コースに立つ。
(今日が勝負)
勇気を出す日。私だけではない、ユタカさんだけでもない。
一頭と一人、一緒に。
「大丈夫なのか、勇鷹」
「それを確かめに行くんです」
「……すまない。調教師だというのに、計りかねてしまって」
「仕方がありません。約束は守らなきゃいけない、けど絶対守れるとは限らない……僕はもう、2回も破った」
ユタカさんと
何度でも、何度でも。今度こそ。
(いつも立ち止まってしまう最後のカーブを、突き抜ける)
(いつも止めてしまう最終コーナーを、通過してみせる)
あそこさえ越えられれば……立ち竦む自分さえ超えられれば、そう望みを抱く。さぁどうなるか、希望となるか絶望となるか?
その時、頭の中に声。何の事は無い自問自答だった。
約束は果たされない。私がノロノロしていた所為で、彼は私を置いていってしまった。
なのに、何でまだ走るのか。破られた誓いに何の意味がある?
(違う)
「破ってしまったからこそ、拘るんです」
愚かな話。取り返しがつかなくなって、だからこそ一層執着するなんて。
それでも、このままじゃ終われないんだ。
「スズカは諦めてない。なら俺も諦めません、貴方達もそうでしょう?」
「……ああ」
「ならそれが全てです。その前の
私を待ってる誰かがいる。私達の復活を望んでくれる誰かがいる。
それはエアグルーヴかも知れない、
具体的に誰かなんて関係ない。私はその全てに対して再起を誓った、だから!
「『“今”の約束を守る為に、何度でも挑むんだ……!!』」
夢破れても、約束を破ってしまっても、それでもと。
その事を恐れて夢を捨てるなんて、未来を約束しないなんて。そんなの、生きてるって言えないから!
「……多くは言わない。ベストを尽くして、取り戻してくれ!」
調教師さんが手を振り上げた。準備の合図、単走。私の視界に、幻の
さぁ、タイミングは覚えてる。頭の中にある記憶を導火線として、体に思い出させろ。
3。
2。
───っ、1!
「スタート!」
その瞬間、飛び出した。いつぶりだろうか、会心のスタートダッシュだ。これ程のは、それこそ本当に12度も月を遡らなきゃいけないぐらい久し振りだろう。
(向かい風……)
望むところ、だなんて余裕は無い。ただでさえ走る感覚が衰えてるし、強い風を受ければ速くなるのを嫌でも感じる。速く感じるという事は
思い出すという事は、つまり……いや、だからこその“望むところ”でもあった。
『あの時の私を、乗り越えるんだ』
より強く前を意識した。以前はいつもそうしていたように、でもより強く。微かに“景色”が垣間見えて、消えた。
これをもっと、長く続けられるように。
「大丈夫、大丈夫だ。余裕はある。タイミングも分かってる」
ユタカさんの声は、私に言ってる?それとも彼が彼自身に言い聞かせてる?
でも首筋に添えられた手は間違いなく、私と心通わせようと努めてる証。なら私だって!
(私はいけるよ、ユタカさん)
「……そうか」
伝わったかな。前はもっと素直に通じ合えて、あの頃にまた戻りたい念が強まる。頑張る理由をまた一つ取り戻した。
一つ、一つ、また一つと戻していく。コーナーへ。
(あの時だったら)
本番なら。ここで更に突き放す。後ろにいる他の馬達、その足音を遠ざけるタイミング。
その為には勿論、足に力を込める必要がある。足に力を込めるには根性が要る。今の私に、それはある?
「任せて」
ああ、そうだった。独りじゃない。
私に根性が無かったとしても、ユタカさんがいる。
姿勢を変えたのか、体全体が軽くなる。あんなに焦がれ馴染んでいたコンビの形に、少しずつ戻っていく……!
「……向正面だ。見えてきたぞ」
「っ!」
でもその興奮も一瞬。視界に映る直線、その奥にある場所。
あの日、私が挫けたのは、ここに当てはめるなら、きっとあの辺り。
(……怖がってられない)
これは勇気?それとも無謀
どっちにしろ、もう止まらない。止まれないんじゃない、自分の意思で“止まらない”。
(私に託された意味を、果たす為に)
私自身が走りたい、それは勿論ある。走るのは本来楽しい筈だから。
ニンゲン達の期待に応えたい、それもある。私を甲斐甲斐しく世話してくれて、脚に気を遣ってくれて、走れるよう入念に準備してくれる。その思いに応えたい。
ライバル達と競いたい。エアグルーヴと走った記憶が、フク君と走った記憶が、更に後に続いてくる後輩達との競走を欲させるから。勝ちたいから。
でも、何よりも大きな物がある。
(クロ君)
君はどうして。
(私を、助けてくれたの?)
何故クロスは俺を助けたのか。
スズカを救ったあの奇跡。自分に使えば良かったのに、俺に使って。その結果、彼自身は黄泉の彼方へ旅立ってしまった。
何故だ?
(俺のせい……だなんて、自責してる場合じゃない)
お前も多分、そう思ってるだろう?なぁ、スズカ。
俺もお前も同じなんだ。救われた。助かってしまった。クロスによって掬い上げられた命だ。
(……なんでだろうな)
クロスは俺達に、何を望んで救済を託したんだろうな。
何を俺達に見たんだろうな。
『……私だって分かりませんよ』
その時だった。微かに、スズカの思いが伝わった。分かった。
あの時と同じコンディションに至りつつある証拠。高揚と同時に恐怖を覚え、でも噛み潰して冷静に。
「栓無き事だってのは承知の上さ」
「せん?」
「考えても仕方が無い、って事。当のクロスには、もう聞けないから」
『それでも、気になってどうにもならない』
「……だよなぁ」
スズカも同じ事を、クロスについて考えてたから繋がり合えたんだ。それを維持して、でも走りにも集中したまま。綱渡りのマルチタスク。
僕自身の感覚もまた、あの凱旋門の前のそれを取り戻しつつある。
「──ただ」
「ただ、何だい?」
その時、ふとスズカが。
「走り続けてくれって、言われたの」
………そうか。
それを君は、それだけを君は。
「望んだのか」
クロスクロウ。
俺達に、君は。
「俺達に、夢を見てくれたんだな」
夢。
ユタカさんからその想いが伝わった時、全てが腑に落ちた。そうか、夢か。
クロは、私達に夢を見てたんだ。
『きっと、全部見えてたんですね』
彼には、彼の目には。
私たちの辿る未来の、全てが。
あの日、本来、私がどうなったかも。
ユタカさんが、どうなったかも。
「だから、“夢の続き”をくれたんだ。きっと」
ねぇ、クロ君。君は見たかったんじゃないの?
私達が走り続ける姿を。
あの日に終わりを迎える筈だった私を、あそこで終わりにしたくなかったんでしょう?
(だから会う度に、念入りに)
走れるか。
大丈夫か。
逃げ切ってくれ。
何度も何度も、そう言ってくれたんだね。
『ありがとう、クロ君』
ありがとう。そう何回言っても足りない。
走れるよ。私、走れるよ。
今だってホラ。あんなに怖かったコーナーを、あっさり過ぎ去った。トップスピードで、まだ全盛期には遠く及ばないけど、それでも全速力で。
あの
「君に、君にこそ……!」
うん。うん。
私もそう思うよ、ユタカさん。
何よりもこの景色を見たがってくれた彼にこそ、見せたかったよ……!
『私がユタカさんに夢を重ねたように』
「俺がスズカに夢を掲げたように」
君が皆に、夢を見させてくれたように!
「『君に夢を見せたかったなぁ……!!』」
もう叶わない。それでも届くように、届かせるように。
私達に贈られる歓声が、もういない君へと聞こえるように。
「あぁ───!」
ね、ユタカさん。
泣いてる場合じゃないよ。私だって我慢してるんだから。
でも、うん。そうだね。
「頑張ろうなぁ……!!」
「うん………!」
夢を駆ける。夢の続きを駆け抜ける。
その道が報われるまで、彼の遺した祈りに報いるその日まで。
眠くならない。
お腹が減らない。
だというのに意識は暗くなるし、何か喉に通したくて仕方がないし。満腹なのに気付かなくて、苦しくなったりも。
イキゾイには、悪い事しちゃったな。僕が呻く度に寄り添って、お腹を撫でてくれた。彼の時間を無茶苦茶奪っちゃった、ごめんね。
ああそうだ、毎日イキゾイと一緒に来る……ミツル、だっけ?僕に構わない方が良いよ、心配するだけ無駄だよ。だって、多分治らないもん。
クロは、帰ってこないもん。
夜は、明けないもん。
ずっとずっと暗いまま、そう思ってたある日の事だった。
いつも通りに暗闇の中、迷い続ける夢の中で。
見えた一筋の光。
新緑の風が、通り過ぎた軌跡。
「……!」
思わず辿り始めた。だって、だってこれは!
「栗毛先輩!」
走ってる。先輩が全力で走ってる、そうじゃないとこの軌跡にはならない!走れるようになったんだ!
まだ姿は見えないけど、この先できっと……
「走っ、て」
走って。
走るって事は。
現れ、一瞬で掻き消えたのはステイゴールド先輩の幻影。違うよ、それは違うよ先輩。人間だって命を賭けてる。
───で?
(結局、僕達が危険に晒されてる事実は変わらない)
僕はそれ自体に反意は無い。もうユタカさんやイキゾイの覚悟を疑う事は無いし、そのつもりも無いから。けど、他の馬がそうとは限らなくて。
栗毛先輩が怪我を乗り越えた、それは良い。けどまた走ってるって事は、また怪我する未来に突き進んでるかも知れないって事で。
その延長線上には、ステイゴールド先輩が言ったように、死が待ち受けていて。
クロはそこに、辿り着いてしまった。
(……祝えない)
祝ってあげられない。治って良かったですねって、そのたった二言三言が言えなくなっていた。死んで欲しくないから。
「どうしよう」
やっぱり、この意見に最後は行き着く。何も分からない、何も選べない。やっぱり僕は、クロがいないとダメなんだなって。
情けないなぁ、僕。
「ああ、もう……!」
ポタポタと滴。どこから?僕の目から。
本当に惨めだ。こんなんじゃ
ずっと暗がりで、ずっと泣くしか………
「……黒鹿毛君」
その時、光が僕の横を過ぎ去った。一瞬の事で、気付いたのは数瞬遅れての事。
二、三歩過ぎ去ってから、その光は減速。僕の少し前で止まる。そっか、僕たち馬が走るのはコースだもんね。この暗闇の中でもそれは変わらないんだ。だから、僕がちんたらしてる間に、あなたは一周してしまったのか。
「走れるように、なったんですね」
「ええ。ユタカさんと、クロ君がいたから」
「良かった」
あっ、思ったより素直に言えた。走る先輩の横顔が綺麗で見惚れたからかな、やっぱり走ってなきゃって思えたのかも。先輩にとっては、走る事が正解なんだね。
……僕は、どうなんだろ?
(ああ、そうだ)
先輩が走るなら。
そう思って僕は、自分の胸に手を突っ込んだ。痛みは無い、苦しみも無い、不思議なくらいにあっさりとそれは取り出せた。栗毛先輩はその様子にびっくりして固まっちゃったけど。
「な……何してるの!?」
「何って、やだなぁ。これは元々先輩の物じゃないですか」
それを返すだけですよ。
「今の僕が持ってても、しょうがないので」
だったら活かせる相手に。そう思えば、今手元にあるこの光を渡す事に何の躊躇も後悔も無い。クロだってきっと、同じ状況になったら同じ事をすると思う。
これで良い。これで良いんだ。先輩は先に進んで、僕はここまでで、それで───
「───ぁ」
頰を打たれた。それを知ったのは、痛みを感じるより先に、揺れ動いた視線と
「なん、で、」
「しっかりしろ、スペシャルウィーク君……!」
何で僕の名前を知ってるの?
何でそんなに怒った顔をしてるの?
何で悲しい気持ちを纏ってるの?
「そんなだらし無い君から力を譲られて、私が満足すると思ったの?」
「でも!」
「でもじゃない!そんな姿のままじゃ、誰も報われない。他ならない
……分かってる。
「分かってますよ、そんな事は……!」
「だったら何故!!」
「分かった所でどうするんですか!?目指す道が見えないんじゃ、着くべき場所を知らないんじゃ、動きようが無いじゃないですかッ!!!」
道標の無い場所で彷徨ったって、一層惑って終わるだけ。そんな有様で動くなんて出来る訳ないじゃん!
……そんな僕の悲鳴に、先輩は。
「迷っても良いじゃないか!!」
え……?
「迷っても、良い?」
「迷わなきゃ、探さなきゃ道は見つからない。迷う事を怖がってちゃ、ダメだ!」
迷わなきゃ、見つからない。言われてみればその通りで。
そうか、そうだった。僕の周りは皆そうだった。
グラスは自分で怪我から復帰した。スカイだって、
特に、キング。彼は一度だってブレない、揺るがない。今だって彼が一番平静を保ってて、クロは彼のそういう所を好いてたっけ。
皆、迷いながらも自分の道を探し続けてた。
………僕は、どうだ?
「違う!!」
そうじゃない。そんなんであって堪るか!
僕は、僕は……!
「くっ……そぉぉぉぉ!!」
自然と罵倒していた。自分を取り巻く全てが悲しくて、悔しくて。
でも、それだけで心が澄んでいく気がするのはどうして?
「君は君の足で立つべきなんだ」
見上げれば、栗毛さんの姿。彼の背後には、もういつの間にか暗闇ではなく青空が広がっている。
「立てば、そこが居場所になる。進めばそこが道になる。
「……ああ」
そうだった。クロはいつだって、誰にも予想出来なくて。つまり誰も知らない道を行って、気づけば僕たちもそれに続いてた。そうか、クロがしてたのはそういう事だったんだ。
決して楽な道じゃない、自分で切り開く。けど、それこそがきっと。
「生きるって、事なんだ」
なぁんだ。もう示してくれてたんだね、クロ。
「……でも、決めるのは君自身だよ」
「分かってます」
少なくとも自分では、もうそのつもり。独り立ちしなきゃ、その時が来たんだ。
「最強になるって誓ったから。日本をよろしくって、言われたから」
「……君も、そうだったんだね」
“も”?ああ、栗毛さんもそうなんだ。クロに託されたんだね。
「私は夢を。君は約束を」
「僕は僕の道を、先輩は先輩の道を」
自分の足で、進んで。
この
「………ッッ!」
握りしめた手を見てたら、視界が滲んだ。重いよ。重過ぎるよ。やっぱりもうちょっと、ほんのもうちょっとだけでも、一緒に背負って欲しかったよ。
早過ぎる。
「本当に、そうだよね」
栗毛さん。あなたも?
「うん。本当に酷いよ……置いてかれちゃ、勝ちようが無いじゃない」
その通りだ。酷い逃げ方だ。
僕も勝ちたかった、ううん、僕“が”勝ちたかった。君に夢を見て、夢中になって、だからこそこの脚で抜き去り超えていきたかったんだ。
「でも、もう進まなきゃ」
ええ。ずっと悔やんでても彼は帰って来ない。何より、悲しんだままじゃクロが可哀想だ。
送ってあげよう。僕の中のクロを、僕なりの弔いで。
出来るかな?
「もう大丈夫?」
「はい!栗毛さんは?」
「ユタカさんのおかげでなんとかね」
そっか、ユタカさんも頑張ってるんだ。じゃあ僕も、頑張ってるイキゾイと一緒にやっていこう。
クロにはもう会えないけど、約束はまだ生きてるから。果たして、送ろう。
君が心置きなく、旅立てるように。
「……そろそろ時間みたい。また機会があったら会おうね、スペシャルウィーク君」
「スペで良いですよ、栗毛さん」
「じゃあ、スペ君。元気で」
去っていく背中。でも手を振るだけじゃ、どうにも収まりが悪い。
言いたい事を一つだけ。
「頰、痛かったです!」
「!それは、その、ごめんなさ、」
「だから
「へ?」
何首傾げてるんですか。僕達で、やって、やり返す事なんてただ一つでしょう?
「レースでまた、会いましょう!!!」
「……!ははっ、望む所───!!」
そこで飛び起きた。
正確には、飛び起きようとした。
「Zzzzzz……」
『……イキゾイはさぁ』
いつの間に入り込んだのやら、僕の腹を枕にして寝こけてる。でもそれは、削れてた僕に寄り添える程、彼は回復していたという事で。
僕も今、そこに追いついたよ。ほら起きて。
「んぁ……?あ、スペ。もう大丈夫っすか」
『うん。もう、多分』
鼻息を吹きかけると、彼もまた目を覚ました。寝ぼけてないようで何より。
……多分きっと、大丈夫。まだどっちに歩き出すかも決めてないけど、でも歩き出すって決めたから。
「そうか。それなら、良いんだけどさ」
『心配かけてごめん』
「良いってば……ところで少し、話があるんすよ」
なになに?詳しい事までは聞き取れないから、なるべく簡潔にお願いね。
するとイキゾイは、真剣な表情をして。
「俺、まだお前に跨ってて良いっすか?」
『……当たり前じゃん』
まさかとは思うけど、前のレースで負けたのをまだ引きずってるの?それを言い出したら僕にも落ち度あったし、やめよーよ。ユタカさんも良いけど、今の僕は君がいいの。
「わふっ……ス、ペ?」
『誰よりクロに近かった君だから、いいの』
傷の舐め合い、ってつもりは無いけどさ。同じ思い出を共有できる、そんな相手なんだよイキゾイは。それにクロを悔しがらせたいんだ、『俺の相棒なのに』って。散々してやられたんだもの、それぐらいの仕返しは許されるだろうしさ。
だからもっと頼って、頼らせてよ。
『相棒、でしょ?』
「!!」
顔を擦り付けながらそう言ったら伝わったのか、抱きしめ返してくるイキゾイ。うん、それで良い。ここからお互いやり直そう、1から。
クロの弟分ではなく、
クロの片割れじゃなく、一人前のイキゾイとして。
「……次のレースはな。俺とクロが初めて挑んだ大舞台なんすよ」
『……へぇ』
そうなんだ。なんか、燃えてきた。
静かに、でも確かに、心の内でメラメラと。
「勝とうぜ、スペ。あの日のクロを超えて行こう」
『うんっ!!』
さぁ、待ってろ皆。待っててクロ。
───99年、秋の天皇賞。