スぺ君が戻ってきたのは、スタート前から分かっていた。
前のレースの時とは全然違う覇気。嬉しかった、ちゃんと彼は自分を取り戻せたんだって。
……なぁんて、余裕をかませたのも最初だけ。
(なんて存在感!!)
僕は中団で、スぺ君は後方と離れたのに全然無視出来ない!これが、大きなレースを勝ってきた猛者の本当の威風だというの!?
何より怖いのは、これ威圧とか威嚇とかじゃない事!ただ真剣になっただけでこれって、そんなのある?!
(スぺ君だけ相手にしてられないし……!)
《セイウンスカイ前に飛び出した、続いてアンブラスモアとサクラナミキオーが追う、サイレントハンターも!開幕から逃げ4頭の競り合いです!》
『あちゃあ、やっぱり厳しいかな…なんちゃって!』
『軽口叩いてる暇があるかァ!?』
『控えようにも難しいか……!』
最初からハイペース。前に見える応酬が原因なのは明らかで、これ程のは経験した事なんて無い!自分の実践歴の浅さを恨みたくなるよ……!
(でも、泣き言は言ってられない)
不調のスぺ君にあんな啖呵切っといて、その手前でウジウジ悩んでたら世話無いよ!頑張れがんばれツルマルツヨシ、僕は強い子元気な子!!
さぁ、行———!?
『ぇ……』
「?どうした、ツヨシ」
「あ、いや、ううん」
ごめんニンゲンさん、なんでも無いよ。
何でもないんだ、け、ど……。
(気のせい、だよね?)
先頭を行く、セイウンスカイ?っていう芦毛の仔。
その彼すら突き放す影が2頭、一瞬見えたなんて。
《1000m通過、58秒……ッ!!スペシャルウィークはこの位置です!》
「速いな……」
イキゾイの感想に、内心で賛成する。一応
僕の今の位置は後方、それも最後方に程近い位置。届くだろうか。
『元気そうで何よりですよ、スぺ君』
『あっブライト先ぱ……えっ下がり過ぎでは!?』
『それはお互い様でしょうに』
『そうだった』
後ろからヌッと並んできた先輩と、息の合間に言葉を交わす。僕も彼も差し位置を選んだようだけれど、こうも縦長の展開になったらちょっと下がっただけでこの有様だ。まったく、スカイもやってくれるよ。
「……僕としては、君がスッキリした顔を出来てる事にホッとしてます。前は大変な顔をしてたので」
「それはすみません……が、ライバルに心配してる暇があるとは舐められましたね」
「君に闘志を燃やす事と、思いやる事は矛盾しませんから」
あちゃ、ここは先輩の方に理があるか。実際酷い態度で臨んだのは僕の落ち度だし、素直に反省しよう。
……でも、ならなんでこのタイミングで話しかけて……?
『君の視線が、気になったもので』
『ああ、なるほど』
確かに後ろから見てたら不自然だったかも知れない。だって僕の目は今、トップを行くスカイを見てない。
じゃあ、好位置でそれを追うキング?違う。悠々と力を隠しながら走るステイゴールド先輩?それも違う。じゃあこの前僕を負かしたツル君かと言われれば、それも違う。
皆を無視してる訳じゃない。そんな事してたらそれこそ前の二の舞だ、
その、上で。
『君は、セイウンスカイ君より
そうだよ、先輩。だって僕には、ううんイキゾイにもきっと……見えてるんだもの。
全てをちぎって走り抜ける、彼らの
《大欅は目前、第三コーナーまであと……ッッ!》
《落ち着いて!今は今、そうでしょう!!?》
実況から悲鳴じみた声が聞こえた。観客席からも、この展開に面影を重ねたであろう悲嘆が浮かび上がっているのが分かる。
俺だって……見ていた。記憶を、今の視界に投影していた。
(サイレンススズカは凄かった)
セイウンスカイと縦峰さんには悪いけど、いや謝る事でもないか。彼らの十八番は幻惑逃げ、大逃げとはそもそも種類が違うから比較はできない。
けど———それでも、あの日のサイレンススズカと勇鷹さんは、圧倒的だった。このレースと比べても尚、そうだった。
今俺の視界には、緑のメンコを被った栗毛の馬が走っている。先頭集団すら突き放して、ずば抜けて駆け出している。
そして。
(
その圧倒的な最強コンビに、唯一追い付けた存在。
過去の俺とクロも、その視野の中で走っていた。
『そうか』
ブライト先輩は、ただそう言った。納得の色がそこに浮かんでいた。
『不誠実だと、思いますか?』
『いや、“正解”じゃないでしょうか。あの日の“彼”の速さを完璧に
そう告げる先輩の横顔を垣間見れば、何かを憂うような沈鬱。彼も栗毛さんを知ってるんでしょうか、もしかするとクロも?
『ただし、マーク
しかし次の句で、僕もまた気を引き締めざるを得ない。実物を見てきた実感、それが込められた言の葉だったから。
『“彼”は速かった。まさしく最速の機能美でした、美しい程でした。分かりますかスぺ君、君はそれを超えようとしている』
『……』
『それが出来るなら、誰も苦労はしていないんです。出来なかったから、その大逃げに誰も勝てなかったんです——僕も、エアグルーヴ先輩すらも!』
粛々と伝えられる現実を、ただ受け止める。だって仕方がないもの、僕達だってその現実に根差して生きてるんだから。否定したって、意味が無い。
きっとブライト先輩も、目の当たりにした上で、彼なりに咀嚼してきたんだろう。飲み込んで、ここまで来たんだろう。
『ハッキリ言いますが、お勧めしません。“彼”の速さはいずれ彼自身にも牙を剥いた、その瞬間をこの目で見ました。それを超えたら君だってどうなるか……!』
この制止は、そんな彼なりの“善意”だと分かっていた。僕にはちゃんと伝わった、受け取ったよ先輩。ありがとうございます。
それを承知で言いますね。
『関係ありません』
『……は?』
「関係無いっす」
込めた意味は二つ。俗に言うダブルミーニング、ってのはこの使い方で合ってるっすかね?
まず一つ目の意味は、クロもサイレンススズカも今このレースにはいない事。俺達が挑んでるのは120回目の秋天であって119回目じゃない、それを絶対に忘れちゃいけない。
ライバルはセイウンスカイ・キングヘイローとツルマルツヨシら、エアジハード含む同期の強豪。メジロブライトを筆頭とする他の先輩古馬もそうだし、中には皐月やオークスを経てきた若輩まで殴り込んで来てる。勝利はコイツらを倒してこそ、それを主軸に置く!
そして二つ目の意味は……
(
どっちにしろ強大なライバルたちとの競い合い。全力を出さなきゃ勝てない、必然的にベストを尽くす事になる。今出せる全部を、曝け出して。
……それ、別にあの日のクロ達を目指そうが目指すまいが同じ事っすよね?だからこだわらない、こだわる必要自体が無い。
勝って打ち出したその結果だけが。あの日の俺達を、今日の俺達が超えられたか教えてくれるだろうから。
(ギリギリまで頑張って、踏ん張って、その果てで示す!あの日から俺達は進んでるって、その事実を!!)
その為にも、今ただは今の事を。今なすべき勝利へ突き進む、それだけ。
ありがとう先輩!その決意が、先輩を見てて一層強まったから!
『え…なんで、僕で?』
『だって
先輩が大逃げを語る時、醸し出した鬱屈。こびりついたトラウマでピンときた。
もちろん先輩だけじゃない、みーんなそう。スカイはクロに囚われてる、キングもそう、イキゾイだってそうだった。僕達を眺めてるニンゲン達すら、クロの件をずっと引き摺ってる。過去に、囚われてる。
(それを晴らす為に)
僕は。
ここにいる皆へ、僕達が!!
『“今”を生きてるって、示すんだ!!!』
僕は!!
『……そう、か。そうだった、“今”か』
一歩蹴り出した。少し遠くなった背後で、ブライト先輩が呟いた。
『最後に一つだけ。君がその道を行くなら…ステイゴールドに気を付けて』
その言葉の真意は、まだ分からない。
『きっと彼は、君の道を阻む壁になる。何故なら彼は……いや、それよりも』
けれど、最後に聞こえた一言は、確かに。
『ありがとう、スペシャルウィーク。僕も今を生きて…って、もう聞こえてませんか』
ううん。聞こえてるよ、先輩。
確かに、力になったよ。
…その力を、脚へっ!!
《……!!!スペシャルここで動いた、生沿ここで仕掛けた!!前からは6馬身差あるぞ!?》
「準備は良いっすかぁ、スペェ!」
『もう出来てるよッ!』
イキゾイこそ覚悟は出来てる?なら、良し!
勝利への執念、超越への渇望、全部を融け合い混ぜ合い…放つんだ。かつてユタカさんが乗らなかった時、代わりに跨ってくれたペルさんとそうしたように。
「『
刹那、気付いた。
「なにっ!?」
『スペ君、これは…!』
誰にも気づかれぬまま、自身の領域を発動していた縦峰とセイウンスカイも。
『えええっ、もっと来たぁ!?』
『……どれだけ切り拓けば気が済むんだ、アイツ!』
追走を試みていたツルマルツヨシも、悪戦苦闘していたキングヘイローも。
『……ちッ』
「そうか、君達は、
ステイゴールドも。
彼に追随するスティンガーへ騎乗していた、奥分幸蔵も。
誰もが知った。その覚醒を知覚した。
……スタンドすら、例外ではなかった。
「おい」
誰かが言う。新聞を落として。
「来るぞ」
誰かが呟く。馬券を握り締めて。
皆、先程まで幻を見ていた。“彼ら”の最後の思い出、逃亡者の勇姿と迫撃者の奇跡の記憶を。二度と見られない、二度と起きない過去の記憶を。
「来るぞ……!」
今、目の前で繰り広げられる光景は…その幻覚とは似ても似つかない。
サイレンススズカのような圧倒的な突き放しは無い。クロスクロウのような馬群突破も無い。差し馬では常道の、大外回り。
……そう。幻覚ではなかった。
「「来るっ!!」」
幻覚からかけ離れた、確かな現実だからこそ。
その果敢な走りが、鮮やかな王道の大外一気が。
彼自身が、“今”を踏み締めたその一歩が!
「「「スペシャルウィークが来たぞぉぉぉぉ!!!」」」
その場にいた全ての人々の視線を、過去のしがらみから引き剥がしたのだ!
《これは…これ、は、嗚呼……!》
《っ、スペシャルウィーク捲って上がってきました!最終コーナーでごぼう抜きを見せる、生沿健司ここで逆襲だ———!!!》
言葉を詰まらせてしまったアナウンサーに変わり、実況が本職ではない筈の解説者が叫ぶ。彼も、もう溢れる感情を抑えられない。
全ての人の想いを受け取り、彼らは今それを導く星となった。
それはまさしく、前へ進み連れ立つ大将の、その姿だった。
聞こえてるよね、イキゾイ。皆の声が。
僕は詳しい内容までは分からない。でもね、届いてるよ。
だって見えてるんだもの。この光が。皆の想いが光になって、周囲に立ち上るこの光景が。
(皆が、僕へ贈ってくれてる)
あらん限りの声で。喉を割くような叫びで、背を押してくれてる。それが力になって、僕の中を充実させていくのがよく分かる。
負ける気がしない。
『流石だねスぺ君!僕も負けてられn…ゲホッ、ここまでかぁ!』
『……先に行っとけよ。絶対、追い付くからな…!!』
キングとツル君を抜かす。彼らの悔しさも、脚に回る。
『ちょ…待て、ってば!!』
スカイを差す。まだ諦めない彼の執念が、僕の心を燃やす。
そして見えた。先頭の景色、その先に二頭の虚像。
見慣れた芦毛、見慣れた栗毛。でもその姿が、さっきよりも薄いのは?
『そっ…かぁ』
これは本当に、本当の意味で幻でしかないんだ。大木を過ぎるまでは確かに“過去”だった、でも僕の前を行く彼らは過去
「あれは夢だ」
イキゾイがそう、告げた。
「完走できなかった俺達の、理想。こうあるべきだった未来、叶わなかった未練の残滓」
皆が抱いた同じそれが、この幻を生んだ。重ね合った幻想が、強く浮き出て現実を犯した。
じゃあ…終わらせてあげないと。
『ここを走り続けてるクロ達を、解放しないと』
じゃないと可哀そうだよ。クロ本馬じゃなくても、栗毛さん本馬じゃなくても、皆の願いで縛られ続けるなんて。誰も幸せになれないもん。
そう思うと、イキゾイも無言で同意してくれた。手綱が振るわれ、その心が伝わったから。
加速する。呆気ないほど簡単に、彼らと並ぶ。
(———あっ)
ああ、それでも……やっぱりクロだ。僕の知るクロの記憶が写されてるんだから、当たり前なんだけどさ。
クロ本馬じゃない。でも今、僕が並んだ彼は、紛れも無く僕の知ってるクロそのものだから。だってほら、僕に対して笑いかけて。
また君と、こうして走りたかった。
「我慢しようぜ、スぺ」
イキゾイが、僕の頬に掌を添えた。そこに水が溜まった感触で気付く、また泣いてるって。
『うん。笑おう』
微笑まれたのなら、微笑み返して。
さようなら。
「『———ッ、うぉぉおおおおーーッッ!!!!』」
一気呵成、過去を振り切る。君を置いて、僕達は今を生きる。
さよなら、クロ。
《最終コーナーを回ってスペシャルウィーク先頭に立った!レコードペース、全てを置き去りに!!過去を塗り替える捲り上げ!!!》
「「「ゎぁぁあああああ———っっっ!!!!!!」」」
最終直線に入った。涙はもう出ない、最強の座に涙は要らない。今こそ、僕自身の夢への第一歩を踏み出すんだ。
……と思っていた。邪魔出来る物なんていない、させないとその時までは。
「スぺ、後ろだ!」
『イキゾイ、詰められた!』
叫んだのは同時。それはつまり、僕も彼も同じタイミングで気付いたという事で。
《いやまだだ!漆黒が迫ってきた?!》
ドッ、ドッ、ドッ!大地をねじ伏せるような足音、底冷えするような感覚。そんなに速かったんだ……!
『スペシャルッッウィイイイイクゥゥウウウウッ!!』
『ステイゴォォォルドォォォォォッ!!!』
初めて呼び捨てにした、それぐらい余裕が無い。明らかに相手の方が速いんだもん、どうやったらそんな末脚が出るのさ!?
ブライト先輩、こういう事だったの!?確かにすごい強敵だよ、彼は———
『それだけは認められッかよ!誰かの為の走りなんざ、アイツに類する走りなんざ、ハナッからお断りだボケがァァァァッッ!!!』
『———ッ!!』
そうじゃない。すぐ気付いた、そういう意味じゃない!
ブライト先輩が言ってた本当の意味は、彼が僕の強敵になる真の理由は!!
『先輩!!』
『何だァ!?』
『貴方は何の為に?!』
『自分の為以外あるかッ!!!』
やっぱり。これが彼の理由、彼の生き方。
直情的に利己的で、
だからこそ、“これ”と決めたら……本当に、驚くほど真っ直ぐに!
(瞬間瞬間を駆け抜けているんだ、彼は!!)
確かに彼は僕の天敵だよ!僕よりも“今”を生きてるから、そうでありながら相反する信条を貫いてるから!同じ土俵のままじゃ勝てない!!
(もっと、捻り出せるかな……!?)
皆が追いかける背中になるには、このままじゃ足りないのは明らかだ。先輩の信念に負けない為に、彼自身の底力に対抗する為に、僕の中の根幹を打ち出せ。
どこだ。どこだ、どこにある……!?
「スぺ、落ち着け」
『でも!!』
「大丈夫!お前はもう
えっ?
イキゾイ、どういう事?
「1回“
僕の、僕だけの色。そういえば、イキゾイの方はもう空っぽで、受け入れる準備をしていてくれて。
—————なるほど、そっか。
ありがとう、イキゾイ。
「礼は勝った後に、っす!」
『それでも、言っておきたくて!』
だってこれから、君のお陰で勝てるんだもん。ユタカさんが引き出してくれた本来の色を、君がまた導いてくれた。
あははっ———久し振りだね。
「『———ッ、貫けぇ!!』」
『くッそ……おおおおおおお!!!』
《スペシャル加速!生沿ムチを入れ、今一直線にゴールへ!》
置き去った。今度こそ、何もかも。
《夢を継ぐのは誰か、その答えがここに出た!流星が全てを連れて行く、明日へ!!》
見せつけた。今こそ、僕達が生きるこの現実に、僕という確かな夢を。
油断はしない、けれど確かな感触と共に。僕の脚は、イキゾイの手は。
ゴール板に届き、そして駆け抜けた。
《ここに魂はあると!彼が残した光は、この東京競馬場に再び灯されましたッ!!生沿健司、弔いと再出発のウイニングラン!》
全て終わった事に、僕らが終えた事を僕ら自身が知ったのは。
《これが新たな始まりだ…夢潰えても、また!幾度でも、何度でも!!》
盛大な歓声に、出迎えられてが初めて。胸の奥はバクバク、息もゼェゼェでままならない。
けど、嬉しいな。ね、そうでしょ?
「そうだな……俺達が、次の夢になる」
彼と見まわすけど、もう求めた姿はどこにも無い。振り払えたかな、皆の未練、僕自身の未練。
また会いたい気持ちを、心の奥底へ大事にしまい込んで。忘れない。でももう、必要無い。
『さ。応えてあげなよ、勝者』
「お前に言われたくねぇよ……!」
高く突き上げられた相棒の拳。沸き起こる、喜びと興奮の声、声、声。
僕も嘶いた、負けずに叫んだ。喉の底から迸らせた。
『僕は、ここにいるぞ———ッ!!!』
僕に続けと、皆に知らしめる為に。
あの空に、届くように。
| 天皇賞・秋【G1】 1999/10/31 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 着順 | 馬番 | 馬名 | タイム | 着差 |
| 1 | 9 | スペシャルウィーク | 1:57.7(R) | |
| 2 | 6 | ステイゴールド | 1.58.0 | 1.1/2 |
| 3 | 1 | エアジハード | 1:58.2 | 3/4 |
| 4 | 7 | セイウンスカイ | 1:58.2 | アタマ |
| 5 | 16 | キングヘイロー | 1:58.3 | 1/2 |
ちなみにステゴパイセン、人馬一体しないまま領域に突っ込んでます
でも彼なら大丈夫、何故ならステゴなので(マック血統の脚の脆さを埋めて尚余りある頑丈さを発揮したステマ配合を見ながら)