ、まだ分からない!!》*3
『くそ、がッ!!』
並ばれた瞬間、グラスが更に加速してきた!これは不味い、落ちたスピードを無理にでもあげないと突き放される!微かに見えた、グラスの
先頭を譲るな、粘り捲れ!!ここでやられたら巻き返せないぞ!?
「スペシャル、
『はいっ!!!』
力貸して、というか寄越して!ユタカさん!!そして栗毛さん!!!
グラスを負かした大逃げの力を、僕に!!
こんな花びら、見惚れちゃう前に薙ぎ払ってやる!
《スペシャルウィーク僅かに体勢有利か!突き放す、微かだが確かに!》*4
(まだ伸びるんですかッ!!)
(大逃げの人馬一体、その先の
苦渋を舐めさせられた、サイレンススズカの疾走そのもの。どうやってそれを知ったかは分からない、だが前と違って自分の足が残っている事は確か。ならば使い切ってでも追うまでの話!
((総てを投じて、
マドバさんと共有した意識が、ボクの体により強い火を灯した。
恐れていた気配が、膨れ上がる。
蹴り出した。
来る。
半馬身、詰まった。
詰められた。
もっと。
まだ来る。
完全に、並んだ。
並ばれた。
ダメだ。伸びない。これ以上は無理だ。
僕の、僕自身の領域を。無理にでも使わないと───
───いや。僕のよりも、もっと強いのを使わないと。
グラスは凄いんだ。僕だけの力じゃ敵わない。敵わないと知ってて、なんでその力に頼る?
もっと良い力が、あるじゃないか。グラスに勝った力が。僕よりも信頼できる、僕より遥かに強い“高み”の力が。
「スペシャル、領域を……スペシャル、何を!?」
クロ。
お願い、力を貸して……!
『
思わず声が漏れた。それが“呆れ”だった事に、自分でも驚いたぐらいだった。
だって、何ですか。
何ですかそれ。なんだかんだで楽しかったのに、結局最後はそれですか。
『
違うでしょう。
そこにいるのはスペシャルウィークでしょ?
何故?なぜ?なんで?どうして?Why? What caused it?
貴方がそんな事をしてしまったら、全部台無しじゃないですか。
私
『……さない』
(グラス?)
疑問と、呆れが繰り返され、消えて──残ったのは。
『 赦 さ な い ッ ! ! ! 』
ボクは。
君とこそ、競いたかったのに。
《!!!グラスワンダー躱した!グラスワンダーとうとう躱した、スペシャルウィーク負けるのか!?》
掻き消された。そうとしか分からなかった。
《グラスワンダー離した!スペシャル懸命だ、やはり強いのは強い!!》
ユタカさんの指示を無視してまで使おうとした、クロの末脚。いざ踏み込もうとした瞬間、その力みが
(なに、を)
僕は、何をされた?
《強いのは強い!だが──》
すぐ横を、蒼の残光が貫いて。
僕を粉微塵に噛み砕き、無惨なまでに灼き尽くし。
そこまでされて、ズタズタになった僕の領域。その欠片の向こうに垣間見て、漸く分かったんだ。君にやられたんだって。
見てしまった。見えてしまった。目を逸らしてたのに、必死でやってたのに叶わなかった。敵わなかった。
見てしまえば、囚われるから。
(グラス、君は)
僕を撃ち抜き、ゴールまで走り去ったその背中は。瞳は。
(やっぱり、凄いや)
どこまでも、気高く美しかったから。
《勝ったのは──グラスワンダーだぁぁッ!!!》
宝塚記念【G1】 1999/7/11 | ||||
---|---|---|---|---|
着順 | 馬番 | 馬名 | タイム | 着差 |
1 | 5 | グラスワンダー | 2:11.5 | |
2 | 9 | スペシャルウィーク | 2:12.0 | 3 |
3 | 1 | ステイゴールド | 2:12.3 | 1.1/4 |
4 | 10 | キングヘイロー | 2:14.1 | 10 |
5 | 7 | マチカネフクキタル | 2:14.1 | クビ |
『ボクは無様に負けました』
負けた。何もかも封殺されて疲労困憊で、紛れも無い敗者となった僕。
そんな僕に歩み寄って、グラスはそう宣う。
『敗因は一つ。ボク自身の驕りに他なりません』
『おごり?』
『クロを探したんです。あろう事か、レース中に』
積もり積もった会えない切なさが、そうさせたのだと。
それは正に、レース前の……ううん、レース中の僕の事でもあって。いないクロに成り代わろうと、そう邁進してた僕の事に他ならなくて。
『笑っちゃいますよね。クロはここにはいないのに、彼は彼の居るべき場所で立派に戦っているというのに』
『グラス、僕は…』
『その隙を、それはもう見事に突かれました。敵ながら天晴で……我ながら、あまりにも無様な幕引きでした』
きっと、その敗北でグラスは変わったんだ。クロのいない“今”を、飲み込んだんだ。
……凄い。
そして。
『スペさん』
悔しい。
『貴方はボクに、全力で来てくれましたか?』
グラスの全力に、全力で応えられなかった自分が悔しい!!
その瞳に、悔いの濁りを残した自分が悔しい!!
なんて情けないんだ。あの時、僕自身ではなくクロの領域に頼る不甲斐なさがこの結果を招いた!自分の力に自信を持てない奴が、なんで日本一の夢を叶えられると思ったんだ!?
僕のバカ、バカ!バカバカバカバカバカ!!
『く、ぅ……!!』
自分が呪わしくて、ロクに口も聞けない。でもそれが有り難くもあった、だって醜い言い訳が出て来ないから。この痛みだけでも、全力で内に受け止めるべきだと思ってたから。そんな自己満足で苦しむ僕に対して、グラスは。
『スペさん』
『……ぇ?』
『多くは言いません』
コツン、と額同士が付き合わされる感触。グラスと僕で、体温を交換し合うみたいに。
『有馬記念で待ってます。クロは勿論のこと──今度こそ、全力の貴方を』
『グラス、君は』
『信じてますよ』
離れ難い温もりが去って、代わりに風が鬣を撫ぜた。桜の剣閃は、またしても僕の中に傷を刻んで。
熱い、熱い傷を。
(痛くない)
ひたすらに熱い。これが晴れない悔しさの所為なのか、それとも──それでも尚、僕を信じてくれる嬉しさの所為なのか。
(立ち上がってくれるって、信じてくれるんだ)
こんな、不甲斐なさを露呈したのに。失望しないで、誘ってまでくれる。
その雄々しさで、その美しさで、誇り高さで。
グラス。
『グラスワンダー………ッ!?』
キュッ、と。彼の名を思わず口ずさんだ瞬間だった。胸の奥が痛い程に、そう今度こそ痛みを伴って引き絞られたのは。
でも不快さは無い。痛い、痛い、欲しい。欠落を埋める
(欲しい…っ!)
あの視線が欲しい。
あの美しい心が欲しい。
(……ああ。そうなんだ)
思った瞬間、全てが腑に落ちた。自分の中の総てに納得がいった。
僕はクロが好きなんだと思ってた。でも正確には、クロに向けてるのは尊敬であって。
でも、グラスは。
ジャパンカップで、グラスを誰のモノにするかって話を聞いて、僕はモヤモヤして。
そもそも、会う度に綺麗だって感想が最初に出てくる時点で。
そして、ダービー後にあった時の諦めない姿勢に惹かれて。
なんなら、最初に会った時。刻み付けられた執念と恐怖だって、それに負けたくないって思った時点でもしかして。
僕が意識し続けてたのは、君だったんだ。
僕が好きなのは君なんだ、グラス。
(もう、ダメだ)
抑えられない、抑え切れない。今すぐにでも打ち明けたいぶつけたい、君の隣に並びたい!
でもダメだ、今の僕にその権利は無い。どうすれば得られる?決まっている!
(有馬記念で、勝つんだ!)
今度こそグラスに。全力でぶつかるんだ。
そして僕が魅せつけられてきたように、僕を魅せつけて……僕を好きにさせるんだ。
(クロ、ごめん!クロだけじゃなくなっちゃった!!)
クロを目指す気持ちは変わらない、超えたい気持ちも変わらない。でもそれと同じくらい、否それ以上に大きく、同じ場所にグラスへの気持ちが収まってしまった。もう変えられない、方針は定まってしまったから。
まずはグラスに勝たないと。そうしないと、先に進めない。
(グラスを超えて、決着付けて。そこから僕はやっと、クロに挑めるんだ)
自分を固める為に。自分の気持ちにケジメを付けて、クロに挑むのはその後。よし、これで決まりだ。……まぁ有馬でクロが帰ってくる以上は、後も何も同時に挑む事になるんだけどさ
そうだ、クロも条件は同じなんだ。僕達のいない海外で、エルと一緒に頑張ってる。きっとクロの事だから、僕達への渇望なんてとっくの昔に振り切ってもっと成長するだろう。だから、これ以上離されない為にも、僕もグラスへの想いに決着を付けなきゃ!
『待っててよ、グラス……!』
今度こそ、ガッカリなんてさせないから。
逆にそっちこそ、僕をガッカリなんてさせないでよね?
時を暫し遡り。
1999年5月23日。
舞台はロンシャン、芝1850mにて。
そのレースの決着は、ついた。
「クロ……?」
生沿健司は、絞り出すように言った。そうしなければ、声が出なかった。
「オイ、オイって。なぁ、答えてくれよ」
「8」が銘打たれた鞍下に手を当て、反応を求めて擦る。だが
平時であれば、あり得ない無反応。
『……どうして』
代わりに言ったのは、寄ってきたエルコンドルパサーだった。
『どうして、そうなったんデスか……!?』
『………』
尚も彼は応えない。俯いた顔からは、表情も感情も窺い知る事は叶わない。
ただ彼の頭上に立ちはだかる掲示板が──それだけが、粛々と現実を掲げるのみ。
ならば代わりにとばかりに。彼らに届かない声で、アナウンサーは悲鳴を上げた。
《ク……ックロスクロウ敗北です!クロスクロウ
それがどれほど残酷な事であろうと。
伝えなければならない、事実であったが故に。
【解説】Errored Connection
ラストアンサーの領域が、グラスと友情トレーニングした事によって継承された上で、グラス自身の修練により完成した物
標的が発揮した領域を無効化する。ラストはライスにこそ使いたかった
現状、ぼかしの度合いが低いセリフには注釈入れてませんが
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注釈多い?別に気にしてないが
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ぼかしの度に注釈の青文字が目に入るのは…