『何、あれ』
完全に分からされた。ここは桶の中で、自分達はそこに無造作に放り込まれた飼葉に過ぎないんだと、その重圧は否応なく告げてきた。抗いようなんて、どこにもありはしなかったんだよ。
重圧が徐々に軽くなって、周りの馬達もそれで楽観して、でも僕の中ですでに決着はついてしまって。戦う前から、走り出す前から、僕はグラスワンダー君に敗北した。スぺ君のライバルを自称しておいて、挑む事も無く諦めた……ううん、ゲートどころかその前から既に負けていたのかも知れない。スぺ君を挑発するつもりだったのに、彼と相対するグラスワンダーの覇気に気圧され二の足を踏んだ、その瞬間から既に。
……だから、後ろから見てる事しか出来なかった。
一番狂わされたのに足掻くスぺ君が、僕を追い越していくのをただ見送った。続いていこうとか、思う気力すら無かった。そして、下手に頑張って、今度こそあの牙の標的にされるのが怖かった。
そしてその懸念通り、予想通り。
先頭集団で、恐ろしい青い焔が、怒り猛り燃え上がる。
奈落の底から、怨念がその顎門を開く。
“実”の入った日々でした。
心の中にポッカリと空いた穴を埋めようと、体が求めていたかのように。自分を虐め抜いた果てに手に入れる力と痛みが、それだけがボクを満たしてくれました。
なのに癒されない。慰められない。ちっとも足りない、苦しみが、ボクを急き立てる。
もっと。
もっと責苦を。
クロに近づいてる実感が欲しい。
彼が宿した熱を、何もかも真っ黒に焦がす熱をこの身の内に欲しい。
手にして、自分を燃やして、焼き尽くして。
灰すら残さない火の中に投じて。
そして。
そうして───どうする?
(分からない)
どうしたいんだ、ボクは。
分からない。
何がしたいんだ?
分からない。
ボクが
無い、けれど。
でも求めたんだ。
クロに、求めたんだ。
クロは返してくれたんだ。
ボクはそれを報いるって、そのつもりで。
なら立ち止まる訳にはいかないんだ。何もしないのだけはダメなんだ。
退くな。
転ずるな。
それだけは自分に許すな。これまでそう、自らに望んだように。
──だから。
『邪魔を……するなッ!』
語気を強めた自覚なんか無かった。にも関わらず喉が震えたのは、きっと精進が足りないから。
予想以上の威力を以て放たれた殺気は、目の前の芦毛の躯体を確かに揺らした。この目で、揺らぐのを認めた。
『へ、へ──まだまだぁっ!!』
なのに、崩れない。致命的な崩壊まで至らない。
スカイ君は尚もボクの前を行き、サイレンススズカへ通づる道を阻んでいる。滝のような汗を流して、体毛でそれを泡立たせて、それでも。
(ダメだ。半端な威圧だけじゃ崩し切れない)
後ろからチマチマ突いてるだけじゃ確実性に欠ける。もっと直接的なやり方じゃなきゃ、スカイ君は倒されてくれないでしょう。
……だったら。
一層力を足に込める。必然、体は前に進む。塞がれてる前方へ、それを意に介さず接近。
『ん?え?前、行けないよ?ぶつかるけど、良いの?』
スカイ君は余裕を装って嘲ってきた。それが虚勢だなんてとっくの昔にバレバレだ。
『……いや、ちょっと。グラス君、分かってるよね?』
うん、分かってます。君がボク以上に分かってる事も、分かってます。
その危険性を、君はボク以上に理解出来る。だって君は、賢いから。
『本、気……!?』
どうでしょうか?
どう思いますか、スカイ君?
ボクはこのまま、君とぶつかると思いますか?
そうなったらボク達はどうなってしまうのか。スカイ君は、どうなると思いますか?
ねぇ、スカイ君?
『──チッ!』
……掛かった。
やっぱりそうだ。どう足掻いても、君は頭が良い。だから見過ごせない。
わざと、感情に理性を支配させてるボクと違って。
『君は
『しまっ──カッ!?』
ボクから離れようと思わず微加速したその瞬間、威圧よりも退避に気を割くその刹那を待ってた。徐々に緩めてあった気迫を再度高め、緩んだ心の抵抗へと捩じ込む。さっきまでの粘りが嘘みたいに、牙が鎧を剥ぐ。
『やっと捕まえました……!』
掴みどころの無かった貴方を、この足でようやく縫い止められる。義務感で封じ込めていた興奮が膨れる。
こうなればもう容易い。捕捉した青雲を呑み込むべく、トドメの一歩を踏み出そうとした。
『させるものかァァァッ!!!』
それを阻んだのは……威容。他に形容できる言葉をボクは知らない、クロから教わってない。
『──ッ、キング君』
『グラスゥ……っ!!』
押し潰し踏み躙るボクの威圧とは違う、貫き通して切り開く覇気。進んで道を譲りたくなりさえする、所謂カリスマ性。
やはりキング君は、上に立つ器だったという事でしょうか。前々から感じてはいましたがしかし、これ程の物とは。
『スカイ、しっかりしろ!俺も来たぞ!!?』
『キング、ごめ、ん……!』
『謝るな!ここからは引き受ける!』
ボクからの重圧なんて物ともしない彼に、決して無視の出来ない危惧が心の内に宿る。今の時点でも全然堪えてない彼にこれ以上プレッシャーをかけても、他の馬と違って効果は期待できない。そして後ろからスカイくんを援護する形で圧してきたら、今のボクでも流石に消耗が激し過ぎる。
……何より。
『──フゥゥウウウゥー……ッ!!』
キング君の真後ろ。ピッタリとひっついて風を避け、その身を引き絞る……スペさんの姿。
(なるほど。そういう作戦でしたか)
その瞬間に理解した。サイレンススズカを追うボクをスカイ君が前から妨げ、キング君が後ろから休ませず、最後にスペさんが総取りする。成る程、良い作戦と言えるでしょう。その後サイレンススズカをどうするかは知りませんが、ボクをとにかく負かせるというその側面においてだけは。
……なら、ボクがそれを放っておく理由もありませんよね?
『ぁ?』
間の抜けた声が聞こえた。その原因はきっと、急減速してきたボクの尻尾が目の前に迫ったからですよね?
『ちょっ、え、何?どうした、まさかもう脚を……!?』
この期に及んで心配するだなんて、君は本当に優しくて……甘いですね。今はレース中、ならば自分の事にのみ注意するべきなのに。
だって、気付いてないでしょう?キング君、今自分の身体に吹き付ける風が弱まっている事に。君がスペさんにそうしているように、ボクが今風除けになっている事に。なんなら、その抵抗が無くなったから、君自身の脚も空回りしかけている事すら。
さぁ。
『フッ───!!』
『何っ……ぁぐ!?!』
再加速。再び離れる距離。そして、キング君の前に聳えるのは
急な気流の変化に、貴方は耐えられるでしょうか。いや、耐えさせない。
「ぶっふぁ!?ゴーグルがっ!」
『ゲフッ、げぇっ……!』
『キ……大丈……?』
『構…な……捨て…!』
トドメとして、加速ついでに蹴り上げた土。気勢が削がれたのを、その
同時に。
(───んっ)
ズクンと。左後脚に奔った、痺れにも似た感覚。まだ望んでいる物には届かない、けれど確実に
もう少しで、折れる。
(いける)
クロと同じ場所に行ける。
今のボクにとって、もう痛みは苦しみじゃなくて快感に近い!
(もうすぐ、いける!)
胸が高鳴る、顔が熱に浮かされる。ギュウギュウと身体の芯が疼く。のぼせた頭が更なる加速を脚へと命じ、積み重なる負荷でチカチカと視界が明滅する。
その中に、光が。
恋焦がれた、大好きな銀色の光が見えた。ボクを待ってた!!
『クロ!』
やっぱり貴方はそこにいた!もう待たせない、今度こそ……今度こそ、一緒に。貴方にボクだけを、ボクに貴方だけを!!
ボクとクロだけで、ずっと───!
『そこにクロは、いないッ!!』
───Ah.
昂りに冷水を打ち付けられる。一瞬でも油断した自分の落ち度、でも苛立ちを抑える理由には足りない。
崩れたキング君とスカイ君、それらを躱してスペさんが迫りつつあった。早過ぎる決死の仕掛け、既に領域の一つ──サイレンススズカと同種の──を発動して。
『クロはもういないんだ!分かりなよ、グラス!!』
『貴方の行く道に見えないだけでしょう?』
『ッ……そんな事、あるもんか!!』
煩わしい。貴方が、貴方に乗るニンゲンが視界に入る度、心が引っ掻き回されて荒らされてるみたいになるんです。
お願いだから、近付いて来ないで。その一念で殺気を投げかける。
『自分のやってる事、本当に分かってやってる?!』
揺るがない、でも織り込み済み。元よりスカイ君より粘り強いのは想定済みですし、でもキング君ほどの芯は通ってない筈だ。ならばもう一度。
『それがグラスの……んぐっ((本当にやりたい事だって!胸張って言えるの!?』
もう一度…ッ。
『違うよ!絶対、カハッ、違う!グラスがグラスである為、なんかじゃない!!』
『……貴方に、ボクの何が分かるんですか』
『見てきたもん!最初の君を、クロ達と一緒に未来を誓ったグラスをっ!!!』
なんで。
力は抜いてない。なのに何で落ちない?
どうして、その口を閉ざせない?
『ボクの知るグラスなら、これまでのグラスなら、どんなに自分に非があっても……ううん、非があるからこそ!』
『うるさい…!』
『ぅっ……、責任を自覚した時こそ、投げやりになんかならなかった!意志をハッキリして、生きて責任を取ろうとするのが君だった!』
『それは……アナタが見た一側面でしか……!!』
『なら、それも君自身な事には変わり無いじゃんっ!!!』
声が響く。耳の中を掻き鳴らす。
うるさい。
『違うんでしょ?君が死にに行くのは、誰の為でも何の為でもない!』
違わない。ボクはボクである為に、死に急いでいる。
スペさんの言う事は間違いだ。だから、うるさい。
『嫌になったんだ!クロがいない事に耐えられなくて、逃げ出したいだけなんだろ!!?』
必死が過ぎて、口調さえ変わる様は滑稽の一言。もういいから、黙って欲しい。
うるさい。
『そんなの、そんなの許さない!君が君自身の為って言うなら……!』
うるさい。
うるさいっ。
『僕も、僕の知る君の為に、君を逃がさないっ!!』
『
もうウンザリだ!だってボクは、アナタが何と言おうとボクは、もう!
『嫌です、嫌だ、ヤだァッ!!』
入ってくるな。
アナタはボクの心をかき乱す。クロだけだったボクの心を壊す。
だから、来るな!!
『クロのいない世界なんて、大っ嫌いだッッ!!!』
……あ、れ?
ボクは何を言ってるの?
さっきまで自分が掲げてた物を、嘘にしてしまった気がする。ううん、最初から嘘だった?
建前を、一線を投げ捨ててしまった。戻れない。戻せない。
どうしたいんだ、ボクは。
分からない。
何がしたいんだ?
分からない。
もう……自分の激情を、制御出来ない!
『ぅぁあぁぁぁああゃあアアアアッッッ!!!!』
『くぁっ……!』
嫌だ。とにかく此処にいたくない!誰も来るな、ボクに近寄るな!!
消えろ、消えろ、消えろ消えろ消えろッ!!
『僕は……またっ、間違え──〜〜〜!』
来る、苦しい、狂いそう、刳る。理性が削ぎ取られていく。これは何に対して、誰に対しての想いなの?頭の中がグチャグチャになって、心の中がズタズタに引き裂かれて、全部チグハグに繋がって絡まって!何処にいるのか、何をしてるのかももう分からない!!
クロ!ねぇ、クロぉ!どこにいるの、アナタの光は何処にあるの!?隠れないで、姿を見せてよ!じゃないとボク、ボクはもう、
───ァ、あ……ッ!!
翡翠の光!忌まわしいぐらいの緑の風!ぐわんぐわんと歪む視界でもお前だけは分かる、忘れるものか!お前だけは、クロを除いてお前だけはッッ!
『サイレンススズカァァァッッッ!!!』
『っ、グラスワンダー君……!!』
お前がいなければ!
お前さえいなければ、こんな事にならなかったんだ!
そんな気がしてならないんだ、自分でもなんでそう思うのか分かんないんだッ!!
無根拠で無価値な八つ当たり、そんなの自分でも分かってる。分かってるのに、心が言う事聞いてくれない!
『お前も!お前のニンゲンも!!いなければァッ!!』
アナタさえいなければ。アナタに乗る
──…クロは、帰って来れた。
『クロを……返せぇぇえええェエエェェェエッッ!!』
そんな気がして、ならないんだ。
『まだだ……まだ私は、終われない…!!』
違う。こんなのボクじゃない。そう思ってももう、不可逆の転落が止まらない。
落ちていく、どこまでも歯止めが効かないまま、ボクの中の全てが堕ちて、壊れていく。それを望む心と、拒む理性で、正気なんて保ってられない。ただ逃げ出したい欲求だけがボクの味方で、それを否定する事だけは出来なくて、それにだけ従って。
何だ、これは。
この有様が、グラスワンダーの終わりか?
ダメでしょう。
だから、怒って下さいよ。
ボクを叱ってよ、クロ。
じゃないと、ボク、ダメになっちゃうよ。
ねぇ。
クロ。
…………。
え?
『いやはや、
何?誰?いつの間に?
全員置き去った筈だ。スカイ君もキング君もスペさんも打ち砕いて、誰もついて来れる奴なんかいない。
その筈、なのに。
『さぁ残るはクライマックス、覇王たるボクによる怪物退治!ナイスアシストを期待してるよトップロード君っ!!』
『そんなの……絶対絶対しませんっ!!私が一番獲りますからっ!!』
いる。真後ろに二頭、初めて見る顔。誰?誰なの?どうして来れたのっ───!
『やっと……届いたなァ………!!』
まさか。そんな後ろから、威圧が届く訳無いのに。でも、声が今、確かに聞こえて。
『オラ、行けよ“牙”共──!!!』
ステイゴールド、先輩………!?
グラスが苦しむパートに入った瞬間から執筆スピード爆上がりしてて我ながら芝。具体的に言うと、それ以前の半分で2週間弱費やしたのにそれ以降の半分は2日で仕上がった
どんだけグラスをいじめたいんだ俺は