空気が水っぽさを帯び、
酷く惨めなレースをした。あの時の
これまで築き上げた物を自分自身の手で、大勢の前で台無しにして……オレは今、息だけをしている。
そんな俺の所へ、奴は唐突に現れた。
傍目から見ても衰えた肢体で。そうでありながら、かつての強さを思わせる風格を纏って。
歴戦の猛者。俺がなれなかった姿。思わず目を逸らす。
『ラストアンサーだ。覚えているか』
『……知ら、ん』
『!!』
「うぉっと!?」
「ブライアン、どうした!」
僅か一瞬。向けられたのは、ドス黒いまでの思念。目を合わせてすらいないのに伝わってきたそれに、オレは恥も外聞も無く臆した。臆して、こけた。
『…そこまで落ちぶれていたのか』
『ち……違…ッ』
一転、見上げた視線は呆れの色。次いでオレを引っ張っていたニンゲンに目配せし、その指示に従うよう促される。圧倒されたままのオレに、抗う選択肢など無く。
立たされる。並んで、歩く。地面に蹄を鳴らす、
『……言い分はあるか』
『え?』
『酷い負け方をしたと聞いた。何故だ』
ふと掛けられた質問に、咄嗟に返すことは叶わなかった。これは何だ?何を言っても言い訳にしかならない気がする、どうしろと?
『思った事を言えばいいだろう』
『っ……短過ぎたんだよ、距離が』
そんな俺の苦慮を一蹴する一言に、半ばヤケになって明かす。先日の醜態、その内容を。
『半周だけの走りじゃ、スタミナなんて余るに決まってる。加速だってロクに出来ないし、もっと距離が欲しかった』
『……驀進できる奴は限られるからな。お前は違ったか』
『そうだ。オレが強いのは最低でもあの2倍、ううんもっと欲しい。なのに勝てるわけが無いだろ!』
バクシンというのが何かは分からないけれど、なんとなく流れで意味は分かったので流す。そんな事より、一度噴き出た不満がもう止まらなかったから。
今になって沸々と怒りが湧く。どうしてオレが、こんな思いをしなきゃいけない?
『何で、なんでなんだよ!苦手な分じゃ負けて当然だ!もっと、もっと───』
『長ければ、勝てたか?』
そう身勝手でいられたのもその瞬間までの事。胸を張って言える返事を、今のオレは持ち合わせない。
言い返したかったさ。勝てるって、オレはこんなものじゃないって、見せつけてやりたかったさ。
『……っ、あ、ゎ………』
でも出来ない。得意な距離でも何度も負けて、何度も恥をかいて、オレの矜持は既に折れている。こんな状態で“勝てる”と言えるほど、オレの面は厚くなかった。
言い淀む声すら満足に出せず、吃音の呻きすら小さく掻き消える始末。そんな俺にいよいよ呆れたように、奴は大きく溜息を吐く。
『その有様では、もうおしまいだな』
『ぅ………』
『これにも言い返せないか。かつての三冠馬が、嘆かわしい限りだ……念のためもう一度聞くぞ。
念押しするような声音に、またも恐れおののく。影が怖くて仕方が無かったころの自分にどんどん戻っていく、還っていく。
いや───とっくの昔に戻っていた?
違う。最初から変わってなんかいなかったんだ、幼く臆病な自分から。
『──あぁ……』
諦めと同時に吐き出した肯定。どう思われようと仕方の無い弱音で、言った瞬間に自分の中の何かが切れる。
もう強がっていた頃の自分には戻れない。異郷のあの子に格好つけていたブライアンは、今この瞬間に死んだ。
それを聞き届け、見届けた奴が顔を上げる。天を仰ぐ、総てに対し
『そうか、そうか。本当にそうなんだな』
そうだよ。もう見放してくれよ、楽にさせてくれよ。
走れないんだ。速くなれないんだ。オレはもうここで終わりで良い、これ以上格好悪い所を誰にも見せたくない。
異郷のあの子にも、
小生意気な栗毛にも、
追いかけてくれた同輩にも。
だからオレは、もうここで。
『………』
『クソ、そうかよ。じゃあもう──
お前に負けた奴らも、ここでおしまいだな!!』
……?
『へ?』
そんな声が出ていた。誰の事だ?
オレが終わったとして、それに巻き込まれるような誰かがいるのか?
『だってお前、覚えていないんだろう?』
『何を、』
『今まで誰に勝ってきたか!誰を下してきたかも忘れちまったんだろう!?』
狼狽えるニンゲン達を強引に振り払い、奴はそう告げてオレと正対した。睨みつけてくる鋭い眼に何かを思い出しかけ、でも言われた通りやはり出てこない。
そうか、コイツは俺とどこかで戦って……でもオレは、その事を。
『憎みたくないんだよォ!!
惑うオレを絶叫が叩く。
痛い。オレの体じゃない、オレの心がでもない。
でも分かる。奴が、痛くて、泣いている!
『勝ったお前が覚えてないんじゃ!お前が敗者として去った時、誰が“敗者の敗者”なんか省みてくれるんだ!?』
『それ、は、』
『そのお前がこの有様じゃァ!!!まるでライスの頑張りが無意味だったみたいじゃないかァ!!』
涙ながらの訴えに何一つ返せない。アイツとは、嗚咽に曇ったその名前が誰なのかも聞けない。きっとそれは、オレに負けた誰かで、オレの後塵に拝した誰かで、でもそれ以上の事は何も。
そんな奴らがいっぱいいる。オレが歩んできた足跡の分だけいるんだ、と。
オレがここで終わったら。
惨めなまま、おしまいになったら。
彼らは、どうなる。
『……勝者だろ、お前は』
息を整え、問い掛けられた。オレの存在意義、オレのアイデンティティを。
『───なぁ……お前は、ナリタブライアンなんだろう?』
頼むからと。終わるなと、終わってくれるなと。
俺にその末路は許されないと、そう言ってくれていた。
だから俺も、こう答える事が出来た。
『…そう、だ』
死ねない。まだ終われない、止まれない。鳴りやまない胸の奥の鼓動が、踏み潰してきた影が迫る限り。
『オレはまだ…
オレは走った。
背を押され、誰かの祈りと、呪いを背負って走った。未来の為に、強かった自分をもう一度目指して走った。
全力を懸けて、走って、走り抜いて、そして───
それでも
《体制完了しました、第41回有マ記念───ゲート開いたッ!》
ブライアンちゃんの走りはよく知っている。私が一番分かってる。
その底力も、限界も、全部。
「……」
「っ」
中団後方に位置付く彼女に対し、私はその左斜め前に陣取った。ジロリと一睨み、けど何も怖くない。
怖くないブライアンちゃんは、ナリタブライアンなんかじゃないから。
《スタートが心配されたヒシアマゾンは後方からのレース、予想通りカネツクロスがペースを作っていくのか。3コーナーから4コーナーへ、後方からはマヤノトップガンが追っていますっ》
ウマ娘のレースでは実況もまた重要な情報源。目だけでなく耳でも、要注意なライバルの情報が手に入るからだ。逃げるマヤノちゃんも追い込むヒシアマちゃんもこれで把握して、そしてマーベラスちゃんに関しては目視出来る範囲にいる。中団前方、先行策。
……位置が見事にバラけた。お互い邪魔し合う事も無く、順調にそれぞれの作戦を遂行するだろう。私に張り付かれたブライアンちゃん以外は。
ピッタリと張り付いて、塞いで。
脱しようとする動きを、妨げて。
皆からの視線を、遮って。
《さぁ一周目、正面スタンド前のホームストレッチです!ファンでギッシリ埋まった中山競バ場を14人が駆け抜けていきます。一番人気サクラローレルはインコース、じっくり待機!》
誰からもあなたが見えないように、私が封じる。あなたを奥深くに埋め立てる。その醜態を晒させたりするものか。
その証拠にほら、誰も貴方に言及しない。既に終わったあなたを、私に晦まされただけで誰も探そうとしない。その事実が、私の正しさを証明しているのだと後押しするようだった。
ここに、ブライアンちゃんは立つべきじゃなかったのだと。
「ローレルッ!!」
……それでもあなたは気付くんだね。ヒシアマちゃん。
続く言葉は無い、レースにそんな余裕は無い。でも言いたい事は分かる。
ブライアンちゃんをどうするつもりだ、とか。彼女だけに注力して勝負を捨てるつもりか、とか。私自身がよく分かってる。
でもね。ナリタブライアンは私の“光”だったんだよ。走れなかった私の希望だったの。
ダービーに出られなかった私の目の前で、その栄冠を持って行ったあなたに焦がれたの。諦めた菊花の証を掴み取ったあなたに灼かれたの。
妬ましくて、それ以上に強くて、美しくて、納得させられる存在。憧れとして昇華されたその感情は、私に歩き出す力を与えてくれたの。
だから。
だから───お願いだから!
「
私の記憶の中で。どうか二度と蘇らないよう、丁寧に丹念に埋葬する。
ありがとうナリタブライアン。
ごめんね、ブライアンちゃん。
「くっ……!」
《さぁ向正面に入り、サクラローレルここで進出か!各ウマ娘ギアを上げて第3コーナーへ──!》
元より勝負を捨てたつもりも無い。ブライアンちゃんのセンスは衰えて尚鋭くて、勝負所をよく分かってる。だから張り付いてそれを殺した、活かされたら困るから。
そして同時に、利用させてもらったんだ。ずっとブライアンちゃんを見てた私だからこそ、前にいながらマークできた。彼女が動こうとした瞬間に封じれたし、その瞬間に乗じて始動出来た。
ナリタブライアンの強みを
「終わりだ……全部ッ!」
この執着も、未練も、因縁も───!
「行っけぇ!先輩ぃぃぃ!」
隣でスカイの応援が轟く。彼女がさっき俺に告げた警告、その意味を俺はやっと理解出来た。
「嘘だろ……ここまで一挙手一投足を押さえ込むか、普通!?」
行末の説明が全てを物語っていた。ナリタブライアンのすぐ直前を独占し、コース選択の自由を完全に剥奪するレース運び。それでいて周りのウマ娘への牽制も欠かさず、彼女を孤立させて周囲から完全遮断した。
この有馬、後半に至るまでブライアン先輩は何一つ大勢に関われていない。ローレル先輩の手で徹底的までに囲い込まれ、除け者にされてしまったんだ。
そのローレル先輩が今、徐々にスパートをかけ始める。いよいよ差が開く、置いて行く。
(………なるほどなぁ)
お前が見せたかったのはコレか、スカイ。お前が俺にやりたいのはこういう事なんだな、セイウンスカイ。
いや怖いわ。どれだけの深い情念を燃やしたらここまで追い詰められるんだ?
(分かったよ。この目に焼き付けてやるさ)
お前はブライアン先輩から目を離すなと言った。こうやって何も出来ず、許されず、落ちてゆく栄光を直視しろと。なら望み通りに見届けてやろうじゃねぇか。
でもな。それはただ、無様を眺めるためじゃない。
「……何する気だ?」
俺なら諦めてる。絶望してくたばってる、そんな絶望的状況にて。
未だ気迫を緩めないブライアン先輩の姿を、最後まで見つめる為だ。
「怪物先輩、教えてくれよ」
何がアンタをそこまでさせるのか。追い詰め、追い立て、疾走へと駆り立てるのか。
最後の瞬間まで、俺に魅せつけてくれ。