父は、少なくとも父としては失格の人間だったと思う。
食事を共にした記憶は無い。そもそも家にいるのを見る機会自体が数える程だ。赴任していたとかそういう事も無い、職場はすぐ近くにも関わらず。
家の事を、そして私の事を全て母に押し付けて。自分は外で何をやっていたんだか。
ああ、でも……父の代わりにアイツがいた。あの鬼婆が。人の形をした餓鬼畜生が。
山姥という妖怪だか何だか怖いお伽噺があるけれど、あの女は多分その類だったんじゃないだろうか?一度宮崎家に迷い込んでしまった母を、逃すまいと閉じ込めたのだから。
閉じ込め、縛り付け、こき使ってくれた。支配は私にも及び、逆らえなかった。
そんな私達に、あの男は何もしてくれなかった。その場を目の当たりにしたその時だって、何も。
その事が、今でも、許せない。
絶対に、許せない。
「美鶴」
呼ぶな、と叫びたかった。けどそうはしない。会いに来てしまったのは私の方なんだから。
逃げれたのは奇跡だった。私はもしかすると今、その幸運を投げ出そうとしているのかも知れない。それでも“決着”を求めずにはいられなかったのだ。
「何よ、クソ親父。こんな所に呼び出して」
「こっこんな所やて……?」
「あっいえ今のは貴方の職場を貶めす意味は無くて」
しまった、勢いのあまり親父に巻き込まれたおじさんに飛び火させてしまった。すみません、と頭を下げると「いやまぁ謝れるだけ上等やけど……上等やけどさぁ」と許してくれた。感謝しなきゃ………。
というか。そもそも集合場所を
「あのなぁ宮崎、悪いけどこういう話は他所でやってくれんか?ここはお前のカウンセリングルームちゃうんやわ」
「いや、ここでなければならない」
(いい加減1回くらいブン殴っても許されへんかな)
そんな心の声が聞こえてきそうな渋面の調教師さんに心の中で謝って、改めて仇敵と向かい合う。するとアイツは、何やら鞄をゴソゴソと漁り出し……
「……それは?」
「この日の為に用意した物だ」
取り出したのは、書類の束。これは……契約書?
「美鶴。
「やめろッ!!!───っ、あ…」
「……私は、お前の誕生日を祝えた事が無かったな」
ダメだ、逐一反発してしまう。でも留められない。
関わってこなかった自覚あったんだなとか、今更罪滅ぼしされても困るとか。そんな反論すら、激情の波に押し流されて形にならないなんて。
「だからこれは……」
何だよ。早く言ってよ。そこで詰まらないでよ。
私に、文句を言わせる隙を与えないでよ。
「何だよ」
「……」
「……だから何だって、」
「これが、最初のプレゼントだ!!」
はぇ?と変な声が漏れた。この書類の束が、これまでの私の誕生日に対するプレゼント?
「正気か?」
「狂えるものなら狂いたいぐらいだ」
私と同じ感想を抱いたらしい調教師さんのツッコミに、平然と答えるクソ親父。その様子から、どうやら乱心した訳ではないのだと察する。
だから次は、私が答えなければいけない番で。故に書類を手に取って、見てみたのだけれど。
「なっ……」
絶句。その2文字で、今の私の状態を言い表すには十分過ぎた。
だって、そこに書かれていたのは。
「クロスクロウの、馬主契約……!?」
「ファッ」
開いた口が塞がらない。えっ、確か馬主っていろんな条件が……えぇっ!?
「落ち着け宮崎!明らかにお前正気失っとるぞー!!」
「早く狂いたいと言っているだろうが」
「ならせめて狂気を自覚せぇ!過去2ヶ年を含む1700万の年収制限とかどないするつもりやねん!!」
「私が今回取り出したのは相続馬限定馬主の契約書だ。これなら、美鶴の今の収入や資産に関係無く馬主権利の移譲が可能になる」
「えぇ……」
「その更に下にも、私の会社への年収5000万の特別雇用の書類も用意している。2年あれば充分、本来の馬主資格も取れるだろう」
「力尽くが過ぎる」
「とにかくこれで、クロスが引退する頃には彼を美鶴の物に出来る訳だ」
「……えーと。馬主権利の相続って生前に出来たっけ……」
「例え違反してようとその程度なら構わん。宮崎商事は政財界に大きく寄与する現代の財閥だ、舐めるなよ」
「え、闇?社会の闇??俺の隣に座っとるのは陰謀論の具現か何かなんか???」
大人2人がやいのやいの言い合ってるけれど、まるで頭に入って来ない。あの馬が、クロスクロウが私の物になる?夢?
落ち着け、落ち着け私。これはクソ親父の罠だ。絆されるな。
───でも。
「……お父さん」
「何だ」
「あーもう知らん。俺は知らんぞ。どうなっても知らへんぞー*1」
クソ親父と呼ばなかったのは、せめてここだけでも真摯に問う為。そうでなければ、同じく真摯な答えは返って来ない。
……いやまぁ、今更やっても手遅れかも知れないけれど。
「私がこれにサインしたら……クロスクロウを、
「勿論だ」
即答だった。同時に、嘘ではないという直感が身に奔る。
この男は……本気で、約束を守ろうと思っている。
本気で、クロスクロウを私に贈ろうと思ってるんだ。
なら、私の答えも一つしか無い。
「分かった。なるよ、馬主」
「……!!みつ、」
「でもそれはお父さんの為じゃないから」
そう。これはクロスクロウの為だ。
クロスは東京優駿の後、走り過ぎで倒れたと聞く。そんな調子で、このまま
でも、私が馬主になれば。なると言ったのなら、その身柄は無事に引き渡される筈だ。危険は犯さない筈だ。今ここで、そう約束されたんだから。
「私が馬主になるのは、クロスを不幸にさせない為だよ。私の夢になってくれたあの子を、壊させやしないんだから!」
そうだ。あんなに頑張ってくれる子を悲劇に終わらせる可能性だなんて、絶対に排除してみせる!
「私からの条件は二つ!クロスに怪我させない事、クロスのやりたいようにやらせてあげる事!良いね!?」
「……あぁ。ああ、良いとも美鶴…!」
何よ、目に涙なんか浮かべちゃってさ。本当に気持ち悪い。
でも。これでも感謝してるから。
私に、
この……クソ親父。
《ゴルドスマッシュ出た、ゴルドスマッシュ出た!グランインパクト迫るがこれはセーフティリードだ、ゴルドスマッシュ今ゴールインッ》
自分が出たレース、その録画を見直す。ゴルドスマッシュは、俺が乗った馬だ。
そして本来なら、勇鷹さんが乗っていた馬でもある。
《生沿騎手、これで16勝。目指すはGⅠ、その道程も半ばといった所か》
「これで、50%……」
やっと半分、されどまだ半分。秋に間に合うかは、現状ギリギリといったペースだ。
「宮崎さんの宣言通りに行くなら、クロスの次のGⅠは菊花賞。前走に神戸新聞杯を使うかも知れないけど、その前に31勝を達成したい」
やれるだろうか。否、やるしか無いんだ。
どれだけの人が、俺に期待してくれてると思ってんだ。
「これも、これも、これも……!」
取り出したメモ帳。そこに書き出されたカタカナの文字列を一つずつ、自分の網膜に焼き付けるよう指差していく。
それらは、今現役の競走馬たちの名前。
どれも──
「お二方からこんなに回して貰ってるのに……応えられなかったら末代の恥だぞ!!」
自分を鼓舞するように、両掌でパチンと頬を叩いた。そうだ、燻ってる暇なんて無い。お膳立てを前に臆してるようじゃ、憧れの背中には追いつけない。
それだけじゃない、勇鷹さんにはお手馬の調教を見学すらさせて貰ってるんだぞ。全部モノにして見せなきゃ、それこそ失礼だ!
「なりふり構ってられるか!」
勝ち星を重ねなきゃならない。ノーザンファームの方にいるクロスの調教にも参加したい。やる事は山積みで、休んでる暇なんか無い。
キツイなぁ。でも、上等だ!!
「やるぞー!生沿健司、やってみせるっぞー!!!」
「もう夜中だぞー」
「あっごめんなさいっす!!」
夜は更ける。そして新しい朝が来て、人は各々の戦場へ向かう。
その繰り返しの果てで、望む物を掴む為に。
ら抜き言葉は割と意図的です。こう書かないと「可能」と「受動」の判別が出来ないので(つまりスタークの力量不足)