が、まぁ読者をイライラさせるであろう回となってますのでご容赦を(予防線)
看護師さんに頼んで連れてきてもらった雄馬は、俯いていた。まるで私に合わせる顔が無いとでも言いたげに、いや実際そうなのだろう。けれどその奥に、悔しげに引き絞られた口元が垣間見えるのは気の所為じゃない。
「雄馬」
ビクッ、と彼の肩が跳ねる。毒母によって支配され、成長の機会を奪われた彼の挙動はまるで子供だ。私は、彼を終ぞその枷から解き放せなかった。
だからもう、終わらせましょう。
「どうして来たの」
「……分かっている」
「何が?」
「接近禁止令を破ったのは、承知の上だ」
そうでしょうね。でも雄馬、私はあなたの母親じゃない。叱ってる訳ではないの。
「もう一度聞くわ。どうして、来たの?」
「……っ」
最低だ。何がって、もう分かり切っている答えを何度も問い質す自分の意地汚い所業が。ここに至っても、例え
さぁ、嫌でしょう?詰られてばかりじゃいられないでしょう、ほら。
「俺、は……」
「………」
「俺は…お前とまた、家族になりたかった」
そうして、引き摺り出した本音。それを聞いて、今度は私が歯噛みする番だった。
私だって、私だって、そう在りたかった。なんなら、今だって。
「戻りたい、戻りたいんだ。なぁ梓、分かってるんだ」
「分かってるのは、戻れない事?それとも、私がそれを望んでいないって事?」
「両方だ。だが後者への理解を、どうしても感情が拒む」
声にかすかに震えが浮かぶ。海底深くでの激動が、水面には僅かにしか伝わらないように。
だがこのままでは、それがいつしか津波となってうねりを巻き起こすのは目に見えた。雄馬の理性ならそれすら制して抑え込むかもしれない、けれどいずれにしても爆発は起きる。
なぜなら、私も同じ状態だから。
「…嘘つき」
「!」
本当だ。この恨み節は嘘じゃない、地獄の日々で貴方の帰りを待ち侘びながら何度も思った事。
だからこそ一定の真実味を保証されたまま、雄馬を根底から揺さぶるだろう。
「戻りたいぐらい大切な時間だったなら、なんで帰ってきてくれなかったの」
「あ、ぁ…」
「あの女はあなたの前では猫を被った。貴方がもっと家にいれば、私は傷付かずに済んだのよ!」
「……っ~~~~~!!!」
(どの口が)
雄馬が頭を掻きむしった瞬間、聞こえたのは自分の声。私自身に向けられた責。
本当にその通りだ。雄馬はずっと戦っていた、私と美鶴が困る事の無いように仕事に励んでいたんだ。そもそも一大企業の長が気軽に休みをとれないなんて、あまりにもわかり切った事実だ。
なのにどうして、助けを求めるばかりで微塵も支えられなかった自分が、彼を責められよう。
(そうよ、雄馬。追い詰められて、後から落ち着いた時にこの理不尽を思い出して)
ヒステリックな女だって、私への印象を塗り替えて。
じゃないと、あなたは私に縛られたままだもの。
「
私の知る雄馬がギリギリ思い詰めないラインを、全霊で見極めながら言葉を紡ぐ。背中の古傷ではなく、心が自分勝手に悲鳴を上げて。それでも。
「美鶴の件は許すわ、あの子は無意識に父親を欲してたもの」
本当の事。でなければ、幾ら好きな馬を釣り餌にされてもでもあんな勢いで飛び付きはしない。
「でも私は許さない」
嘘。そもそも雄馬に罪は無い、全てあの悪魔の所為だ。
「あなたを見ると、古傷が痛むのよ」
本当。今もひりひりと焼け付く背中、肩からジクジクと二の腕まで広がる痛み
「イライラするのよ。今度こそ、私には今後一切近寄らないで」
嘘。イライラなんてしない、今すぐ手を伸ばして傷付いたあなたを抱きしめたい。でもそうしたら、また共依存で更なる傷を増やしてしまいかねない。
真実と虚飾を織り交ぜ、
あなた相手にこんなの、使いたくなかった。
「これで話はおしまいよ。私はあなたの所へは戻らない、諦めて」
「…嫌だ」
だというのに、あなたは。
「それが嫌だから、私はここに来たんだ」
私の苦肉の策すら踏み越えてこちら側に来てしまう。
そんなあなたが好きで、だからこそ遠ざけたいというのに。儘ならない。
「梓」
そう呼ぶと彼は、何とその場で土下座を敢行してきた。その光景を目前に、雄馬を愛した私が心の奥深くで絶叫した。
「や…やめて!こんなところで…」
「やめない。やめるものか。ずっとこれをしたくて、でも出来なかったんだ」
顔を上げた彼の視線と、私の瞳がぶつかる。何故。何があなたを、そこまで私に繋ぎ止めるというの?
「俺はここに至ってもまだ、お前に助けて欲しいと乞う愚か者だ。お前をみすみす傷つけておいて、守れないまま逃げられて、それでいて君を取り戻したい不埒者だ。その程度の自覚は、ある」
「ゆう、ま……」
「クロスクロウが惨敗して、自分の予見が外れて…気付いたんだ。俺は俺の事しか見えなかった、見てこなかったんだと。自分がしてきたことが、周りにどれだけ余波を与えてきたのか、見当もついてなかった」
そんな事は無い、と言いたい。でも頭の片隅で、かつて追いやられた自分が叫ぶ。その通りだと雄馬を詰る、それを理性でなんとか磨り潰して表に出さない。
そんな事に必死だから、雄馬の言い分が否定されないまま話は進んでいく。
「だがどうすれば良いのか分からない、何をすればこの性根を叩き直せるのか思い付かない。梓、こんな私を導いてくれ」
あの日のように、と。
ただでさえ、それだけでも私にとっては己の罪を見せつけられているも同然なのに———雄馬は、さらに酷な案で以て、私の脳髄を揺らしてくるのだ。
「さもなくば、
「——は、」
「母に付けられた傷を見せてくれ。それで私は、もう終わりだ」
何を言い出すのか。終わらせたくない、そんな引き金など引きたくない。
だが、終わらせたがっているのが本人である以上、私に何ができる?
「離婚交渉の際、DVの決定的証拠となった火傷痕だ。母に煙草を押し付けられてできたというそれを……先程言ったように私は、理性で認知できても感情が由としない」
「それを見せて、どうするっていうの」
「やっと、諦められる」
何を、と言いかけてやめた。最悪の想像が脳裏を過ったから。
今の雄馬は、生きる導を失っている。その最後の拠り所として私に縋り付いている。
ここで、ただ単に諦めさせるだけで終わったら。迷い子のまま放り出された彼は、どうなる??
(……痛い)
痺れたような痛みが、その強さを増していく。いい加減、思考を阻害してくるほど粘着質に。
あの糞婆の、忌まわしい笑い声の記憶と共に。
(どうしよう、痛い、雄馬、駄目、いたい、いたい)
隠してられないほど強烈に、電気信号が私の脳髄を叩いた。ああ、考えが纏まらない。雄馬を引き離さなきゃいけないのに。その上で軟着陸させなきゃいけないのに。
私はもう、貴方の大切な人じゃない。その域から、自分の意思で離れた。貴方が守るべき相手は、もっと他にいるのよ。
私があなたを捨てるんじゃない。あなたが、私を捨てないと。
(私、以外の──)
誰が、いるか。
雄馬が守って、頼れる相手。大事に思う誰か。
痛い。
美鶴は駄目だ。愛娘に背負わせられない。
いや、頼れる存在じゃなくても良い。
いたい。
雄馬の支えになれる、そんな存在。
思い出せ。雄馬の好きな物。
いたい。
私以外で。雄馬の好きな物。
いたい、いたい。
そうだ。
いたい…!
馬。
「クロスクロウ、だった、かしら」
過呼吸を引き起こしそうな横隔膜を抑えながら、そう口に出した。雄馬が好きだった動物。彼が初めて、会社の事以外で金を使った対象。
きっとこの2年近くに渡り、その快進撃で雄馬を支えてくれていたであろう、駿駒。
笑える話ね、ここにきて頼るのが動物だなんて。言い訳になるけど、でもこの時の私は……激痛のフラッシュバックで、頭が回ってくれなかった。
「馬なんかにうつつを抜かして、楽しかった?」
「それは───!」
「くっだらない。そんな男に、誰が……肌なんか、見せるものですか」
ああ、痛い。痛くて仕方がない。そんなことを思う権利なんて無いのに、意識せずには居られない。頭痛までしてきた、それどころじゃないのに。
ああ、雄馬。
早く、嫌って。
「何が、三冠よ。何が海外遠征よ」
うそ、うそ、うそ。ずっと見てた、活躍を追ってた。
なんなら、その躍進に勇気付けられさえした。そんな私自身の気持ちを、裏切ってでも。
「……!」
雄馬の顔が険しくなった。やっと逆鱗に触れたんだ。あと、もう少し。
もう火傷の痛みも、頭痛も限界だ。深く考えられない。早く、言うのよ。
今。
「たかが、あの程度の馬に、本気になって。バッカじゃないの」
「違うッ!!」
大声。と言っても叫んだ訳ではない、正確には芯の入った響くような声。
一瞬遅れて、ハッとした顔で口元に手を当てる雄馬。幸い声量自体も大きかった訳ではなく、他の上日から顰蹙を買った様子も無い。
そんな雄馬の、心からの否定を聞いた私は──一転して寧ろ、穏やかさを取り戻していた。
(やっと、彼自身の“何か”を守ってくれた)
騒がしく体内で暴れていた激痛の信号が、どこか遠くなるように感じられた。きっとそれは、安堵で意識自体が朦朧としつつあったから。
(良かった……)
ちゃんと、クロスクロウは、あなたにとって大事な存在になれてたのね。本当に、本当に良かった。
美鶴とクロスクロウがいれば、きっと雄馬は大丈夫。私は、要らない。
「何が、どう、違うの?」
「…クロスクロウは、“あの程度”なんかじゃない。
そっか。そうなのね。それでいい。それでこそ。
これは、チャンス。クロスクロウの件で、私の株を、下げ続けよう。うん、それが、いい。
「結果が、伴わないのに?」
「イスパーン賞は私の判断ミスだ!クロスの問題じゃない!」
「選んだレース、なんでしょ?結果が、全て、よ」
拳が震えるのが見えた。唇が戦慄いていた。
もう、ひと押し。
「そんなに、否定したいなら」
これで良いだろうか。思考回路がトロい。
「私に、縋りたいなら」
もう、無理だ。
これで、良いだろう。
「
実質的な「否」のつもりで言った。だって、かのレースは確か、イスパーン賞と同じ競馬場で。そこの馬場に対し、クロスクロウは致命的に相性が悪かった筈で。
無理だろうと、選べない選択肢を突きつけた。“競馬に無理解な妻”という立場から出した、事実上の一択のつもりだった。
もっと、考えて物を言うべきだった。
後悔しても遅い。でも、悔いずには居られない。雄馬を想うなら、痛みを言い訳に焦るなんて愚かな真似、するべきじゃなかった。
雄馬にとって、その問いが
潜るー!
苦しい。
首出す。
潜るー!!
苦しい。
首出す。
潜るー!!!
……を、バカみたいに繰り返す。文字通りの“一つ覚え”ってヤツ。いつぞや、生産牧場でやってたそれの水中バージョン。*1
俺に出来るのは、今も昔もそれぐらいなモンだ。何一つ変わりはしない、不変だって事が最近やっと分かった。覚悟だけは決まった今、せめてそれはやってかなきゃ……ってガボッ!?
『あっこのプール、深いッ!ボボボボボボ!!ボハァッ!!!』
「わわっ、大丈夫か!?」
『ごめん全然なんでもなオェーッ』
アカン溺れかけたァ!こう、僅かに口に入った水が唾液と混ざった上でストレートに気管へスポッと。お陰で肺は大パニックだよ、掟はどうなってんだよ嚥下の掟は!!
「うーん、持ち直したようだが……今日はここまでにしておきますかね」
「最近急にやる気を取り戻した分、踏み外すと怖いからなぁ。つーかさっきから俺達の指示全然聞かないしな」
『え、ヤダ。もっと泳ぎゅ!』
「ウォアアアア引き摺り込まれりゅゥゥゥ!?!!?」
オラッ、調教助手見習い君!スマンな付き合ってくれや、遅れを取り戻さんとにっちもさっちもイカンのじゃ!遺憾ながらなァ、なんつって!*2
……ん?
「せんぱぁい、ちょっと」
「何だ何だ、今クロスクロウが暴走し始めた所なんだが」
「うわぁ大変ですね……っとと、止める前にちょっと」
「いや馬を止めるより優先するべき事なんてあるのか?まぁ
「いやぁ、これからここに宮崎さんと
『臼井さん達が何だ?』
「「うわぁ来た」」
うわぁとは何だうわぁとは。そんなにキモいか。存在そのものがキモかったわ俺。解散!
んでグロッキーになった見習い君を陸へ押し上げて、駆けつけてきた新人君に続きを促した。馬だから具体的に何か言えた訳でもなかったけど、新人君はそれでも汲み取ってくれたようで。
「なんつーか……テキが“拗れる予感”って」
……ふむ?
「お父さん、何隠してるの」
娘の声に、背筋が凍る日が来るだなんて思わなかった。
「クロの前で、何出そうとしたの」
臼井に話を通して、訪れたリハビリテーションセンター。そこに預けられたクロスの、馬房。
ただ様子を見たいだけと伝えて、だが本心は違う。私は、クロスに
もしクロスが嫌がるなら、断るなら、素直に引き下がる。きっとそうなる。だがもし、そうでないなら……と。
「見せて」
バレる訳にはいかなかった。美鶴も臼井氏も、きっと反対する。クロスへ問う前に、阻止される。
分かっているんだ、私自身。これが好ましくない判断だという事は。
こんな無理をさせるような判断、本来なら選ばないし選んではならない。だが、捨てられなかった。
他人に選択肢を押し付ける自分が恨めしくて、でもそうしないと動けなかった。
「……宮崎」
臼井にも促される。言い逃れは利かない。
観念して、私は。
「──これで、満足か」
取り出した。
2枚のポスター。
美鶴が困惑の色を浮かべる。
臼井の眉根がこれ以上なく険しくなる。
「意味分かって言っとんのか、お前……!?」
そうだろう。そう言われると思っていたさ、ああ!
だが俺は、俺は……諦め切れないんだ!!
「クロスクロウ…!」
振り返り、呼ぶ。見つめたその顔は、俺の目を幾度となく灼いてくれたその瞳は、既に俺の手にある紙へとその視線を注いでいる。
お前次第だ。俺がどうするか、俺はどうなるか。
お前が、どうするか。
1999年、10月31日。秋天。
対するは10月3日。一度は諦めた筈の栄光。
凱旋門賞。
「選んでくれ、頼む──!!」
隠せないまま声色に乗った、俺自身の希望。どちらの道を望んでいるのか、傍から見れば丸分かりだっただろう。
賢いお前なら、分からない筈が無かっただろう。
だって、ほら。
『………!』
お前の瞳は今も、そしていつだって。
俺を真っ直ぐに、見つめているから。
あ゛ー先週の仕事キツかった侍
作中人物同様にスタークも正常な判断力を失っている節がある