「グラスワンダーの様子を?」
『うん。見に行って欲しいの』
「でもなんで急に……」
『それが……最近のg「オーイ止まれぇ!それ以上は強度超過やぞ!!」ああっヤバい今ので集中切れた!』
「ここでぇ!?うおおお人馬一体維持がっががが」
『とにかく様子だけ僕に教えてええぇぇぇぇぇぇぇ………』
と、いう訳で来ました美浦トレセン。こっちにいるお手馬の様子を見に来たついでに、立ち寄ったのはもちろん緒方厩舎。
……まぁ、立ち寄ったのは良いんすけど。
「見に来てどうしろと……?」
俺は緒方さんチームとは縁が薄い、というか無い。そんな状態で急に「グラスワンダー見に来ました!」とか言いながら門を叩いたら、相手からしたら「スペシャル号の鞍上が
(でも、俺自身がグラスをよく知らないんすよねぇ……)
勉強はしたっすよ、そりゃ。クロの最初の障壁、同時に最初の友達。かつ、最終目標になる筈だった有馬記念でぶつかる想定をしていた、最難関標的の一頭。そりゃ過去のレースは見まくったし、毎日王冠でぶつかった記憶も鮮明に覚えてるし。
……同時に、クロが彼を大好きで、毎日のように思い出を語ってくれたことも。しっかりと脳に、刻み込まれているし。
(意識はしてた。けど所詮はほとんどが伝聞だ)
なんせ、対峙したのが先述の毎日王冠だけだ。その時だって意識は勇鷹さんとサイレンススズカへの対策でいっぱいで、とてもじゃないけど考えを割いてる暇なんか無かった。それ以外で俺が知ってるグラスワンダーなんて、全部クロやニュースを介した間接的な情報でしかない。
そんな俺が、面と向かい合う事すら実質初めての俺が……見に来たところで、何になるんだよ。なぁスぺ。
「無理言ってでも、もう一回乗った方が良かったっすかねぇ」
いや、分かってる。
……いや訂正、あそこで集中切れちゃったスぺの問題っすわ。もっと詳しく教えてくれよそこは!?*1
「ふぅむ。ウチの馬に乗りに来たのかい」
「いやぁスぺが勝手言ってきたんすよ、それでですね」
「スぺ?もしかしてスペシャルウィーク号の事か」
「そうっすそうっす」
いやぁキツイっす。でも不思議なやり甲斐があるから離れられない、親父ともども酷い星の下に生まれちまいましたわ。
アンタもそうっすよね、
「うわぁぁ緒方さんに見つかってるぅぅぅ!?」
「今更かい……にしても何でそんなに後ろめたそうにしてるんだ、見に来ただけなんだろう?」
「えっなんでそれを」
「口に出てたよ」
「マジすかぁ」
こりゃ常日頃から思ったより内心が垂れ流しになってるかもしれない……その実例を思い知らされ、背筋を恐ろしく冷たいものが迸った。次から気を付けよ*2。
しかしはて、敵騎手が
「嫌じゃないんすか。俺、臼井陣営っすけど」
「騎手がトレセン内を行き来するなんて普通の事じゃないか。覗き見を嫌がってたら調教なんて出来やしないだろう、臼井さんみたいに対立関係をこそ重視している訳でもないしな」
「なるほど」
ウチはウチ、ライバルはライバル、としっかり区切る臼井厩舎。そこにだけ入り浸り過ぎて視野が狭くなってたって事すかね、俺も。
でもこれは僥倖……なのか?この流れで無理やり頼み込むのも不躾かなぁ。ええい、なんとかなれ。
「緒方さん、ちょっとグラスワンダーの調教を見させてもらっていいですか。邪魔はしません」
「……理由を聞いてもいいかい?」
本題。対し、返された問い掛け。嘘偽りを込める気は無い。
「俺達が、負けない為です」
………うぁー。改めて思ったけどやっぱり不躾だ。というか生意気すぎ!「敵に塩を送れ」って命令してるのと何が違うんすかコレ?
でも他の言葉なんて思いつかない。スぺがグラスを気にしてるのは、彼に勝つ為……というか、彼と
「……なるほど。ならちょうど
「ほぇ?」
「ついて来てくれ。厩舎を案内しよう」
そんな具合に悶々としてたら、今度は何と緒方さん手ずから招き入れられた。いったい何が始まるんです?第〇回有馬記念だ。2週間後に。
あれよあれよと状況に流されながら、人と馬の視線の中を進む。あ、こんにちは。新進気鋭の生沿健司です、よろしくお願いします。なんで緒方さんに連れられてるかって?さぁ……(思考停止)。
———ふとその時、緒方さんの足が止まった。ある馬房の前で、その前にいた一人の男と向き合うように。
「やぁ窓葉さん」
「あぁ、緒方さん。お邪魔していま……生沿君?」
「ど、ども」
それは大先輩、世に名だたる“ヒットマン”こと窓葉さん。何度かレースで対戦させてもらった仲で、その度に徹底的なマーク術で心ブチ折られるかと思わされてきた恐怖の相手でもあった。でも
で。窓葉さんがここにいるって事は、つまり。
彼が向かい合っていた馬房へと目を向けた、その瞬間。
眼前に、鼻。
「うわっ!?」
『………』
いつからだったのか。俺に気取られないまま、彼がその顔を目の前まで寄せてきていた。まるで気配の無い接近に、思わずのけ反った程だった。
……これが、コイツが、グラスワンダー。
「初顔だから興味を示したんでしょうかね」
「やはり生沿君って馬を引き寄せる体質なのか……?」
「いや引き寄せるっていうか、なんかガン見されてるんですけど」
プロデビューから2年弱。なんだかんだで色んな馬に乗って来て、それなりに経験は積んできたつもり。素直な馬から癖の強い馬、意地っ張りから引っ込み思案まで。
けどグラスワンダーの第一印象は、その中でもズバ抜けて……
(
得体が、というか。気が、というか。
目とか耳とか尻尾から、馬の感情はある程度の判別がつく。けれど彼だけは、これだけ真正面から向かい合っても尚分からないんだ。
(今お前は、何を考えてるんすか?)
じっと見つめても、その瞳は何も語らない。ただ暗く、光の無い奥底に俺の問い掛けを飲み込むのみ。
「グラスワンダーが不調だった、というのは知ってるよね」
「え、ええ。毎日王冠のすごい走りを見てたら、俄には信じられないっすけど」
「いや、体はともかく心が……凱旋門賞の映像を生中継で見てしまったから」
「……!」
「休養を経て落ち着いたんだけどね。でもそれを皮切りに、こんな風にじっと見つめる仕草が増えたんだよ」
つまり、クロの最期を見てしまったのだと。窓葉さんのその説明を受け、俺は再び視線を交錯させた。
そのまま見つめ合うこと10秒ほど。その間、この停滞を打ち破る方法だけ考え続けて。
「緒方さん」
「何だい?」
……口に出す。
「乗ってみても良いですか」
「よく許可しましたね」
「生沿君は将来有望だからな。一回乗せるくらいならお試しだよ、窓葉さん」
「お試しとは言いますがね、これで抜群の騎乗をしようものなら乗り替わりを躊躇わないでしょう貴方。こっちは戦々恐々ですよ」
「まぁね。だが、今の君とグラスが叩き出したタイムを、彼は超えられると思うかい?」
「いえ、全然」
休養を挟んだグラスワンダーは、見違えた。毎日王冠で狂乱した馬とは別個体なのではと疑ってしまう程に落ち着き、そして強くなっていた。
抗わない、争わない、ただひたすら真っ直ぐに。鋭い程の素直さが、その切れ味で以て彼自身のベストタイムを引き裂き続けていた。すなわち、絶好調だった。
一周回って、不気味な程に。
「有馬、どうする」
「どうする、とは?」
「出走するか」
「するでしょう」
緒方は質問。窓葉は即答。
「グラスは走りたがっています。それに合わせて僕達も調教してここまで来ました。引き返せますか?」
「……不可能ではない」
「僕達がじゃない。グラスが、です」
「………」
見識は言う。大丈夫だ、と。
知識は語る。これで出さない選択肢は無い、と。
ただ……あやふやな直感だけが緒方に告げていたのだ。本当にそうか?と、短く、けれど確かに。
「気持ちは分かります。僕も同じですから」
「なら……貴方が出走へと振り切れている理由は何だ」
「グラスの性格は、もう嫌というほど分かっているでしょう?彼はもう
「………」
「これまでに無いぐらい意欲的で、興奮状態なんです。下手に不発させてしまうと、人間への不信感に繋がりかねません」
クロスの死を目の当たりにさせてしまった。パフォーマンスに乱れが生じた。休ませた結果、
本当に立ち直ったのか?ウッドチップを蹴り上げて駆けるグラスワンダーの姿に、何故か不安が増していく。
……それを自覚したのは、もう後戻りが利かないタイミングだった。機は既に逸されていた。
(これで良いのか…?)
直感とは即ち、自らの経験則に基づいた本能からの危険信号だという。だが肝心のその正体が分からない、分からない以上は動きようが無い。
柵の向こうで、厩務員と共に装備を整えてグラスに寄り添う生沿健司。その姿が収まった視界が、言いようの無い焦燥に染まり狭まっていくのを、他ならない緒方は自覚していた。
生沿の騎乗依頼を引き受けたのはその為だ。例えライバルに手の内を晒す事になろうとも、不安要素を明らかにしておきたかった。クロスクロウとあれ程心を通わせ合い、噂では言葉すら正確に交わしていたという生沿健司なら、と。
「僕が、」
思考を遮る声。窓葉一の物。
「責任を取りますよ」
その言葉で思い出した。違和感の正体、その片鱗。
そうなのか、窓葉。
ポンポンと栗毛の肌を軽く叩く。グラスワンダーからの反応は相変わらず薄い、けれど。
(見られてんなぁ)
その青い瞳だけが、じっと俺を捉えて離さない。何か語る訳でもなく、読み取れる訳でもなく、俺も目が合う度にじっと見つめ返す事しか出来ない。
その“先”を求めるからこそ、俺はこれから、お前に乗るんだぞ。
「窓葉さんじゃないのは不満だろうけど……さっ!」
機を見て跳躍、鞍を跨いで腰を据える。驚く程上手くいった。
ように見えた、その瞬間だった。
その日、見慣れないニンゲンがボクに会いに来た。
見慣れない筈なのに、どこか見覚えのあるニンゲンだった。自分の記憶の中に彼を探して、その為にじっと見つめた。
………見つめる程に湧き上がったのは、正体不明の不快感。思い出す事を頭が拒否してるような、口の中に苦い汁が溢れ出すような感情が滲み出てくる。このニンゲンの顔を頭の中に探す、ただそれだけで。
余計に気になって、苦味を堪えながら見つめてたら、いつの間にか外へと連れ出されて。何故か彼に乗られた、その瞬間。
(あっ)
気付いた。
思い出した。
(あ、ぁ……っ!)
不快感の理由。
このニンゲンを、ボクが
(あの時も、あの時も)
ボクの嫌な経験。思い出したくもない絶望と嫌悪の記憶、それがボクには二つある。
一つ目は、一年前、クロと久し振りに競った
そして。そして。
(クロが倒れたあの時も……!)
駆け寄ったニンゲンの顔は、今ボクに乗ろうとしてるニンゲンのそれじゃなかったか。
(この、ニンゲン、はッ)
イメージが重なっていく。
繋がっていく。
嫌な思い出、忘れられない悪夢が。
背中の彼と、直結する。
耐えられなかった。
『あっ──ぅあぁあァァあァああッッ!!!』
「ぅわ───!?」
「グラス!?!」
気が付くと振り落としていた。言い訳がましいけれど、もう意識ではなく反射の領域での反応だった。
(……あ)
背中が軽くなって初めて、自分がやった事に自覚が追い付く。今ボクは、ボクは何を?
「痛ちち……びっくりしたぁ」
「どう、どう!どうしたんだグラ、うわぁ急に落ち着いてる!?」
「な、何があった?大丈夫か生沿君!」
「あー俺は無事っす。それより厩務員さん、グラスワンダーに異常は?」
「えぇと……こっちはどこも怪我とかはしてないです!!」
「なら何よりっすわ」
「本当に怪我とか無いのかい?すまなかった、まさかここまで拒絶するとは」
「いえいえ、頼み込んだの俺の方っすし。こっちこそ何か刺激してすみませんでした」
慌ただしく動くニンゲン達の姿が目に映るけれど、情報として頭が受け取ってくれない。自分がやらかした罪と、それを受けたニンゲンへの申し訳なさと忌避感がグチャグチャになって、もう何もかも分からなくて。
(
「……すみません、どうにも本当に相性が悪いみたいで。俺を見てるだけでグラスワンダーの息が荒くなってますし」
「そうみたいだな……じゃあ、私達は場所を移そう。グラスワンダーは馬房に戻しておいてくれ」
あのニンゲンが去っていく。一度だけ視線をボクに向けて、それを受けたボクは全身を引き攣らせて立ち竦むしか無くて。
ああ、嫌だ。二度と会いたくない。
彼に会い得る世界に居たくない。
クロと会えないだけでも辛いのに、これ以上は。
「緒方さん、窓葉さん。グラスワンダー、完璧な状態で有馬に連れて来て貰えませんか?」
「……それは、何故だ?」
「いえ。ただ──俺とスペで、全力でぶつからないとなって」
ごめんなさいと伝える事も出来ないまま、息を荒げるボクはただ無様に尽きて。
愚かさを自覚しながら、その泥濘に自らの思考を沈めていく他無かった。
一瞬だった。本当に一瞬だったけど、見えた。
人馬一体だけど、人馬一体じゃない。荒れる蒼海、その渦潮に引き摺り込まれるような……そうとしか言いようが無い恐怖体験。
(でも、繋がれたのは確かだ)
沈没するその瞬間、暗黒の海の中に見えた。というか、一方的に流れ込んできた。
……銀の太陽が、没するイメージ。余りにも物悲しい日の入り、その後に訪れた寒い寒い夜。
深海の暗闇が夜の
それが、今、彼を取り巻く世界なんだと。理論でなく感覚で分からされたから。
「スペ」
「──!おかえり、イキゾイ」
戻って来たよ。お前が俺に訪問を促した理由、完璧に理解してな。
「止めるぞ、アイツを」
「……行ってきてくれたんだね。グラスの所に」
あれは止めなきゃいけない。それもただ制止するんじゃなくて、真っ向から受け止めて粉砕する形で。
じゃないと、爆発する。あの荒れ狂う暴流、抑えとくのもやっとの筈で、多分もう限界だ。
「正直言うと、出走中止を提言したいぐらいだったよ。でもそれじゃ、ダイナマイトの導火線を燻らせたまま終わるようなモンだ」
だったら、たとえリスクを背負うとしても、俺達が何とか出来る範疇である内に、真正面から。
力任せの歪な願いを、根から断ち切る……!
『イキゾイ、ありがとね。君がついてくれるなら、こんなに心強い事なんて無い』
「でも俺だけじゃダメだ。頼むぞ、戦友」
『こちらこそ、相棒』
もう時間は無い。12月26日、決戦まであと僅か。俺からスペに伝えられる情報は異種族ゆえに限られて、その
グランプリだとか、秋古馬三冠だとか、そんな栄光なんて気にしてられなくなった。
(──クロ)
お前への手向は、別でしっかり用意しとくからさ。
(道連れだけは、我慢してくれ……!)
お前がそんな事するタチじゃないのなんて、俺が一番分かってる。だからこれは独りよがりな、でも俺たちにしか出来ない“後始末”だ。
お前の悲劇を全部終わらせる。その為の、誓い。
次回、有馬。