リア中の方、お幸せに
エルコンドルパサーに付き纏っていた鳥がこちらを見ているのに気付いた時、チャンスだと思った。
捕まえた鳥の口から“スぺ”の名が出てきた時、“当たり”だと感じた。やはりあの鳥は、その名の正体を知っていた。
神の如きあの戦士が今際に呼んだ名。相見える千載一隅の好機だと。
そして思惑通りに上手く行き過ぎたぐらいに、そいつは来る。調子を取り戻す為に訪れた練習場所、そこに突如として。
『なんっ…だ……!?』
唐突に現れた存在感に気付いたのは一瞬の事だった。元から僕を避けていた他の馬達に至っては、一層臆して距離を取るほどに。
そこに佇んでいた鹿毛。エルコンドルパサーと同じ年頃、同規模の威圧。でも種類は、なるほど。
(白銀の刃)
あの日に僕を裂いた奇跡。同じ煌めき。毛色こそ違えど同じそれを秘めた、間違いない、彼こそが“スぺ”…!
『……ッ』
『………』
挨拶でお互いの言葉が通じない事は分かった。結果、始まったのは沈黙しての睨み合い。決して剣呑な空気ではない、けれど一度気を抜けば呑まれる、そんな重圧があった。
その中で、一つ気付いた事。
(
当たり前の話だけれど、それでも。彼の存在はこの地に深く馴染んでいる。僕が故郷でそうだったように、此処こそが相手の
そこで我が物顔で、それが当然であるように佇み、君臨する。そんな彼は——さしずめ、“総大将”か。
(臆すな、モンジュー……!)
心で負けるな。立ち振る舞いから劣るな。最初から挑戦者のつもりで来たんだ、それを貫け!
お前があの戦士と同じ力を持ってると、そう期待してここに来たんだ!それを超える為に来たんだ、だからこれは僥倖なんだ…!!
(彼をもっと知る為に、お前を探して……!)
何か言わないと。啖呵を切れ、宣戦布告だ。これ程の馬だ、きっと僕の出るレースにもいる。そこで総てを曝け出させるためにも、コイツの中にある“銀色”を引き出す為にも、何か布石を打たなきゃ。ああ、心が焦れる、急く、捻じれるように———!
『良いレースにしよう』
『!』
やっと捻り出せたのは、そんなありきたりな言葉だけだった。なんだ、このザマは。もっとこう、あるだろ…!
しかもよりによって、この言葉だけはニュアンスで意味が伝わった気配で。よりによってこれか!?
(……糞ッ!!)
なんだか心底いたたまれなくなって、思わず踵を返した。相手も困惑したんだろう、返答される気配はない。
もういい、もう仕方がない。今日はここまで、今回はここまでだ。
だがこれはほんの始まりに過ぎない。
(見せてやる)
本番で。
言葉で思うように伝わらないなら、この脚で!
(待っていろ、スぺとやら……!)
かくして日は経ち。
その時は、来た。
『あれ、エルじゃん。それにマンボも』
『…スぺ-サン?』
連れてこられたレース場で、予想しなかった友達と会った。こうして顔を合わせるのは、それこそ1年ぶりかな。
……瘦せたね。エル。
『デ…デショー?いつでも走れるように絞ったんデェス、今でもスぺ-サンには負けまs『アーッ、エル、アンマリ、
『……マンボは、無理して欲しくないんだよ』
だって、マンボって確か凍えてた時にエルに温めてもらって、それ以来の仲なんでしょ?つまり彼からすればエルは恩馬、僕にとってのクロと同じ。大事に決まってるじゃん、そんなの。
『ご飯はちゃんと食べて。君自身の為にも、君を想う誰かの為にも。それはマンボだけじゃない、僕だってそうなんだから』
『タハハ……それが出来れば、苦労は無いんデスけど、ね……』
『エル…』
だんだんと下向いていく語調は、軽々しく鼓舞できる物じゃない。僕も引き摺り込まれそうになって、でもそうじゃないだろと自分を奮わせた。
エルは生きると決めてくれたんだ。後ろ向きなりに、後ろにある物を大事にする為に。
『心配は要らないデスよ』
彼は言うぎこちない笑みでそれでも、
『エルには義務がありマス。クロの最強の勇姿を、偉業を、語り継ぐ……ずっと』
『……誰も、強制なんかしないよ』
『いいえ、エルがエルに命じマシタ。ありがとうございマス、スぺ-サン。アナタがいなきゃエル、この答えまで辿り着けませんデシタ』
(ぅっ……)
違う。重荷を背負って欲しかった訳じゃない、そんなつもりでクロの事を語って欲しかった訳じゃない。もっと軽く、飛ぶように跳べるエルコンドルパサーに戻って欲しかっただけなんだ。
……と、否定するのは簡単で。
『それは…良かった』
僕はその道を選ばなかった。エルのやり方だって間違いじゃないから。
自分にとって大切な
それに——
『ここに来てるって事は、もしかしてレースに出るの?もしくは、出たの?』
『……ううん。
『それって…』
『エルはきっと、もう、走りマセン』
——時折クロが言ってた、“引退”。無事にそこまで行きたいって、でもクロは行けなくて。
でもエルは、それを迎えられたんだ。
『お疲れさま……って言えば良いのかな?』
『まだ走りたかったデスよー!……でも、ウン。最強を目指したエルの伝説は、ここで終わりみたいデス』
『アーッ!ニンゲンタチ、サビシソーダッタ!!』
『そりゃそうだよ』
エルの存在の大きさは知ってる、強さは身を以て知ってる。それが去るというのなら惜しまれて当然だ、そこに馬もニンゲンも無い…たぶん。でもそんな僕達の思惑なんか気にしないまま、時は残酷に進んでいく。
世界最強を目指したエルコンドルパサーの物語はおしまいで、次のステップへ進んでしまうんだ。
だから、こそ。
『お互い、頑張っていかなきゃね』
エルはここで走りを終えるからこそ、過去の記憶を大事に抱えて生きていく。僕はここからまだ走るからこそ、未来を見据えて生きていく。そこに大きな違いなんて、あるもんか。
『——ウン。頑張ってくだサイ、スぺ-サン。エルが勝てなかった分マデ、どうか』
『嫌だね、僕の勝利は僕だけの物だもん』
『ッ……』
『イイダローソレグライ!!』
いーや聞かないね。例えエルの頼みでも、マンボの頼みでも。悔しかったら、そうだ、うん。
『見ていきなよ、僕の勝利を』
『『!!』』
共有しよう。僕は当事者として、君たちは観戦者として。そうすれば、立場こそ違えど、見た景色は同じになるから。
これから描く僕の勝利を、その網膜に焼き付けて。それが僕にできる唯一の餞別、手向けの花。
『……アハ、アハハハハ!随分とゴーマンな事言ってくれるじゃないデスか!』
『嫌だった?』
『ぜんっぜん!いえ、許されるならこの脚で打ち砕いてやりたい生意気さデスが……引退していく身として、
『アーッ、セイゼイガンバレ!スペー!!』
『もちろん!!』
芝を去る怪鳥、その花道を飾れるなら。日本一の馬の面目躍如、ってね。
『…スぺ-サン。一つだけ、良いデスか』
いいよ。なんでも。
『ありがとうデス———さっき、モンジューと、すれ違いマシタ』
『……うん。
彼は来てた。この場所に、僕と競う為に。
エルを下し、クロと競った彼が。
つい先日、僕に強い瞳を向けてきた、あのモンジュー君が!
『スぺーサンは嫌がるかもしれませんけど……エルは勝手に、願っておきマス』
『マンボモ、ネガットク。
『うん、お好きに』
大丈夫。さっきはああ言ったけど、この状況は嫌いじゃない。君の分まで勝つのも、嫌いじゃない。
君を負かした
『“カタキ討ち”、頼みマァスッ!!』
『頼まれたッッ!!!』
「エルコンドルパサーの引退式を終えてきたよ」
控え室から出ようとした時、そんな声が聞こえた。宛先は間違いなく俺、だって俺と彼しか今この部屋にいないから。
「……海老奈さん、それが何か」
「寂しい事言ってくれるなよ、去年ワールドレコードを競った仲じゃないか」
「ああすみません。俺も名残惜しいっすよ」
何なら引退式を観客席から見てた。第4コーナーを駆け抜けていくその姿は今からジャパンカップに出走されても存分に脅威になるレベルで、ひよっこ騎手としても惜しいと———乗ってみたいと思わせられるレベルで。
「俺は勝たせられなかった」
そんな怪鳥を乗りこなした彼の独白に、耳を傾けざるを得なくて。
「あともう少し、もう少し仕掛けを我慢してれば……トロフィーを貰う馬は、違っていた筈だ」
「海老奈さん」
「分かっている。競馬にIFは無い、それを負けた騎手が語る事の惨めさったらありゃしない……でも俺が我慢してれば、
……海老奈、さん。
「俺に怒って欲しいんすか」
クロが凱旋門賞で懸命に走り抜いたのは、エルコンの
……海老奈さんは項垂れたまま首を振る。横に。
「分からない。分からないんだ。その答えに靄が掛かったまま、俺はそれを振り払えなかった」
顔が上げられる。浮かぶ表情は、諦念と祈願。
「エルに覆いかぶさった影も、祓ってやれなかった。アイツはずっと苦しんで、俺はそれに寄り添うだけで何も出来ず。そもそも寄り添えたのだって、エルが国内に帰って来てからで、その時には手遅れ……そのまんま、終わったよ」
「だから…だから、何だってんすか!」
意図が読めない。何が言いたい?あんた、俺に何を求めてんすか!ハッキリ言ってくださいよ!!
そう内心の苛立ちを乗せて、思わず吠えた。真正面から受けた彼は、力無げに笑って言った。
「証明してくれないか。
「…」
「あの日みたいに、鮮烈に見せて……打ち払ってくれないか」
……ああ、クソ。ふざけんな。
ふ ざ け ん な … っ 。
(アンタともあろう人が)
頭が冷える。沸騰しそうな怒りなのに、思考は冷静極まって……いや、違う。冷静じゃないぞコレは。
“冷徹”だ。
「勝ちに来い」
「……え」
敬語は吹っ飛んだ。今のアンタにそれを使うのは勿体無い。
いいさ、焼いてやる。焼かれて、痛いって泣き叫べ。
それで本当のアンタが——勇鷹さんと張り合い続けたアンタが戻ってくるなら、望むところだ。
「ウメノファイバーなんて良い馬、無駄に終わらせるな。彼女で勝ちに来い。じゃなきゃ、
「ッ!!!」
届け。届かないならここまでだ、でも俺の知ってるアンタなら届いてる筈だ。勝手に信じて、期待する。
だから、どうか、そんなザマ晒すな。
「スぺを見ないままクロに縋ろうなんて、甘いっすよ」
それだけ告げて、部屋を出た。勢いよく閉めてしまったドア、音を立ててしまって各方面に申し訳なかった。普通に後悔して、というか先輩にデカい口叩いた自分が普通に恥ずかしくなって、猛烈に謝りたくなって、その場で悶えた。通り掛かった臼井さんに蹴り飛ばされた、痛った!?
「いや成人男性が公の場でゲッダン*1しとったらキレられて当然やろ。反省せぇ」
「ごめんなさいいいいい」
「美鶴にも見られたしな」
「……どうも。可愛かったです」
「ぇ」
は、ぇ?仁王立ちしてる臼井さんの背後から顔を出したの、美鶴ちゃん?
今の俺の醜態、見られた?
「おああああああああっ!!!」
「ああっ、乱心しちゃった!そんな生沿さんも可愛い!!」
「いい加減にせぇへんか?」
「「はい」」
俺には拳骨が飛び、美鶴ちゃんにはハリセン。二人そろって正座して、その目には星が回る始末。
あー、ところで美鶴ちゃん。最近見なかったっすけど、元気だったっすか?
「うぇ~…あっはい、もう一回フランスに行って、お母さんと一緒にお父さんを探してました。でも学校の授業もありますし、何より思い出のジャパンカップなので……戻ってきたんです、応援しに」
ぅゎ相変わらず良い子。そしてそれ以上に行動力の化身、やっぱり親子っすわ。でも良かったんすか、雄馬さんを置いといて?
「良いんです。実は、お母さんに帰されたっていうのもあって……二人で話し合いたいって言われて。今のお母さんは冷静だし、あの人に任せました」
そういう彼女の目には、ちゃんと光が灯っている。うん、投げやりでも思考停止でもない、ちゃんと自分で考えて行動した証だ。
偉いぞという念を込めて頭を撫でたら、嬉しそうに目を細めた。可愛い。愛玩動物的な意味で。
「もしもし警察か?」
「ごめんなさい許してくださいそもそも事案じゃないっす」
「そうです!私と生沿さんは純愛です!!」
「美鶴ちゃんちょっと黙ってて」
「もっかい拳骨されたいんか?……まぁええわ、生沿。今回のレースの件やけど」
そこまで行ってから、臼井さんは言いあぐねるように口を閉ざした。大丈夫っすよ、ちゃんと分かってるっすから。
「作戦は無し、っすよね?」
「……ああ。スマンな、碌に考えつかんかった。ブランクが長すぎて頭錆び付いてしもたらしい」
「そんな事無いっすよ」
弱音に対して即答する。だって、そんな物
「臼井さんの、臼井厩舎の育てたスぺが。負ける訳が無い」
「いや、お前が見てきたように俺はかなりの期間を助手に任せっきりにして、」
「いーや、臼井さんのお手馬っすよ。助手さんも臼井さんが育てたんすから、ねぇ?」
「はい!臼井さんがいたからこそ、ですよ!!」
「…この青二才共め」
パシパシ、とまたハリセンで叩かれた。でもさっきまでと違い撫でるようなそれは、照れ隠しである事が如実に表れてて。
思わず、笑った。美鶴ちゃんも、臼井さん本人も、堪え切れずに噴き出した。
なお直後、「やっぱお前に嗤われるんは普通に腹立つわ」と俺にだけ勢いよくハリセンを振るわれた模様。最早裏切り。
その後、スぺに乗って。パドックに向かう途中、引退式の後の諸々を済ませたのだろうエルコンとすれ違った。クロと散々付き合ってきた経験の賜物だろうか、聞いた通り、陰鬱とした雰囲気を隠せずにいるのが分かった。。
スぺが興味を示したので———もっと言えば、海老奈さんから話を聞いてた俺自身が心配になっちゃってたので、馬を寄せて好きにさせる。触れ合う二頭を鞍上から眺めていると、エルコンが嘶いた。どうやら元気を、幾らか取り戻したようで。
「お前、クロに似てきたなぁ」
『あはっ、そうかな』
「そうそう」
触れ合った奴をたちまち照らしてしまう。お前とアイツの共通点はそれ、暗がりにいる誰かを照らす光なんだ。
そしてお前のその光は今、絶頂に達しつつある。乗ってて分かるんだよ。
『——僕は、
「俺もだ」
似てるって事は、まだ追いつけてない証だ。その逆、“クロがスぺに似てる”と言わしめるようにしないと。
その道は険しい、なんたって今回の相手は世界。それを越えないと、世界を制したクロにはとても敵わない。
けど、似てるお前なら———クロの強さをその心に宿してる、お前なら。
「きっとやれるさ」
『きっと出来るよ』
通じ合う心、意気、勇気。それらを胸に踏み出したターフ。
絶叫のような歓声が俺達を出迎え、そして大地を揺らしたのだった。
海老奈さんはね、引退式で切れちゃっただけなんです
糸が