少しだけ、言い訳する。
お化けを見た。銀色のお化け。ぼんやりと透けた銀の馬。
それは滑る地面に苦労する僕と同じように苦しそうで、そして僕以上に遅かった。ズルズルと下がっていく様子がまるで他馬事に思えなくて、目を逸らしさえした。
勿論、これは理由にならない。例えレースに完全に集中できていようが、ノイちゃんに粉かけた
悔しい。ノイちゃんに負けたくなかった。リオとやらに勝ちたかった。そのどちらも叶わずに、原因を墓へ押し付けようとしてるのが今の僕。情けないったらありはしない。
変わらなきゃいけない。
もっともっと、強くならなきゃいけない。
そう自分を急かすのは……今目の前の、絶望的な光景があってこその物だった。
『……プイちゃん、私……』
『謝らないで。ノイちゃんは悪くないよ』
『でもっ』
ニンゲンさん達に馬房から連れ出されるノイちゃん。どこに連れて行かれるかは、
帰るんだって。大舞台を、本番を前に、体調を崩した彼女だけ。
『もう治ったのに、私……ゾイっぴ達を喜ばせてあげられないなんて、そんなのヤダよぉ!』
『どうどう!ノイジー、ごめんな。俺達が不甲斐無いばっなりに……』
『…………しょうがないよ。万が一があったらいけないって、それがニンゲンさん達の判断だってマンボさんも言ってたじゃん。僕だって、ノイちゃんには元気でいて欲しい』
『いられないよ!約束何も守れてないもんっ!!』
ニンゲンさん達が持ってきた変な
だから彼女は走れない。ニンゲンさん達から期待されたレースを。
競えない。リオと約束した決着を。
一緒にいられない。僕と。
それが悲しくて、それを悲しんでくれて、ノイちゃんは叫ぶ。
『勝ちたかったよぉ!なんで、どうしてこんな……!』
『僕が勝つ!!』
泣き声が止まる。当然だ、それぐらい驚かすつもりで叫んだんだから。
僕らしくもない嘶きだけれど……好きな
『僕がノイの分まで、皆の為に勝つよ!』
『プイちゃん……』
『だから君も!
ここが終わりじゃないんだって伝えたくて。皆から愛されるノイちゃんには、まだ絶対やる事がある。その為にも、ここに未練を残して欲しくない……じゃあ、僕が背負うしか無いだろ。
だから信じて欲しい。頼って欲しい。君の目の前にいる牡馬は、それに足らないくらい情けないの?
『……あはっ』
その問いを念じながら送った視線に、返ってきた答えは「否」だった。
『悔しいなぁ。プイちゃんにそんな格好良い事言われちゃう日が来るなんて、ノイ思わなかったよ』
『えっ格好良いってホント!?……いや待って。それ以上になんか侮辱された気がするっ!』
『あははっ!ううん、そうじゃないの。なんだか安心しちゃって』
軽快に笑いまくってから、再び開かれる瞼。そこにさっきまでの惑いや悲しみは無くて、誠実な光が僕を射抜き返してくる。
良かった。ノイちゃんはもう大丈夫だ。
『──分かった。皆の願いを叶えてあげてね、プイちゃん。ここからいなくなる私の分まで』
『任せて。ぜったい、ぜったい、ぜっっったい……』
絶対に勝つ。約束を託され、新たに誓う。去っていく可愛い栗毛の尻尾を見つめながら。
もう僕一頭の戦いじゃないんだ。ユタカさん、ヌマエさん、
その全てを背負うと思ったら、ズシンと背が重くなった気がした。思わず悲鳴を上げそうになった。
『──応えなきゃ…………!』
速く在れなきゃ勝ってきた意味が無い。
強く在れなきゃ生まれてきた意味が無い。
この重圧を背負い切る力が欲しい。この苦しさをパワーに変える、そんな力が。
お化けさん。
貴方も、あそこを走ってるんですよね?
僕はなんでも利用して、何をしてでも勝たなきゃいけないんです。
それが皆の願いなんです。
だからお願いします。
他馬事とは思えなかった貴方の力を、どうか。
この僕に、貸して下さい。
『……
モニターに映し出されるのはフォア賞の最終直線。逃げて差し、差して逃げ切ったノイジーの姿が輝きを放っていた。その鞍上で、確かな手応えを得ていた俺の姿も。
届く気がしたんだ。あの日、眺めてる事しか出来なかった紅蓮の光景に。
初めての海外遠征であっさりと。拍子抜けだと自分で思うぐらいに。
ひょっとして。これはまさか、もしかすると。
そう浮かれてしまった罰なのかもしれない。
「……?」
バキッ、と手元から音。持っていたコップに罅が入っていた。
心拍が高まっている。息も浅い。その事を今になって自覚。
「あ〜あ〜……何やってんすか俺。苛つくなよ、なぁクロ」
こういう時はお守りだ。その中にいるクロを握りしめて深呼吸、自分を鎮める。物に当たる権利は俺には無いと、ちゃんと思い出すように。
今大事なのはノイジーだろ。しっかり治して、次のレースに備えないと。主戦である俺がそれに遅れてたら世話が無い。
今回は縁が無かった。まだその時じゃなかったって事だ。クロ、もう暫く待っててくれな。
これは仕方がない。仕方がないんだ。
本当に、仕方が──
「えっ」
「……やぁ」
気付くのが遅れた。
勇鷹さんが隣にいた。俺と同じように、水の入ったコップ片手に。
あんなに避けられていたのに、一転して距離1馬身。なんで?
「……」
「……」
「「…………」」
数秒視線を交わしてから、互いに目を逸らしてモニターへ。今、後方から上がって来れないディープが微かに映る。
分からない。なんで今になって?
そして俺は、どうして何も言えずにいる?
(話したい事はいっぱいあるのに)
喉につっかえた言の葉が息を阻む。ジットリ汗が滲み、空気さえ湿らせるよう。
勇鷹さんは何も言ってくれない。画面の中のディープを見つめて……俺を一瞬見て、またディープを見ている。
彼の意図は何だ?どうしてこのタイミングで?慰め?叱咤??激励???分からない、何を言いに来たんだろう。
彼は彼で、ディープとやらなきゃいけない事がある筈なのに──
──まさか。
「生沿君」
彼が口を開いた。幾年かぶりの、一対一での、師匠からの声。
逡巡を経て、迷いを孕みながら紡がれた言葉を、発そうとしていた。
「待って下さい」
でも言わせない。きっとその言葉は、貴方の口から出てはいけない物だ。
そう考えたら、思わず差し止めていた。思考よりも行動が早かった。
「それ以上はダメっす。もしここで
「……!」
その反応で、自分の妄想が正解だったと分かってしまう。今彼は、7年前の俺と同じ過ちを犯そうとしてたんだって。
……俺に屋根を譲る気だったんだ。三冠牡馬の、ディープの!
「ディープインパクトは三冠馬っす。勝ったのは皐月だけじゃない、ダービーも菊花も獲った」
「それは……」
「その時、跨ってたのはアンタでしょう?」
そして、これからもそうであるべきだ。例えディープがどれだけアイツに似てたとしても。
世間は、ディープインパクトを“後継者”と騒ぎ立てている。
人懐っこい追込馬。三冠を狙い、白銀以来の第四次競馬ブームかと見紛う程の熱狂を呼んだ英雄。強さと人気を兼ね備えた
気持ちは分かる。だからこそ期待されて、願われて、ここにいる。
でも俺は認めない。
ディープインパクトはクロスクロウの跡を継いでなんかないし、クロスクロウはディープインパクトの前任じゃない!
「俺じゃないんだ。アンタなんだ。そうじゃなきゃいけないんだ!」
言ってる間に腹が立ってきて、コップの底をテーブルに打ち付けた。罅が進行して割れてしまったけど、それはそれでコレはコレだ。
勇鷹さん。アンタの強さはよく分かってるつもりだ。今回だって、ロンシャン・着外・ノイジー離脱が重なって揺らいだだけなんでしょ。
それでも……アンタがそれでどうすんですか!
「…………ああ。そうだな。その通り、だ」
その想いのどれだけが伝わったか、俯いた表情からは分からない。でも出来る事は全てやった、後は彼次第だ。
「後は頼みます、なんて言いません。でもアンタの後悔はアンタで晴らしてくれ」
「……君の後悔は?」
「俺は必ずここへ来ます」
いつかまた、必ず。
そこで終わり。かつての恩師へ背を向けて、俺はノイジーが待つ場所へ歩き出した。
彼女を労う為に。今出来る事を為して、いつか来たる“次”へ繋げる為に。
勇鷹さんの視線は、そんな俺の背中にずっと突き刺さっていた。
(こうなってしまうとは、ナ)
イキゾイに宥められて車に乗り込むノイジーを見ながら、マンボは溜息を吐く。マンボもまた、彼女に身勝手な期待を抱いてしまっていたから。
(アーッ、ノイジーはシーラ達に任せれば大丈夫だろう。問題はディープ、そしてスペリオル……)
片や一頭、取り残された相方。片や負けたまま、勝ち逃げされたライバル。助けになるつもりで来たディープは勿論のこと、知り合ってしまった上に友人の親族でもあるスペリオルだって、今となっては捨て置けない。
でも今はそれ以上に……
『ノイジー』
『あっ、マッピー!』
「お前も来たんすか。一緒に帰るっすか?」
『アーッ、マダヤル事ガアル。ノイジー、チャント休ンデ元気ニナレヨ』
『分かった!プイちゃんともそう約束したしねっ』
『ナラヨシ!ジャーナー』
別れの声掛けと挨拶も程々に、マンボは飛んだ。ノイジー達は強い、彼女についてはもう心配ないだろう。問題は
もうここの地理も覚えた。2回目だけれど、あの場所までは滞りなく辿り着ける。
『……来タゾ』
フランスの空も、風も、地平線も。あの日から何ら変わり無い。
このロンシャン競馬場も。
そこは今、ニンゲン達が整備中だった。芝に水を撒き、生い茂った並木を刈って、ゴミを掃除し綺麗にする。その目を掻い潜って、まずはいつもの観戦場所──屋根の上に降り立った。
お気に入りの場所だ。ここからなら全体を見渡せるから、コースの全景も馬群の全体も。どこに誰がいるか、誰が上がってきたかがすぐ分かる。そうやってマンボは馬達のレースを見て、応援したり、情報をエル達に教えたりしてた。
この前のフォア賞も、あの日もそうだった。マンボ自身も変わってないって事だ。
『オ前モ、ソーナノカ?』
呟き、次に降り立ったのは芝。観客席前の、レースなら最も盛り上がる所。ゴール板が建てられるそのライン。
ここだ。ここで全てが変わった。歴史が捻じ曲がり、爪痕が地球に刻まれた。今もそれが見える。
ここを……クロスの蹄鉄が、踏んだんだ。
『オ前モ、変ワラナイノカ?』
カフェの遠征には付いて行
タップの遠征には付いて行
でも帰ってきた
何も答えは無い。誰もいなくて、誰の気配も無い。忘れる筈の無いあの気配なら、近付いた瞬間に分かるのに。
じゃあ、ここにはいないのか?カフェ達は勘違いしただけ?
(……違うよな)
そうじゃない。なんだか、“正解”な気がする。此処に来れて、その実感が増している。
だったら答えてくれ。呪詛でも良いから声を聴かせてくれ、帰る為にマンボに取り憑いてくれ。どんな事になっても良いから、頼むから。
そんな念を込めて、マンボは縋る。ゴールラインから数m、今となってはなんでもないその地点へ。
『ソコニ……イルノカ……?』
彼が死んだ場所。クロスが逝ったその場所で。
芝に頭を擦り付け、マンボは乞うた。