そしてウイニングチケット、ありがとう。そしておやすみなさい。
……勝った。
ちゃんと分かる。僕は確かに、勝った。
クロの勝ったレースを、僕も。
『──超えられなかったかぁ』
クロの
あの時のクロを超えられなかった。記憶と実感がそれを告げていた。
僕はまだまだなんだ、って。
『まだだ、まだ』
そう。
まだ僕は強くなれる。それが分かった、そう思う事にする。その方が、楽しい。
楽しく生きなきゃ損だもん。楽しく走らなきゃ。
君はどう思う?
『……随分と、楽しそうにしてたな』
『あー、ごめん。話通じないの忘れてた』
『僕も楽しかったよ。この言葉が伝わらないのが残念だ、負けたのも』
モンジュー君に問い掛けたけど、返ってくるのは知らない言葉だけ。クロやエルから教わっとけば良かったかなぁ。
『ねぇモンジュー君。君から見た僕は“似てた”?それとも“違ってた”?』
それでも聞きたかった。彼の最期を見た君の時点でどうだったか。似てたなら僕はクロの走りを継げたって事で、そしてクロから脱却し切れてないって事。似てないなら継げてないって事で、かつ自立出来てるって事。どっちにしろ良い面と悪い面がある、さてどっち?今の僕は、どっち?
『何を聞いてるのかは知らないけど……敗者に答えを求めてどうするのさ』
『呆れさせちゃったかぁ……ごめんね』
『頭を下げないでよそれに、答えはここにあるでしょう』
『んぇ?』
咎めるような視線があらぬ方向へ向く。釣られて僕も、それを追えば。
「「「オオオオオォォォォオオオッッッッ!!!」」」
「「「スペシャルゥゥゥ!!」」」
「「「生・沿!生・沿!生・沿!」」」
大、歓、声。
僕の名を呼ぶ人、イキゾイの名を何度でも叫ぶ人。皆、喜んでた。全身でそれを表現してた。
これは……そうか、そっかぁ。
『こんなに喜ばれてるんだ。まずはそれで、良いでしょ』
うん。うん、その通りだ。答えは聞くまでもなくここにあった。
清々しく吹き渡る達成感、粘ついて震える優越感。これを抱いて、これからも走り続けるんだ。
……その上でごめん、また聞くよ。
『君の答えは、どう?』
『僕は…うん、これがあった』
何か言ったかと思えばじっと見つめてくるモンジュー君。その様子にちょっと気圧されてたら、ひとつ、ふたつと深呼吸して。
意を決したように。
『貴方の名は、何だ?』
『スペシャルウィーク』
聞かれた。
だから答えた。
『……そう、か。スペシャルウィーク、か』
言葉はなおも分からないけど、察しはつくようになりつつあった。何を求めてるか、何を欲してるのか。
だから今、彼は、僕という“情報”を。その名を、知りたかったんだって。
『今度は、聞けた……!』
悔いのある声音だった。後悔の色で、どうしようも無く取り返しのつかない過去で。
きっとそれは、クロの事だったんだろう。
『………』
僕は何も言わなかった。言えなかったんじゃなくて、
別に、教える事だって出来たんだ。クロスクロウ、と。それだけ言えばモンジュー君は悟ってくれただろう。それが自身を打ち破った馬の名だと、聞きそびれたまま消えていった戦士の名だと。
……でも、きっと。それは
『本馬から聞き出してこそ、だったんだよね』
『彼の口から、聞いておきたかったなぁ……!』
その機会は2度とこない。悔やむ彼に、2度とチャンスは還ってこない。
なのに僕が、クロの名を教えちゃったら……可哀想じゃないか。
『どう頑張っても、取り返しのつかない事がある』
『!』
伝わりはしない。だからこれは、僕の自己満足に過ぎない。それでもこれだけは。
少し前の僕みたいに、君が止まってしまわないよう。ちょっとしたお節介ってヤツを。
『でも俯いたら、今やるべき事も分からなくなってしまう』
僕はそうだった。走る事も、生きる事すら、億劫になってた。
迷う事に怯えて。停滞したまま腐りゆく肉塊。そうなっちゃいけないから。
僕よりも若い君には、もっと輝く未来が待ってる筈だから。
『顔を上げるんだ。無理でも、無理にでも、どれほど取り溢した“脚元”に気を取られても。視点を変えれば世界は変わる』
『……』
『世界が変われば、進む道だって……見えるから、さ』
いっぱい迷った。
皆に教えてもらった。
その上で、自分で選んできた。
その為に視界を開かせて。見据える瞳を忘れないで。
『……ハッ』
すっくと立ち上がるモンジュー君。伝わったかな?そう信じたい。なんなら賛同してくれなくても良いから、伝わってる事だけは祈りたい。望み薄だけどさ。
そんな彼は、吐き捨てるように──けれど否定的な雰囲気は何も漂わせず、恐らくは自分を鼓舞する為にそんな息遣いをしたんだろう──溜息をつくと。僕をじっと、真正面から見つめて。
『いつかまた貴方と競いたい。まだ考えは纏まらないけれど……その時に答えを、見せるよ』
強い決意と共に、そう言い放った。僕が把握出来たのは『宣戦布告かな』という推測だけ、でもそれで充分だ。
次の戦いを望むのは、下を向いたままじゃ出来ない事だから。
『うん。またいつか』
再戦の機会があるとは限らない、それは彼自身きっと分かってるだろう。それでも望まずにはいられないし、それは間違いじゃないから。
悔いを残したからじゃなく、新しい物を望み合う為に。僕と彼の視線は交わり、そして離れたのだった。
(勝てなかったなぁ)
笑いが出るくらいの敗北だったなと、ひとりごちる。スペシャルウィークとウメノファイバーのタイム差、なんと約5秒。馬身換算でそれは10にもなる。
思えば去年もこうだった。彼は、彼らは。
(でもその時の俺は、まだ詰めれてたよなぁ)
突き放されたのは俺とエルの下からで。俺たちはまだ追随出来てた、最後の競り合いに敗れるまでは勝利の可能性だってあった。
ウメノファイバーだって……オークス馬だぞ。もっと良い成績を残せた筈なんだ。
(───悔しいな)
そうだよ。悔しいんだよ。あんまりにも綺麗に差されて、騎手として恨めしい程なんだ。
勝てる馬だった。勝たせてあげられなかった。
ウメノファイバーも、去年のエルも。
いや違う。エルは去年だけじゃない。
凱旋門を、勝てる馬だったのに……!
「嗚呼──ありがとう生沿君、ありがとうスペシャルウィーク───!」
勝たせたかったんだ。それは誰の為でもない、彼・彼女の為に。それに乗ってる俺自身の為に。
クロスクロウの代わりに?そうじゃない、エルにこそあのトロフィーをあげたかったんだ!日本なんて大きな物の為じゃない、クロスの為じゃない!
「ありがとう、ありがとう……!!」
だから、クロスも俺たちの代わりに勝った訳じゃない。
あの敗北は、純粋な勝負の結果なのだと……やっと、飲み込めた。生沿君とスペシャルがそう教えてくれて、感謝と悔恨が止まらなかった。ようやく雑念無く悔しがれた。
『エビナさん、どうしたの?何か辛いの?』
『次は勝とうなぁ』
『???』
黒星を付けてしまった愛馬を撫でながら、次は馬道を見やる。さっきまでそこで、エルが見てたのは勘付いてる。
また負けちまったよ、ごめんな。結局クロスに負け越させてしまって、ごめんな。
(次は、お前の仔に乗りたいな)
お前はもう走れなくとも、お前の血は走り続ける。
いつか、その仔供と一緒にリベンジを。ここにそう、誓わせてくれ。
劇的だった。私も臼井さんも、思わず拳を掲げる大勝利だった。
タイムはレコードにこそ届かない、去年繰り広げられた“伝説の日曜日”には及ばない……けれど、あの日の生沿さんとクロスに、今日の生沿さんとスペちゃんが敵わないなんて、そんな事は微塵も思わなかった。
私だって、勉強して始めてかれこれ1年強になるもの。レコード=最強、とは実は直結しないなんて、もう知ってるから。レコードというのは馬場・レース中のペース運び・馬群の状況とかの、様々な運によって左右されるから、実はそこまで厳密な参考にならないって。
《史上初、2年目騎手による同一GⅠ二連覇!戦士と始めた伝説は終わらせない、クロスクロウという名の時代へ、生沿健司渾身のガッツポォーズ!!》
だから、今日の生沿さん達は去年の彼等に匹敵する。若しくは超えている。あの上がり3ハロンを見て、彼が突き上げた拳を見て、私はそう思う事にしたの。
「静かやな。お前はもっとはしゃぐと思うとった」
「それを言うなら臼井さんだって。父から聞きましたよ。ダービーの時は“っしゃオルァ!”とかいって喜んでたらしいのに」
「オイ待てぇお前当時おらんかったやろ何処で聞いたソレ」
「お父さんから」
「宮崎雄馬ァ…!」
プルプルしだすスライム臼井さん、やっぱり打てば響く面白い人。スライムだけに。
でも分かってますよ、貴方が何故そんなに喜びを露わにしないか。
「
「……分かっとるのに意地が悪いな」
「てへっ」
ぽん、とハリセンで頭を軽く叩かれる。ちょっと反省。
「ああそうや。秋天を勝ち、ジャパンCを今こうして獲り、史上初の
「有馬記念………!」
一年の総決算。中山、芝2500m。名馬の多くが、そこを競争生活の終にしてきたという。
クロもそうだった。その筈だった。
彼の栄光が始まった中山競馬場、そこで終わりにする筈だった。
そんな場所で、スペちゃんも。
「そこで有終の美を飾るに当たって、最大の難敵が控えとる。分かるな美鶴?」
「はい」
スペちゃんの海外遠征が頓挫するきっかけになった、“傷”。戦績に刻まれた3馬身差の烙印。クロにだってそう、彼も傷を付けられた。
あの綺麗な栗毛に、してやられた痛い痛い記憶……!
「グラスワンダーが、来る」
最強のライバル。ファン投票の結果にもよるけど、それを踏まえても確実に出走してくるであろう前年度覇者は、やはり今回もまたスペちゃんの壁になるんだ。
『スペは勝った、あのモンジューに勝ってくれた。それも果てしなく嬉しいけど……やっぱり、アイツに勝たんとな』
『勝てるんですか?』
『勝ちに行くんや。可能不可能の問題やない』
『……ですよ、ね……!』
悔しいけど当事者にはなれない私、それでも闘志を燃やした。今度は勝てると信じて。
生沿さんとスペちゃんなら………きっと!
『
「タブン、ナ」
スペ-サンの走り。モンジューの走り。エルとマンボはそれを見届け──こう言うと
あの日エルが打ち破れなかった軌跡。
それを超えて行った流星。
嬉しくて、悔しくて、見惚れて……!
『ナイテルノカ』
『泣きマセンよ』
これでおしまいなんだと思うと、どうしようも無く切ないけれど。最後の未練がなくなったから。
後はスペ-サンが全て、エルの念も背負って連れて行ってくれると。そう確信できたんデスから!
何度も言いマス、感動しマシタ!見れて、良かった……!!
『アーッ…マンボモ、キブン、ハレタ』
『さっき皆ともお別れしましたし、いよいよもって終わりデスしねぇ。胸張って行きマショー!』
『オーッ!!』
実はもう、ジャパンカップは数日前の事。エルはエルの
………と、その時。
『───ぁっ』
気配。近づいて来るのが分かる。ニンゲンに連れられるエルと同じく、向こうもまた連れられて歩いて来る。
最後に一目見たくて、でも流石に無理だと諦めていた。マンボ達を介してまた話せると分かっていても、それでも綺麗な花をまた見たかった。それが叶いそうだと。
なのに……この胸騒ぎは、何?
そして間を置かず、見えた。曲がり角で、鉢合うように、エル達は再会した。
「あ、緒方厩舎の。お疲れ様です」
「二宮厩舎の方ですね。エルコンドルパサー、お疲れ様でした」
「いえいえ。しかしそちらの馬、もしかして……」
「いえ、偶然ですよ。これから調教に向かう所なので」
ニンゲン達が話し合う。けれどその裏で、エルは固まっていた。マンボもまたそう。
『グラ、ス…?』
『………』
久々に会えた仲間は、想い慕っていた相手は、その様子を大きく変えてたから。
信じられない程に、闇を纏っていたから。
覆い被せられるように、背負って。
下を向いて。
あの、グラスが。
(そんなバカな)
グラスですヨ?自分に厳しく、自分を律して、誰よりも気高くあったグラスが。何故?
クロが原因なのは分かる。分かるけれど、彼なら大丈夫だと思っていた。最近は伝言を控えてると聞いたけど、それも、自分を見つめ直す時間を貰う為だと。
スペ-サンと同じく、自分で立てる馬だから。エルの知るグラスは、そういうヤツだと───いや。
(エルは、大きな間違いをしてた?)
そもそも、グラスが立ってたのは。自立してたからでは、なく。
クロにその理由を。
重きの
『エル』
グラスが口を開く。凛とした声、望んでいた音、なのにドロドロと溢れていくような声音で。
『まず、お帰りなさい。かつ、お疲れ様でした』
また何も、言えない。何一つ言ってあげられない。
エルはまた、この有様で。また、また。
『……最後に。
『グ、ラ…!』
『そして』
言ってはいけない事を、クロに言ってしまったように。
「さようなら」
聞いてしまった。聞いてはいけない言葉を聞いてしまった。
『ア、ア……!!』
『オマエ…グラス、オマエッ!』
「それではここで失礼しますね。エルコンドルパサーの種牡馬としての活躍も期待してます。じゃあグラス、行こうか」
『……はい』
ダメ、ダメデス!ダメ!グラスが行っちゃう、行かせちゃダメだ!!
グラスをあのままにしたら、一番ダメだぁぁぁ!!
「エ、エル!?すまないがもう時間が押してて…うぉあ!!!」
『抑えろ抑えろ!早く馬運車に連れてくしか無い』
『エル、オチツケ!クヤシイケド、オマエガイッテモ、アイツハモウ……!』
「最後だから言う事聞いて!お願い」
そんな事言わないで、ニンゲン-サン。止めないで、マンボ!
エルは、エルは勘違いしてたんだ!悔いが無いなんて言えない、グラスをあのまま放っておくなんてそんな!エルに出来る事は、もう無いの!?
グラスが離れていく。こっちを一瞥すらもしてくれない、エルはアナタにとって用済みなの?そんなの、そんなのってありマセンヨぉ……!
(誰か)
止めて。
グラスをあのままにしないで。
(誰かァ……!!)
スカイ-サン。
キング-サン。
スペ-サン。
ごめんなさい。エルが、何も分かってなかった所為で、こんな事に。
クロ。
帰ってきて。
エルは良いから。
グラスを、助けて。
仕上がってきた。
体が出来上がってきた。“準備”が、もう直ぐ終わる。
やっと、貴方に追いつける。
『もう少し、もう少しで』
頭を冷やせと、マドバさんとオガタさんから与えられた暇。言われた通りにボクは落ち着き、頭を冷やし、そして考えたんです。
どうすれば
『ボクは、冷静だ』
自己暗示でも、そう思いたい訳でもない。ボクは落ち着いた心でそう願ってるから。
けどそれと同時に、この高揚感は隠せなかったようで。
『どうした?』
『……いえ』
疑念を持たれると不味い。疑われて止められたらおしまいだ。信頼してきた、そして信頼してくれているニンゲンの方々を騙すのは心苦しいけれど、それでも敢行する他無い。
だって、ボクにとってのクロは───
『まぁいっか。着いたぞ』
───考え込む時間は終わった。今はただ、己を研ぎ澄ますのみ。
クロが己を削り上げて刃としたように、ボクも己という弓を極限まで張り詰めさせるんだ。
壊れるまで。
馬編。最終章。
有馬記念が、来る。