『ふんだ!ぼくが先に生まれてたら、ぼくが“兄さま”だったのにー!』
忘れるものか。忘れられるものか。
生産牧場、俺達の故郷を。ほんの数分違いで共に生まれた、お前との日々を。
あの頃の俺は、何一つ分かっちゃいなかった。前世すら曖昧で、薄ら「昔人間だったっけな」程度。大まかな知識だけで、知識の種類的に結構歳行ってから死んだかなぐらいで、でもそれ以上は殆ど何も分かってなかった。
それ故に幸せだった。何も考えずに、馬として日々を謳歌出来た。
母さんと触れ合い、お前と戯れる毎日が楽しくて仕方がなかった。離乳だって、母さんとの別れだってなんとかなった。
お前が一緒だったから、頑張れたんだ。
遠く離れても、お前も頑張ってるって信じられたからなんだ。
なあ、ライス。
そう、信じてた。
信じて、頼り切ってた。だから目を逸らして、見ないフリをした。迫るXデーから逃避し続けた。
ずっとこんな日々が続くと、恐怖を無視して信じ込んだ。
そうして、何も出来ないまま。
俺は総てを喪った。
だからだろう。
あの日、お前と出会ったのは運命だったんだ。
まだ選択の余地あるタイミングで。道を選べるタイミングで、俺という悪例をお前に見せる為に。
お前に俺と同じ道を進ませない為に、俺はきっとここまで生きてきたんだ。
『久しぶりだな』
湯煙の向こうに立つ影には見覚えがあった。
『あー……いつぞやの、えぇと』
『ラストアンサーだ。名乗るのは今回が初めてだな』
『それはどーも。また温泉で会うなんて奇遇ですね』
嘶きを交わしながら、隣の浴槽にジャプジャプと入ってくるラストアンサー先輩。確かブルボン世代だった筈なのに、その足運びからは全く老いを感じさせない。
『そんな事は無い。寄る年並みには抗えないからこそ、こうやって温泉に頻繁に来て癒す他無いんだ。あちこちガタが来てるんでな』
『さりげなく心読まないで下さいよ……』
『相手の考えてる事の概要くらい、雰囲気でなんとなく読めるさ』
それを皮切りに、湯気の中で暫し、会話が止まる。ポタポタと汗が、顎を伝って湯船に消える。
再び口を開いたのは、先輩の方から。
『窶れたな』
『……いやぁ、減量って大変で』
『目の窪みは。声のしゃがれは。誤魔化せると思うものじゃない、こっちが何年生きてきたと思ってるんだ』
何年かって、そりゃ先輩はブルボン世代だから……えっと、えっと。
『1989年ぐらいの生まれで……9年っすね。成る程、そう考えると確かn』
『40年以上だ』
『i簡単に隠せるものでも……んん?』
いやいやいや、待って下さいよ。そりゃおかしいでしょ、年代が合わない。
だって40年前って正直戦後とかに片足突っ込んでね?流石にその辺の競馬事情なんか把握してないし、下手したらマルゼンおばさんより年上に……
いや。
可能性なら、一つだけ。
「そうか、そういう事だったのか」
初めて会った時の事。
なんで先輩は、馬が知る筈のない西暦を言い当てたのか。
人間しか知らない筈のCMフレーズを合わせてきたのか。
たった二つの、確証と呼ぶにはおぼつかない状況証拠でも、生年以上の年齢自称もこれなら説明がつく。
『ラスト先輩、まさか』
『……お前の想像通り、だろうな』
やっぱり、そうなんだ。
惜しいな。やっぱりハイテンションなんて碌でも無い、こんな重大な事をずっと見落としてたんだから。
『転生したんですね。人間から、馬に』
『お互いにな。
決まりだ。“クロスクロウ”のいない世界、正史の時空から彼は来た。俺と同じ所から、俺よりも早く。
『灯台下暗し……たぁ、よく言ったモンですな』
『お前の方は分かり易かったがな。レース名を詳細に把握してて、ブルボンをサイボーグと呼んだ時点でもうこっちは察したよ』
『お恥ずかしい限りで』
あーあーあー、当時の……いや現在進行形の自分の無防備さが刺さる。こんなんで他の馬に兄貴ヅラしてたとかマ?死んだ方がええんとちゃう?カス野郎がほんま……
(……あっ)
マジか。いや、これに関しては言わない方が良い。俺としても会いたくない
聞いてしまったら、それが俺の中で事実になってしまう。信じたくない、それは嫌だ。せめて俺とは関わりの無い事ぐらい、気に病まさせないでくれ。
──と思いながらも、聞き出したいという思いを否定できなかった。あの事件もまた人間の業で、元人間である俺と無関係な話じゃないから。だが、それでラスト先輩の古傷を抉るのも本意じゃないし……
『聞きたいか?』
『!!』
『良いぞ。俺は構わない』
バカ。俺のバカ。バカ馬。
もたついてる間に察せられた。優柔不断がまた事態を転がした、こうなったらもう聞くしか無い。実質的に促されてしまった以上は。
『ライスシャワーは、もう』
『ダメだったよ』
………やはり、か。
前に会った時、先輩がライスシャワーの名前を出された瞬間に押し黙ったのも。あの時のセリフも、そういう事なら頷ける。
『“後悔を残すような選択はするな”。覚えてるか』
『今思い出しましたよ。そういう事だったんですね』
きっと、彼は救えなかったんだ。目の前で逝かれたんだ。
彼にとって、ライスシャワーがどんな存在だったかは知らない。でもその瞳の──慈しみ、嘆き、想う色から、察する事はできた。その光景を目撃した彼の、痛みも。
だからこそ彼は、俺に後悔を残すなと。ああ、くそっ。
『すみません。やらかしました』
後悔ばかりだ。あの言葉を、俺は無意味にした。
『フレアを、オースミキャンディを、みすみす死なせました……っ』
視界がぼやける。泣くな。その資格は俺には無い。これは湯気だ、汗だ。そうに決まってる、そうでなければならない。
『バカみてぇに忘れて、目を逸らして!見殺しにしました!!』
『お前……』
怒って欲しい。詰って欲しい。改めて口にしたら、湧き出た罪悪感でどうにかなっちまいそうだ。
頼む、頼む、頼む……!
『
違った。
先輩の口から出てきた言葉は、そうじゃなかった。
『いやお前……“忘れた”と“目を逸らした”じゃまるで話が違うだろう。かたや過失、かたや未必の故意だぞ』
『結果が同じなら、変わらないでしょう!?』
『ぬかせ。だとしたら、俺はどうなる』
『……え』
俺は、って、どういう事?そう問うまでもなく彼自身が告げる。
『忘れて死なせた
『それは──』
『お前の理論だと、俺は死すら生ぬるい罪人じゃないのか?』
……いや、いやいやいや!それは違うでしょ、流石に!
『死なせたくて死なせたわけじゃないだろ、アンタ!』
『それはお前もだ』
『違う!俺は出来損ないだッ!!!』
『なら何故
一喝。それを食らった瞬間、息が止まった。
そうだよ。なんで出来損ないなら、自分を無価値だと思ったなら──どうして俺はもっと早く、自死という手段を選ばなかった?
『絶望し切れてないんだ、お前は』
先輩は言う。見透かしたように、実際見透かして言伝てる。
『言ってみろ。お前は何故息をする。そんなに自分が嫌いなのに、どうして未だ鼓動を続ける。なんでだ?』
『俺…は………』
何故か。何故死なないのか、何故希望を抱くのか。何をまだ望んでるのか。
俺は。俺は。
『──認めて欲しい』
その言葉は、驚く程すんなりと出てきた。
『ここにいても良いって、認めて欲しい』
居場所が無かった。どこにいても不安で、息苦しくて、怖くて。
迫る夕焼けが、暗がりが、恐ろしくて仕方なくて。
『生きてても良いって、言って欲しい…っ』
誰かに許して欲しい。
許されるだけの“価値”が欲しい。
その為に、俺は、色んな物を犠牲にしてまで。
『死にたくないよぉっ……!!』
これまで、走ってきたんだ。
最後にはもう、嗚咽だと自覚出来るレベルだった。ああ情けねぇ、なんて惨めな声だ。先輩に聞かせてるこの状況が酷くつまらねぇ。
それでも先輩は、受け止めてくれた。
『……死にたくて生きてる奴なんて、よほどの酔狂でもない限りあり得んからな』
『その結果、恥晒してちゃ……世話ない、ですよ』
『安心しろ。生き恥仲間だからよく分かる、生きたい気持ちも死ねないもどかしさも』
悔しいなぁ。本当に仲間だって感覚で分かっちまうから全部吐いちまう。
でもさ。だとしたらさ、先輩は
『ラストさんは、なんで平気そうなんだ』
嫌味とかじゃない。単純に、純粋に気になったんだ。
ライスシャワーを目の前で喪って5年近くになる。考えたくもないけど、俺がスペやグラスを目前で救えなかったら……月を経る度に気が狂って、1年を待たずに死んでる確信があった。何ならその場で舌を噛み切るかも知れない。
なのに、どうしてアンタはここまで耐えられた。生きて来れた?
『平気な訳がない。あの日の事を夢に見る度、正気を失いそうになる』
『そのまま狂気に身を委ねたって、おかしくないのに』
『おかしいさ。終わってもないのに』
何が終わってないのか。彼の中で何が続いているのか。
湯気の向こうで、据わった瞳が垣間見える。
『生きているんだ。俺達は、まだ』
『………』
『生きたがったにしても、死に損なったしても、生かされたにしても……命が続いてるなら、ダメだろう。何かしなきゃ』
死んでるように生きていては、いけない。それが彼の言い分。
なら俺は。俺にとって、死ぬ事とは。
『決まってる』
無価値だと決められる事。価値を示さないまま終わる事だ。それが嫌だから、甘んじて受け入れる事は出来ないからこそここまで来た。
なら、貫かなきゃな。
『分かってる』
そうだと、分かってるんだ。少なくとも頭では。後は、誰も引き換えにしたくないと甘い事をほざく感情の問題。
『今更やめれば、これまで踏み付けにしてきた者達の死が無駄になる……というのは、俺が言うまでも無いか』
『ええ』
勝ってきた相手達への、負かしてきた馬達への失礼。生きたいが為に続けてきた走りを止める事は、即ち
その上で、だ。
『これまで、これから踏み付けにしていく存在達と、どう向き合うか』
よーし。やっと自分が対処するべき問題がハッキリしてきた、これが重要なんだ。俺にとって大切な、妥協しちゃいけない点。
フレアカルマ、オースミキャンディ。その他大勢の名も知らない、俺の所為で死んでいったであろう馬達。アイツらの死に、どうやったら意味を持たせられる?
スペ、キング、スカイ、エル。そして、グラス。俺と向かい合ってくれるアイツらに、どう応える?
宮崎さん、美鶴ちゃん、臼井さん、生沿。俺を生かしてくれた人達に、どう報いる?
俺の願い。彼らの願い。
!
『そうか』
カチリと、嵌った音がした。
俺の中の、幾つもの歯車が。
『そっか、そっかそっかそっか!こんなに簡単な事だったんだ、何でわかんなかったんだろ……!』
『見つけたか?』
『はい、お陰でやっと!決まったら立ち止まってられねぇ、早く走って勘を取り戻さなきゃ』
温泉なんか楽しんでる場合じゃねぇ!元より無才の身、待ちぼうけしてたらそれだけ損なんだよ!くそぅ、今まで何寝ぼけてたんだ俺は!?
『そんなに焦らなくても』
『焦りますよ!』
『何故だ?』
『エルが!!』
エルコンドルパサーが!本来の、本当の日本最強馬が!!
『今も、走ってんですから!!!』
『エル!』
肩に重み。何デスか、マンボ。
『アーッ……マズハ、オメデトー。』
それはありがとうデェス。ええ、存分にやってやりましたよ。エルの本気を、全力を。
仮に
『……ダイジョブ、カ?』
『問題ナーシ。エルは最強デス、相モ変ワラズ』
『ナラ…イイ』
アチャー、心配させちゃいマシタかね。帰ったらまた話しマショ、時間ならありますから。
っと、鬣を撫でるこの感触は……エビナ-サン?
『よく頑張ったな、エル』
『エヘヘ。エル達のコンビに勝とうなんざ、どんなヤツらだろうと100年早いって話デェス』
……あのコンビ、以外は。
『………彼らの分まで、かましてやろうな』
『いえ。それは違いマスよ、エビナ-サン』
『へ?』
明確な否定のニュアンスを心に込めて、エビナ-サンに伝えマス。だって、だって彼らは。
『クロスクロウは、絶対に帰って来マスから』
最強になったこのエルを、打ち倒しに。
《エルコンドルパサー楽勝!確かな手応えと共にクロスクロウの幻影を置き去り、サンクルー大賞を制しましたっ!!!欧州年度代表馬を鎧袖一触!!!》
エルは強い。多分既に俺の歴史よりも遥かに強い。だってイスパーン賞、今思えば本来負けてた筈なのに勝ってるし。
そんな奴が、俺より才あるアイツが努力を続けてるってのに、俺がこのままじゃ……置いてかれるばかりじゃないですか。
『ふんぬううう!!早く出してくれぇ、のぼせちまうって!!!』
「うわあ暴れんな待て待て待て!」
「どうします?出します?」
「お願いしますぅ!!」
いやぁごめんな、ホント抑えられないんだ!この気持ちを早く発散して、ずっと燃やし続けなきゃいけないんだ!それが俺の使命だから、やるべき事だから!!
『先輩、ありがとうございました!俺、やれるだけやってみますね!!』
『……ああ』
感謝してもし切れない。人としても馬としても先輩な彼が道を示してくれたお陰で、やっとこさ見つけたこの答えを貫かなければ合わせる顔が無い。
そんな心からの敬意を込めて、振り返り様に頭を下げた。伝わったかな。湯気で顔が見えない、それでも。
『クロスクロウ』
顔を上げる。彼の表情はやっぱり見えなくて、でも視線が交わった事だけは克明に分かって。
『俺は、心からお前を尊敬しているんだ。俺に救えなかった生命を、救ったから』
『俺が?』
『サイレンススズカを助けたんだろう。噂だが、聞いたぞ』
いやアレはチートで、と反論しようとした。が、出来なかった。
ラスト先輩が聞きたいのは、そんな言い訳じゃないだろう。仮に言ったとして、余計な反論を呼ぶだけだろう。
『……まぁ、頑張りました』
『そうだ、お前は頑張った。頑張って成し遂げた、その事をもっと誇ってくれ』
それはエールだった。俺が進みやすいよう、一歩を踏み出せるよう背中を押してくれていた。
恩ばかりが、積み上がっていく。
『お前は、俺の希望なんだ。俺に出来なかった事を、俺の分までやってくれてるみたいに思えて……』
『俺は……俺がやりたいようにやってるだけですよ』
『それで良い。それでこそ良い、それが良い。俺が勝手に、期待するだけだ』
尚も顔は見えないけど、でもハッとした。
今、確かに笑ってた。
『お前なら出来る。どんな決意を抱いたかは知らない、けど沈黙の日曜日すら打ち破ったお前なら……何だって成し遂げられるさ』
『……!』
信じてくれるんだ。
応援してくれるんだ。
なんてこった、嬉しくて堪らない。どうしてそう、俺の欲しい言葉をくれるかなぁ!
だからせめて、万感の思いを込めて。
『ッ……はい!!』
踵を返す。これで良い、もう頼ってられない。ここからは俺の選んだ、俺の道だ。
ラスト先輩。アンタが俺の決意を知らないように、俺もアンタが何を目指して生きてるかを知らない。何をもってして、ライスシャワーに報いようとしてるかを知る由も無い。
(けど、俺の生き様がその一助になれたなら)
それ以上の事は無い。アンタもまた、恩を返したい1頭だから。
俺が俺の決意を貫いたその果てで。アンタの願いも、叶うと良いな。
(だから見ててくれ)
やり遂げてみせるから。
俺の命を、懸けてでも。
『……は、は』
なんて素晴らしい姿だ。
なんて美しい魂だ。
『凄いよ、クロスクロウ……!!』
アレで俺と同郷だと?同種の転生者だと?
ふざけるのも良い加減にしてくれ!
『全てにおいて俺の上を行っといて、なに戯けた事を言ってるんだ!』
俺は救わなかった!お前は救った!!
俺は踏みつけて来た命から目を逸らした!お前は一つも取り零さず悔やんだ!!
俺は自分の身を惜しんだ!お前は、惜しまなかった!!
生きてるから正気を保ってるんじゃない、結局死にたくないから狂ってないだけなんだよ俺は!でもお前は、向き合った上で狂気に逃げてない!!
『そこに何の共通点もありはしないだろうが……!』
素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい!あんなに命を大切にできる奴が生まれて良かった、生きてて良かった!それだけで、この世に救いがあると信じられるんだ!!
嗚呼──クロスクロウ!!!
『お前が、ライスの時代にいれば……ッ!!!』
その為なら、この命を差し出しても良いと思えた。俺の代わりに、あの時代にあの牧場に生まれて欲しかった。
でも、そうはならなかった。だから願いを託さずにはいられないんだ。
ステイゴールド、お前が今の俺を見たら笑うだろうな。失望するだろうな。だがすまない、これこそが俺だ。
『頼む……どうか、どうか!』
俺が行けなかった所まで。
俺が餞に出来なかった栄光を、どうか。
俺のその先を、走り抜いてくれ。
どこまでも、俺の分まで幸あれと。そう願った。滲む視界に目を瞑り、強く強く。
ライス。どうか、彼に加護を。永遠に輝く祝福を。
次回、人間側の最終分岐
宮崎雄馬の決断