「貴方に不可能は無い」
母からよく言われた言葉がそれだった。
『あってはならない。これからあなたが迎えられるのは、不可能を露呈した物から蹴落とされる世界だから』
『お母さま、ならそうならない為にはどうしたらいいの?』
『強くありなさい。自分の強さを信じ、誇りなさい』
それが他ならないあなた自身の生きる道標になる筈だから、と。別たれるその時まで、僕が迷う事の無いよう幾度も。
僕にとって幸運だったのは、
「お前に出来ない事はない」
出会えたニンゲンが、僕を信じてくれた事だった。
僕の信じる強さを見初め、拾い上げてくれた事だった。
ジェイミーと呼ばれたそのニンゲンは、僕を始めて見た時に大声を張り上げ、自分の
「もうこんなに大きくなったのか。俺が見込んだだけはある」
『ウザイ』
「そっけない所も良い」
ベタベタと触って、通じもしない鳴き声で語り掛けてきて。
なのに、その手付きは僕を労わるようで、悪くない。
『お前、なんで僕に構うんだ』
「最初はな、競馬になんて興味は無かったんだ」
『俺に時間を使って、何のメリットがお前にある?』
「けど最初に買った会社が変に競馬に手を出してて、その流れで巻き込まれてたらいつの間にか馬主の一角にィ痛ッででででアウチアウチアウチ頭齧るな」
不思議だ。お前は僕がいなくても充分生きていけるだろうに。
言葉が通じないのに話しかけるのは、問い掛けるのは、結局僕も同じだった。疑問が昂じたが故の至りと言えた。
「最初は面倒くさかったよ。スムーズに手を引くつもりだったというのに、変にこだわりを持つ俺の悪癖がそうさせてくれなかった。気付けばこんな老いぼれになるまで続けてしまってた」
むろん、返答の内容も分かりはしない。だというのに。
「だが、その果てにお前と会えた」
僕と会えた事。それに対する喜びが確かに伝わってくるのは、何故だ?
「金も愛も手に入れた人生だ。誠実さには些か欠けてきた自覚もあるが……だが、まだ
欲と、夢。その熱が手を通して僕に伝わる。
「満足な人生だった。その筈だった。けどありがとう、お前との出会いが俺に“不足”を教えてくれたんだ!!」
勝てと。
その強さで以て、信念で以て、存在を示せと。
「俺を連れて行ってくれ、
その後。アイツは呆気なく死んだ。
俺のいない所で、見えない所で、勝手に俺から離れていった。俺はそれを、ニンゲン達の悲しげな様子から悟るしか無かった。
ジェイミーと呼ばれたニンゲンは、もういない。
だが。
(だがアイツの遺志は、俺の中にある)
お前の夢を、僕が連れて行ってやる。
その一念で、駆けた。新しいニンゲン達と出会い、別れ、乗せて、乗せられ、走ってきた。
ダービーとやらも。
勝った。
叩きつけてやった、俺の強さを。
『見てるか母様、ジェイミー———ッ!!』
あの日、自然と迸った己の咆哮は忘れない。届け、見ていろ。貴女の血は、お前の夢は、ここに今輝いているぞと。
不可能は無い。僕の中に、不可能の文字は無い。
あったとしても捻じ伏せる。俺の力で、僕に宿った血と心で。
ダービーに勝った。その次も勝った。
さぁ次だ。誰が来ようと関係などない。
馳せ損じた強豪にも、身の程知らずの
僕だけが、開かれた“可能性”の覇道を征く。
『全員、跪いていろ』
今回も、ボクの後塵に。
門をくぐった、その先の地で。
《全頭ゲートに揃って今……スタートッ!!》
金属がカチ合う音。
いつも通りに始まった、いつも通り以上の大一番!
『エル、とっしーん!!』
掛け声と共に飛び出せば、絶好調のスタートになりマシタ。エビナ-サン、これで良いんデスよネ!?
「そうだ、これで良い!」
『オッkっとととぉ?!』
「大丈夫か!?」
危ない危ない、ぬかるみに脚を取られかけたデス。雨のせいで、地面がとんでもない事になってます。それこそ走ると言うより泳いでる気分。
こりゃ、後ろにいたら前からの泥で大変な事になってマシタ……!
(何より、ウカツに囲まれたくないデスし)
これまで
だからこその逃走、奔走、エル疾走!!
『クロは……見えませんネ』
チラリと後ろを見ますが、馬群に隠れてるのか彼の姿は見えず。でも彼の事デス、どーせ上がってくるデショーね。
となれば、リードは出来る限り広げておきたい……!
「よーし、この重馬場だとスローペースでも全員疲れ果てる筈だ……まぁお前も例外じゃないが。だから中盤で息挟むぞ」
『ム、サイレンススズカの真似事デスね?!』
良いデショー、
『おっっっも』
『邪魔!どけ!』
『うえええ粘り付く』
『泥飛ばすなウゼェんだボケが!!』
『………』
『聞いてんのかァ!?』
オーオー、後ろから罵詈雑言!何にイライラしてるのかは知りませんが、この地面の状態もきっとその理由の一つ。
デスよねー、後ろにいたら飛んでくる泥が痛くてメンドクサイですもんネ。ま、逃げてるエルには無関係デスが!!
「コーナー行くぞ!」
『はーい!!』
もう一回自分に
『やっぱりお前は面白い』
『ッ!?』
コレは……えぇっ、ちょ待!?
どんどん来る、足音ドンドン来マス!!
「何だその加速、この超重馬場で……!!?」
エビナ-サンの動揺が伝わってきマス。思わず共感しマス、それこそ人馬一体が暴発しそうになる程。
だって、ペース上げたのに。よりによってそのタイミングで詰められたんデスよ……!
『驚くのも無理は無いよ。でも、この地面は僕の庭だから』
そう
『お前、名は何デスか』
『モンジュー。おっさん、お前の名は?』
『エルはエルコンドルパサー、デェス!』
そしておっさんじゃないデス!まだ若馬デェス!
そう叫んで、エルは足へと更に力を込めたのデシタ。
《各馬一斉に飛び出し、エルコンドルパサーがスーッと逃亡体勢!馬群を厭ったか海老奈仁義、しかし軽快に飛ばしていく》
《……!モンジュー此処で上がって来た、逃げに張り合うつもりでしょうか?この馬の戦法は中段に控えるのが常道ですが果たして──》
『着いてこれマスか?エルのこのスピードに!』
「これはやむを得ないか……っ」
あんまり溜めてられない、飛ばしてリードを!幾らアナタがこの地面を得意としてても、パワーが必要な条件である事は皆同じデス!
『……後悔するなよ?』
『ハッ、上等上等!』
エルだって、この芝で呆れ返るほど特訓して慣れたんデス、もう適応し切ったんデス。今更若造に舐められるほど、甘ったれた経験はして来てないんデェス!
さ、エビナ-サン!!振り切りますよォッ!?
「ああ!制御は任せてろ!!」
ヤッタ、ハッキリ聞こえる。人馬一体、到・達・デェェェス!!
位置取り的に
『パワァー、アーップッ!!!』
『ッ………』
カツモクしろ!クロを下したこの力を、こっちの奴らも相手にならないまでに進化したエルの本気を!
『「はぁぁあああ───ッ!!」』
エビナ-サンと共に駆ける、駆ける、駆ける!誰にも追い付かれる事の無いよう、誰にも追いつけない場所目掛けて一直線に。
(きっとコレは、エルの
分かってる。皆の気持ちが違ってた。
エビナ-サン達、ニンゲンの皆が、凄く気合い入れてたカラ。まるで、
(エルはまだ、終わりたくないデスが……っ)
まだクロと競いたい。スカイやスペ君、キングと走りたい。グラスと苦楽を分かち合いたい。でも、いつ終わりにするかを決めるのはエルじゃない。
なら、せめて。
(皆にとって大事なレースへ、渾身を込めるッ───!!)
エルは最強になりたくて。皆はエルを最強にしたくて。
そんな皆が重要にしてるレースならつまり、それを勝てばエルは最強だと確信出来る事。それをエルは、そう信じさせてくれる皆をエルは信じるマデ!
(得て来た物全部、力に変えマス!)
グラスの切れ味。スカイのペース配分。スペ君のスタミナにキングの根性。そしてサイレンススズカの溜め脚。クロのパワー!
見て来たライバル達の戦い方、楽しかった事も苦しかった事も全部、エル自身の中へ織り込んで……
「フォルスストレートに入るぞ、気を付けろ!」
『ハイ!』
さぁ終盤も目前、息入れの最後のチャンス。でもエルの独走はまだ続く、これからも続きマス!その証拠にほら、後ろなんてもう遥か彼方に───
「舐めなくて良かったよ」
───嘘、ですよ、ネ?
エル、相当、頑張ったはず……なのに。
『お前は頑張った。実際凄かった。ただ、お前の中にあっただけだ』
『僕という名の不可能が』
《フォルスストレートに入って先頭は依然エルコンドルパサー、三番手以下を突き放し……だが!二番手モンジュー追走、ピッタリくっ付いて離さない!!逃げ切りは許さないとばかりに喰らいついてくる──!》
《これは不味いかも分かりません…!!》
この期に及んで“軽んじていた”というのは、正直否定出来ない。
この寝藁すら凌駕する程に柔らかくなった地面では、全員ゴチャゴチャの大混戦になると思っていた。実際、ほぼ全ての馬がそうなって、僕はその中で足を溜める予定だった。
ここで、
そして
(ここまでしっかり抜け出されるとはな……)
逃げに近い先行馬とは、噂ながら聞いている。しかし飽くまで近いだけ、ハナを突き進む事はこの不慣れな地面では選ばないと思っていた。
だが違った。コイツ、敢えて選んだ上で……
「凄い地力の馬だ。勝てるか…?」
『弱音を吐くな』
「分かってるよ」
既に
後ろには下がれない、“予想外”が暴れて無茶苦茶になっている。だが予想“以上”ではない。
(アイツは、警戒するに値しない)
ヤケになって荒らしているだけの木端だ、勝負の場には上がれないだろう。なら僕が標的とするべきは。
『お前、名は何デスか』
『モンジュー。おっさん、お前の名は?』
『エルはエルコンドルパサー、デェス!』
そうか。エルコンドルパサーというのか、そうか。
ならコンドル。今回の僕の相手はお前だ!
『初めてだよ、こんなの』
こんなに心躍るのは。
負けた事はある。けど今回は話が違う。此処は俺の庭だ。
慣れた
ほら、今だって!!
『パワァー、アーップッ!!!』
『ッ………』
また加速した。追えば追う程に突き放してくる、だが何度踏み込めば気が済むんだお前は!真後ろにいたら、お前の蹴った泥塊で吹っ飛んでしまうんじゃないか!?
(倒し甲斐の塊かよ……!)
これで負けたら、恥なんてレベルじゃない。天が僕に勝てと言ってるような条件だぞ。置いて行かれて堪るか!
『行くぞニンゲン!合わせろ!!』
「っ、応!」
道長の奥深くへ。その更に中に潜む、僕だけの領域に至る。
まだか。
まだだ。
待て。
待ってろ───
フォルスストレート。
息入れた。
油断した。
───今!!
一瞬緩んだ。本当に僅かな隙だった、僕達でなければ見逃していた。
(だが、僕は例外だ)
近付く。差が消える。
並ぶ。相手の驚愕の横顔が、エルコンドルパサーの戦慄が見える。
『舐めなくて良かったよ』
本気の、心からの安堵だった。そしてそれ以上にこれは、お前への賞賛だ。
よくぞ。
『お前は頑張った。実際凄かった』
僕を相手に、よくぞこの条件でここまで張り合った。同じ事が出来る奴なんか見た事が無い。断言して良いよ、お前が最強だ。
『ただ、お前の中にあっただけだ』
僕さえ、いなければな。
『
それは、日本が最も世界に近付いた日だった。
《最終コーナーに差し掛かりモンジュー並ぶ、いや躱した!エルコンドルパサー差された!!》
1999年10月3日。ロンシャン競馬場。
『負けるもんか……負けるもんかッ!!』
「負けて堪るかァァァァァっ!!!」
1着、モンジュー。2着、エルコンドルパサー。その着差は1/2馬身。
《食い下がるエルコンドルパサー!頑張れ!》
《届きません、末脚の差が……重馬場で体力が残ってないんです!!》
勝者は敗者を讃えた。勝ち馬は二頭いるとすら言った程だった、それ程の健闘だった。
だが、勝利ではないのだ。
《日本の栄光はまだなのか!夜明けはまだだと言うのか!?》
スピードシンボリの挑戦から30年。そしてこれからの30年。
日本馬はずっと、凱旋門賞を勝てない。それが
“彼”の知る、
だが、彼は存在していた。
「まだだ!」
悲鳴の中、日本人の席から絶叫が飛ぶ。祈りが迸る。
「まだ彼がいるよ!!」
既に歴史は変わりつつある。
彼が存在している時点で、分岐は着実に進んでいる。
《頼む、
全員が。
彼を愛する全ての人々が、願った。
《「「「勝てッ!クロスクロォオ!!!!」」」》
「あぁ。聞こえてるさ」
次回。
終わり。