いかがわしい物ではない
ノーザンF空港牧場で、グラス達と特訓し始めて早1ヶ月。
俺が大逃げを試みて、後ろからグラスにプレッシャーをかけてもらい、そしてスペの差しを受け止める「対ススズ模擬戦」を積んできた。その結果を、今ここで発表しよう!
何の成果も!得られませんでしたぁ!!*1
『ス、スマン……俺の逃げが中途半端で…』
『まぁマンボ君の話越しに再現するって時点で無理ありましたし……ここまで出来ただけでも上出来では?』
『そ、それにホラ!僕もクロもスタミナ付きましたし、結果オーライですよ!これで菊花も勝ち勝ちですよ?』
慰めてくれるのは有難いけど違うんだよ……俺、前世でサイレンススズカの走りを動画で何回も見てるんだよぉ!
なのにここまでダメダメだなんて、くそ!やっぱ俺に大局を見据えた事前の行動なんて無理って事かぁ?
『でも、無駄じゃないと思います』
『ほぇ?』
『ここで皆で努力した、という記憶は消えません。その事実はきっとクロの背を押す力になる。ボクはそう、信じてますから』
…グラス。
グラスぅ……!
『うぉおおおおん!感動したぁぁぁぁ!!好きだよグラスぅぅぅ!!!』
『えっ!』
『お前が牝馬だったら結婚してるぐらいだ!愛してるぜ!』
『ええええええ!?』
『ちょっとグラス!クロは僕のモノなんだからね!?』
『突っ込む相手ボクですか!?!!?……そっかぁ。牝馬だったら、そうなのかぁ……』
グラスの優しさに、俺が泣いた!(KNTRS並感)
いやでも、実際そうだよな。グラスやスペと走ったこの夏は確かに力になってるし、何より今後の心の支えになってくれるだろう。
他の馬だったらこうはいかなかった。スペと、そしてグラスがいたからこそだ。
『ありがとうな、グラス』
『……どういたしまして』
改まって感謝を。こんな風に面と向かって言える機会も、もう現役中は少ないだろうから。
何故かというと──俺とスペは、今日。
「クロ、行くぞー」
『おk〜』
ノーザンF牧場を離れ、栗東に戻るから。
どうやらマスコミ問題とかが解決したらしく、秋の戦線に向けていよいよ本格的に始動するのだ。
呼び掛けた厩務員に応じ、外へ。スペも臼井君に引かれて同じように。
『次は、いつ会えるでしょうか?』
『……うーむ』
そんなグラスの問い掛けに、俺は首を捻った。俺の今後のプランって地味に未定だからなぁ……菊花は前提として、その前走としちゃ神戸新聞杯になる。けど俺の希望としてはサイレンススズカと会うべく毎日王冠、そして“あの悲劇”を止めるべく天皇賞・秋にも出たい訳で。もしその通りに行けば、次に会うのは毎日王冠かな?
でも馬主は三冠目指してる訳で、そんな寄り道許してくれるかというとなぁ。ダービー落としてるから菊花はその分躍起になってるかも知れんし、割かし望み薄なんだよ。
いやマジでどうしようかな。いっそ宮崎のおっさんや臼井のおっさんの前で「てんのうしょう あき」って蹄で書いてみるか?そんな事したら下手したら解剖モンだ保留ゥ!
……まぁ、どっちにしろだ。
『有馬記念だな』
『アリマ……ああ!昔*2クロが言ってた、寒い時期の大きなレースの事ですね?』
えっ、言ったっけ俺そんな事!?完っ全に忘れてるわ、グラスは記憶力良いなぁ。末はグランプリ3連覇だなぁ(すっとぼけ)。
まぁふざけるのはやめにして。宮崎のおっさんの事だ、俺を家族を釣る為の客寄せパンダにするならまず間違い無くデカいレースに出すだろう。その中でも有馬記念は特大な大物だ、出ない選択肢はほぼ無い……と思う。
運が良ければ今年。そうでなくとも来年。俺は今度こそ、完全復活したグラスと、朝日杯以来の全力でぶつかり合えるはずだ。
そう伝えると、グラスは言葉を噛み砕くように復唱し始めた。
『アリマキネン……有馬記念、そうか!そこでクロと………!』
モチベになったなら何よりだぜ。俺の連勝か、はたまたお前のリベンジが成るか、果たしてどちらかな?
『決まってます、ボクの勝利です!一回勝ってるからって浮かれないで下さいよ?』
『当然!』
啖呵を切り合うのも何度目かな。でもこれ、幾度経ても新鮮で刺激的なんだもの。やめられない止まらない、やめる気なんて全然出ない!
「よし、そろそろ行くか」
『ういさー!じゃあグラス、また!!』
『えぇ、また……』
ようし気合い入ってきた!グラスとの有馬を盛り上げられるよう、サイレンススズカを救って倒す勢いで頑張るぞー。
力貸してくれタンホイザ!えい、えい、むん!!
意気揚々と去るクロの背中を、寂しい気持ちを抑え込んで見送っていた。
この夏は本当に楽しかった。怪我をしてからずっと陰鬱だったけれど、彼が来てからガラリと様変わりした。彼といると、見えてる景色が色付くのがハッキリと分かった。それはまるで、初めて会った時を焼き直したかのように。いや、一層鮮やかに。
(貴方といると、毎日が楽しくて仕方がない)
また会いたい。すぐに会いたい。それ以前に離れたくない。
でもクロ、それは他ならない貴方が望まない事だから。グッと我慢して、胸の奥に秘めて、貴方を見送るんです。
貴方の足音が好きなんです。
力強く迫って、そして通り過ぎていく音が大好きなんです。
貴方の瞳が好きなんです。
嘘の無い、ボクの復帰を信じて疑わない視線が大好きなんです。
クロ。
ボクは、貴方が───
『グラスはさ』
そんなボクを我に返らせたのは、もう一頭の声。見れば、遠くなっていくクロに付いて行かずに、この場に留まったままのスペさんの姿が。
あの……厩務員さんが全力で引っ張ってますけど。従わなくて良いんですか?
『その前に言いたい事があってさ。さっき、クロが変な事言ってたじゃん』
『変な事、とは?』
『牝馬だ何だ云々かんぬん、ってトコ。あれ、
どう思った、と言われても……。
少なくとも嫌な気持ちではなかった、それは確かだ。でもスペさんが聞きたいのは、そういう浅い感想じゃないと思う。
あの時、ボクは………
『牝馬だったらなぁ、って思いました』
………あれ?
今ボク、なんて?
『……うん!分かった、それで満足だよ。じゃ、お大事にー!!』
『スペさん!?待っ──』
そのままクロを追いかけて、厩務員さんを引き摺りながらスペさんも行ってしまった。残されたボクは
(牝馬だったら……牝馬だったら、何?)
自分の言った事を反芻するけれど、答えは出なくて。いやきっと、正確には出そうとすら思えなくて。
ボクは、ボクの中に答えを見つけてしまうのが怖かったんです。
『クロ、ボクは……ボクは、』
好き。さっき何度も思い浮かんだ筈の言葉が、今となっては流暢に出てこない。
親友として好き?ライバルとして好き?それとも………
(ボクの“好き”って、どういう意味………?)
秋戦線。
それは3歳馬の戦いが、新しいフェーズに移行する季節である。
ある馬は最後の一冠、菊の紋へ。或いは最後の一輪、秋華へ。
そしてある馬は古馬ひしめく潮流、皇より賜る盾へ。
その先に待つは英国女王の栄誉、砂塵の輝き。更にマイルの王座、日本の杯に……有馬記念。
立ちはだかるのは同期だけでなく、既に本格化を終えて万全を期した先達もなのだ。その壁は厚く、あの皇帝シンボリルドルフすらも一度は撥ねつけた程。
常識がある。若輩が即座に通用し得ない世界がある。
定石がある。最初から張り合うのではなく、準備を踏む選択肢がある。
絶望がある。普通超えられない格差という物が、確かにそこにある。
だが。
それがどうした、と叫ぶ声がある。
それでも、と吠える歌がある。
それだからこそ、と抱かれた夢がある。
そう、夢だ。
故に彼らは走るのだ。
走らなければ“今”が無いのなら。
走る事で、“未来”を掴む為に。
迫る。
始まる。
秋の戦いが、ここから。
クロスクロウのヒミツ
軽度のピーマンアレルギーだったりする。