ハチャメチャに食いしん坊。
過ちは繰り返されるのか。
俺は繰り返してしまうのか。
フォア賞の結果は散々だった。ディープは日本の芝ではほぼ無敵、しかし洋芝への適応は芳しくない。
ディープは強い。才能は間違いなくクロス以上。
でも器用じゃない。適応力は間違い無くクロスが上。
……誰と誰を比べてるんだ、俺は。
「
今いない馬を想起したって意味が無い。こんな思考、ディープとクロの両方に失礼だ。
しっかりしろ拓勇鷹。今出来ること、出来ない事を理性的に考えないと。どんな走法で、どんな作戦で
繰り返してはいけない。
勝たなければならない。
──あんなに強い
「……ダメだ」
諦めた訳ではないけれど、少なくともこの場で考えた所で解決しない事だけは確か。すぐそうだと分かってしまう程に僕は、圧倒された記憶を拭えないでいた。
でも僕はディープの鞍上なんだ。認める訳にはいかないというのに、クソ。
(……すまないッ)
記憶のフラッシュバックが止まらないんだ。
あの日睨みつけてきたスペリオルの顔が、
情けない。そしてこんな自責に甘んじている場合ですらない。
「ッッッ────落ち着け、俺。平静を取り戻せ」
無理やりにでも冷気を肺に取り込み茹った脳へ回す。それでようやく視野と思考の狭窄から帰ってこれた。
今僕がいるのは厩舎の通路。先程フォア賞の記録映像を見ていた事務所から、ディープの待つ練習コースへ向かっているところだ。気合いを入れ直さなきゃ……。
「遅れました。申し訳ありません」
「いや、丁度良かった。ディープを温め終わったところだよ」
「弁当か何かですか」
そんな風に、余裕も無いままだったからだろうか?
僕は大事な事を、是が非でも見逃がしてはならない物を見落とす事となる。
「……あ、れ?」
「あぁ、良いだろうディープ。今日はなんだか飛ばしていけそうなんだ」
「そう……ですね。うん、今日は良いタイムを出せそうです」
かつて僕は、クロの走りを肉食獣に例えた事がある。“チーター走法”と暫定的に。
それはちょうど、1999年の今頃──フォア賞に前後した時分の事だった。これは奇遇か、それとも必然なのか。これ程
調教助手に駆られるディープが、チーター走法をしていた。
完全にそうではないけれど。一度経験した僕なら面影を見出せた。その筈だった。
それだけが当時の事実。
『……ア……?』
調子がいい。
勝てる。
勝たなきゃ。
勝つんだ。
勝って、帰るんだ。
《2番スペリオルワンダー。スペシャルウィーク産駒と言えば日本にも馴染み深い彼、前走の成績もあって1番人気です》
《祖国へSSの報復を果たし、お次はいよいよ欧州の頂点……といった所でしょうか。鬼気迫るような凄みがあります、かなりの仕上がりです》
『……あれ?』
歓声の中で、待てど待てども栗毛は来ない。彼女が来ないと、この“本番”は始まらないというのに。
「あー……スペリオル、本当に申し訳ないんだが、そのだな……」
『やかましいぞ相棒。勝負に集中しろ』
「お前じゃい!……本当にノイジースズカの事を気に入ってるんだなぁ」
相棒の野次を意図的に無視しながら、俺はグルグルと円を描いて歩き続けていた。ニンゲンがよく言う“パドック”とかいうヤツだ。
けれど、俺と同じく回る奴らの中に、ノイジースズカだけがいつまでたっても入って来ない。それどころか気配を近くに感じすらしない。これはどういう事だ?
『オイお前!栗毛の牝馬を知らないか』
『知るかバーカ蹴り飛ばすぞテメェこの野郎』
『
『スミマセンデシタ』
『おわーっ!?落ち着けぇ、それ以上威嚇を強めるなァ!』
《おおっと、落ち着かない様子。騎手が必死に宥めています》
《他の馬に影響が無いと良いですが……彼も米国無敗三冠。その覇気は洒落にならないでしょう。グラスワンダーの甥でもありますから》
言葉は分からずとも舐めた態度は分かったので、身の程ってヤツを教えてやった。もちろん自分が抱えるこの
『鹿毛!聞こえるか!!』
『……!』
「まさか……スペリオルの馬としての本能がノイジースズカによって目覚めさせられ、コントロールの壁を乗り越えてしまったというのか」
3つほど前、俺の先を歩く姿には見覚えがあった。ノイジースズカと一緒にいたアイツだ。
『ノイジースズカはどこだ?なんでいつまで経っても来ない?オイ、答えろ!』
『……いないよ……!』
『は?』
大声で呼びかけると、ささやかな返答。奴は微かに首を振った──否定の意味合いを込めて。
ノイジースズカの存在を否定した。
ここにはいない。ここにはもう来ない、って事を。
『…………そうかよ』
熱が一瞬で冷める。今この瞬間から、このレースは“本番”じゃなくて“通過点”になった。
あーそうか。ノイジースズカ、お前はそういう奴だったんだな。完全に理解した。
(逃げられると思うなよ)
やはり
決して舐めてるつもりは無い。けれど。
『勝つぞ相棒。居もしない敵に負ける訳にはいかん』
「──ったく。お前ってば、本当に勝手だ」
『不満か?』
「いいや、全て仰せのままに。我らが陛下」
もう掛かりはしない。実力への自負を突き通す、これまでもそうして来たように今回のレースをこなすまで。そうだろう、スペリオルワンダー?
どんな苦難が立ちはだかろうとも、易々と超えてゆけ。
母さんが名付けてくれた
さぁ────勝負だ。
《そして我らがディープインパクト!1番のゼッケンを背負いここにいます、日本の三冠馬……っ》
《私達の祈念へ更にノイジースズカからも託され、今度こそ十字架へ報いるか……彼自身の為に、だなんて口が裂けても言えません。エゴを承知で言います、
奇遇にも隣に鹿毛。でも俺にとってはもう関係の無い話だ。
(コイツ以外は全員曲者揃いだ。油断は禁物)
右側の鹿毛はともかく、左側に居並ぶ奴らは並大抵じゃないと気配だけで分かっていた。中には
『……ってくる……』
だから、そんな奴らにも負けないよう、練る。精神を、気を、己の力を腹の内で練り上げる。
もう他の事に頓着などしない。じっと、俺自身を着火させる時を待っていた。
『……手に……死ん……』
『……余力……滓……無為……』
『オイ』
無視出来なくなる。右隣の存在感が
風船みたいに中身のない、皮だけの膨れ上がり。そんなどこか不快ですらある圧に、一言だけ物申したくなった。
そして、後悔する事になる。
『舐めるな』
『……!?』
殺気?いや違う、これは……っ!
(殺
『良い日、だ』
悪意に分類される、“実行”へと直結し得る意思。それをあからさまに抱くアイツは、しかしそれ以上に悍ましい事実を抱えている。
それは、これほど具体的な殺意を
どうしてそんな空虚な意志を、確固たるイメージを宿して纏えるんだ。お前は今
『命を、賭けるには、良い日だ、集中状態助かる、関係あるか正しくない命懸け、対等なァ、あああぁ嗚呼始まる始まる始まる待ってて呪って見守って勝つんだ勝つんだ勝つんだ勝たなきゃいけないんだ全員蹴落とすんだッッッ!!』
「ぁ……あぁっ……!」
もう声も掛からず、ドン引きしながら見つめる事しか出来ない。鹿毛に乗っかる人間を見遣るも、思い出したように時折呻くのみ。
何が起きている?俺は何を見せられ、そして見ているんだ?そんな自問自答から目を逸らし、現実逃避を目的としてゲートに集中した。今この状況を真剣に考え過ぎると、俺まで狂気に呑まれる気がしたから。
頼む。早く開いてくれ、一刻も早く。お願いだ。
母さん。
……父さんっ。
《第85回凱旋門賞──今!スタートしましたっ》
『 ど け ぇ ッ ! !』
「ぅっ……ぉぉおおおおおお!」
戦いが始まった。俺がスタートに失敗しなかったのは、
……見た事もない、憎くて仕方ない父親。それを思った瞬間に力が湧いて、だから鹿毛からの威力を凌げたんだ。感謝なんてしない、けれど!
(無駄にはしないッ!)
「スペリオル、いけるか?!」
『あぁ!相棒、戦況は!』
《まずは揃ったスタートとなってディープインパクトと拓勇鷹騎手は――前の方に?今、二番手、いや先頭です》
相棒が意識を向けた先に、鹿毛が弾む。鈍く重い音を立てて地面を軋ませている。それはニンゲン達からしても驚嘆に値する光景だったようで、そこかしこからどよめきが起きていた。
俺の位置は中団。ここから進出するにしても後退するにしてもどっちでもイケるが……!?
《並んできたアイリッシュエース、クロッコ。クロッコがここで上がって行きました。サイクロンランもディープインパクトを抜かしていく……?》
《作戦……でしょうか。ただ抜かされるというか、
『下がるぞ!』
「へ?あっ、えぇいお前がそう思うならッ」
折角
臆したとでも何とでもほざけ。今アイツに近寄ると、恐らく碌な事が無い……!
《ディープインパクト、中断まで一旦落ち──》
『……!!』
『
《──再……加速?》
《坂に入りディープ、上がっていきます!先頭集団動揺したか、ヨレを見せました!拓勇鷹いまだ鞭も手綱も振るわず!》
その予感もすぐに当たる。先ほど俺が感じ取った“殺意”、それが馬群の中心で炸裂したのが分かったからだ。初見で耐えられる訳が無い。
そして次なる矛先は前を走る奴ら。俺が標的にされない保証は無いが、少なくとも下がった判断は間違いじゃなかった……が。
『
『待っ、て、呼吸がズレ……くはぁ!』
『嘘だろう!?』
「進路がー!俺達の進路そのものがー!!」
鹿毛の奴に気圧され、ズルズルと引き摺り下ろされた奴ら。そいつらが垂れるだけ垂れて、俺の前を塞いできやがった!邪魔だ雑魚ども!!
そうしている間にも事態は進み、またも前方で気迫が爆発。俺を阻む壁に、更に新入りの馬を追加かよ……ッ。
『落ちろ、落ちろ、落ちろ落ちろおちろおちろォ!!』
『……何なんだよお前はァ!』
鹿毛野郎、俺とお前は初対面だ。お前の事なんか何も分からない!精々ノイジースズカの付属品だった事ぐらいだ!
けどな!お前のその姿が、お前の
(そうだとしても、そうでなかったとしても……)
それが事実であろうとなかろうと。今お前が、俺の予想を覆して大暴れしている、それは紛れもない事実で真実だろう。だから言ってやるさ、あぁ認めてやる……!
『お前は、強いッ!!!』
見くびってすまなかった!侮って悪かった!俺の謝罪はここまでだ!
褒美に全力で叩いてやる、それで文句は無いよなぁ!?
『強いお前を──── 踏 み 潰 し て や る ッ ! ! ! 』
それに足る相手だと分かったなら!文字通りの不足無しだからな!
さぁ馬群がどうした、坂がどうした?!突き破るぞ相棒ッ!!
「任せろォォォォ!!!」
相棒と重心を重ね、突撃。馬と馬の間へ首を突っ込み、肩を入れ、捻じ込むように隙間を押し開く。悲鳴が聞こえるけど度外視。
この程度で俺を抑えれたとでも思ったか?まだ中盤だぞッ!
《……あの走りは……》
《坂を上り切ってフォルスストレート!ディープインパクトもう一度中団に紛れ、ああっと
《荻野アナウンサー、あのっ》
《ディープインパクト先頭!拓勇鷹の奇策、ここで日本の英雄が先陣を切ります!》
《荻野さんっ!》
どよめきが強まる。いつの間にかニンゲン達が見える位置まで来たところで、鹿毛は最後の一押しとばかりに引き摺り下ろした連中を更に後ろへ押し込んできたが、その頃にはもう俺達は脱出経路を確保していた。後は飛び出し、一騎打ちだ。
さぁどこで仕掛ける。耐え忍ぶも良い、早めに事を為すも良い!相棒、どうする!?
「早仕掛けだ!行けよ、“魔王”っ!!」
『応ッッッ!!』
これで決める!その一念でスパートを掛けた瞬間だった。
『勝ちに、』
『いくんだァァァぁぁ!!!』
絶叫。
耳を塞ぎたくなるような、悲鳴にも似た雄叫びが轟く。それに芝が慄き、土埃さえ巻き上がるかの如く。
《ぁ、ここで手応えが変わっ、ぁあ、一気に上がって……ああっ!》
《
詰めたのに、瞬く間に開かれる距離。追いつけな……いいやッ。
『まッッッだッまだァァァァ!!!』
領域はまだ切れない!もっと、もっと効果的なタイミングで叩き付けないと、変に対抗してぶつければ
その一心で迸らせる本気。牡同士のぶつかり合い特有の熱が、身体を強く突き動かした。お前にだけは絶対負けられないんだって!
《それはダメだ!やめてくれ!!君まで行かないでくれ!》
────言い訳になるけれど。この時は俺は、事の重大さに全く気付いていなかった。
鹿毛の走りが本当は追込で、前後に激しく行き来するようなやり方などした事無いなんて知らなかったし。
それが凄まじい負担になる事にも、すぐには思い至らない程興奮していた。此方を見遣った鹿毛の瞳が、僅かに
《誰か彼を止めてくれッ!!!》
『ディープッ!!!』
そんな俺を
翼が、はためく。
次回で終わり
本当はJCまで書きたいけど、そうすると本筋に戻れなくなりそうなので