「今日の調教内容が決まってない!?」
イキゾイが馬房の前で目に見えて狼狽えてた。辛うじて汲み取れたのは、“僕は今日何もすることが無い”って事。
……え?本番が近付きに近付いたこのタイミングで!?
「すまない。本当にすまない。これまで臼井さんが書き溜めてた提案を漁りまくりながらやりくりしてたんだが、完全に未知の領域に突入した。もう俺の手に余る。降参」
「そんな事言われてもこっちはひたすらに困るんすけど」
「とりあえず単走コースは確保しといたから、対モンジュー想定で流して走って勝てるよう調整してくれ」
「無茶ぶりが過ぎるっすぅ!?」
『えぇ……イキゾイに全部任せは流石に不安だよぉ』
「そんな目で見るなスぺ、自分でも嫌って程分かってるんすから!!」
なんか相棒に全部放り投げられた雰囲気がしたから、流石にちょっと嫌な顔。だってイキゾイって、クロを乗りこなして僕も御した技術は信用してるし信頼してるけどさぁ……管理とかそういう方面はド下手そうだし。ニンゲンも僕達の
そんなイキゾイが、本番を控えた僕の調整って…えぇ……?
『どうかしましたか先輩?なんかニンゲンがワチャワチャしてますが』
『デジタル君、君が入るとややこしくなるから今は引っ込んでおいて。でも多分後々巻き込まれる事にはなるだろうと思うから、覚悟だけしておいて』
『何それ怖いんですけど!?』
デジタル君まで首をひょっこり出してきて、僕がそれを押し留めてる内に人間側はエスカレート。押し付けるジョシュさんと止めるイキゾイで、どんどん熱くなっちゃったみたいで……
「もっと粘って下さいっす!天下の臼井さんの一番弟子でしょ、やれますってアンタなら!!」
「やったんだよなぁ」
「えっ」
「臼井さんのストックなんか半月前に尽きて、それから昨日まで必死こいて無い頭から策を絞り出してたんだよなぁ……!!」
「それは…お疲れ様でしたっす」
「うわあああんもう無理だよぉ!これ以上の引き出し無いよぉぉぉおお!!!」
「『泣いちゃった!!』」
イキゾイと顔を見合わせてはみるものの、
そうやって足を
「大変だ!サブリーダーがとうとう厩舎で癇癪起こした!!」
「よりによってあそこで!?早く事務所に引き摺り戻せ!」
「ウッソでしょ周りの馬もドン引きしてるよ」
「わァ……ぁ…」
「小さくて可愛いものになってるぅ」
「あのー俺に出来る事は」
「「「馬に専念して下さいっっっ」」」
「ソッスヨネー」
続々集まって来てはてんやわんやする人間達に、僕は何も出来ない。さてどうした物かと、僕なりに考えを巡らしてたら。
カツンと一つ。踏み入れてくる足音を、耳が捉えた。
アカン。何もする気が起きへん。
あれから何週間経っても……ん?週どころちゃう、月か?下手すると年か?もしくは逆に数日程度か?やばいな、時間間隔も狂っとる。ずっと寝込んどったら当たり前か。
「ぐっ……」
衰え切った体力で寝返りを打てば、目に入るのはカーテンの隙間から差す陽光。布を取り払って部屋に光を取り入れる、ただそれだけの事が出来ないでおる。これじゃ介護まで一直線やな、いやもう既にか。
……あ、ぁ。
(トロフィー)
目に入ったそれが眩しい。宮崎が行方を晦まし、美鶴も受け取る前に帰国しよった結果、暫定的に俺の所へ行き着いたあの日の証。
喉から手が出るほど欲した物やった。俺だけやない、日本のホースマンは偏にこれを目指して邁進してきた。時を超え、何度でも試行錯誤し、その上で血統に意志を乗せて繋いで、でも届かなかった代物や。
それが今、俺の枕元にある。日本古代競馬の奇跡。実を結んだ栄光。掲げる礼賛は、表題はいくらでも思い浮かびよった。そうや、これは俺達が求め続けて勝ち取った物や。
刹那。
トロフィーが、真っ赤に染まった。
「ッッ…ッ!!!」
錯覚や。光の加減でそう見えた、それだけの事。物理的には、まさしくそれだけ。
でもこの栄光が
「くそ、がァ……!!」
何が日本競馬や。何が結実や。凱旋門賞を獲ったのは俺達の努力でも歴史の積み重ねでも無いわ!
もしそれで獲れとったんなら……クロスが
(このトロフィーは、俺のモンやない!)
着差が示しとった。2着馬モンジューの上がりタイム、見返して愕然としたわ。あの重馬場でこの速さ、ジャパンカップの時の調子のクロスでも覆せるかどうかやぞ!?
それを埋める為に、俺達の努力では届かなかった分を埋める為に、クロスは懸けたんや!生命を!!
(
何を誇れる?何を掲げられる?
勝ったのはクロスの覚悟だけや。俺達なんかそれの付属品に過ぎひん、それでこんなトロフィー持ってられるか。栄光どころか、とんだ恥晒しやろうがッ!!!
嗚呼情けない、惨めったらしくてしゃーないわ。最強なんて、二度と名乗られへん。
(どうするべきやった?)
クロスの調子を見抜いて回避すべきやった?
生沿を意地でも乗らせたままでおくべきやった?
再遠征を固辞すべきやった?
渡仏自体考えずに国内専念?
去年のジャパンカップで有終の美?
奥分からもっと先行策を教えさせる?
そもそも、俺の厩舎に引き取らない?
———分岐点は幾らでもあったのに。全部外して、この有様かい。
「あぁ———」
立てない。トロフィーから視線を外せない。日は昇って窓から差さなくなり、薄暗い部屋に記憶の中の赤い血が重なる。トロフィーがまた血塗れになる。
紅蓮の栄光、生贄の勝利。これが結末か、これが日本競馬の答えか……?
「入るぞ」
鍵が掛けられていた筈のドアが、勢いよく開けられたのはその時やった。
「…お前、なんでここにおるんや。ノーザンファームでの仕事はどないした?」
「ごく普通に休暇取ったに決まってんだろ」
秀雄。緒方の所へ弟子に出しとったバカ息子。何やお前、修行放り出してフランス旅行か?ええ身分やの。
「んな事言ったら仕事放棄して寝込んだままの親父はどうなんだよ。豚か?」
「メチャクチャ言うなお前」
「言うだろそりゃ。こんな情けない種から生まれてきた覚えなんか無いし」
遠慮のない物言いと共に、容赦なく開け放たれるカーテンと窓。吹き込んだ寒風がベッドの中にまで入り込み、養豚の肌を刺す。強制的な覚醒で神経がピリピリと疼きよる。
「何しよんねん!」
「こっちのセリフだバカ親父!どんだけの人がアンタを慕って、そしてアンタの所為で迷ったままだと思ってんだ!?」
「!!」
指差されたドア。そこから顔を覗かせる複数人の影に、思わず息を吞んでしもた。俺がフランスに連れてきたチーム、仲間達やったから。
俺がここに留まっとる所為で、コイツらも……?
「この人達だけじゃない。日本の厩舎でも大惨事だ、ギリギリだ。置いて来た人たちの事を考えた事あんのかよ」
「俺、は……」
「ある訳無いよな。あったら無責任に寝込んだままでいられる人か、アンタは!」
いい加減にしろよ!という怒声。んなワケあるか!と奮起したい気持ちが沸き上がる——
——のに、心が燃えへん。
「無理や」
「は?」
「向ける顔が、無い」
喪った物が大き過ぎる。クロスクロウは、大き過ぎる。
単純に思い入れがあった、でもそれだけやない。スピードシンボリから連なる日本競馬黎明期の血統、その未来、奴自身に寄せられていた人気と経済効果。多くの人から託されていた期待を、水泡に帰してしもたんやぞ。
「怖いんや」
帰って向けられる視線が、恐ろしいんや。
そして何よりも。
「愛馬に命懸けさせるような
日本に残してきた他の担当馬を、もう二度と導ける気がせぇへんねん。スペシャルウィークも、アグネスデジタルも、他の奴らも。俺が育てたら、アイツらにも命を捨てさせてしまうんやないかって。
もう元の俺には戻られへん。尋常な方法で勝たせられなかった調教師、その烙印をあの日に焼き付けられてしもたから。自信なんて、もう持たれへんから。
ため息が聞こえる。とうとう我が子にも愛想尽かされたか、と俯いたままでいた。
目に星が飛んだ。
「痛ッッッッッッッた!?」
重い何かで殴られた感触。脳が凹んだかと思ったぐらいやった、っていくら何でも殺す気か秀雄!?俺が親な事がそんなレベルで恥かお前?!!?
「しゃらくせぇわ老害!!」
「何をッ!?」
「これを見ろッ!!!」
同時に、目の前に突き付けられたその物体に、俺はまたしても声を喪った。
トロフィーやった。さんざん幻を重ねた、でも赤さなど微塵も無い、銀の輝きを放つトロフィー。
それが今、秀雄に右手にあって。俺の眼を焼いとった。
「このトロフィーは、ここにあるだろ!」
ああ、そうや。
「クロスは…日本馬は、
そうや。その通りなんや……!
「だったらするしか無いだろ、勝者の立ち振る舞いってヤツを!たとえ真実がどうだろうと、勝利の証は今親父の下にあるんだから!!」
その言葉と共に、胸元に押し付けられた証。抱えると重い、重すぎる。日本のホースマンが求めただけの、それ以上の重みがここにある。
逃げられ、ない……!
「後悔してるんだろ?俺だってそうだよ。俺が親父に押し付けたのが発端だからな、俺もアイツを殺したその一人だ。親父に殺させたんだ」
「秀雄っ、」
「でも———ホースマンってのは、どう足掻いても
……その通りや。最初から業にまみれた、そういう世界だから。
いつだって俺達はそうしてきた。馬を鍛え、苛め抜き、送り出してきたんや。レースという死地へと、時にはもっと凄惨な場所へと。
ウマを愛してると騙りながら、それを何十年も重ねて。その積み重ねの上に、さらに重ねていく。終わりなどありはせん、ずっと。
……だから、こそ。
(捨てちゃアカン“矜持”が、あったな)
思い出した。思い出せた、待ってくれた部下達のお陰で。駆けつけてくれた
そうやぞ臼井。例え偽りでも、虚勢でも、それを明かしたところでトロフィーは還ってくれへん。勝利の記録は歴史に爪痕として刻まれ、永久に消えてくれへん。だからせめて、それ相応に。
(なぁ、クロス……!)
お前が遺してくれた栄光に、報いれるように。
「何やこの騒ぎは」
「———えっ!?」
『あーっ!』
久し振りに見れた顔だった。
ずっとアンタが、ここに帰ってくるのを待ってた!
『「「「
「おうおうやかましい、正面から返ってきただけでそんな驚くかいな。俺が俺の城に入るのに、裏口から入らなアカン理由でもあるんか?」
「だって……だってぇ!!」
「…あー、流石に悪かった」
助手さんが這うようにしてその足に縋り付く。いつもなら拳骨の一つでも飛びそうな場面っすけど、どういう心境なのか臼井さんは仕方無さげに苦笑するのみで。
でも帰ってきた。やっと、最強の臼井さんが帰って来てくれた!!
「ほれ、全員動け!もう調教始まるやろ、のんびりしとる場合か!帰国組も
「だって国内待機組にテキの姿をちゃんと見せてあげたかったですし」
「そもそもつい昨日まで参りまくってたクセに無理しちゃってさぁ」
「俺だって正直立ち直り切れてないけど臼井さんが立てたから立ててるだけだし……」
「いてこまされたいんか?」
「「「イエッサー!!」」」
「あれっこの返答だとむしろ“いてこまして欲しい”って意味になっちゃわないか?」
「こまけぇこたぁ良いんだよ」
やっぱりあの人がいると違う。動き始める人員、活気を取り戻していく厩舎。遠征前程とはいかないけれど、それでも。
「生沿ィ!!」
「あっハイ!」
すると呼びかけられた、背筋が伸びた。この緊張感、好きじゃないけど嫌いじゃない。これでこその臼井厩舎だから!
「まず秋天、お見事やった。けど次が正念場や。
「当たり前ですよ」
そう、元よりそのつもりだ。隣のスぺの顔を抱き寄せ、告げる。
未だ圧し掛かる数多の迷いを振り払う為に、色んな物を超えていく為に。
「コイツと、勝ちたいんで」
『……えへへ』
スぺとこそ、世界に勝利を。あの日クロと掴んだ物を、だからこそ今度はコイツと一緒に。
そんな思いが伝わったのか、スぺは嬉しそうに鼻を擦り付けてくれた。臼井さんもまた、満足げに頷いて。
「…せやな。勝つ為に、勝たせる為にここにおるからな。俺もお前らも」
「?何を当たり前な」
「そうや、当たり前や。それを自分に言い聞かせた」
やから、と言って。彼はギラついた笑みを俺達に向ける。俺も精一杯の好戦的な目で応じた、望むところだと。
「ついて来いや生沿、スぺェ。日本競馬の答えはこれやと、見せつけたるで!!」
「はいっ!!」
『え、何!何言ったの!?とりあえずはいっ!』
「ところでやけど秀雄、ちょっと顔出せ」
「なになに親父、褒美でもくれんの?」
『あっ、昔クロと僕を世話してたニンゲンさん』
「秀雄さんこんにちは。貴方が臼井さんを連れ帰ってくれたんですね」
「そうです助手さん俺ですエッヘン。で、何?」
「ふと思ったんやけど、フランスで俺を殴ったやんお前。殴った事自体はええし感謝もしとるんやが、よう考えたら
「…」
「……」
「「『………』」」*2
「……が…凱旋門賞トロフィー……」
「——うん。頭出せぇ」
「いや今思えば確かに全方位に不味かったなとは思うけど父さんへの荒療治には“コレで殴られた、コレは確かにここにある”って質量でちゃんと伝わった方が良いかなってミギャー!!」
「「『怖ぁ……』」」
なんか散々に書きましたが、競馬関係者の方々は間違い無く馬を愛してると思います
だってそうじゃないと無理ですよあんなに馬に尽くす仕事