ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。
グラスの対処は迅速だった。
何故復活したとか、どうやってとか、そんな疑問を即座に脳内から追放。宿敵の接近に際し、まずは気勢を削ぐ事を第一とした。
——失敗。
強烈に放った対領域用の威圧は通じたが、しかし、寸前で別の領域に入る起点とされて実質不発に終わる。掴み所の無い空色から生命力に満ちた海色へ。
ならばと、もう一度。今度は対応させる暇も間髪入れずに制圧を試みる。
———失敗。剝がしたその裏から、更なる色が浮き出て来る。泥まみれの不屈色。未覚醒の世界なのに、頑として譲らない堅い意志。
『いい加減に……っ!』
まるで皆から説教されているようで、そうされるだけの自覚があるからこそ苛立って、またグラスは同じ轍を踏んだ。3度目の正直と念じて、それまでよりも強く。
————悪手。
『うぁッ!?』
まさかのカウンター。予想だにしなかった重圧の反射に、彼の脚運びが揺らぐ。
それを、もう1頭の栗毛は見逃さなかった。その背に跨る天才が、許す筈が無かった。
「———今だ」
今がその時だと勝負勘が囁く。
今しか無いのだと経験が背を押す。
同時に、不安がよぎる。
(行ける……か?)
怪物の猛追により、スズカに息を入れる余裕は無かった。ただでさえ本来の適正距離より長い2500m、脚はまだ残っているのか。
残っていたとして、
……怖い。
(———私は)
その時、鞍から伝わる想い。脈打つ鼓動が伝えてくる闘志。
(私は……“前”に、行きたい!)
「!!」
見開かれた瞳の中で、勇鷹は思い出した。初めて出会った日、新馬戦で心底楽しそうに先頭を駆け抜けた風の光景を。
活路はただ、前にあるのみと。
「そうだな」
一つ、息を吐き。
諦めたように、だが心底嬉しそうに。やがてそれら総てを、獰猛な笑みの中に飲み込んで。
僅か一度だけ手綱をしごき、叫んだ。
『行っけぇぇッサイレンススズカァァァァッッ!!!!』
「はああぁぁぁあああッ!!!」
《来た、来た来た来た!上がってきたスペシャルウィークだ、先頭集団を猛追!馬群を鮮やかに躱して三番手に入り、三頭で最終直線にもつれ込んだ————ッ!サイレンススズカ再加速、やはり復活だ!逃亡者の走りは死んでいなかった、十字の輝きに背を押されて大逃げ馬が今度こそ復活したぁ!!》
けたたましく実況が捲し立て、呼応するように歓声がターフを揺らす。その中をまず旋風が駆け抜け、次いで蒼炎が狙うも離され。更に流星が迫撃していく。一気にひっくり返った趨勢の中で、グラスは己の失策を呪った。
『何、が…クロの、所に、行く、だ……!!』
焦るあまり、口を突いて悪態が出ている事にも気付かない。それを後ろのスぺが聞いている事にも。
だがそれすら、今の彼にとってはあまりにも些末事だったが故に。自責はさらなる
再び火を噴くドス黒い
その札に捧げられる
だからこそ落ち着いて、対抗できるだけの持ち札を自身の中に探る。身代わりにした
(……上等。元より個人競技で個馬競技、本来の形に戻っただけだ)
残る札を残り少ない時間でどう使うか、生沿は思案を巡らす。スぺ自身がこれまで積み重ねてきた物、自分が得てきた物、それぞれ約2年ずつで計4年分の含蓄だ。しかしそれらも、一歩使い道を誤れば地にまみれて終わるだろう。
———そう。敗色が、濃い。
(どれだけこのレースに懸けてきたんだ、グラスワンダー)
標的の栗毛、前方で揺れるその尻尾に思わず問うた。これだけ鍛え上げ、メタ張って、集団で寄ってたかって、その上で皆の力を束ね、なお足りないのは想定外の極みだった。土壇場での馬達の結束を、彼はたった1頭で丸ごと瓦解させてみせたのだから。
その原動力が、あの芦毛の背中だとするなら。
(お前とは、腰を据えて話してみたいっすね)
思い出の烈日を、烈風を。それに魅せられた者同士で、語らってみたいと。
種族と言語の壁で無理なのは分かっているけれど。それでも一度は、似通う憧憬を抱えた者同士で時間を共にしてみたい。
その為にも……負ける訳にはいかないのだ。虹の向こうまで逃がす訳には、いかないのだ。
(覚悟は良い?)
スぺの思惑が伝播。思えばこの相棒とも、ここまで深く繋がれるようになったものだと思う。もう、抱く覚悟の
最終手段。ある種“卑怯”とすら罵れる、心を掘り返して傷跡を抉るような悪道だ。
だが。もしも、もしも総てが挫かれたなら。
届かなかったら。
「……出来てるよ」
最終手段は、躊躇わない。
幾多に分かれた選択肢、答えは分岐し正解は複数で不正解も多数。最後の一線すら届かない、最悪以下の末路すらあり得る可能性の坩堝だ。
そんな中でも、確かな事が一つだけ。
《残り500mを切った、さぁグラスワンダー差し替えすか!?窓葉一まだ動かない、拓勇鷹ここで初めて鞭を入れた!!》
視界に入ったゴール板。あそこで前に出ていれば良い。
アタマでも。
ハナでも。
1㎝でも、1㎜でも。
「勝った奴が、勝者だ」
当たり前の事。何よりも難しいそれを、当たり前にこなしてこそのトップジョッキーだ、と。その一念で生沿は、ライバル2頭との距離を測り続けた。
秒コンマ、瞬を重ねて時を待つ。眼圧が高まり、眼球が絞られたかの如くギュッと視界が狭まる。
その中心に、進路を捉え。
そこからグラスワンダーが、サイレンススズカが、僅かにそれた瞬間。
((今だ))
勝負だ。
スペと
「
今だけは、憧れは無し。1人と1頭のライバルとして、彼らを制して頂点へ。
「全部、差し切れっ───!!」
力一杯、生沿は吠えた。
力の限り、スペは駆け上がった。
(やっぱり君こそが、クロ君の後継者だった)
逃亡者の表情が、本馬も意図せず緩む。
スペシャルウィークが先頭の景色に、領域に踏み込んできたから。
誰も逃さない、誰も孤独にさせない走り。それをこそ、彼は今ここに継いだのだから。
(本当に、よくここまで来てくれた)
天才の口角もまた。デビューから面倒を見てきたひよっこが、もう由緒あるグランプリの先頭争いに加わっている。その事に喜悦を隠せない、彼に抱く自身の
だからこそ負けられない。超えさせない。自分の方がまだ上だと示して、彼らの憧れで在り続けたい。
その一念で、両者一層前傾姿勢に入った、その時の事だった。
ダメだ。
ダメだ。
ダメだダメだダメだッ!
スペさんが来た。サイレンススズカも満足に差せない体たらくのボクに、迫ってきた!!加速が僕より早い、不味い不味い不味い不味いっ!
『ふざ、けるなァ……!!』
クロが言ってくれたんだ。
ボクは有馬を二連覇する馬だって。ボクにグラスワンダーって名付けてくれる前から、そう言ってくれたんだ。
でもまだ1回しか勝ってない。まだ2回勝ってない、勝たなきゃ“クロの名付けてくれたグラスワンダー”じゃない!!
『負けたく、ないッ!!』
折角落ち着いていたのに、また激情で支配される心。どこまでも未熟な自分が嫌いだ、大っ嫌いだ。
でも、スペさんに一度でも負けて堪るか。
サイレンススズカに二度と負けて堪るか。
その為なら、どうなろうと……クロ以外に有馬記念で負けるよりも、よっぽどマシだッ!!!
『勝つんだ!勝つんだよッ、グラスワンダァァァ!!』
───届かない。
僕は賭けに負けた。グラスはここに来て、もう一段加速してみせた。
一応、追いつく事は出来る。脚は僕の方が残ってるから、それを発揮すれば追い付けるんだ。追い付く事までは、なんとかなるんだ。
(問題は
グラスはまだ領域の残弾がある。無かったとしてもまだまだ死力で搾り出してくる、それを今目の前で実証された。となれば、このまま並んでも十中八九、
今僕が領域から弾かれれば、もうグラスには追いつけない。グラスを止められなければ、きっと栗毛先輩を差し切って、そのまま。
そうだ。負けだ。
負けた。“スペシャルウィーク”は、グラスワンダーに敗れた。
……だから。
『やるしか無いだろッ!』
記憶から掘り出したエルの領域、その初歩。グラスの威圧にはまず抗えない再現度のそれを、予め使って再加速した。ここが大詰め、正念場だ。
僕では勝てない。だから、だからこそ。
(スペ、ごめん)
謝んないでよ、イキゾイ。
覚悟は良いかって聞いたのは、僕だよ?
(でも……これじゃお前は、お前が……!)
(死ぬ訳じゃない!)
(
………分かってる。
(お前が、お前自身が報われないなんて……クソッ!!)
声無き対話、切り取られた一瞬のうちに終わったそれ。たったそれだけの中でも、僕はイキゾイに感謝する。
(ありがと……!)
痛みを共に背負ってくれた、そしてこれから背負ってくれる相棒へ。
“唯一”を勇鷹とすれば、“無二”を担う片割れの彼へ。
そして何より、この身を。
思い出の白銀に、捧ぐ!!
『──貫、け……!』
エルの力を起点に今一度、
さぁ届け。届かないと何も始まらないんだ。
だから届け。
届いて。
届けよ……ッ!!
《グラスワンダー!グラスワンダー!!サイレンス頑張っている!》
まだだ。
もっと必要だ。
《スペシャルも来た!テイエムは!?テイエム来た!!!》
でも、これ以上はダメだ。これ以上出したら止める。
スペの限界が近い。いや、もう若干超えてるのか?どっちにしろ、普通なら止める局面。
クロの末路を目の前で見た俺なら、尚更。
《外から三頭!最強の三頭!!誰だ?どれだっ?!》
───そう。
目の当たりにした、俺だからこそ。
《近くて遠い残り100mッ!》
止めない。
止めさせやしない。
あの日、アイツと運命を共に出来なかった俺だからこそ!
《勇鷹渾身の鞭!鞍上も決死の覚悟だ!!》
だから今はもう、他の全ての情報を遮断だ。見るな、聞くな、触れるな!ここはもう俺達だけの世界だ!!
なぁ、スペ。
これ以上は超えさせないぞ。
でも、止めないぞ。
グラスよりお前の方が俺には大事だ。でも、グラスを想うお前の心だって大事だ。
だからお前が死にかけるその瞬間まで、俺は一緒だ。今度こそ一緒だ。
お前が
だか、ら、どうか………!!
『──貫け、ぇぇええ!!!』
クロがやり遺した事を!
クロのいない世界で、クロの分まで!
それがお前の、為すべき事なのならっ!!!
《並んだ!横並び!完全に並んで今────》
来るな。
来ないで。
ボクの一番嫌いな馬。
ボクの一番見たくないニンゲン。
ずっとクロと一緒にいた馬。
ずっとクロと一緒にいたニンゲン。
ボクの悪夢。
ボクの現実。
来るな。
寄るな。
───隣まで来たその馬体に、もう視線すら向けられない。
向けられたその瞳に、目を合わせられない。
怖い。
恐い。
迫るその脚音が、待ち望んだ死神よりも恐ろしい!!
『来るなァァァッ!!!』
(来た)
スペシャルウィークは悟った。
(チャンスだ)
生沿健司も感じ取った。
(ここしか無い……っ)
千載一遇。
(やるしか無いっ!)
次など無い、最後の。
「『今だァァァァッ!!!!』」
人馬が、吠えた。
人馬で、吼えた。
『は?』
手応えはあった。
確かにあったのだ、グラスの中には。
スペの繰り出した
──にも、関わらず。
(なんで)
おかしいと、そう感じたのは。
打ち砕いたのが、
グラスには知る由も無い。スペシャルウィークが繰り出していた
妨害を仕掛けられるその瞬間、スペ達がその中から……
グラスが消せたのは……矢面に立った方、ただそれだけだった事など。
『───ッ、さ──!!』
一つが消えれば、もう一つは残る。一瞬遅れて、その事実に気付く。即座に最後の、今度こそ最後の妨害を放とうとして。
『──せ、な……』
しかし。
残ったのは。
スペに、遺されたのは。
グラスに見せたのは。
『──ぁ───Ah……』
誰よりも、見ていた。
ずっと隣で、見つめていた。
だからスペシャルウィークは、今、この瞬間。
確かに、
『く、ろ……?』
グラスの喉が震える。もう彼には、何も出来ない。
かつて、クロスクロウの領域をスペが使おうとした時。グラスはそれを阻み、勝った。今回もそうすれば良かった。
だがもう、今の彼には出来ない。
クロスを求め泣く彼に、その面影を消し去るなど出来やしない。
ただ見上げ、見惚れ、目で追って。
故に、窓葉は動ける。
(グラス………っ!!)
やっとだ。やっと、重苦しい滅びの海から浮上できた。グラスの集中が弱まった隙を突けた!
脳が活動を再開し、視神経から送られてくる情報を正常に処理できるようになる。視界良好、今どこだ?ゴール目の前じゃないか!僕とあろう者が、どこまでグラスに無理させたんだ!?
「止まれぇぇぇ!」
勝負なんかどうでも良い、罰則なんか二の次だ。一瞬でも早く止める!まだ間に合うという、自分の勘を信じて手綱を引く!!
(ライス、僕に力を!)
もう君の悲劇は繰り返させないから。こんな土壇場まで何も出来なかった僕だけど、それでも力の限り足掻くから。
だから、もう良い。もう良いんだグラス。
まだ……まだ、
体勢を崩された。首が背中へと引っ張られ、全力を出せるだけの姿勢が保てない。
マドバさんの手による物だとすぐに分かった。抗う術は皆無。だからずっと、僕の中に
ああ。もう、届かない。
銀色に、届かない。
でも何故だろう。一抹の満足感が、ボクの心にあった。
クロがそこにいる。
クロの一部が、
それだけで、ボクは。
グラスが止まってくれたのはすぐに分かった。乗ってるニンゲンさんが止めてくれた事も。
ああ良かった。これで良かった。グラスはもう助かった。グラスの視線は確かに僕に向いてて、釘付けになってて、だから死ぬ理由は無くて──
──………あーあ。
『君は……それで良かったの?』
隣から栗毛さん。嫌な質問しないでよ。良い訳ないじゃん、折角自立出来たと思ってたのに。僕自身の、僕だけの未来を行くつもりだったのに。
でもこれしか無くて、だからこれが一番良かったんだ。反省はあっても、そこに後悔なんてあるもんか。
それに、ずっと
『でも栗毛さんは、
『っ……うん。約束するよ』
『お願いだよ。自分自身のまま、幸せになってね』
『絶対になるよ。だから、スペ君も──!』
残念、もう時間切れ。目の前にゴールの板、後一歩で全てが終わる。
このレースが、皆との思い出が、僕の青春が。
クロとの思い出が、終わる。
幼い僕が、終わる。
その最後の1歩だ。悔いなく勝って全てを置いていこう、さぁ。
懸命に脚を伸ばせ。クロならそうした。
全力で首を伸ばせ。クロならそうした。
必死で、決死の覚悟で、我武者羅になれ。クロがそうしたように。
────クロスクロウに、なれ。
『う…ぉぁ゛ア゛ァ゛ア゛ア゛ア゛あ゛あ゛ぁ゛ッ゛!!!』
《スペシャルウィークか!グラスワンダーかサイレンススズカか、冬のグランプリここに決着か──?!!》
「「「おおおおぉぉおおおーーッ!!!」」」
ゴール板を三頭が駆け抜けた刹那、誰も彼もが興奮した。
誰もが目を輝かせた。
凄まじいまでに、歴史上にも類を見ない結末だったから。
《こうも接戦だと、誰が体勢有利に見えたのかすら分かりません!掲示板には審議の2文字、もはや当然とばかり!》
《サイレンス……よく頑張ってくれました、それだけで最早大偉業です!!》
《それもそうですが手元の時計見てください、何ですかこの数字は!?》
馬達がどんな思いでこの場に臨み、如何なる想いで駆け抜けたのか。誰も知らないし分からないまま、喜悦が混沌を呼び絶叫が狂乱を招くある種の地獄。
そんな様相の観客席に見下ろされながら、グラスワンダーは彷徨い歩く。覚束ない足取りで痛む身体を引き摺って。
もうありとあらゆる側面で限界。視界は滲み耳は鳴り続け、平衡感覚も危ういまま歩き続けている。倒れてしまうのも目前、といったところで。
「グラス!」
いつの間にか降りていた窓葉が、横からその身体を支えた。人と馬の体格差こそあれど押されるその感触だけで僅かに五感が正常を取り戻した。
促されるままに膝を折り、座り込む。呼吸を忘れていた肺が、えずくという形で今更酸素を欲した。
『うぇ、あっ、ひぐっ……!』
溺れるように吸い込んだ寒気。その冷たさに平静を取り戻していく精神。深呼吸こそままならないが、それでも周囲の空気を感じ取れる程度には。
だからこそ気付く。自らを取り巻く視線達に。
(──そうだ。ボク、負けたんだ)
死を欲し、目指し、逃避を選び続け。その為に皆を篩い落として、その末に。
(負けて、生き延びたんだ)
最後の最後で、死を拒んだ。
『……ッ、は……!』
顔を上げられない。スカイ君が、キング君が、どんな目でボクを見てるのか知りたくない。でも知る義務が、この恥晒しな事態を引き起こした責任がボクにはある。
もう死ぬ気力すら失ってしまった以上、己の責を果たすしか無い。
顔を上げろ、と。
呵責を受け止めろ、と。
(早く、早く──!)
『グラス』
負目ゆえの焦燥に浸るその顔を、上げさせたその声。主は黒鹿毛、その姿が眼前にあった。
スペシャルウィークだった。
『……辛い?』
そう問う彼自身も、傍目から見ても満身創痍なのは判断に容易い。全身から立ち昇る汗の蒸気と、血走った瞳が物語る。
だがそれでも、立っていた。怪物を討ち負かした旗頭として、仁王の如く大地に立っていた。
『………辛い、よ』
投げ掛けられた言葉に、抗う事も出来ずグラスは答えた。否、自身の素直な心を引き摺り出された。勝者と敗者の如実な力関係である。
だがそんな状態になって尚彼の心根は変わらない。
『クロのいない世界で、生きていける気がしない』
実行する気勢こそ失えど、凶行に至るまでの動機は未だ胸の内に燻っている。その根を断たない限りは、陰鬱は幾度でもぶり返し再発するだろう。
『ボクは……ボクはこれから、どうしたら良いの………!?』
その中で、静かにグラスは叫んだ。五月蠅さなど微塵も無いそれは、しかし確かに悲鳴だった。助けを求める呼び声だった。
だからスペは、示す。
救う手立てが、彼にはあったから。
『
『!』
纏う空気の変質。スペを中心に起こったそれを、グラスは機敏に感じ取る。
まるで、目の前に立つのがスペでは無くなったような──寧ろ、この佇まいは。
『グラスが求めてる物に、僕がなる』
ああ。Ah、嗚呼。
スペは変わった。変わる道を選んでしまった。
そうさせたのが自分なのだと、グラスは嫌が応にも理解させられてしまった。
『僕が──
否定出来ない。
救われてしまったのは自分だから。
救わせてしまったのは自分だから。
クロがいないとダメだと、そう示してしまったのは自分自身だから。
グラスはもう、受け入れる他無い。
(スペ、さん……っ!)
絶望している自分が憎い。
そうでありながら、目の前の彼に希望を見出してしまう自分が悍ましい。
スペシャルウィークは、クロスクロウではない。代わりにはなれないし、してはいけない。
そもそも、大事にしてたか?
さっきまで邪魔だ失せろと喚いていた身で、今更どのツラ下げて?
何か言う権利自体が、そもそも無いのでは?
『……行ってくるよ。だから見てて』
そうして惑い続けるグラスの額を一舐めして、スペは踵を返した。陽光に照らされたターフへ、今一度躍り出る。
その背中をグラスに、誰かを思い出させるべく魅せつけるように。
『同じ所まで、追いついて来い……!』
何も言えない。
止められない。
『ぁ、あぁ……っ!』
それは嗚咽か、歓喜か。
確かに見出してしまった白銀の影に、心の奥底をぐちゃぐちゃに掻き回されながら。
駆け出す躯体を、グラスは震えながら見送った。
スペが走る。
スペシャルウィークが、中山の第一コーナーを駆けていく。
《ん……これは、ウイニングランか!?生沿健司、それほどの手応えありか!》
審議のランプはまだ光る。どよめく場内、その中を進んでいく。
彼の記憶に強く残る、
すれ違ったサイレンススズカ、そして拓勇鷹がそれを目にして……次いで、目を伏せた。
やがて掲示板が光り輝く。勝敗を告げる、終幕を告げる。
それは無情で。何よりも残酷な、
| 中 山 | 9R | 確定 | ||
| ❶ | 3 | |||
| ❷ | 2 | >ハナ | ||
| ❸ | 7 | >ハナ | ||
| ❹ | 11 | >4 | ||
| ❺ | 10 | >3 | ||
決着という名の、祝福。
一つの時代に打ち込まれた、揺るぎない楔であった。
《…………!!有馬終結!ここに終止符、それを刻んだのは───
スペシャルウィークだァァァァッ!!!』
リベンジ、と人は呼ぶ。
有終の美、と人は讃える。
最強古馬、と。その2文字を掲げる偉業だと。
それは間違いなく祝福だった。
そして間違いなく呪縛だった。
分かった上で、スペシャルウィークは走り続けた。分かった上で、生沿健司はその拳を突き上げた。
これから往く、自ら選んで決めた茨道。その岐路に立った己を戒め、鼓舞するように。
………何よりも。
それぞれの胸にある、銀十字の記憶へ誓い合って。
| 有馬記念【G1】 1999/12/26 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 着順 | 馬番 | 馬名 | タイム | 着差 |
| 1 | 3 | スペシャルウィーク | 2:30.5(R) | |
| 2 | 2 | サイレンススズカ | 2:30.5 | ハナ |
| 3 | 7 | グラスワンダー | 2:30.5 | ハナ |
| 4 | 11 | テイエムオペラオー | 2:31.3 | 4 |
| 5 | 10 | ツルマルツヨシ | 2:32.0 | 3.1/2 |
《史上初の秋古馬三冠、ここに爆誕!時代が一つ、ここに変わりました……
“ありがとう”、スペシャルウィーク!!》
その実況を皮切りに、巻き起こったのは大歓声と大拍手。
激闘への賞賛、感謝。20万人もの人々が思いを一つとして、鮮烈な光景を創り出した16頭と16人に惜しみ無く。彼らの筆頭たる、総大将へ絶え間無く。
その轟音の中で、1999年の有馬記念は、黄金の時代と共に幕を下ろしたのだった。
最後に、一言。