はて(すっとぼけ)
「サイレンススズカの調子は最高潮だ」
箸畑調教師の言葉に、僕は無言で頷く事で同意を示した。長い準備期間を貰えたおかげで、コンディションとしては“あの”秋天直前に匹敵する程だ。
「だからこそ──正直な話、
だからこそ、
「おかしな話だと笑ってくれ。結局出走させてるのに、変な事を言うんだと」
「笑って欲しいなら相応に笑える話にして下さいよ。それに当事者同士でしょ、僕達は」
「……だったな」
スズカの復調、近く復帰の目処……それが公表された途端、世間は盛大にそれを支持してくれた。その声に応えたいところだが、関係者の見立てとしては出走に足るのは冬頃。距離的に最適なジャパンCにはギリギリ間に合わない。
そこで、年末グランプリ投票でスズカが選出された。距離、2500m。距離適性が届くか、本当に微妙な道。だが他に選択肢は無かった。
「来年があれば、OPや特別辺りで調整する手もあったんだがな……」
スズカは今年で引退する。リハビリ成功の可否に関わらず、それは決められていた事。
予後不良級の故障歴を抱えた馬だ。種牡馬としての活躍に期待している馬主およびJRA、そして他ならない厩舎の僕達に、それ以上延ばす道は無い。
その前に。もう一度だけでも大舞台で、と。条件が合うのは有馬記念ただ一つだったんだ。
「だが無理は絶対にして欲しくない」
「なんともまぁ……」
「極論を言えば、元気な姿を見せるだけで良いんだ。ファンはそれを望んでる、それさえ叶えられれば俺達も──」
「はいはい」
「なっ!?」
無事でいて欲しい。それ以外は願わない。箸畑さんはそれだけを望み……僕はそれをため息一つで拒絶する。僅かに抱いてしまった共感すら、戒めとして吐き出すように。
「出るからには全力ですよ。この年末の大舞台、枠を他の馬から奪っておいて勝ちに行かない選択肢がありますか?」
「だが……!」
「じゃあ、俺達がこれまでやってきた事は何だったんですか」
そう言うと彼は応答に窮したように押し黙ってしまう。当たり前だろう、でなければこの一年は何の為に?
「スズカに、栄光を掲げる為でしょう?」
競馬という勝負に、妥協は許されない。騎手として、僕にそんなつもりは毛頭無い。
……スズカだって。
「コイツだって
「っ……!」
気炎万丈。愛馬から立ち昇る気迫に、至近距離の僕達が気付けない筈がない。
箸畑さん、やる気なんだ。スズカは燃えてるんだ、今!
「僕は……俺は、今度こそコイツと
「っ、それは!」
「勘違いしないで下さい」
そしてあの時と違うのは──覚悟が、ある事。
「共に生きて、共に帰って来ます。勝利を持って!」
一心同体、人馬一体。俺の生き様をスズカの生き様に、スズカの生き様を俺の生き様とする。完全に重ねて、生きる決意だ。
1人では出来なくても、一頭では叶わなくても、
「………分かったよ」
それを受けた箸畑さんは、俺とスズカの目を交互に見て肩を落とした。観念した、いや、彼もまた“覚悟”を決めてくれたようだった。
「訂正するよ。その上で多くは言わない……勝って来い」
「はいっ!!」
さぁ行こうスズカ。なに、一心同体の──人馬一体の更に向こう、その“モデルケース”なら知ってるだろう?彼らに出来たなら、僕達に出来ない道理は無い筈だ。
……クロスクロウ。
(君の望んだ俺達を今日、見せてやる)
天まで届けと、そう願った。
同時に、脳裏をよぎる愛弟子の顔。申し訳なさで臆しそうになる心を振り払い、手綱を引いて光へと歩み出す。ここへ来たのは、君と向かい合う為でもあるんだから。
「ごきげんよう、生沿君」
「あ…縦峰さん、福延さん、どうも——ってどういう状況ですかコレ」
「キングとセイウンスカイがグラスワンダーの前で立ち止まっちゃって……なんか窓葉さんの様子も変なんだよ」
「……!」
そうして見えたのは、スペシャルに縁の深い馬達と、それに跨る好敵手たちの姿。その中に早速、先刻思い浮かべていた愛弟子の横顔も認めた。
……成長している。一目見て精悍さが増してると分かり、謝罪の念だけでなく安堵が浮かんでくる。彼の器はもう、俺の庇護下に収まってない。
だが一方で。
(どうしたんだ…?)
俯いて顔を見せず、ただじっとグラスワンダーの鞍に座している。まるで意思が無いかのように、標的を的確に射抜いて来た彼らしくも無い。
まるで、そうまるで……っ。
(まさか)
覚えがある。俺はこうなった騎手を知っている。この状況に陥った
勘付いた瞬間に視線を下げた。光を映さない
(嘘だろう、窓葉さん!)
出来る事なら辞めさせたい、降ろして出走を中止させたい。だが陣営と無関係な俺にそれをする権利は無いし、ゲート入り直前のこのタイミングでは直談判の猶予すら無い。何より、下手に刺激すればグラスワンダーが暴発し、余計危ない事にすらなりうる。
けど、看過しても碌な事にならないことだけは確かだ。今の彼らは、凱旋門賞に挑んだ俺達そのものだから!
(止めなければ……!!)
『ヒンッ』
その瞬間。スズカが微かに嘶いた、その刹那。
グラスワンダーの視線が俺達に射掛けられた。弾かれたように見上げられ、そして俺とスズカを捉えた。
身の毛もよだつ、悪寒。
「……っ!!!」
次に瞬きすれば、既に踵を返した怪物の後ろ姿があった。けれど俺は、それを眺める自分の震えを果たして止められていただろうか。
間違いなく、今向けられていたのは……憎悪だったんだ。馬からそんな物を向けられる日が来るだなんて、考えた事も無かった。
アレを、止める?
アレに、勝てるか?
「勇鷹さん」
思案を遮るに振り向いた。生沿君の物だった。ただ真っ直ぐな眼差しを受けて、急いていた気持ちが凪いだ。
スズカも向き直り、正面から対峙し合う。僕と彼、スぺとスズカ。
「グラスの事は、俺に任せて下さい」
生沿君も分かっていたようだった。そのことに安心し、そして同時に抱いたのは懸念。
「勝負はどうするつもりだい」
「捨てませんよ」
それもすぐさま払拭される。何かしらの考えがあるだろうことは、その表情からすぐに察せられた。
「勝つんです。勝つ事が、止める事なんです」
「そうなのかい」
「そうなんです。だから勇鷹さんも、どうか」
そこまで言って、しかし急に彼の口は噤まれた。続く言葉を伺うように見つめても、彼は迷うように瞑目し、そして。
「……いえ。お時間取ってすみませんでした」
遠慮させてしまった、とすぐさま悟る。彼は俺に何かを期待し、そしてきっと———凱旋門賞の時も同じようにした事を思い出してしまったんだ。
つまり今のは、俺が彼に残した呪い。クロスという埋め合わせようの無い欠落と共に、彼に背負わせてしまった負い目なんだ。
(クロスクロウは返せない、けど)
なら解呪する責任も当然、俺にあるだろ?
「本気で潰しに行くよ」
「!」
クロスクロウを死なせた男、としてではない。
生死の淵を彷徨った哀れな騎手、としてでもない。
「だから——喰らい付いて来い……!」
君が憧れた天才ジョッキー、拓勇鷹として!
「っ……、はい!!」
万感の思いを咀嚼し、噛みこんで吐き出したのだろう言葉。しっかり受け取って、そして返そうじゃないか。俺達の走りで、その背中で!
『大丈夫』
響いた声は眼下から。
うん。心配は要らないよ。
「『先頭の景色を、見せに行こう』」
重なる想い、声。前より強く、いつもより滞りなく。
今なら分かる。人馬一体の、その先へ。
いざ。
あの日の俺達へ。
俺たちを待っていた、皆へ。
この
奇遇にも、俺とアイツの枠は隣同士で。
『よォ』
『久しぶりですね』
性懲りも無く帰って来た栗毛な同期の姿に、刹那だけ胸の内に何かが込み上げた。それもすぐに掻き消えた、いや掻き消したが。
『──だ………』
『だ?』
『……ダメな脚を抱えて、今更戻って来たのか?』
我ながら
『どんだけブランク溜めた?そんなナリじゃ無様見せて終わりだろ、オイ』
『………』
『帰った帰った。また目の前でボロボロになられちゃ迷惑なンだよ、躱すこっちの身にもなれ。恥を晒しに来たってンなら、話は別だがなァ?』
そうだよ、コイツが先頭でまた怪我したら後続の俺らが危ねェんだ。巻き込まれるなんて心の底から御免被るぜ、これがお前を厭う理由の全て。
コレ以外なんて、無い筈なンだ。
『──そうだよ』
そんな風に、無自覚な自己暗示を試みてたから、虚を突かれた。あっけらかんと開き直ったその声音に、思わず目を見開かされた。
『
『は?』
『君の言う“恥”っていうのが……』
そう言って微笑するその姿が。最も輝いていた頃のペット2号自身のそれと重なった。
敵意は無く。
悪意も無く。
『“最後まで足掻く”のを指すのなら、ね』
だというのに、自分が最速だと疑わない。
そんないけ好かない──サイレンススズカが、戻って来たのだと。突き付けられたからだ。
『テメェ……ッ!!』
口角が引き攣る、俺は今どんな顔をしてる?死地にわざわざ戻って来たこの人間大好きホースをちゃんと嘲笑えてるのか?それとも怒りが浮き出て鬼の形相か?オイ笑うな!俺は本気で……!!
『ふ、ふふっ、あははっ!ああごめんね、気に障っちゃった?』
『笑われてキレねぇ訳無ェだろ俺がよ!』
『だからごめんって!だって、ステイゴールド君がそんな
『しんぱっ──!?』
はァ!?ンな訳あるか、お前まであのクロスクロウの奴とおんなじ事言うのかよ!冗談ぬかせ、俺はお前らなんかこれっぽっちだって!!
『え?だって最初に言いかけた“だ”って、“大丈夫か”って聞こうとしたんでしょう?うん、私はもう大丈夫だから!遠慮せず追いかけて来てね、どうせ追い付かれないし!!』
『勝手に納得すンな!んでもって流れるように無自覚で煽ンな!!クッソお前そんな天然鬼畜のクセに無駄に見た目いいからって女帝サマをオトしやがって、絶対負かす今日ばかりはやる気出たし絶対這いつくばらせ───』
思わずヒートアップ。何でこんなにハイテンションになってるのか自分でも分からず、でもその中に爽快感さえ──胸のつっかえが取れたような──感じる自身が余計分からなくて、それで苛立ち。いろんな心が絡まって、収拾がつかなくて………
『──ァあ……!?』
『ぅっ……!!』
暢気で居られたそんな時間は、前触れなく幕を下ろした。
『がっ、ぎ…?!』
『寒っ!!』
『グラス………!』
『くる゛、し゛──ぃ』
『はっはっはっ!これはちょっと……重いな…!!』
凍り付きそうな首を辛うじて回せば、周りの奴らも同じ状況。その間にも俺達にのし掛かった重圧は、全てを水底に押し込めるようなプレッシャーは、その力を増していっていた。
『ゴールド君、君は動けr……くっ!』
『喋ン、な…!!』
俺が僅かでも動けるのは、この威圧感にどこか既視感を持っていたからだ。それが無ければ、今にも膝を降りそうになってるスズカと同じザマになってたのは想像に難くねェ!
だが、そもそも何だコレは。これほどのプレッシャーを誰が、どこに隠して──いや。心当たりなら。
(まさか)
弾かれたように見上げ、見つめた先。枠組みに隔てられた隣の隣の、その向こう。
(嘘だろ)
何でお前が、
よりにもよって、ラストさんに認められたお前がよ。
『貴方じゃない』
目が合ったその瞬間、意図は一瞬で伝わって来た。悍ましい威力を以て、叩きつけられた!
『周りを不幸にしてでも幸せになれ、とは思ったが……!!』
『う、ぐ、ぅ…っ』
『2号!?!』
おかしい。俺よりもスズカの方がヤバい、立つのもやっとなレベルで押し潰されてる。隣同士なのに何でこんなにも差が出る?
いや待て。もう一回周りを見ろ。
『あれ?』
『楽になった』
『何だったの?』
『これならいける!』
──や、野郎──!!
(間違い無ェ。最初の広範囲威圧は……
まず無差別にプレッシャー撒き散らして、場を滅茶苦茶にし。
そこから徐々に、真綿で首を絞めるように、範囲を絞る。
範囲から外れた奴は立て直すだろう。そうでなくとも、一刻も早くこの場から離れる為に絶好の
(だが、最後まで出られなかった奴は?)
俺じゃない。俺はその標的じゃない、徐々に狭まる効果範囲の円、その中心はギリギリで俺じゃない。
中心は、隣。最後まで囚われたままの、“標的”は。
『はぁ、はぁ、はぁっ!』
(スズカ……!)
スタートをさせない。いやそもそも、走らせるつもりすら無いのか。そんな、露骨な悪意に満ちた最悪の一手。
こんな陰湿な作戦、見た事無ェよ!
『ふざけんな!』
俺に掛かる重圧が薄れてきた、つまりその分だけスズカにのし掛かってる。完全に収束し切った時、コイツは……潰される。
人間に殺されるどころか、同じ馬にその心を潰される。
ふざけんな。
(
その姿を探したのは半ば無意識。奴ならなンとか出来るんじゃないかと、一縷の希望を求めたのかも知れねェ。心から癪に障るが。
『………くぅっ……!』
そのアイツは、当のスペシャルウィークは。
アイツもまた、標的とされて抗っていたのを見て。
『……俺がやるしか、』
覚悟を決めた。
『無ェじゃねぇかァァァァッ!!!!』
『──っ』
『ぇ……!?』
裂帛の気合い、放った部分的な
悪意には悪意、殺意には殺意だ!人間に向けてたそれを、同族に向けるのは甚だ遺憾だがよォォォ!!
『ゴールド君!』
『うるッせェェェ!!俺に構うなクソボケウスラトンカチィ!!!』
決死の遮断で、スズカだけはなんとか解放した。代わりに全部俺にのしかかってる来るが、それを加味してもやる価値がある!というか、やらない選択肢が無ェ!!
『お前の為じゃねェからなァ!?』
「───!」
今度こそ、照れ隠しでも強がりでもない。ただ、許せない。譲れない。
だって、この威圧は。
この、威力は───
瞬間、やっとその時は終わりを告げた。
金属音と共に、世界が開かれた。
『!………ハァッ!!!』
その先へ、翡翠の風が駆け出す。俺が引き受けていた怨念が、それを負って矛先を変える。
『……い、けッ……!』
始まった。
始まってしまった。
始められた。
負けンな、サイレンススズカ。
許さねェ、グラスワンダー。
後は。
『『クソッ』』
声が重なる。お前と揃って出遅れなんて、同感だなんて、本当に最悪だ。
『負けるかぁぁぁっ!!!』
『チクショォオォォォオオ!!!』
悔し紛れで、負け惜しみで、でも諦めない。
俺とスペシャルウィークは、1秒遅れの疾走を開始した。