【Ep.106】秋天!
《秋のGⅠ、10連戦の第二戦です。天皇賞・秋》
ファンファーレが鳴り響く。いつもの事、例年の事。
しかし。
《……静か過ぎる》
そこに、共に湧き上がる筈の歓声が無い。
金管楽器に添えられ、盛り上がったはずの熱気が存在しない。
15万を裕に超えているというのに、入場した人々は。
《異常な空気感。これは第一コーナーのポケットにも伝わっているでしょうか》
《伝わってない筈がありません……声の代わりに、視線だけが殺到しています》
誰も彼もが
ここにもう彼はいないのだと、その事実を確認しに。
《こんなにも…こんなにも諦念に満ちた競馬場は初めてです。正直に言わせてもらえれば、見たくなかった》
《今更でしょう。ずっとコレですよ。変わりません》
《芳田さん!》
《……すみませんでした》
解説ですら気落ちを隠せない有り様だった、それが放送席だけでなく全てにおいて蔓延していた。彼らにとってそれだけ、凱旋門は深い傷痕となっており。
そしてそれに、先日の京都大賞典がトドメを刺した形となる。
誰が言った言葉だったか。著名人ではない、ただの一般人の言葉。実際流布される事も無く、すぐに雑踏の中に消えた取るに足らないレッテル。
しかし、薄々皆抱いていたのだ。似た感覚を。彼はもう、クロスの死と共に走れなくなってしまったのだと。
彼の元気すらも、クロスと共に失われてしまったのだと。
戦士を継げる者は、国産馬は、消えてしまったのだと。
そんな、彼らの視線が。
《……?佐藤さん、これは》
《ええ。セイウンスカイをまず入れようという算段だったんですが──》
戦士と張り合った、同じ芦毛馬の鬱屈と。
それをじっと見つめる黒鹿毛の姿に注がれたその時から、このレースは真に始まったと言えた。
ふざけるな。その一言で頭の中がいっぱいだった。
いっぱいを通り越して、破裂しそうだった。
『クロ、クロスさん、クロスクロウ……!!』
どの呼び名を呟いても湧き上がる、怒り。だってあいつは、俺を永遠の負け犬にしやがったんだ!
反則だろ!?なぁ、タテミネさん!!
「…あぁ。ああ、そうだよな、スカイ」
『ッッッ!!!』
腹立たしいのはそれだけじゃない。タテミネさんですらアイツに狂わされた。クロスさんの報せが伝わって以来落ち込んじゃって、しかも。
(この
タテミネさんが乗る度に伝わってくるイメージ。最終コーナーを曲がろうとしたその時、もんどりうつ身体。二度と起き上がらない。
タテミネさんの中で眠っていたそれを、クロスの奴が、掘り起こした……!
(何やった)
クロスクロウ。
(何やらかしたの?)
クロスクロウ……ッ。
(どうなっちゃったんだよ!?)
クロス、クロウ!お前!ホントふざけるな!!!ふざけるなァァァァ!!!
今回のをお前の不戦敗にしたって、ダービーを含めたら一勝二敗で俺の負けじゃないか!もっと機会をくれよ!そんな勝ち逃げ、恥ずかしくないのかよ!?
そもそも……本当に死んだのか、お前は?!
『信じるもんかッ!!!』
アイツが死ぬなんて、そんなバカな。そうだ、絶対に裏がある筈だ、だってアイツは土壇場のプロフェッショナルだから!皐月賞の時だってそうだったように、どんなに無用意でもすぐに器用に立ち回ってひっくり返す、そういう奴だから!
そんな奴が、“死”なんて重大で目に見えた危険を回避できない筈が無い。アイツに限ってそんなヘマを犯す?んなワケあるかよ!!
(帰ってくる、絶対帰ってくる)
まだ俺は負けてない。お前が帰ってくるまでは負けてないんだ、だから!お前も諦めるなよ!!なぁクロスクロウ!!!
『スカイ』
……スぺ君?何だよ。
ぐるぐる回ってた他の馬達の輪、そこから離れて歩み寄ってくる顔見知り。
『クロは、もういない』
『ッ———!!!』
それを聞いた瞬間、頭が沸騰した。それを言うのか、よりによって君が!
クロスと誰よりも走れた君が!!
『 ほ ざ く な ァ ッ ! ! 』
『……』
『君は良いだろうさ、羨ましいなぁ!!日頃からクロスと散々競ってこれたんだろうね!!でもこっちの気持ちはどうなるの!?』
『っ、スカ———ぐぅっ!』
目の前まで詰め寄ってまくし立ててやった。視界の隅でキングが人間に引き留められてたけど、すぐに怒りがそれを意識から追い出す。
『ずっと会えないなんてありえない、あっちゃいけない!耐えられる訳無いだろ、アイツに会えないなんて!』
アイツが目標だったのに、走る意味になってくれたのに。俺に歩み寄ってくれて、煽ってくれて、腹立たしいぐらいに優しいクロスクロウに、俺はもう文句の一つだって言ってやれないんだ!こんなに悔しい事があるかよ、なぁ!?
それを、お前が!一番アイツに近かったお前が、スペシャルウィークが!!
『そんな簡単に諦めてるんじゃ———!!』
『セイウンスカイ』
瞬間、俺は
燃え盛る火種が、冷え切った威圧に圧し潰された。
スぺ君は何もしてなかった、ただ一言呟いただけだというのに。それだけで、俺は。
『スぺ、く、ん……』
二の句も、継げない。
『僕は、何一つ諦めないよ』
そんな俺に、彼は語り掛ける。静かに、厳かに。頂点に立つ器を示すかのように。
『諦めたのはクロの方だ。彼の約束は放り出された——だから、それを拾い上げて、僕は走る』
『拾い、あげて……?』
『僕が、
継ぐ?彼の何を?
彼に、君が、
『そのつもりは無いよ……けど、皆迷ってる。君も、キングも、人間達も。僕がそうだったから、分かるんだ』
そう言って、俺から視線を外して周囲を見回す彼の視線は優しい。スぺ君自身の慈愛の色が、その瞳に宿されていて。
『だから…皆を、立てるようにしてあげたい。自分で歩き出せるよう、立たせてあげたい』
『……どうやって。馬同士でも上手くいかないのに、言葉の通じないニンゲン相手まで』
『“これ”があるじゃん』
そう言って、スぺ君が自分の前足で小突いたのは……彼自身の後ろ脚。
つまり、走り?
『僕を見ろ、だなんて偉そうな事は言わないよ。性分に合わないから』
『君は……何するつもりなの?』
『
そこで一旦途切れ、深く息を吸うスぺ君。目を閉じ、何かを反芻するように、きっと彼なりの覚悟へ点火して。
見開かれたその双眸に、今度こそ俺は瞠目した。
『ついて来て。僕を追って、僕の背に続いて』
『——~~~~!!!』
強い。あまりにも強い、意志の煌めき。最後に顔を合わせた時からは考えられない、頑強な決意の焔。
敵わない、と感じた。感じてしまった。それを自覚したのは、スぺ君が踵を返して去っていった時だった。
「スカイ、行こうか」
『ェ…ああ、タテミネさん?』
「色んな人を待たせてしまった。早くしないと」
いつの間にやら、陰鬱さが軽くなっていたタテミネさんに誘導される。いつもは大っ嫌いなゲートも、惚けた頭じゃ抵抗感なんて感じなくて。
でも暫くして、意識がハッキリしてくると———悔しくなった。
(何が、敵わない、だ)
情けない。クロスにはもう負けた、取り返しがつかないよ。でもスぺ君相手には対等のつもりだったのに。
あの瞬間、俺は……成長した彼の威風を前に、屈してたんだ。
あまつさえ、俺は…!
(カッコいいって、思っちゃったじゃん……!)
完全に見上げていた。自分の位置が下になっていた、下にしてしまった。その事が悔しくて、我慢ならないんだ!
『良いよスぺ君。ついて行ってやるさ』
ただし、条件が一つ。決して譲れない、ただ一つの唯一絶対条件が!
『僕の前を走れるならね……!』
「ああ。作戦変更だ、後輩に調子乗らせてられるか」
最初は先行策のつもりだった、でももう違う。君は俺の“本領”でねじ伏せる。今そう決めた!
そしてここに来てタテミネさんと合致する意志、この感覚!最悪だったコンディションが、急速に跳ね上がるのを自覚する。
(絶対、負けない!)
クロスの前に、君達にだけは。君とグラス君にだけは、もう二度と!!
良かった、話せて。緊張しちゃったよもう。
『スぺ、上手くいったっすか?』
うん、イキゾイ。そっちはどう?
「ボチボチっすね。まぁ多分お前と似たような感じっす、ついて来てくれって」
『完全に同じじゃん』
やっぱりクロも言ってたことは正しかった、僕達は気が合うって。だって見てられなかったもん、スカイもその上に乗ってるニンゲンさんも。
『俺達も人の事言えないグダグダっぷりだったっすけどねぇ』
『違いないや!』
そうだ、だから分かる。皆立ち上がれない、皆落ち込んでる。
だから見せなきゃいけないんだ。栗毛先輩が僕にそうしてくれたように。
“希望はある”って。単純で、だからこそ得難いその事を。
『スぺ』
うん?何、キング。
『……ありがとう』
『その言葉は、僕が勝つまで取っておいて』
『いや…俺が勝つ』
『キングはそうでなくっちゃ』
「もうすぐ発走だと」
「そうですか……」
ユタカさん達を乗せて、練習コース。そういえばちょうど……今日ぐらいだったかな。
あの日から12回の月が回った、今日。
「本音を言えば今日に間に合わせたかったですね」
「無茶言うな。スズカが脚を取り戻してくれた事が既に奇跡なのに、慎重にさせてくれよ」
「いえ、それで良いんです。そうしてくれたからこそ、僕達はまた走り出せる……な、スズカ」
ポンポンと、首を叩かれた。うん、そうだ。私はもう走り出せる、走る事が出来る。
あの日からの、再スタートを。
(スペ君は、どうかな?)
彼はどうしてるだろうか、また立ち上がれただろうか。叱咤したけれど、自分の言葉が更なる足枷になってないことを祈る他無い。
……ううん。それでも彼は、大丈夫。
『信じてるよ』
ただそう、空を見上げる。
昼間だというのに、青空に一筋の流星。錯覚だろうか?
そうだとしても、信じてる。
「彼らなら勝てるさ、きっと」
『……ええ。負けられない』
「だから時間を同じにしたんだ……走るよ、スズカ!」
「はいっ!」
《何でしょうか……スペシャルウィークが嘶いたかと思えば、セイウンスカイが途端に落ち着きましたね。ゲートにも打って変わってすんなりと》
《何か二頭にしか分からない会話が…?生沿騎手もスムーズに馬列へ戻り、これは意図的だったという事ですかね》
《……少し、失礼します》
《ちょ、芳田さん!どちらに行かれるんですか放送中ですよ!?》
《馬券を買いに。彼らに賭けたい》
《今からですか?!》
《今だからこそ、です!今のを見て、
《だからって、えっ芳田さん?芳田さーん!!》
《良いでしょう。今からのタイミングなら、ギリギリ間に合うかもですし》
《ですが……ううん》
《言い淀むあたり、貴方にも分かってるんでしょう———何か見せてくれるんじゃないかって、この抗えない絶望の中で》
《……っ、いずれにせよ我々に出来るのは見守る事だけです。人馬の躍動を、この天皇賞の行く末を……!!》
俄かに騒めき立つ東京競馬場。人々がそこに見たのは日輪の面影か、それとも。
それが齎すのか希望なのか、それとも更なる諦めを招く呼び水なのか、未だ誰にも分からない。それを決めるべく、彼らは今ゲートに揃ったのだから。
《今スターターが、旗を空に———》
1999年、10月は31日。
第120回、秋の盾を巡る天皇賞にて。
《———戦士が走り去った、あの天空に!!》
流星が輝くまで、あと3秒。
緊張はある。
不安はある。
でも、疑いは無い。
(皆のお陰でここまで来れた)
叱ってくれた先輩は勿論、一緒に命を預けてくれるイキゾイも、僕を励まし寄り添ってくれたニンゲンさん達も。誰一頭誰一人、疑う余地なんてありはしない。
それを経て、ここまで来た僕自身も……疑わない。
(クロがいなければここに立てなかったし、クロがいなくてもここに立てた)
不思議だね。どっちが正しいんだろ、どっちが先なんだろ?
きっと、どっちも。僕はもう一人で立てて、そしてそうなるまでの過程にクロがいた。その事実は揺るがないし、誰にも揺るがさせない。
それを今日ここで、証明してみせる。
「そこもきっと、俺達は同じなんすね」
イキゾイも?そろそろ気持ち悪いなぁ、おんなじ事考え過ぎてて。君ホントにニンゲン?クロのおかげで育ったんなら馬じゃないの?
「待て待て待て、ここに来て気持ち悪いは無いっすよスぺ!?あと俺の両親は紛れも無いホモ・サピエンスっす、生物学的に間違い無く!!」
あはは、冗談だってば!そんな必死にならなくても良いじゃん、僕達の仲なんだし。本気でイキゾイの事を気持ち悪いなんて言う奴がいたら、僕が蹴っ飛ばしてあげるから。
それに……僕達が本当に同じ事を考えられるのって、ここまで明瞭に通じ合えるのって、クロの事に限った話でしょ?
「……そうっすねぇ。んでもって俺達がコレから挑むのは、挑んでいくのは」
クロのいない未来。僕達だけの未来、そこへ突き進む。
そこへ臨むにあたって、イキゾイ。一つだけ聞いとくね。
「スぺ。俺について来れるっすか?」
『あーっ先に言われた―!!』
「えっ?!」
うわー此処も被ったかぁ。これは偶然?それともクロ以外でも僕達が通じ合ってきてる?
まぁ、どっちでも良いか。今大事なのはお互いの覚悟だ。
『回答だけど、舐めないでよね。僕はユタカさんを勝利に導いたダービー馬だよ、イキゾイこそついて来れる!?』
「あああ当ったり前っすよぉ!俺はかの伝説の日曜日、不動の
ワールドレコード?ってのが何なのかは分かんないけど流石クロ!———じゃない!!いけないいけない、もうすぐ始まるんだ、僕達の戦いが!
さぁ気合を入れろ、光を示せ!皆がついて来れる、皆が見逃しようのない一番星の光を!!
『いくぞ~…!』
「やるっすよぉぉぉ!」
その瞬間、ゲートが開いた。それこそがスタート、新しい始まり。
僕達は、一斉に飛び出した。