クロという馬を語る上で、イキゾイは欠かせない存在だった。
人馬一体そのもの。レースの時はおろか日常から近しく、一頭と一人の息はいつだってピッタリ合う。僕はユタカさんとも、イキゾイ本人とも終ぞ辿り着けなかった世界で。
その証拠に、イキゾイと組むようになってから僕はクロに勝てなくなった。全力の併走を重ねれば重ねる程、僕の方には黒星が積まれる。それ程までに、クロの走りに、その馬生においてイキゾイは甚大な存在だったんだ。
だから警戒した。
イキゾイは頼れる存在で。
クロを救う鍵かも知れなくて。
だからこそ怖い。
彼がクロに齎す変化を予測できない。
グラスからクロを奪いかねない。
もしこの世界にイキゾイが、またはイキゾイに
把握しておかなきゃいけなかった。イキゾイがクロと再会するその前に、その動向を掴んで手の内に置いとかなきゃいけなかった。
トレセンに入って、トレーナー名簿を調べて、その中に当て嵌まりそうな名前が無かった時。僕の中に芽生えたのは、落胆と安堵が同じだけ。
それも今では、全て水の泡か。
「……確かめなきゃいけない」
「スペちゃん、あそこに」
「分かってる」
彼が本当にイキゾイなのか。
その存在は、僕達にとって利となってくれるのか。
クロとグラスの仲を、脅かしかねないのか。
クロを助ける力に、なってくれるのか。
グラスと共に、彼をよく知る2人で。
「こんにちは、行末トレーナー」
「君は……スペシャルウィークとグラスワンダー?」
──ああ。
その腑抜けた顔。初めて会った時、ユタカさんにビビってた頃の君そのものだ。
そっか。“本物”なんだね。
「ちょっと、お時間貰って良いですか?」
久し振り。
僕の、旧友。
「───なるほど。恐怖余って尻尾を巻いちゃったと」
「ぐおぅふ」
「自分で言った事を復唱されただけでダメージ受けてどうするのよ」
翌日の教室。突っ伏すクロさんに対し、私が出来るのは呆れ顔を向ける事のみ。
というより、コレは。
「それとも……咎めて欲しかったのかしら?」
「……そこまで読まれちゃ世話無ぇなぁ」
やっぱり。本当になんとなくだけど、自己嫌悪が彼女の表情から醸し出されてたから。
「あんなに激推しして貰ったのにさ。曖昧な返事ではぐらかした俺自身が情け無ぇって寸法だよ」
「それが分かってるなら──いえ、
「んだんだ」
恐れ。
謙遜。
それらが一周回っての、卑屈。
言葉にするのは簡単だ。根治に繋がらない事さえ気にしなければ。
「キングはそういうの、無かったの?」
「あるわよ」
正確に言えば、あった。過去の話だ。
「あんの!?」
「悩みを共有できると思ったから聞きに来たんじゃないの!?」
「いやぁ堂々としてるキングを見習おうと思って来たから……よもや同じ苦悩を抱いてたとは」
こっちのセリフだと言いたくなる。私の知る貴方こそ、こんな悩みとは無縁だったように思ってたから。
寧ろ救われたのは私の方。導かれたのは私の方。駆け抜けていくその背中に、どれだけ勇気付けられたか。貴方は知らないし、知ってたとしても覚えていない。
「気の良い誰かさんが、悩む私を全肯定してくれたから……かしらね」
「へぇ。キングにとってのおやっさんみたいな人がいたのか」
「おやっさん?」
「宮崎悠真さん。俺を拾ってくれた人なんだ、恩返ししなきゃと思ってる」
出てきた名前を即座に脳内メモ。次の定例会議で議題に挙げよう、きっとスペさんの助けになる。………なんかお母様から聞いた事ある気がするのだけど、気のせいかしら?
一瞬でそれを終わらせてから、私は改めて紅蓮の瞳と向かい合った。私の言葉を待ってる、その微笑みに応じるべく。
「本題に戻るけれど。何が怖いのか、自己分析は出来てるの?」
「んーと、アレだ。薬物」
「誰だって怖いわよ!?」
「そうじゃなくて、俺にとって行末トレーナーが薬物みたいな感覚がするんだよ。変な依存性を自分の中に感じてるんだ、それに溺れるのが怖い」
「……それは」
俗に言う“運命”という奴、ではないのだろうか。
特定のレースに惹かれ焦がれるウマ娘。特定のウマ娘に灼かれ求めるトレーナー。過去も動機も無いそんな事例が、この世界では頻発する。理屈は解明されていないが──前世の記憶を持つ私達には察しが付いてるけれど──最早それは、ウマ娘に携わる人々の間では常識として定着されている見識だ。
クロさんが行末さんとやらに感じたのは、まさしくそれなのでは?
「良いじゃないの。一方的ならともかく、トレーナーが貴方を求めるように貴方の心も彼を求めてるならそれに越した事は無いわ」
「ダメなんだ」
「何がよ」
「1人で立てなくなるのは、嫌だ」
「………」
けれどそれをクロさんは拒絶する。自立したいという欲求、一見すれば立派な御題目。良い理想じゃないか。
でも私達は、独りじゃ強くなれない。
「私達が自立出来ない弱腰だと言いたげね」
「へ?いやそんな訳アイタァッ?!」
「そんなつもりが無い事なんか百も承知よ。言葉選びに気を付けなさいって言ってるの」
思い詰めた額にデコピン。
変異と不変が重なり合って、酔いそう。
「良い?貴方が一度でも“欲しい”と思ったのなら、それは貴方の中で既に確実に不足してる物なの。それを今更拒絶したって何も変わらないんだから、将来自立したいならこそ大人しく求めなさい」
「でもそれに頼り切って足るを知らなかったらキリが無いじゃん……」
「ならそれも一興よ。元より私は貪欲に
「……!」
一瞬の瞠目と、数拍の静寂。少なからず響いてくれたのだろうその反応に、確かな手応えを得て私は畳み掛けた。
「好きにすれば良いじゃない──いいえ、貴方は
「……どゆこと」
「行末さんは好きにしたんでしょう?貴方に自分の思惑を洗いざらい話して、判断を委ねた。なら次はクロさんの番」
「っ」
「明確な答えを返さなきゃ不義理だわ。是か非か、好きな方でね」
厳しい事を言ってる自覚はある。そもそもクロさんがこんなウジウジした悩み方をする事自体が新鮮で予想外で、混乱しているのが自覚出来るくらいだから。
じゃなきゃ説明できないから。
内心で噴き上がる、この
「───分かったよ」
やがて顔を上げた彼女。瞳に宿る紅蓮の輝き、その懐かしさに声を上げそうになった。
嗚呼、クロスクロウだ。
「勇気は出ねぇ。けど覚悟は決めてみる」
「悔いの無いようにね。応援してるわ」
「……やっぱ付いて来てくんね?心細くなってきたわ」
「ダメよ。自分で決着つけて来なさい」
「だろうな。ああ、やってやる──!」
席を立つやいなや、教室の出入り口に向かって駆け出すクロさん。けど一瞬立ち止まり、そして。
「ありがとな、キング!!」
「───ッ──」
それだけ言い残して、あとは風のように。全く、彼女ときたら。
(バレてないと良いけど)
未だドキドキと高鳴る心臓。恋だとか憧れだとか、そんな綺麗な言葉では説明できない情動で。
その名は“優越感”。
(クロさんに説教できる現況に、私は喜んでいた……!)
いつも私を追い越して前を行っていた彼に、彼女に、明確に優位な立場で話していた。その事にどうしようも無い高揚を覚えていた!
一流?冗談じゃない、まるで小物のテンプレートじゃないか……
……それでも、いつか誓った願い。貴方に会うまでに、他者を導ける王になると。
迷う貴方に助言できた自らが、それを叶えられた気がして、どうしても嬉しかったのよ。
「自覚しても止められなかった辺り。まだまだ、お母様に顔向けは出来ないわね」
「そーだそーだぁ、私にだって説法出来ないぞぉ」
「きゃあ!?──スカイさんっ!!」
「にゃはー、キングの弱み見ちゃったもんね〜」
ただでさえクロさん相手でこの始末だというのに、
頭を抱えながら私は、逃げ行くスカイさんを差すべく追撃するのだった。
……さて。スペさん達の方は上手くやってるかしら?
「えーと。それで、2人とも俺に何の用?契約……は2人とも
会議室に私達を招き、向かい合って座った彼。その立ち振る舞いには確かにイキゾイさんの面影が見えた。
私は確信に至らずとも、スペさんはもう勝手知ったる様で。
「クロちゃん……クロスクロウに契約を持ち掛けたと聞きました。今回訪ねたのはその件です」
「……?」
「要領を得ないのも分かります。本来クロの問題、私達が首を突っ込むのも野暮でしょう」
本来なら、と念押しするように繰り返し。踏み入るその姿勢に押されたように、イキゾイさん改め行末さんも言葉を飲んだようだった。
続く言葉もスペさんから。言い淀む私が口を挟む余地も無く、
「でも行末さん、私達は知りたいんです。貴方がクロに賭ける夢は何なのか、何を彼女に求めるつもりなのか」
「夢……っすか」
「要は心配なんですよ。クロはまだトレセンに来たばかりで、あんな無茶苦茶な走りをしてしまうウマ娘で、それについて行けるトレーナーなのかなって」
……私が来た意味、あるんでしょうか。このままだとスペさん1人で全部の質問を済ませてしまう、いやスムーズに事が運ぶならそれに越した事は無いのですが。
そして、対する行末トレーナーは。
「俺は、クロスクロウに……命運を委ねるつもりっす」
「「命運??」」
そう答えた。
「俺がクロスに求めるんじゃなくて、クロスが求めた物を俺が提供する。要求するのは飽くまで彼女の方であって、俺から賭ける事も求める事も無い」
「イエスマンに徹する、という事ですか?」
「それはクロス次第かな。けど君達の友人は、自分の意見だけを押し通したがるような狭量なんすか?」
「………卑怯な質問をしてくれますね」
思わずムッとする私の横で、咎めながら苦笑で返すスペさん。そんな事を言われてしまえば、此方としては“否”以外の返答は有り得ない。となれば即ち、行末トレーナーはクロのイエスマンにはならないという事になる訳で。
なんだか、彼に喰わされた気分。
「だから俺は、そんなアイツの望みを一つずつ拾って、叶えて行こうと思う。そういう契約で、関係でありたい」
「………思いは分かりました。じゃあ私からは最後にこれだけ」
ここでスペさんの空気が変わる。感じ取った行末トレーナーが唾を飲む、私もまた。
「クロを不幸にしないで下さい」
「「っっ!!!!」」
「そこさえ押さえてくれれば。それさえ守ってくれるなら…………貴方を、
一瞬の抜刀。
瞬時の納刀。
威圧で構成されたそれらを、微塵の滞りも無く。スペさんの技量は、もしかすると
そんな物を受けて、私自身も隣で身構えさせた程のそれを真正面から受けて───
「嫌わさせるな、っすか……とんだ脅しっすね」
───怯ま、ない。
この時点でもう、答えは知れたような物だった。彼の覚悟は本物なのだと。
「……ふふっ。気を害したなら謝ります」
「いや、クロスをもっと大事にしようって思えたので良かったっすよ」
「思ってなかったんですか?前言撤回しましょうかね」
「ええっここから振り出し!?」
同じ確証を得たのだろうスペさんが笑う。これで、この場での話はおしまい。私の出番は、来た意味はやはり無いまま。
「じゃあ、このあとトレーナーで会議あるんで。レースじゃお手柔らかに頼むっすよ、将軍様?」
「冗談はよしてください。真正面から来てくれないと噛み砕き甲斐が無いじゃないですか」
「そりゃ勘弁だ」
……否。
「待って下さい」
「へ?」
「……グラス?」
まだ一つだけ、聞くべき事がある。絶対に抑えておかなきゃいけない事が。
「運命を委ねると。クロさんの望みを拾って、叶えてゆくと仰いましたね」
「…うん。そのつもり」
「
そこが気がかりだった。過ちの種はどこにでもある、意図しない所に必ず潜む物だから。彼女の事を何でも分かってると思ってたボクが、みすみす彼の苦悩を見逃したように。
「もしも、もし彼女が、自らを滅ぼす道を自覚しないまま選んだら……ッ」
「グラス!」
「貴方はクロさんを、止められますか……!?」
横隔膜が痙攣する。息が引き攣る、感情が暴走して見咎めたスペさんが手を握る。それを無視して、私は最後まで吐き切った。
呪詛にも似た問いかけだった。
「………間違い、っすか」
時間にして一拍ほど。しかしその短い時間の中で、行末トレーナーが熟考してくれたのは傍目からでもよく分かる。
出て来た答えが如何なる物でも、納得に足るように。
「正解かどうかなんて……やってみなきゃ分からない」
「それが、行末トレーナーとクロの選ぶ道なんだね」
「ああ。全ては結果が教えてくれる、トレーナーである俺はただ───」
深呼吸をして、彼はこう告げた。
「クロスの行いが“正しかった”んだと。そう示すだけっすよ」
「……ごめんなさい」
行末さんが去って訪れた静寂。何秒か何十秒かのそれを経てようやく、私はスペさんに謝れた。
「何が?」
「平静を失って、声を荒げて……邪魔しそうになりました」
「そんな事あるもんか。寧ろグラスの質問のお陰で大事な事がわかったんだ、ありがとね」
「私の質問で?」
でもスペさんは笑う。いつだって私を安心させるように、心配無いと伝える為に。
「うん。大きな収穫だよ──行末は敵じゃなくて、でも
「……!」
行末さんはクロさんの味方だろう。前世あの世界、クロさんと組んだイキゾイさんと同じように。
けど“ストッパー”にはなり得ない。それが今回分かった。
「“同じ”、じゃダメなんだ」
それじゃ繰り返すだけだ。あの悲劇を、絶望を。
けどだからと言って、クロさんと彼を引き離す事は叶わない。他ならない彼女自身が惹かれつつある、それを止めるのは本意じゃない。クロの幸せには繋がらない。
でも……でも!
「どうしよう、スペさん……!」
「……グラス。僕、割と現状を楽観視してるんだ」
「どこに気楽に構えられる要素があるんですか!!」
私達にしか出来ない。前世の記憶を持つ私達自身しか頼りに出来ない!
行末さんと直に話して浮き彫りになった事実に、早速心が折れそう。それでもスペさんは、僕から手を離さなかった。
「行末は確かに味方にはならないかもだけど、目的は同じ筈でしょ?クロに栄光を、その為にはクロが生きてないと彼の願いは果たせない」
「でも、その過程でクロさんが誤ったら、それを正せなかったら」
「ニンゲンは、夢を魅せられた彼らは諦めずに執着する。二度と繰り返さないと努力する──過去何度も繰り返されて来た故障事例を、行末だって回避するよう尽くす筈だよ」
今は、そこだけでも信じても良いじゃないかと。スペさんが告げたのは、私を安心させる為だろうか。大人しくさせる為だろうか?
……ううん、今の言葉には実感が伴ってた。それをボクも、私も、信じてみる。
「僕達は私達にできる事を。まだ時間はあるんだ、慌てずにいこう」
「……はい……っ」
自らに言い聞かすように頷いた。まだ焦るなと、己を制した。
クロさんの為に。クロさんに救われた、私達自身の為に。
とんだ災難だったなぁと、今になって思った。ウマ娘、それもスペシャルウィークとグラスワンダーから覇気をぶつけられるだなんて。
(会議にも身が入らんレベルで消耗したぁ……)
「おぅい行末ぇ、たづなさんからのメール読んどけよ〜」
「あぃよっす〜」
何にせよ今日の業務はここまでだ。担当のいるトレーナーはこれからウマ娘のトレーニングに入るけれど、未だ手ぶらの野良勢はスカウトしかやる事が無い。そして俺は今の所“待ち”の姿勢である。
クロスクロウがいつ来るか。はたまた、来ないのか。
(……俺を、選んでくれるかな)
さっきあれだけ大口叩いといて、今更不安になる始末だ。俺が全てを捧げる気でも
けど信じてる。彼女は、俺を選んでくれるって。
(来い)
来てくれ。
頼む。
俺を、選んでくれ。
「行末!」
──来た。
かくして、彼女は、来た。
「決心がついた。そっちは変わり無ぇよな?」
「……ある訳が、無いだろ」
荒い息が、急いでここまで駆けつけてくれた事を物語っていた。俺を探してた事を、雄弁に告げていた。
兎にも角にも……クロスクロウが、来てくれた!!
「行末!」
「クロス!!」
差し出される掌をノータイムで掴む。熱い、熱い脈動。火が付いたように伝わり、お互いの身体を燃やすように。
「俺と一緒に、どこまでも来てくれ!!!」
「ああ!死んでもお前と共に……!!!」
この炎が燃える時は、俺も同じだ。
この風が吹き荒ぶ時は、俺も同じだ。
消える時だって、一緒だ。
全てをお前に捧げる。
またお前と、今度こそ。
行末に記憶は無いけど
内に眠る魂が